2023年11月30日木曜日

根津美術館「北宋書画精華」1

 

根津美術館「北宋書画精華」<123日まで>

 今年の秋、もっとも評判の高かい展覧会でしょう。少なくとも美術史業界では……。すでにご覧になった方もたくさんいらっしゃることと存じますが、改めてチラシのリードを引いておきましょう。

宋時代は中国書画史におけるひとつの頂点であり、その作品は後世、「古典」とされました。日本でも、南宋時代の作品が中世以来の唐物愛好の中で賞玩されたことはよく知られていますが、その前の北宋時代の文物も同時代にあたる平安後期に早くも将来されています。さらに近代の実業家が、清朝崩壊にともない流出した作品をアジアにとどめるべく蒐集に努めたため、より多くの重要作が伝わることになりました。

2023年11月29日水曜日

出光美術館「青磁」15

 

こちらはもっぱら和菓子ですね。最中、羊羹、金鍔きんつば、練切ねりきり、何でもさらに美味しくしてくれます。和菓子とくればお抹茶ですが、上質な和菓子は、酒のアテとしても最高であるというのが持論です(!?) 真の酒飲みには笑われるかもしれませんが……。

京都美術工芸大学図書館のライブラリアンであった森一朗さんと組んだフォーク・デュオ、ウッディ・リヴァーについては、以前アップしたことがあると思います。ウッディ・リヴァーが学園祭コンサートでトップをつとめたことも……。その学園祭で求めた小皿で和菓子を賞味するたびに、じつに楽しかった、そして受けにうけた――ように思われるパフォーマンスも、おのずと思い出されてくるんです。

その森さんが先日、奥様と出光美術館を訪ねてくれました。一緒にランチをとって欣快の至りだったけれど、森さん、今度は夕方に来てよ‼

2023年11月28日火曜日

出光美術館「青磁」14

 

 実はもう一枚、青磁の小皿を愛用しています。かつてつとめていた京都美術工芸大学の学園祭のとき、学生が開いた作品ショップで求めた小皿です。この大学には、京都伝統工芸大学校と京都建築大学校が併設されています。いや、この二つの大学校から発展して、京都美術工芸大学が誕生したんです。

 これは京都伝統工芸大学校の学生が焼いた小皿です。小皿といってもやや大振りで、高麗青磁を思わせる落ち着いた色合いに心惹かれます。さすが美術教育を受けた学生の作品だけあって、先にアップした三田青磁よりチョット洒落た感じがします。 

2023年11月27日月曜日

出光美術館「青磁」13

 

摂津(兵庫県)有馬郡三田村で焼かれた磁器を三田焼さんだやきといって、天明元年(1781)に始められたそうです。青磁が焼かれるようになったのは享和元年(1801)のことで、文化年間には京都から招かれた欽古堂亀祐きんこどうかめすけの指導のもと、精巧な天龍寺風の青磁が焼かれるようになりました。

嘉永年間一時中絶したあと、安政6年(1859)に復興され、明治以降は外国向けのものを焼成しましたが、大正年間に廃絶したそうです。以上は『新潮世界美術辞典』によるところですが、大正年間に廃絶したとすると、僕の小皿はそのころ焼かれたものなのでしょうか。青磁釉にムラムラがあって、いかにも雑器という感じですが、民芸といえば民芸かな()


2023年11月26日日曜日

出光美術館「青磁」12

 

 僕も青磁の小皿を持っています。一杯やるときによく使いますが、塩昆布、明太子、塩辛、何にでもよく合います。少し塩だけを盛るのも美しく、駄酒をもおいしくしてくれます。もちろん、いま出光美術館に出ているような青磁であるはずもなく、いわゆる三田さんだ青磁です。

今は亡き成瀬不二雄さんと、彼おススメの飲み屋を目指して奈良の街を歩いていたとき、ふらっと一緒に入った古道具屋さんで売っていたんです。何十枚も紐縄でしばって土間に置いてありました。普段使いするのにちょうどいいなぁと思ってながめていると、成瀬さんが三田青磁というものだと教えてくれたので、3枚ほど求めたんです。

2023年11月25日土曜日

出光美術館「青磁」11

 「少年行」の李白とくれば、やはり同じく「少年行」のある王維にも登場してもらわなければ物足りません。これまたゼッピン、両詩をチョット味わうだけで、盛唐長安の華麗と殷賑が髣髴としてきます。

  新豊できの旨酒うまざけは 一升一万元もする

  首都・長安はあふれてる 年少プレーボーイたち

  街で出会って意気投合 「盛り上がろうぜ 美酒 酌んで!!

  豪華な酒楼の門前の 枝垂しだれ柳につなぐ馬

 

2023年11月24日金曜日

出光美術館「青磁」10

李白「少年行」

  長安・五陵のかぶき者 西の市場の歓楽街

  白馬に置いた銀の鞍くら またがり春風 切って行きゃ

  落花も馬蹄にしだかれる 今日は何処いずこへ洒落込むの?

  笑い声上げにぎやかに 胡姫こきの酌する酒場へと……

 前に紹介した串田久治・諸田龍美さんの『漢詩酔談』(大修館書店 2015年)にも、すごくいい戯訳があります。とくに「笑って入ったその先は 異国娘のバーの中」という結句には脱帽ですが、僕は李白の「胡姫」をそのまま生かすことにしました。

 

2023年11月23日木曜日

出光美術館「青磁」9

 

  土手にいるのは誰が家の いなせなプレーボーイたち?

  枝垂れ柳に映る影 ちらほら三々五々たりき

  やがて駿馬に鞭むちを当て 柳絮りゅうじょに紛れどこかへと

  行きつ戻りつ見遣みやっては 口惜しい思いの娘たち

 武部利男先生にしたがって戯訳を考えましたが、どうも娘たちはプレーボーイたちに振られちゃったみたいですね。彼らはエキゾティックな胡姫こきのいる、ガールズバーの方へ行っちゃったんじゃないかな()  だって李白自身が「少年行」で、そのとおり!!と言っているんですから……。

2023年11月22日水曜日

出光美術館「青磁」8

 

 当然ここで李白「採蓮曲」の戯訳が登場するところですね() 愛読する『中国詩人選集』では「楽府」の部に入っていますから、古い楽府のタイトルをパクって李白が詠んだ擬古楽府のようです。

  西施で名高い若耶渓じゃくやけい 蓮の実を採る娘たち

  蓮の花越しおしゃべりに 余念なく笑いさざめいて……

  今朝したお化粧 日を受けて くっきり映る水底に

  香る袂たもとは風に舞い ひるがえりたり空中に


2023年11月21日火曜日

出光美術館「青磁」7

江南で歌われたおおらかな蓮採りの民謡は、じつをいえば蓮採りにかこつけて恋人を求め合う若い男女(魚=男、蓮=女)の情歌こいうたであったろうというのが、中国の古典学者・聞一多氏以来の解釈である。

 そうだとすると、河島英五の名曲「酒と泪と男と女」を持ち出すまでもなく、酒と恋はツキモノですから、いよいよ「青磁鎬文壷」は酒壷にピッタシカンカンということになります() 聞一多は名著『中国神話』(東洋文庫)を著わした詩人にして民俗学者、僕は本書を読んで、曜変天目虹霓嫌悪説を思いついたんです。陶磁専門家はみなさん眉にツバしていますが……。 

2023年11月20日月曜日

出光美術館「青磁」6

 

中村公一さんの名著『中国の花ことば 中国人と花のシンボリズム』(岩崎美術社 1988年)によると、中国における一般的な蓮の印象は濃厚でエロティックだそうです。蓮にまつわる寓意や花ことばの類にも、セクシャルな意味をもったものがすこぶる多いというのです。その理由はやはり発音にあるようで、つぎのように説かれています。

(lian)ということばが中国語で愛情や恋を意味する憐(lian)・恋(lian)とあい通ずるところから、蓮には恋人や愛人などといった寓意があり、蓮採りつまり採蓮ツアイリエン(=採憐ツアイリエン)といえば、「恋人を選びとる」ラブハントの隠喩になることは、大変興味深い。



 

2023年11月19日日曜日

出光美術館「青磁」5

 

この壷をながめながら、僕はかの酒仙詩人、ブッチャケをいえばアル中詩人、李白の居士号を思い出したんです。李白は青蓮とか青蓮居士とか号していました。

青い蓮――この蓮をモチーフにした「青磁鎬文壷」そのものです。青磁鎬文壷→青い蓮→青蓮→李白→酒と連想されて酒壷になったのではないでしょうか。あるいは逆に酒壷を作ろうとして、李白からの連想で青磁鎬文壷が考案されたのかもしれません。いずれにせよ、当時の中国において誰でも思いつく連想だったにちがいありません。

このタイプの壷は、本来お酒用に焼成された陶磁器であり、それは酒仙詩人李白のイメージと結びついていたんです。だからこそ、青磁鎬文壷は中国教養人の間でたたえられ、愛され、すぐれた作品が生み出されていったのではないでしょうか。



2023年11月18日土曜日

出光美術館「青磁」4

 

またカタログ解説によると、この形の壷はよくお酒を入れていたことから、酒会壷とも称されるそうです。今なら飲み会壷かな() ところが、絵画資料からはお茶を入れていた可能性も考えられるし、韓国では舎利器をともなって出土しているそうです。つまりこの場合は、祭器ということになります。

いろいろな使用可能性が推定されるわけですが、本来はお酒用だったにちがいありません。酒会壷と呼ばれていたわけですから、改めて言うまでもないことですが、ここでまた私見を一つご披露しましょう。

2023年11月17日金曜日

出光美術館「青磁」3


これはすでに指摘されているところですが、下の身の方は蓮花のつぼみに見立てたらどうでしょうか。つぼみを逆さまにして、とがった先端をちょん切った形です。ちょん切らなければ、壷をどこにも置くことはできないわけです(笑)蓮の花びらには細かい縦筋たてすじが入っていますから、美しい鎬文しのぎもんはその表象とも見なせるでしょう。

作品を見ながらこんなことを想像しましたが、あとでカタログの作品解説を読んで、きっとそうに違いないと確信しました。「底部は孔をあけて、共土で別に作った円盤状の皿を落とし込んで、施釉し融着させて底を作っている」と書いてあるじゃ~ありませんか。不思議なことをやるものですが、つぼみの先端を切り落とした形と考えれば、この底部製作法の謎も解けることになります。これまた妄想と暴走かな()

 

2023年11月16日木曜日

出光美術館「青磁」2

 

「僕の一点」は、カタログの表紙にもなっている「青磁鎬文壷」ですね。元時代の竜泉窯で焼成された逸品、もちろん出光美術館コレクションです。南宋の秘色青磁とは異なる落ち着いたオリーブグリーンの釉、大らかなふくらみ、高さは33センチに満たないのに、ずっと大きく見えるボリューム感に圧倒されます。草原を馬で疾駆し、やがて大帝国を建設したモンゴル民族のエネルギーと共鳴しているようです。

もちろんフォルム自体は、漢民族が愛して止まなかった「蓮」から着想されています。蓋は冬に蓮の葉が枯れてうな垂れた「敗荷」のイメージで、その茎をツマミにしています。

2023年11月15日水曜日

出光美術館「青磁」1

出光美術館「青磁 世界を魅了したやきもの」<2024128日まで>

 会場に足を踏み入れると、まず青磁のオリジンともいうべき灰釉陶器(原始青瓷)から、最高峰に達した南宋青磁へといざなわれます。さらに青花(染付)と覇を競った元・明の青磁、景徳鎮官窯で焼成されたあまりにも完全無欠な清の青磁まで、見ていると自然に背筋がピンとしてきます。周りに漂う凛とした空気を感じないではいられません。

それが高麗・日本・東南アジアのコーナーまで来ると、これなら使ってみたいなぁという親しみの感情がボワ~ッと湧いてきます。そして最後に板谷波山の青磁までくると、またチョットもとに戻る感じなのがおもしろいんです。


2023年11月14日火曜日

サンリツ服部美術館「琳派」7

この西本願寺は、あくまで能の中心的寺院としての西本願寺であった。そうだとすれば、夢の夢で富士山を見たというのも看過できないところで、あるいは、脇能物の「富士山」あたりが光琳の深層心理に作用した可能性も考えられてよいであろう。

初めに名を挙げた小林太市郎氏は、すでにこの作品と能のイメージとの呼応を読み取っていた。氏は「その富士はいかにも怪しげな、すべて夢の形象のもつ妖奇さにみちて、いまにも蝦蟇となって飛びつきそうな、または畏まって光琳を東へ迎え入れるような姿を示している」と述べて、幽艶な夢の世界に演者・観者を引き入れて、この世のほかの恍惚たる至楽のなかにその心霊をとろかす能と、夢で見た世界を描いた本図との共通する美意識を指摘しているのである。

 

2023年11月13日月曜日

サンリツ服部美術館「琳派」6

しかし、残っている写真から見ると、光琳の直筆であることは疑いないであろう。しかも、西本願寺が登場する点で非常に興味深い。光琳が夢のなかで西本願寺を訪れることになったのは、しばしば訪ねていたためであったにちがいない。

光琳程度の技量では、現在国宝となっているような能舞台で演じることはできなかったかもしれないが、少なくとも、鑑賞に出かけていたことは、先の『二条家内々御番所日次記』の記事が語ってくれているのである。


 

2023年11月12日日曜日

サンリツ服部美術館「琳派」5

 

元禄十二年(1699)正月九日夜、光琳は西本願寺に召し出されて、門主と話をした。最近どこかへ行ったかと尋ねられたので、夢で江戸に旅行しましたと答えると、それではきっと富士を見たであろうと言われる。

確かに見ましたと答えると、それはよい夢であるから、すぐ描いてみるようにとのこと。そこで、たまたま御前にあった包み紙に、その富士をさっと描いてみると、これもまた夢であったので、翌朝それを思い出して描いたというのである。

このころの西本願寺門主は、寛文二年(1662)から享保九年(1724)まで、実に62年の長きにわたって門主の地位にあった寂如光常(16511725)であった。残念なことに、現在この自画賛は行方不明で、私も実際に見たことはない。


2023年11月11日土曜日

サンリツ服部美術館「琳派」4

西本願寺といえば、光琳の筆になる「夢中富士図」が思い出される。左半分には簡略な筆致で富士の高嶺を描き、右半分には光琳みずからが、次のような賛を加えている自画賛物である。

元禄十二卯年正月九日夜、夢中ニ西本願寺江召して、御前ニて御放(話)之序ニ何方へも不参候哉ト御尋アリ。申上ルニ此中夢ニ江戸へ参候と申上候へば、それは富士を見つらんト仰られし。如何にも見申候ト申上候へば、それはよき夢なり、急ギ書写可致由、任仰ニ折節御前に有し物包たる料紙ニ如此ニ富士を書写いたし候へば、又是も夢中の事也。

正月十日朝                      光琳書(花押)


2023年11月10日金曜日

サンリツ服部美術館「琳派」3

 


この興味尽きない光琳の傑作が、いよいよ14日から始まる後期にお披露目となります。僕は口演を始める前に、特別拝観をお許しいただき、光琳の夢中世界へそっと忍び入ったことでした。そして小さな図版ではよく分からなかった点や、箱書・添幅などについても新知見を得ることができたんです。

いつか鮮明なイメージとともに紹介できる日が来ることを、それこそ夢見つつ、今日は「光琳と能」の一部を引用して、それに代えることにしましょう。もちろんこの拙論は、『琳派 響きあう美』(思文閣出版 2015年)に収めてあります。

2023年11月9日木曜日

サンリツ服部美術館「琳派」2

 

とくに1994年、「光琳と能」なる拙文を書いたとき、もっとも重要な光琳作品として「夢中富士図」を取り上げました。もちろん実見はしていませんでしたが、小さな図版だけは知られていたんです。

田中一松編『光琳』(日本経済新聞社 1959年)に挿図として載り、山根有三先生が「光琳年譜について 余禄そのⅠ」のなかで考察されていたからです。その後、小林太市郎先生がかの有名な評伝「光琳と乾山」(『世界の人間像』7 1962年)において、挿図とともに小林流解釈を発表されました。

 両先生とも、光琳の自賛を抜かりなく翻刻されていましたから、僕はそれに乗っかり、ミズテンで「光琳と能」を書いちゃったんです。上にアップした写真は、小林先生が「夢中富士図」について論じた『世界の人間像』の記念碑的(!?)ページです。

2023年11月8日水曜日

サンリツ服部美術館「琳派」1


サンリツ服部美術館「描き継がれる日本の美 琳派」<123日まで>

 前回お話しした尾形光琳筆「夢中富士図」が華々しく登場する琳派展です!! これだけを見るために上諏訪まで出かける価値がありますーー光琳や琳派に興味がなければ話も別ですが……。昭和31年にお茶会で使われた記録があるそうですが、「新発見」といっても過言ではないでしょう。今年は昭和98年ですから(!?)、その茶会も67年前の話です。

僕も修論で光琳を取り上げたとき以来、是非見たい、いや、絶対見なくてはならないと思いつつ、所在が分かりませんでした。もうこの世からなくなっているんじゃ~ないかとも思っていました。

 

2023年11月7日火曜日

東京国立近代美術館「棟方志功展」11

 

 いま上諏訪のサンリツ服部美術館で、「描き継がれる日本の美 琳派」が開かれています。求められるまま、112日に「描き継がれる琳派の美 サンリツ服部ベストテン」と題して例の口演をやってきました。お引き受けしてから間もなく送られてきた出品目録を見て驚いたの何の!! 我が目を疑いました。「№5 尾形光琳筆 夢中富士図」と書かれていたからです。半世紀以上捜していた「幻の名画」です。

これについては次回お話しすることにして、驚いたことがもう一つ――サンリツ服部美術館でも特集陳列「生誕120年 棟方志功 彼の地で描く此の地で描く」が開かれていたんです。実業家・服部一郎氏に選ばれ愛された珠玉のムナカタです!!


2023年11月6日月曜日

東京国立近代美術館「棟方志功展」10

 


 君は又云う、「板画と倭絵やまとえと、それから書、油絵と、それぞれ違った表現のものの中に、わたくしの藝術の願望を、それぞれの深さとか幅とかを見出したいと思うのであります」と。

私には画家としてのこの人の全貌がまだ十分には分かっていない。しかし私の「鍵」や「瘋癲老人日記」等々に版画を以て描いてくれた挿絵の数々の面白さには、私は深く敬服している。私は今でもこれらの作品を座右に置いて、時々開いて見ては飽くことを知らず眺めている。昔私は「蓼食ふ虫」の小出楢重君の挿絵によって少なからず力づけられ、励まされたが、棟方君の場合も同様である。

 君の眼病は相当に重く、医師に仕事を禁じられているのだと云うが、にも拘らず、君は禁を犯して日々製作と闘いつつある。それにつけても、私はこの特異な画家のために、ひたすらその自重と健康とを祈るものである。

2023年11月5日日曜日

東京国立近代美術館「棟方志功展」9

 その棟方君から、先日私は一通の書面を貰った。中にこんな文句が書いてあった。――中央公論社様から、わたくしの「板極道」という本を出すことになりまして、……(以下略)

――当人は奇を衒てらっているのではなく、大真面目でこんな書き方をする。

 棟方君によればこの「板極道」は、ミチヲキワメルではなく、世に云うゴクドウの意であるという。そしてバンゴクドウと読ませるのだという。「先生」と書かないで「先醒」と書くのも同君独特の文字遣いで、こんな風な文字遣いが同君の書簡にはいつも文中至るところに満ちている。「敬って、尊とくあります」なども不思議な云い廻し方である。

 

2023年11月4日土曜日

東京国立近代美術館「棟方志功展」8

 

棟方志功君は奇人である。一度同君に面接した経験のある人なら、私のこの説に同感しない者はあるまい。

  眼病の棟方志功眼を剝きて猛然と彫るよ森羅万象

 嘗て私は戯れにこんな歌を詠んだことがあるが、あの噛みつくように面を伏せて、恐ろしい速力で筆を運ばせるあの顔つき(毛筆を揮う時は勿論、鉄筆を以て版画を彫る時もその速力には変りがない)、あの独特な津軽弁の物の言い方、アイヌの血が混じっているかと思われるあの皮膚の色、何一つとして人を驚かさずにはおかない。


2023年11月3日金曜日

東京国立近代美術館「棟方志功展」7

 

話を「鍵板画柵」に戻しましょう。それは他の人の文章に絵だけを提供したという、挿絵の純粋な意味に限るなら、棟方の最高傑作だと思います。棟方自身も「やったぁ!!」といった気分になったのではないでしょうか。

だからこそ、『鍵』のヒロイン郁子を彫った「大首の柵」から、一世を風靡する「女人大首絵」が誕生することになったのでしょう。ところで著者谷崎潤一郎が『板極道』に寄せた序文は、棟方の人となりを語って余すところがありません。一部を省略して引用することにしましょう。

2023年11月2日木曜日

東京国立近代美術館「棟方志功展」6

柳は、おそらくは保田も、「大和し美し」からインスピレーションを得たんです。彼らの指導を受けて、棟方が制作したわけじゃ~ないんです。ここに棟方のすごさ、視覚芸術のエネルギーがあるように思います。

もちろんそのあとで、柳や浜田庄司や河井寛次郎、そして保田から思想的感化を受けたことは否定できません。技法上も、やがて棟方が愛用することになる裏彩色は、はじめ柳の発案だったそうです。しかし最初の閃光は、棟方の方から放たれたのです。

僕は俵屋宗達と本阿弥光悦の関係も、これに似ていたのではないかと想像しているんです。たまたま光悦が、絵屋・俵屋の店頭で売っていた作品――この場合は商品を見て、宗達を発見したんだと……。

 

2023年11月1日水曜日

東京国立近代美術館「棟方志功展」5

 

かつて棟方志功という版画家を僕に教えてくれたのは、谷崎潤一郎の小説でした。というわけで「僕の一点」は「鍵板画柵」ということになります。デビュー作ともいうべき「大和し美うるわし」に象徴されるように、棟方はすぐれた挿絵画家でもありました。

「大和し美し」といえば、昭和11年(1973)第11回国画会展に出品されたこの版画絵巻を柳宗悦が見て、民芸派との親交が生まれたという記念碑的作品です。よく棟方は柳の思想を取り入れたとか、さらには保田與重郎の影響を受けたとかいわれますが、実際は逆だったことが分かります。

出光美術館「トプカプ・出光競演展」2

  一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。  日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して 100 周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮...