柳沢 秀行さんゟ
いま東京国立博物館の平成館では、特別展「江戸☆大奥」が開催中です。昨日アップしたのは、2つ折りリーフレットのリードです。この「知られざる大奥の真実」というのが本展の基本的コンセプトであることはよく分かりましたし、リーフレットにも大きく「――そろそろお話しましょうか。わたしたちの真実を」という口語体キャッチコピーが印刷されています。しかしどうしてそれが今年なのかなぁと思いつつ会場に入ると、なるほどと腑に落ちました。
僕は知りませんでしたが、一昨年NHKドラマ10「大奥」が放送され、大変な人気 を集めたらしいのです。つまり先日ポストした「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」展と同じく、東京国立博物館とNHKのコラボ展なんです。
東京国立博物館「江戸☆大奥」<9月21日まで>
現在の皇居には、かつて大奥が存在した江戸城の本丸、二の丸、西の丸があったことをご存じでしょうか。一見、華やかに見える将軍の後宮、大奥。歴代の御台所(正室)と側室、その生活を支える女中たちの歴史には、徳川将軍家という大きな権力の狭間に生きてきた女性たちの栄枯盛衰が見えてきます。
その一方、壁書や女中法度などの規則に縛られ、閉ざされた生活の中で、大奥の女性たちはそれぞれの人生における喜怒哀楽を享受してきました。娯楽小説や芝居、ドラマなどで描かれてきた想像の世界とは異なる、知られざる大奥の真実を、遺された歴史資料やゆかりの品を通してご覧いただきます。
さらに「逢へらくは玉の緒しけや恋ふらくは富士の高嶺に降る雪なすも」というバージョンもあるそうです。つまり「あの子と逢う間の短さは玉の緒ほどにも及ばないのに、別れて恋しいことは、富士の高嶺に降る雪のように絶え間ないよ」となりますが、これじゃ~本展示とまったく関係なき一首になってしまいます。
中西さんによると、鳴沢は水流のとどろく沢の意で、西湖さいこの南の鳴沢とする説と、落石のとどろく大沢とする説があるそうです。しかし激しさの比喩なら、大沢の方がふさわしいように思われます。もちろんこの展示でも後者の説を採用、大沢崩れの荒々しい姿と激しい恋心を重ね合わせた歌とみなし、江戸時代の「参詣絵巻 富士山真景之図」を掲出して視覚効果を高めてありました。
鳴沢にしろ大沢にしろ、こういう情熱的恋歌を60年前に詠んでみたかったなぁ(´艸`)
富士山も古代から崩壊崩落を繰り返してきたそうです。それを示唆する最古の和歌が、『万葉集』に収められる「さ寝ねらくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと」であるとのこと、帰ってからさっそく中西進さんの全訳『万葉集』を開いてみました。
これは巻14「相聞」に収められる駿河国の歌五首のなかの一首です。民衆が恋愛感情を歌った集団歌ですから、もちろん「詠み人知らず」です。かくのごとく国別に庶民の詩歌を採録するのは、きっと中国最古の詩集『詩経』の「国風」にならったのでしょう。
中西さんは「共寝することは玉の緒ほど短く、別れて恋しいことは富士の鳴沢のようにはげしいことよ」と訳しています。もっとも別本には「ま愛いとしみ寝らくはしけらくさ鳴ならくは伊豆の高嶺の鳴沢なすよ」とあるそうです。これなら「いとしく思って共寝することはわずかで、人の噂は伊豆の高嶺の鳴沢のようにとどろくよ」となりますが、前者の方がストレートかつ『万葉集』らしくっていいですね。
じつは若いころ成瀬不二雄先生といっしょに、この日本三霊山の一つ「白山」に登ったことがあるんです。アルピニストでもある成瀬先生は、いくつもある登山ルートのうち、僕のために一番楽なルートを選んでくれたので、とても楽しく快適な登山となりました。頂上からながめた絶景と、下山して二人で浸かった白山温泉を忘れることができません。
何も知らずに登っていましたが、今回の企画展示を行ない、ギャラリートークをして下さった小林淳さんによると、白山は手取層群や濃飛のうひ流紋岩の変質帯といった脆弱ですべりやすい基盤岩の上にのった山だそうです。その地質特性から、甚之助谷や別当谷、あるいは湯の谷などで、大規模な地すべりが現在も起こっているとのことです。こんな崩壊が起こりやすい山だったとは!! あのとき成瀬先生と崩壊に巻き込まれないでよかったなぁ!!
それでは観音開きのリーフレットから、リードを引用させてもらうことにしましょう。
“日本三霊山”は優美な山容を持ち、古くから信仰の山として人々の傍にあった。それぞれに巨大な崩壊地を持つ活火山であり、大規模な災害を繰り返してきた。人々はこの“荒ぶる山”と共生するために「砂防」という技術を発達させてきた。それぞれの砂防史を紐解くと、崩れを抑えるための様々な工夫が、
現代の砂防技術として引き継がれてきたことが分かる。本企画展では、“日本三霊山”火山の生い立ちを紹介した上で、それぞれの火山で過去に発生した大規模な災害を振り返り、それを教訓として発達してきた砂防事業の歴史とその技術的特徴を解説する。
加えてリーフレットの最後には「まとめ」があり、「“日本三霊山”で行われている砂防事業は、 私たちの暮らしや生命だけでなく、それぞれの霊山を取り巻く信仰の文化をも守っているといえます」と〆られています。
静岡県富士山世界遺産センター「“日本三霊山”火山の崩れ――富士山・立山・白山の災害と砂防――」<9月15日まで>
富士山が世界文化遺産に登録されたのを記念し、2017年静岡県が創設した静岡県富士山世界遺産センターについては、何度も紹介してきたように思います。とくに「谷文晁×富士山」展と東京美術倶楽部におけるコレクション大公開「富士山 芸術の源泉」展に際し、講演、いや、口演をやらせてもらったことは忘れられません。
その静岡県富士山世界遺産センターで、いま「“日本三霊山”火山の崩れ――富士山・立山・白山の災害と砂防――」展が開かれています。このような名山の美しさは、自然が創り出した普遍的価値であり、自然がそれをみずから護り、人間はただそれをながめて感動を覚えてきたものとばかり思ってきました。しかしそうではなかったことを、今回はじめて知ったんです。
根津美術館の「牡丹猫図」には「蔵三」という印章が捺されていて、筆者が判明します。蔵三はかつて小栗宗湛と混同されていたこともあるという室町戦国時代の画家ですが、小栗派に属することは間違いないでしょう。ボストン美術館所蔵の蔵三筆「瀟湘八景図屏風」は、日本に残っていたらきっと重要文化財に指定されていたと思います。
今回、根津美術館の企画展「唐絵 中国絵画と日本中世の水墨画」展により、室町水墨画には江戸絵画にチョッと欠けている幽玄なる魅力というか、奥の深さがあることを改めて思い知りました。もし僕が室町水墨画研究家になっていたら、この幽玄なる魅力を真摯に研究し、重厚な論文にまとめ、井上ひさしにならって「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」お伝えすることもできたのになぁと思いつつ、会場を後にしたことでした。
ヤジ「しょせん饒舌館長に、奥の深い室町水墨画の研究は無理じゃないの? ちょっとハードルが高いんじゃないの?」
祇園南海「猫を悼む」(続き)
膝に抱かれて飼い主に 甘えていたのを思い出す
縁側あたりで子供らを 呼んでいた声まだ聞こゆ
漢方・烏薬うやくを飲ませたが 薬効なきを恨むのみ
牡丹の陰で寝て夢を 見てたがそれもまた夢に……
襤褸ぼろでくるんで丁重に…… 恩を謝したが何になる
ともし火の前 老人の まなこ涙でかすんでる
江戸時代に入れば、僕の大好きな祇園南海の詩「猫を悼む」にも、「牡丹陰裏 夢 空となる」と詠まれています。改めてわが国ネコ漢詩ナンバーワンの名吟を戯訳で……。もっとも『江戸詩人選集』3の解釈にしたがえば、「牡丹陰裏 夢 空となる」は「牡丹の根元に埋めたけど 蘇生の夢は叶わずに……」となるでしょう。
鼈甲色べっこういろの毛はソフト 生まれついてのおりこうさん
ネズミは出没しなくなり 夜も太平ぐっすりと……
もらって来てから一年も たたずに何で死んじゃった?
あるいは僕の飼い方に 欠けていたのか愛情が
そこで今日は、鉄舟徳済の『閻浮集』から「牡丹」をマイ戯訳で……。「牡丹睡猫図」の出典は、このような五山詩ということになりますが、これには中国の先例があったにちがいありません。そう思ってネットで検索すると、明・瞿汝稷の『水月指月録』という本に「牡丹花下睡猫児」という禅問答があることまでは分かりましたが……。
牡丹の花は洛陽が 何といっても名高いが
僕の庭にも植えたのに 枯れてしまった 口惜しいなぁ!!
寂しい庭には付き物の 眠り猫さえ見当たらず
蝶々ちょうちょや蜂が楽しげに…… すでに日影は斜めなり
それによると、唐の時代、ある人が画家に正午の牡丹を描いてくれと頼んだところ、画家は困ってしまいました。しかしいろいろと考えた末、牡丹の傍らに猫をあしらい、その目をタテにごく細く描いて正午を表わしたというのです。この唐の話が牡丹に猫のはじまりらしいのです。原双桂は「さすれば右の図の猫は眼を専一の主なるに、睡猫にゑがきては何の面白きこともなし」と結んでいます。
しかし一般的には、やはり「牡丹睡猫」に人気があり、猫は好んで牡丹の花の下で眠る動物と考えられていたのでしょう。このようなイメージは室町時代すでに流布していたらしく、五山詩にちょくちょく出てきます。といっても島尾新さんから教えてもらったのですが(´艸`) 万里集九の愉快な詩は、先の原在明筆「猫に蝶図」をアップしたとき紹介したように思います。
しかし一般的に、牡丹と猫は「牡丹睡猫」として知られています。もっとも有名なのは、日光東照宮回廊の彫刻でしょう。しかし猫がバクスイしてたんじゃ~「正午牡丹」にはなりません。おめでたくも何ともありません。左甚五郎棟梁、おかしいじゃ~ありませんか(笑)
とここまで書いて、試みに金井紫雲の『東洋画題綜覧』に「牡丹」を求めると「牡丹睡猫」という画題が立項され、原双桂の『過庭紀談』という書が引用されています。『過庭紀談』は吉川弘文館の『日本随筆大成』に収められているようですが、読んだことはありませんでした。というより、この本自体をまったく知りませんでした。『過庭紀談』は1834年に出版されたとのこと、僕は190年後に著者の原双桂と同じような疑問を感じたことになります(笑)
原派2代目・原在明の「猫に蝶図」(静嘉堂文庫美術館蔵)をこれまた『國華』に紹介し、それをこのブログにアップしたとき書いたように、猫も蝶も中国語の音通で長寿延命を意味するので、よくセットで描かれました。一方、牡丹に猫を添える取り合せも「正午牡丹」と呼ばれる重要な画題となってきました。
「正午牡丹」とは、「猫の目は正午に一文字、あたかも時辰計の正午を指す形となる特徴ありと伝う。而して正午は陽の気の最も旺さかんなる時なり。故に正午牡丹は牡丹の満開、即ち富貴全盛を寓意す」という画題です。正午に時計の短針と長針が重なって一本の縦線になるように、正午に猫の目も同じになるというのでしょう。野崎誠近の『吉祥図案解題』によるところですから、間違いありません。
この『國華』1194号に載る、平田寛先生の國華賞受賞記念講演録「日本仏画の美しさ」にも深く心を動かされます。その感動的な〆の一節を、引用せずにはいられません。
人類の絵画史において、ミケランジェロ絵画の強壮なドラマや宋代水墨山水画のゆるぎない真実を、ひとはすべて偉とすべきです。しかしそれだからといつて、静かな叡智を秘めた美麗な日本仏画のあわれを以て、人類の絵画史の一隅を飾ることを、ためらうべきではありません。人類の絵画史に、
われわれ日本人が寄与しうる智恵ぶかい美しさが、国華というべき美麗な日本仏画には宿っています。 自己主張の強さを 疑わぬ現代人の眼にも、抑制とつつしみをとおして、美麗のなかのあわれが、多くのものを啓示するにちがいありません。
しかし私見が若い研究者によって否定されるのは、研究者にとって名誉なことです。尊敬する仏教美術研究者・中野玄三先生も、『日本仏教美術研究 続』(思文閣出版)の跋に、このごろ自分の出した結論が若い研究者によって多く否定されているが、これは自分の問題意識や着眼点、主題選択が正しかったことを逆に証明しているのだという意味のことを、お書きになっていたように思います。僕の場合も同じなのだと叫びたい気持ちになります。
ヤジ「あの中野玄三先生とオマエを一緒くたにするな!! オマエのは単なる居直りじゃないか!!」
ここで急に中野玄三先生を思い出したのには訳があります。孝信高台寺座屏に関する拙文を読み返そうと思って、先の『國華』1194号を書架から引っ張り出してくると、巻頭論文が中野先生の「阿弥陀影現図論――楊谷寺本阿弥陀如来像二種を中心にして――」だったからです。
ところが清水亮佑りょうすけさんという若い研究者が、「狩野孝信筆《唐人物・花鳥図座屏》(高台寺蔵)についての研究」という素晴らしい論文を、『成城美学美術史』31号に発表されたんです。今年3月に発刊されたばかり、ホヤホヤの大学紀要です。早速読んでみると、「老子・尹喜図」とする河野説が正解であると書いてあるじゃ~ありませんか。単なる僕の直感というか、思いつきでしたが、清水さんは水をも漏らさぬ精密さで実証してくれているんです。まさに天にも昇る気持ちでした。
というのは、それまで僕が発表した俵屋宗達、尾形光琳、池大雅、与謝蕪村、長沢蘆雪、中林竹洞などに関する私見が、若い研究者によってことごとく否定されてきたからでした。この孝信座屏國華解説が、若い研究者によって肯定された最初の拙文なんです!! うれしくないはずがありません。
この座屏を最初に『日本美術絵画全集9 狩野永徳/光信』(集英社 1978年)で紹介された土居次義先生は、一方を「呂洞賓・鍾離権図」とし、もう一方はとくに言及されませんでした。その後、不詳の方は「黄石谷・張良図」である可能性が高いとされ、これが通説になってきました。
「呂洞賓・鍾離権図」は間違いないのですが、「黄石谷・張良図」の方は本当にそうかなぁ?と思っていました。普通にみる黄石谷・張良図と、登場人物の相貌も恰好も周囲の描写もまったく異なっていたからです。
そこでチョッと調べてみたところ、よく知られた老子と関守の尹喜いんきが出会う場面にちがいないと確信するようになりました。それを勢い込んで『國華』に書いたのですが、みんな無視、だれも認めてくれませんでした( ´艸`)
実はこの孝信座屏も、僕にとって忘れることができない作品の一つです。ずっと近世絵画史上きわめて重要な意味を有する作品だと思ってきたので、30年ほど前『國華』1194号にこれを紹介したんです。
2基で1セット、つまり1双になっているのですが、両方とも表側には、金地濃彩で中国の高士人物図が描かれています。というか、これが表側になるんです。裏側には、金地に水墨で「梅に鶯図」「竹に雀図」が描かれています。つまり表裏とも金地ですが、表は濃彩の人物図、裏は水墨の花鳥図ということになります。
根津美術館「唐絵」展からもう一つ、ネコ好きカンチョーとして「僕の一点」を加えたいと思います。それは蔵三の「牡丹猫図」です。はじめて知ったネコ絵の傑作です。とくに毛描きが素晴らしい!! ほぼ正方形の画面で、キャプションにはもと座屏ざびょうだったのではないかとありましたが、その通りだと思います。
座屏というのは座頭屏風の略で、禅院で用いられる小型の衝立です。無著道忠の『禅林象器箋』という本をみると、禅宗寺院客殿において室中などの室内側、座の端にある戸口の両脇に向かい合うように並べて配置するのが、正式の用い方だったようです。
言葉で説明してもよく分からないでしょうが、海老根聰郎さんが中心となって編集した『日本水墨名品画譜』4<狩野派と琳派>(毎日新聞社)には、狩野孝信筆「高士・花鳥図座屏」(高台寺蔵)が実際に設置された写真が載っているので、これを見れば一目瞭然です。明日アップしましょう。
もう一首、西胤俊承せいいんしゅんじょうという相国寺の住職をつとめた禅僧の七言律詩賛をアップすることにしましょう。興味深いことに、ここにも描いた画家に対する関心がうかがわれます。いや、関心というよりオマージュだといった方が正しいでしょう。となると、やはり描いた画家は、当時有名だった周文じゃ~ないのかなぁという思いが募ってくるのですが……。
僧衣に俗世の塵 積もり 頭も白髪しらがになりました
禅の修業をサボっては ただ長椅子に眠ってる
世に並びなくこんなにも 画技に巧みな人は誰?
心にかなう隠遁いんとんの 理想郷 描かいてくれました
葦あしの渚なぎさは水 碧あおく 舟は静かにつながれて
青山せいざん――蔓かずらに霞かすみ立ち 庵いおりも古びていい感じ
もし親友の手を取って ここへ来ることできるなら
そのうちなんて言わないで 今すぐ京都にさようなら
「江天遠意図」は摂津から淡路島を望んだ実景図であるという意見がありました。その根拠になったのは、惟肖得巌いしょうとくがんという、最後に南禅寺の住職をつとめた有名な禅僧の七言絶句賛です。しかし惟肖得巌がこの山水図を見て、かつて住職をつとめた摂津のお寺と、そこから望まれる淡路島を思い出したというだけの話で、伝えられるところの周文が実景を描いたわけではないでしょう。その惟肖得巌が詠んだ賛詩も、ズバリ感情移入です‼
かつて五年も住んでいた 摂津・海崎かいきの棲賢寺せいけんじ
遠くながめる淡路島――青螺貝あおにしがいとよく似てた
巧みな筆でこの風景 描いた画家はどこの誰?
見てると独り松の下 坐してる気持ちになってくる
ですからNHK青山文化センター講座の配布資料には「伝周文筆」としましたが、先の『室町画賛』では厳密に「筆者不詳」としてあります。アカデミックな意味では「筆者不詳」ですが、ずっと周文筆と言われてきわけですから、「伝周文筆」で構わないでしょう。もちろん「唐絵」展のキャプションは「伝周文筆」となっています。
詩画軸を美術館で鑑賞しようと場合、先の『室町画賛』を持って行けば話は別ですが、詩を読もうとしてもなかなか読めませんし、読めたとしても意味はほとんど分かりません。ですから詩画軸は感情移入をもって鑑賞するのがベストです。そもそも「江天遠意図」に着賛された11首を読んでみると、これら大岳周崇をはじめとする有名な禅僧も、みんな感情移入をもって画をながめ、詩を詠んでいることが分かります。
ヤジ「前には文人画も感情移入して見ろとかいって、ケムに巻いていたじゃないか!!」
その山水はいわゆる辺角の景という構図になっています。画面の左上から右下に対角線を一本引いて、その左下に近景を描き、右上の余白に遠景を添えて遠近感を視覚化させています。
このような辺角の景は、中国・南宋時代の画院画家である馬遠や夏珪が好んで用いた構図法でした。ですから馬の一角とか夏の一辺とも呼ばれます。両者を一緒にしてバカ様式(!?)とか残山剰水ざんざんじょうすいという言い方もあります。「江天遠意図」の画家は、明らかにそれを取り入れていることが分かります。
いま「江天遠意図」の画家といいましたが、落款印章がないので、画家の名前は分かりません。しかし昔から「周文筆」と伝えられてきました。このほかにも周文筆とされる詩画軸はいくつかあるのですが、「江天遠意図」は一頭地を抜く出来映えを示しています。感情移入をやさしく誘ってくれる点で、とてもすぐれていると思います。
そのころ日本の禅僧がたくさん元に渡りましたし、長くかの地に留まり、中国文化を持ち帰った場合も大変多いのです。 流行する題画詩も彼らによって日本へもたらされた可能性が高いという指摘は、正鵠を射るものです。(略)
このような島田修二郎先生の名論文を読むと、詩画軸こそ詩画一致ではなく、詩画補完であったことが分かります。しかも日本絵画史における、詩画補完のパイオニアであったことに思い至ります。
「僕の一点」はその詩画軸、しかも重要文化財に指定されている名品「江天遠意図」ですね。細長い画面の下の方に山水が描かれていますが、その何倍もの面積を占めているのが、山水画の上方に書かれた大岳周崇ほか11人の禅僧による詩賛です。もちろん「江天遠意図」は先の『禅林画賛 中世水墨画を読む』に収録されていて、賛詩のすべてが翻刻され現代語訳が添えられています。
また島田先生は、「題辞、題詩が単に画図をみた印象、感想を述べるだけでなく、画図の主題と密接な関連があって、
画図の十分な理解のためにはその詩文の解釈が欠かせないとか、題跋の加わることが予期されるというような条件をおくことが必要であろう」と指摘しています。
さらに島田先生は、詩画軸の急速な発展の要因として三つを挙げています。第一に五山文学の目ざましい発展と禅僧の文人化、第二にこれと歩調を一にした絵画の世俗化、第三に元代中国からの影響です。第三の点に関して、中国で題画文学が盛んになるのは北宋に
文人画家が輩出してからですが、元代に入ると題画詩は格段に盛んとなるそうです。その例として、張中筆 「桃花幽鳥図」(台北・故宮博物院蔵)や、紀州徳川家旧蔵の雪窓筆「墨蘭図」が挙げられています。
とくに応永年間、熱狂的 に愛好されたので、応永詩画軸 などと呼ばれることもあります。 詩画軸のことを勉強するときには、必ず『禅林画賛 中世水墨画を読む』(毎日新聞社)という本を手元に置かなければなりません。そして監修者である島田修二郎先生の論文「室町時代の詩画軸について」を読まなければなりません。
それによれば、詩画軸は単なる山水画などでなく、特定個人の書斎の図と、送別、招帰の意思をこめて、それに類した想いを詠んだ古人の詩句を選びとり、その趣を描いた詩意図なのです。もっとも本書では、山水的作品を送別・訪友図、書斎図、山水図に分けていますが、この分類も遺品全体を考えるときには悪くないでしょう。
「唐絵」のもっとも重要な一ジャンルに「詩画軸」があります。かつて僕は美術雑誌『月刊 水墨画』に「河野元昭が選ぶ水墨画50選」という連載を続けたことがあります。そのとき現在遺っている詩画軸のなかで、制作年代の確定できる最初の作品「柴門新月図」(藤田美術館蔵)を取り上げ、詩画軸について簡単に述べたんです。それを再録することをお許しください。
南北朝時代から室町時代にかけて、このような形式の水墨掛幅画が大変流行しました。つまり、あまり大きくない画面の下の方に水墨で絵を描き、上の方に題や序文や漢詩を賛として書き加えるもので、当時から詩画軸と呼ばれてきており、現代でもこの名称がそのまま用いられています。
それは①中国で制作され日本へ舶載された絵画、②中国の風景や風物を描いた絵画、③中国画の画風をもって描かれた絵画の3つです。もちろん②と③の場合、日本で制作された絵画ということになります。
つまり①は中国画という制作地域を表わし、②は主題テーマを示し、③は様式スタイルを象徴しているということになります。言うまでもなく①が本来の意味でしょうが、それから発展して②や③が成立、日本の絵なのにそれを唐の絵と呼んだのです。日本美術と中国美術の密接な関係を考える際、とても興味深い現象ではないでしょうか。
伊藤紫織さんが『江戸時代の唐絵 南蘋派、南画から南北合派へ』(春風社 2023年)という興味深い一書を著わすことができたのも、このような「唐絵」多義性があったからにほかなりません。いや、多義性ではなく鵺性ぬえせいというべきかな( ´艸`)
根津美術館で開催中の企画展「唐絵 中国絵画と日本中世の水墨画」――これまたNHK青山文化センター講座でピックアップした「魅惑の日本美術展」です。オープン後もあまりの暑さにビビッていましたが、1週間も経ってしまったので、学問研究のためには熱射病も厭わぬ覚悟で出かけました( ´艸`) 昨日はじめに掲げたのは、本展の「ごあいさつ」でした。
「唐絵」とは何でしょうか? いつも引用する『新潮世界美術辞典』には、とても分かり易い700字ほどの説明が載っています。この辞典は無署名ですが、「唐絵」の項目は尊敬して止まない秋山光和先生が執筆されたにちがいありません。これを整理すると、大きく分けて3つの意味になるように思います。
根津美術館「唐絵 中国絵画と日本中世の水墨画」<8月24日まで>
遣唐使が停止されたあと、日中間の交流は限られたものとなっていましたが、中世に入ると再び盛んとなり、様々な交易品が日本へともたらされました。それらの中には、中国の院体画や、牧谿ら画僧による水墨画の名品なども含まれていました。「唐絵」と呼ばれたこれらの作品は、とりわけ足利将軍家をはじめとする武家の間で尊ばれ、やがてそれらに倣った和製の唐絵も多数制作されることとなります。
根津美術館のコレクションの中には、こうした中国画や日本中世の水墨画といった唐絵の名品が多数含まれます。本展覧会では、それらの中でも特に重要な作品をまとめて紹介いたします。
しかし間もなく、「美術品は所蔵館で 地酒はその土地で」を絵金で体験することになりました。辻惟雄さんが主宰していた「かざり研究会」が、土佐へ絵金を観に行くことになったからです。「絵金まつり」の幻想と妖艶は、今でも忘れることができません。 高知県立美術館を訪ね、鍵岡正勤館長の...