2024年3月31日日曜日

ブータン博士花見会6

 

人間と自然がこれほどまでに芸術的なセンスで調和している国を、私は今まで見たことがない。

(西洋では)人間は自然を破壊して都市をつくり、景観を損ねるが、日本では人が手を加えた後も、自然はいっそう美しく耀くのだ。これは驚異的なことだ。

あふれるほど多様な品種があった時代は過ぎ去った。島国日本が、長期間にわたって平和と繁栄を享受し、芸術と伝統美を追求した江戸時代は、もはや過去のものとなったのだ。

 もっとも本書には、日本人としてあまり知りたくない歴史的事実も、抜かりなく書かれているのですが……。


2024年3月30日土曜日

ブータン博士花見会5

 

その結果でしょう、現在ごく限られた場所でしか、太白は見られないそうです。そのうちの一つが新宿御苑で、去年ブータン博士の解説を聞きながら、その得もいえぬ気品に満ちた白さに見惚れたことを思い出したのでした。

阿部菜穂子さんの『チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人』は、日本のサクラに、いや、日本という極東の小国に魅了された「イギリス人桜守」の言葉を伝えています。その孫にあたるアーネスト・ポラード夫妻が保管する未公開日記から、阿部さんが見つけ出したのです。これを僕は、天上の渡辺京二先生に捧げたいと思いました。



2024年3月29日金曜日

ブータン博士花見会4

 

とくによく知られているのは「太白」里帰りの物語です。日本では絶滅していた幻のサクラ「太白」の穂木ほぎ――接木するための小枝を、イングラムは失敗を何度も重ねながら、ついにわが国へ送り届けてくれたのです。

しかし戦後、ふたたび「染井吉野植栽バブル」が起こりました。全国の自治体は、それぞれの大義名分のもとで、競うように染井吉野を植樹したのです。阿部菜穂子さんによれば、成長が早く経済的なこのサクラは、戦後の荒廃からいた早く立ち直ろうとした「新生日本」のシンボルとして、改めて都合よく使われたのです。

2024年3月28日木曜日

ブータン博士花見会3

 

イングラムはサクラの美に魅入られたイギリスの園芸家で、「チェリー・イングラム」という愛称を捧げられたほどでした。1926年、再び日本にやってきたイングラムは、日本人の関心が派手なサクラに向けられ、珍しい品種はないがしろにされて、本来の多種多様性が消滅しかかっている日本のサクラに危機感を募らせました。

彼はケント州ベネンドンにある自分の邸宅「ザ・グレンジ」に帰ると、そこに庭園「桜の園」を開き、みずから多種多様なサクラを育て始めたのです。「将来日本人は、もっとも美しいサクラをヨーロッパやアメリカで再発見することになるだろう」という、シニカルで切実な思いに駆られながら……。

2024年3月27日水曜日

ブータン博士花見会2

 

しかし天王寺のオカメザクラだけは、満面の笑みで僕たちを迎えてくれました。ブータン博士によると、オカメザクラはイギリスのコリングウッド・イングラムという園芸家が、カンヒザクラとマメザクラから作った交配種で、これがわが国へもたらされたそうです。

ブータン博士の話を聞き、オカメザクラを眺めているうちに、かつて朝日新聞の記事で知って求めながら、ツンドクのままになっている一冊の本を思い出しました。帰宅して書庫の奥から引っ張り出した阿部菜穂子さんの『チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人』(岩波書店 2016年)がその本です。

2024年3月26日火曜日

ブータン博士花見会1

 

 323日ブータン博士花見会が行なわれました。ブータン博士花見会? 日比谷高校昭和37年(1962)卒業生のうち、桜ファンが集まってブータン博士の解説を聞き、そのあと飲み会に流れるという集まりです。ブータン博士? 田中潔君のニックネームです。田中君は植物学のスペシャリストですが、どうしてブータンと呼ばれるようになったのか、よく知りません。「饒舌館長」は自分から言い出したブログネームですが……() 

この花見会はずいぶん長く続いているそうですが、僕は去年の新宿御苑に続いて2回目の参加です。今年は谷中霊園が選ばれましたが、春まだ浅く、園内満開とはいきませんでした。

2024年3月25日月曜日

国立新美術館「日本南画院展」6

 

僕も15年ほど前から、審査員としてお手伝いさせてもらってきました。この間、町田泰宣さん、潮見冲天さん、堀江春美さんをはじめ、院の方々には大変お世話になり、楽しく勉強させてもらってきました。

日本南画院展の最高賞は文部科学大臣賞で、今回は森川節夫さんの「戒め」が受賞しました。これに次ぐのが竹田賞で、もちろん田能村竹田にちなむ賞です。尊敬して止まない田能村竹田――その竹田賞を選考するというのですから、さすがの饒舌館長も緊張しないはずはありません() 今回、竹田賞は渡辺天弓さんの「時経て」に決まりました。お二人をはじめ、受賞された方々に、心からの祝辞を捧げたいと存じます。

なお「饒舌館長ブログ」では、幽明界を異にされた方のみ「先生」とし、お元気な方はひとしなみに「さん」とお呼びすることにしています。


2024年3月24日日曜日

国立新美術館「日本南画院展」5

 

そうなんです!! 南画あるいは南宗画というより、今や広く水墨画の美術団体と考えた方がよいでしょう。ご興味のある方は、ぜひ日本南画院のホームページをご覧ください。

畏友・村田隆志さんは、近代南画のもっとも意欲的な研究者です。その村田さんは「『日本南画院設立記念冊』に見る戦後の南画壇の動向」と題する興味深い論文を、大阪国際大学の『国際研究論叢』35号(2022年)に発表しています。かつて大学紀要は入手するのがなかなか大変でしたが、この村田論文も今やネットで簡単単に読めるんです!! 近い将来、村田さんはこれをもとに日本南画院の歴史をまとめてくれることでしょう。


2024年3月23日土曜日

国立新美術館「日本南画院展」4

太平洋戦争のあと、南画はかつての輝きをやや失っていましたが、昭和35年(19605月、京都において先の松林桂月、矢野橋村、河野秋邨を中心に、日本南画院が改めて結成されました。

この南画院ははじめ社団法人として出発しましたが、現在は公益社団法人として、公募展形式をとりながら、多くの方々に南画創作の楽しみを味わっていただくべく、活動を続けています。もっとも、紹介パンフレットには、「百年以上の歴史を通し、日本南画院は手法的にも日本風土並びに世界各国の風土の中より多くの素材を求めながら、東洋美術の精粋と言われる水墨画の研究に努力しております」とあります。

 

2024年3月22日金曜日

国立新美術館「日本南画院展」3

また京都では、田能村直入、富岡鉄斎によって日本南画協会が創設されました。ちなみに直入は、明治14年、わが国最初の公立美術教育機関である京都府画学校を開設し、みずから校長として後進の指導に活躍した明治南画壇の雄でした。それは東京美術学校(現東京藝術大学)より8年も早い開校であり、リードしたのは南画家でした。じつに興味深いところです。

そして大正10年(1921)、河野秋邨、小室翠雲、矢野橋村らにより、最初の日本南画院が設立されました。ここに全国の南画家が結集、研究と発表の場をみずからの手にしたのです。

 

2024年3月21日木曜日

国立新美術館「日本南画院展」2

 

このような近代南画の隆盛は、南画を心から愛した、そして南画に東洋日本美の存在理由レーゾンデートルを見出した、あるいは美術西欧化の荒波に危機感を抱いた、南画家たちの情熱によってもたらされたムーブメントでした。やがて彼らは理想実現のために、南画家が力を合わせて一致協力する重要性に思い至ったのです。

みな江戸時代以来のすぐれた南画伝統を継承していましたが、やはり「自娯」や「適意」や「写意」だけには限定されない、近代的な芸術家であったと思います。広く国民とともに南画を創り、楽しもうとするベクトルが強まったのです。これこそ「近代の南画」です。江戸時代、流派や門流はあったとしても……。かくして明治29年(1896)、東京において児玉果亭、野口小蘋、小室翠雲、松林桂月により日本南画会が設立されました。


2024年3月20日水曜日

国立新美術館「日本南画院展」1

 

国立新美術館「第64回 日本南画院 東京展」<41日まで>

 いよいよ今日から六本木の国立新美術館で、第64回日本南画院東京展が始まります。

日本は明治維新を機に、政治経済文化のモデルを中国から西欧に180度転換し、近代国家の建設を目指すことになりました。皆さんご承知のとおりです。

ところが不思議なことに、中国文化と密接に結びついていたはずの南画は断捨離されるどころか、江戸時代にも増して流行することになります。確かにアーネスト・フェノロサによる南画否定論の影響がなかったわけではありませんが、きわめて部分的なものでした。その理由についてはすでにいろいろと指摘されていますが、いつか改めて独断と偏見をアップすることにしたいと思います。

2024年3月19日火曜日

岩波ホール「山の郵便配達」2

 

名古屋大学につとめていたころ、名古屋シネマテークで勅使河原宏の「アントニオ・ガウディ」がかかり、見に行こうと思っているうちに終っちゃったことがありました。そのころ映画への関心が薄れ、チョット忙しかったこともあるのかな? 

そんな思い出はともかく、名古屋シネマテークが閉館に追い込まれていく現状を嘆き悲しむ小原さんや、ケン・ローチ監督と僕も同じような気持ちになりました。

ヤジ「美術館は質量主義でいくべきだ――入館者数も重要だなんて言っているヤツが、笑わせるんじゃない!!

2024年3月18日月曜日

岩波ホール「山の郵便配達」1

 

 「ゴジラ-1.0」と「君たちはどう生きるか」が盛り上がっていますね。しかし今回は、同じ映画でもチョット趣の違う映画の話にしましょう。

旧聞に属しますが、去年『朝日新聞』夕刊に、小原篤さんの「取材考記 カンヌで聞いたミニシアターは世界への扉」が載りました。小原さんは文化部で映画、アニメ、マンガを担当する記者として働いています。いや、「趣味を仕事にせよ!! そうすれば一生働かないで済む」という名言にしたがえば、「趣味が全部仕事に」なっている小原さんは、働いてなんかいないんです() そのうち是非お会いしたいなぁと思わせる記者さんです。

小原さんはミニシアター「名古屋シネマテーク」が、コロナ禍による経営難で7月に閉館することを伝えていました。

2024年3月17日日曜日

サントリー美術館「織田有楽斎」7

 

もちろん有楽斎が愛蔵していたという「大井戸茶碗 有楽井戸」(東京国立博物館蔵)一点を堪能するだけで、十分モトは取れます。衒てらいのない民衆芸術の凝縮せるエネルギー、眺めているだけで現代生活のストレスがナンセンスに感じられてくる無作為性、どんなお抹茶でもやさしく迎え入れてくれるおおらかな赤味を帯びた釉色、槿域が生み出した大井戸茶碗の傑作です。

『大正名器鑑』は内箱蓋裏の銘を英一蝶にアトリビュートしているそうですが、江戸絵画史的にも興味惹かれる資料です。しかしこのような一つ一つの素晴らしさやおもしろさを超えて、有楽斎の生き方からSNSの馬鹿馬鹿しさを学び取れる点に、この特別展最大の魅力があるんです。

 ヤジ「ガラケーしかもっていないオマエが、偉そうな口を利くんじゃない!!


2024年3月16日土曜日

サントリー美術館「織田有楽斎」6


 

X(ツイッター)やインスタグラムをはじめとして、SNSなる怪物があまりにも大きな力をもち、それによって多くの悲劇が生まれるようになった現在、人間が健康に、真っ当に生きていくためには、「ウワサの無視」「人の目の否認」こそきわめて重要な命題ではないでしょうか。有楽斎に投げかけられたウワサ、風聞集などの誹謗や中傷は、現在のSNSと同じような暴力であったことでしょう。

その意味で織田有楽斎は、今もっとも学ぶべき人間のように想われてきたんです。そんなものは馬耳東風と聞き流し、一流の人間になったんですから……。「信長の弟、茶人の才」というキャッチコピーも悪くありませんが、「SNSの悪口なんか無視して、力強く生きよう!!」という方が今やキャッチーかな()

2024年3月15日金曜日

サントリー美術館「織田有楽斎」5

 つまり有楽斎の生き方は、「逃げ」どころか、むしろ積極的なベクトルをもっていたことを明らかにするために、本展を開くことにしたというのです。この二つのコンセプトはみごとに視覚化されていて、僕も会場を巡るうちに、あぁ成る程とよく腑に落ちてことでした。

しかし同時に、本展ではじめて有楽斎の一生をよく知り、チョッと異なる感想ももったんです。それは「人のウワサなんか一切気にするな」「人の目なんか一文の価値もない」というテーゼでした。「自分の信じた道を行く」と言ってもよいのですが、「ウワサの無視」「人の目の否認」といった方が現代にはふさわしいでしょう。

 

2024年3月14日木曜日

サントリー美術館「織田有楽斎」4

 NHKの人気番組「英雄たちの選択」のキャッチコピー「その心の内に分け入ってみよう!!」を、織田有楽斎に適用したらどうなるかというのが、本特別展のコンセプトみたいですね。しかしもう一つ大切なコンセプトがあるようです。正伝永源院住職・真神啓仁老師のあいさつには、つぎのような一節があります。

戦乱の世において数奇な運命に翻弄されながらも、現代まで伝えられてきた有楽斎の功績や遺構、想い、そして生き方を学ぶ中で、「逃げの有楽」と揶揄されてきたことに釈然としない想いを抱くようになりました。そこで、今までとは違う角度から有楽斎という人物を捉え直すべきだという強い想いが、本展の開催へと繋がりました。

 

2024年3月13日水曜日

サントリー美術館「織田有楽斎」3

さらにその後、信雄のぶかつ(信長次男)に仕え、家康と秀吉の講和を調整するなど存在感を示したものの、信雄が改易されると今度は秀吉の御伽衆に加わります。関ヶ原の戦いでは東軍として参戦、戦後も豊臣家に仕えましたが、大坂夏の陣の前には家康の許可を得て主人から離れました。織田、豊臣、徳川の三天下人に仕えて時流を乗り切り、75歳までの長い人生を過ごした彼の心中には、どのような思いがあったのでしょうか。

 

2024年3月12日火曜日

サントリー美術館「織田有楽斎」2

有楽斎こと織田長益ながますは天文16年(1547)、織田信秀の子、信長の弟として生まれました。信長、秀吉、家康のもと、武将として活躍し、晩年には京都・建仁寺の塔頭である正伝院を再興、隠棲し茶人としてその名を残します。正伝院内に建てた茶室(如庵)は国宝に指定され、各地に如庵の写しが建てられました。……文化人・有楽斎として名高い一方、武士・長益には悲観的なイメージが付きまといます。天正10年(1582)本能寺の変では、二条御所に籠る主・信忠(信長長男)が切腹した一方、自らは御所を脱出したことから、京の人々には「切腹をすすめておいて、逃げた男」と揶揄されました。

 

2024年3月11日月曜日

サントリー美術館「織田有楽斎」1

 

サントリー美術館「400年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」<324日まで>

 織田有楽斎うらくさい――僕にとっては、何といっても茶室「如庵」の作者ですね。昭和54年(1979)、名古屋大学に着任すると間もなく、許可を得て犬山の有楽苑にある如庵を見に行ったことが忘れられません。もっとも本当の目的は如庵じゃ~なく、旧正伝院書院襖絵の長谷川等伯筆「四愛図」だったんですが、如庵も一緒に拝見したことは言うまでもありません。

その有楽斎が元和7年(162175歳で没してから400年――節目の遠忌を記念して、この特別展が京都文化博物館とサントリー美術館で開かれることになったんです。まずはカタログの主催者あいさつを引用しておきましょう。

2024年3月10日日曜日

MR.OLDIES「熊倉貞武君お別れ会」7

荒木とよひさ作詩・南こうせつ作曲「男が独りで死ぬときは」

 男が独りで死ぬときは 持ってゆくものは何もない

 春なら桜の樹の下で 冷やの酒などあればいい

 面白かった人生だけど 生まれた前に帰るだけ

 さらば友よAh~一足先に 借りはむこうで返すから

  男が独りで死ぬときは 残す言葉など何もない

  秋なら落葉の縁側で 座ぶとん枕があればいい

  いい夢見てた人生だけど 戻らぬ旅が続くだけ

  さらば妻よAh~二足後れ いつかゆっくり逢いに来い

   この世は終る人生だけど 心のままに生きただけ

   さらば友よAh~一足先に 借りはむこうで返すから

   さらば妻よAh~二足後れ いつかゆっくり逢いに来い  
 

2024年3月9日土曜日

MR.OLDIES「熊倉貞武君お別れ会」6

 

今回とくに心に沁みたのは、荒木とよひさ作詩・南こうせつ作曲の「男が独りで死ぬときは」でした。熊倉貞武君亡きあと、今回のライブは木村泰輔君とMR.OLDIESオーナー傳田啓登さんの掛け合い風デュオでしたが、その傳田さんが歌ってくれたんです。熊倉君が亡くなる少し前から、急にこの曲に惹かれて歌いだしたとのこと、みんな彼をダブル・イメージにしながら聴き入ったのでした。

熊倉君、そのうち僕も木村君と一緒にそちらにうかがいますから、できたらテネシー・ベアーズに加えてください。それまでに「Take Me Home Country Roads」と「テネシーワルツ」と「思い出のグリーングラス」をマスターしておきますから……。

2024年3月8日金曜日

MR.OLDIES「熊倉貞武君お別れ会」5

 

その熊倉君をしのびながら、彼がとくに後半生情熱を傾けたカントリー&ウエスタンを楽しみ、そして嫌いではなかったお酒も……という「熊倉貞武君お別れの会」ライブがすぐに企画されました。今回は木村君に、あの忘れられない「500マイル」を天上の熊倉君に捧げたいから、ぜひ俺にも一曲やらせてくれと、前もってお願いしておきました。

今回お借りしたのはエレクトリック・アコースティックギター、しかも天下のギブソン、僕のヤマハ・フォークギターとは音色がちがいます。熊倉君の伴奏は望んでも叶いませんでしたが、それに代って新しく加わったドラムが、マイ「500マイル」を引き立ててくれたのでした。

2024年3月7日木曜日

MR.OLDIES「熊倉貞武君お別れ会」4

 


その熊倉君が、112日、心不全のため急に亡くなってしまいました。去年の暮はあんなにエネルギッシュに歌っていたのに!! インフルエンザに罹っていたともお聞きしましたが、亡くなる前日まで元気そのものだったそうです。

実をいうと、高校卒業後、熊倉君とはこの2度の出会いだけで、詳しいことは何も知りませんでした。しかし今回、木村君から熊倉君の人間としてまた男性としての魅力、チャレンジ精神に満ちた仕事ぶり、そして人生を積極的に楽しんだオープン・マインドについて、はじめて教えてもらいました。すごく充実した人生、そして耀ける一生だったんだなぁ、俺も男としてこんな風に生きてみたかったなぁと、思わずにはいられませんでした。

2024年3月6日水曜日

MR.OLDIES「熊倉貞武君お別れ会」3

 

休憩のあと、もう一曲リクエストされたので、今度は「500マイル」をやったのですが、そのとき熊倉貞武君が素晴らしいリードギターの伴奏をつけてくれたんです。お陰で僕のチープなフォークが、すごくうまく聞こえたんです。聞こえたんじゃ~ないかな。聞こえてほしかったなぁ――チョッとさだまさしみたいですが……() 

あまりに楽しかったので、去年も飛んで行き、また「アーリー・モーニング・レイン」を熱唱しました。この名曲を作ったカナダのシンガー・ソングライター、ゴードン・ライトフットが、去年5月にこの世を去ったので、天上の彼に捧げたかったんです。そのときも熊倉君が伴奏をつけてくれました。

2024年3月5日火曜日

MR.OLDIES「熊倉貞武君お別れ会」2

 

そのなかに木村泰輔君がいたんです。僕もちょっとフォークソングをやっているんだと口をすべらしたら、MR.OLDIESでテネシー・ベアーズのライブをやっているから是非来てよという。もちろんだよと、指定された夕刻飛んで行きました。

青春プレーバックといった感じで、アッという間の2時間半でしたが、木村君から「河野君も一曲やってよ」とリクエストがかかりました。あの名フォーク・デュオ(!?)ウッディー・リヴァーが解散してから5年も経って、ウズウズしていたところです。そこにあったフェンダーのアコギを借りると、一番の持ち歌「アーリー・モーニング・レイン」を熱唱したことでした。

2024年3月4日月曜日

MR. OLDIES「熊倉貞武君お別れ会」1


 一昨年の暮、そして去年の暮、東銀座のライブハウスMR.OLDIESで開かれたテネシー・ベアーズのライブに出かけたことは、すでにアップしたところです。テネシー・ベアーズは、高校の同窓生である木村泰輔君と熊倉貞武君が組んで立ち上げたカントリー&ウエスタンのデュオです。

美術史などという鵺みたいな仕事を選択し、お二人とは異なる道に進んだせいか、まったく交流はありませんでした。ところが一昨年10月、静嘉堂文庫美術館丸の内館、マスコットネーム静嘉堂@丸の内をオープンしたとき、高校の同級生8人ほどが突然観に来てくれたんです。

なお今回アップする写真は、すべて浮世絵研究家コレクターとしてもよく知られる同級生・横山実君の激写するところです❣❣❣

2024年3月3日日曜日

出光美術館「池大雅展」14

薩都刺「遊西湖 六首」6

  名妓 蘇小そしょうが住む家か 囲む垂柳ものさびし

  柳の綿を追っかけて 湖上をスイスイ燕つばめ飛ぶ

  昔のにぎわいとうに去り 洒落た遊びも見なくなり

  堤に生える柳さえ 今じゃカラスの寝床なり

 

2024年3月2日土曜日

出光美術館「池大雅展」13

薩都刺「遊西湖 六首」5

 「待っていたのよ 我が背子せこよ お酒の酔いが醒めるのを」

  笑みつつ絹の扇 出し 賛詩を書いてと頼んだの

  紅いすだれを巻き上げりゃ 春はさざなみ緑色

  岸から柳絮りゅうじょが舞ってきて 硯すずりの海に落ちました

 

2024年3月1日金曜日

出光美術館「池大雅展」12

薩都刺「遊西湖 六首」4

春を惜しんでその舟で 一夜 明かしたものでした

 酔って渇いた喉――呉姫が 夜中にミカンを剝いてくれ……

 一夜の恋人だしぬけに 妾わらわの幼名おさなな呼んだので

  首こうべ廻らし微笑んで 灯火の陰に隠れたの

出光美術館「トプカプ・出光競演展」2

  一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。  日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して 100 周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮...