2022年3月31日木曜日

月岡芳年「大日本名将鑑」10

 

また「大日本名将鑑」に先立って、芳年は明治10年、たくさんの西南戦争錦絵を発表しています。これこそ歴史画ですが、その人気だけを当て込んだような作り方は、完全に浮世絵だといってよいでしょう。

国家意識とまったく関係のない浮世絵の伝統から、歴史画「大日本名将鑑」が生まれている点がとても興味深く感じられます。しかしこれが浮世絵ではなく、歴史画であることは、「大日本」というタイトルに象徴されています。しかも菅原真弓さんによると、「ダイニホン」じゃ~なく、「ダイニッポン」と読むのが正しいようです。

明治時代の日本人は歴史画を求めました。それが歴史画の流行を生んだことは間違いありません。その理由を求められるなら、模範解答は近代国家意識の誕生と高揚ということになるでしょう。

2022年3月30日水曜日

月岡芳年「大日本名将鑑」9

 

日本画と西洋画ともに歴史画が大流行するのは、実のところ、明治20年代に入ってからのことです。それは西欧化に対する反省が沸き起こってくる時期でもありました。これに10年ほど先駆けて、芳年が「大日本名将鑑」を描いた事実にも、とても重要な意味があるように感じられます。

芳年が持ち前の鋭敏な感覚で、歴史画の流行を予見したのでしょうか? まったくなかったとは言えませんが、浮世絵の伝統をより一層重視すべきでしょう。浮世絵にはこのような歴史画シリーズがたくさんあったからです。

何より、師の国芳に「通俗水滸伝豪傑百八人之壱個」という傑作がありました。「武者絵の国芳」としてブレークする契機となった揃い物です。

2022年3月29日火曜日

月岡芳年「大日本名将鑑」8

 

事実、2年ほど経つと芳年は再び江戸の美へと回帰していくんです。その象徴的作品が「風俗三十二相」であり、「月百姿」です。後者にはたくさん歴史上の英雄が登場しますが、芳年の表現意欲は、もっぱら<月>に向けられています。

大江千里が「月見れば千々に物こそ悲しけれ我が身ひとつの秋にはあらねど」と詠んだ、悲しみの象徴である<月>が、ライトモチーフになっています。

歴史上の人物とは呼べないような庶民や農民も登場します。歴史画である「大日本名将鑑」から、懐かしの浮世絵へ戻っていくようなベクトルが感じられます。もう「月百姿」を歴史画と呼ぶことは、チョット躊躇されるのではないでしょうか。これが「風俗三十二相」になれば、もう完全に浮世絵じゃ~ありませんか。

2022年3月28日月曜日

月岡芳年「大日本名将鑑」7

 

芳年の「天照大神」は、天照大神が天岩戸に隠れたため、この世が真っ暗になったという神話をたくみに表現しています。あるいは、明るい近代国家を創設することに成功した、明治日本の表象ともなっているという見方もあるようです。

しかしそれだけではなく、芳年の何となく暗い、疑心暗鬼にも似た心理も、その暗闇に反映されているように思います。それは近代化、つまり西欧化への懐疑です。

それが天照大神を描きながら暗い画面となっている理由ですが、登場人物の背後に西洋女性の笑っているような顔が煙となって現れていることは、とても興味深いと思います。西欧化への漠然とした不安がそれとなく現われたのだ――なんて言ったらこれまた言い過ぎかな?

2022年3月27日日曜日

月岡芳年「大日本名将鑑」6

一般的に、これらは西欧絵画の様式的摂取、あるいは影響といった美術史的観点から指摘されるところですが、それに止まるものではありませんでした。美術の問題を超えて、どうしても<近代>の表象が必要だったのです。

その意味で、第1図である「天照大神」の構図が高橋由一の「栗子山隧道」とよく似ていることは、とても興味深く感じられます。近代的科学技術を駆使して完成させるトンネルこそ、きわめて近代的な装置であり、近代のシンボルでもあったからです。

 もっとも、「栗子山隧道」は明治18年の作品ですが、西洞門を描いた作品は早く明治14年に完成していたのですから、「栗子山隧道」だけにこだわる必要はないでしょう。重要なのは、トンネルが近代の表象だったことです。「栗子山隧道」は芳年によって先取されているーーなんて言ったら言い過ぎかな? 

2022年3月26日土曜日

月岡芳年「大日本名将鑑」5

 

クロノロジーを重んじる、近代的歴史意識といってもよいでしょう。あるいはその2年間に、芳年の近代的歴史意識がさらに強まったのだと考えることができるかもしれません。いずれにせよ、論文を書くとき、まず本文を仕上げてから「序」や「はじめに」を書くことがありますが、これと同じでしょう。

 ヤジ「芳年とオマエを一緒くたにするな!!!

それはともかく、近代国家としてのアイデンティティを確立するための歴史画ですから、日本の歴史を主題としながらも、そこに「視覚的近代」が盛り込まれなければなりませんでした。それが西欧的なリアリズムや陰影法(キアロスクーロ)、遠近法(パースペクティブ)、西洋の化学的顔料だったのではないでしょうか。

2022年3月25日金曜日

月岡芳年「大日本名将鑑」4

 

もっとも、刊行年未詳の作品が14点ほどありますが、これらも明治11年から13年の間に制作されたとみてまちがいないでしょう。2年も間隔を明けて、芳年が最後にポンと「天照大神」を描き加えたというのは、じつに不思議なことです。

すでに名将武将50人で完結していたのに、芳年はどうしても天照大神を加えたくなったのでしょう。51人という切りの悪い数字になってしまう上、天照大神は女性であり、名将でも武将でもないのに、芳年は加えずにいられなかったのです。

これは芳年の強い歴史意識、歴史画意識を示しています。つまり日本の歴史には起承転結がなければならないといった意識です。

2022年3月24日木曜日

月岡芳年「大日本名将鑑」3


  つまり入れ墨のデザインになるかならないかという違いは、近代的な国家意識があるかないかの違いと表裏一体をなしているんです。

「大日本名将鑑」の最初の1枚は「天照大神」です。天照大神が神々しく岩戸から出現するさまではなく、暗い洞窟から外を覗き見るような珍しい視点で描かれています。しかもこれは明治15年、芳年が最後に加えた1枚なんです。

先にあげた菅原真弓さんの『月岡芳年伝』に、<「大日本名将鑑」作品一覧>というリストがついています。それをみると、みんな明治11年から13年のあいだに刊行されていて、「天照大神」だけが明治15年に出ているんです。

2022年3月23日水曜日

月岡芳年「大日本名将鑑」2

 

 嘉永3年(1850)芳年は歌川国芳の門に入りました。国芳は「武者絵の国芳」と呼ばれたほど、武者絵で有名でしたが、江戸時代の武者絵と芳年の「大日本名将鑑」の違いはどこにあるのでしょうか? それはズバリ、入れ墨のデザインになるかならないかの違いです。

国芳の「通俗水滸伝豪傑百八人之壱個」は入れ墨になりますが、芳年の「大日本名将鑑」は入れ墨にふさわしくありません。

明治5年(1872)政府は入れ墨を制限するようになりました。実際は禁止に近かったと思います。外国に対して、野蛮国と見られることを恐れたからです。それが今じゃ~「タトゥー」と名を変えて、最新の欧米文化になっているようですが( ´艸`) 「大日本名将鑑」には近代的な国家意識が見られますが、その近代国家が禁止した入れ墨のデザインにならないことと、不即不離の関係に結ばれています。


2022年3月22日火曜日

月岡芳年「大日本名将鑑」1

 いま六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで、「ボストン美術館所『THE HEROS 刀剣×浮世絵――武者たちの物語』」が開かれています。これにちなんで、東京テレビの人気番組(!?)「新・美の巨人たち」で、月岡芳年の代表的シリーズ「大日本名将鑑」が取り上げられました。

月岡芳年――明治初期を象徴する、もっともすぐれた浮世絵師です。先に菅原真弓さんの『月岡芳年伝』を紹介したとき書いたように、美術史的興味をとても強く掻き立てられる浮世絵師です。

かつて私見をしゃべったことがあったせいでしょうか、「新・美の巨人たち」からオファーがかかりました。そのとき話したことを、カットされた部分も含めて、ここにアップすることをお許しください。

2022年3月21日月曜日

菅原真弓『月岡芳年伝』8

 

私の浮世絵道楽は月岡芳年の版画に始まる。父が初めて土産に買ってきてくれた錦絵は、芳年の傑作『月百姿』の中の四枚であり、母から初めて小遣を持つことを許されて、近所の絵草紙屋で買ったのが、芳年最後の連作『新形三十六怪撰』の中の二枚だった。

いまカタログのページを繰りながら、そして挟み込まれた高橋誠一郎先生のエッセーを読みながら、この「饒舌館長」を書いているのですが、青春プレーバックといった感じにとらわれます。

 ヤジ「このごろは何でもかんでも青春プレーバックか、サウダーデか、スイートメモリーじゃないか!!

2022年3月20日日曜日

菅原真弓『月岡芳年伝』7

 

これは恩師の小林忠先生が、その恩師の有名な論文のタイトルにならって考え出してくれたものだと、書いてあるじゃ~ありませんか!! 山根先生が天上で本書をご覧になったら、菅原さんの「芳年研究序説」から本書への成長振りに、ご自身を重ね合わせたことでしょう。

はじめて僕が、大蘇月岡芳年に関心を向けたのは、昭和48年(1973)夏、今はなきリッカー美術館で「新生面を開いた明治浮世絵展 清親・芳年・国周」を見たときでした。高橋誠一郎先生のコレクションだけで構成された、とても上質な特別展でしたが、じつは先生の浮世絵遍歴も、芳年から始まったのでした。先生はつぎのように述べています。

2022年3月19日土曜日

菅原真弓『月岡芳年伝』6

 

それまで『美術史』に浮世絵関係の論文が載ることはほとんどありませんでした。ましてや血みどろ絵の芳年など、問題外の外でした() 

だからこそ、山根有三先生が創刊号に記念碑的論文「等伯研究序説」を寄稿した『美術史』に、ついに芳年論が載るようになったのかという驚きとともに、菅原さんの分析に深い感銘をもって読んだのでした。「等伯研究序説」は、先生のデビュー論文といってもよく、山根美術史学はすべてここに胚胎しているんです。

そんなことを思い出しながら本書の「あとがき」を読むと、菅原さんの修士論文も芳年で、タイトルは「芳年研究序説」だったそうです。

2022年3月18日金曜日

菅原真弓『月岡芳年伝』5

 

芳年芸術最大の魅力――それはこのような二面性にありました。たとえば、これから問題にしようとしている芳年の歴史画について、菅原さんは「大日本名将鑑」を取り上げ、「洋風表現への顕著な志向と復古的な主題という矛盾」があると述べています。

しかしこれは矛盾というよりも、芳年芸術の美しき二面性だというのが独断と偏見です。あるいは、「美は矛盾のうちに宿る」と言い換えてもよいでしょう。かつて吉澤忠先生が、渡辺崋山において証明したように……。

菅原真弓さんが美術史学会会誌『美術史』の141冊に、「月岡芳年歴史画考」を発表したのは1996年のことでした。

2022年3月17日木曜日

菅原真弓『月岡芳年伝』4

 

内容はきわめて真っ当な日本美術史、非常にアカデミックな日本絵画史の本なんです。だからこそ「饒舌館長おススメ本」なんです!! 

しかしながら、表紙の血みどろ絵と内容のアンバランスというか、乖離というか、齟齬というか、そこに一種の二面的性格が看取される点に、饒舌館長はとても強いおもしろみを感じました。

言うまでもありませんが、そのアンバランスが本書の欠点だなどと言っているのではありません。それどころか、芳年芸術最大の魅力を、本の装丁と内容の二面性に象徴させている点に、心からのオマージュを捧げたいのです。たとえこの表紙が、中央公論美術出版の商売っ気に出るところだったとしても()

2022年3月16日水曜日

菅原真弓『月岡芳年伝』3

 

ころが腰巻には「『血』と『狂気』から解き放つ。」と大書されています。最後は「。」じゃ~なく、「!!」の方がよかったかな?

それはともかく、その脇に「報道、伝記、回顧録などの資料を博捜し、作品主題と構図に緻密な分析を加えることで、血肉を備えた一人の浮世絵師の人物像を浮かび上がらせる」と書き加えられています。

確かに通読してみると、著者の菅原真弓さんは、1970年のころ沸き起こった芳年血みどろ絵ブームに批判的で、芳年の全画業を美術史的観点から考察し、幕末明治の社会現象とすり合わせながら、あくまで客観的に美術史の流れのなかに位置づけようとしています。

2022年3月15日火曜日

菅原真弓『月岡芳年伝』2

 

何しろ本書のカバーは、かの血みどろ絵の傑作「英名二十八衆句 稲田九蔵新助」なんです。それを黒白反転のモノクロームにして、人物だけをクローズアップし、背景も漆黒にして印刷してあるんです。

そして絵とは無関係に、大小さまざまな「!」みたいな形をたくさん切り抜き、下の真っ赤な表紙を、まるで滴り落ちる血のように透かして見せるという、怪奇趣味あふれた表紙になっています。オリジナル以上に血みどろ絵的だといっても過言じゃ~ありません。

この宗利淳一さんというブックデザイナーのみごとな装丁に、まず僕は見入ってしまいました。

2022年3月14日月曜日

菅原真弓『月岡芳年伝』1

 

菅原真弓『月岡芳年伝 幕末明治のはざまに』(中央公論美術出版 2018

 313日――昨日は上杉謙信の祥月命日でした。いつものように、朝、個室で森銑三先生の『偉人暦』にこの日を求めれば、登場するのが上杉謙信です。森先生は、次のようにお書きになっています。

上杉謙信と聞くと、『外史』や『常山紀談』の頭に沁み入っている私等には、坊主頭を白布に包み、大刀を抜きかざして、「豎子じゅし何処に在る」と、白馬を飛ばせて信玄の川中嶋の陣中に斬り込んで行く、芳年の錦絵から抜け出たような勇ましい彼の姿が浮んで来る。 

 明治28年(1895)生まれの森先生にとって、上杉謙信の雄姿が大蘇月岡芳年の錦絵と結びついていたというのは、とても興味深いことです。「あぁそうだ!! 前に読んでおもしろかった菅原真弓さんの『月岡芳年伝』から始めて、独断と偏見を『饒舌館長』にアップしておこう」と思い立ったので……。


2022年3月13日日曜日

原在明のネコ絵9

万里集九「猫賛」

  いつもは爪を隠してて 引っかくことさえやらないし

  牡丹の下で眠ってりゃ できるはずないネズミ狩り

  しかし春風 吹いてくりゃ 暗がりなくても嗅ぎ分ける

  だからどんなにネズミども 多くいたって逃げられぬ

 


2022年3月12日土曜日

原在明のネコ絵8

 

万里集九「猫児双蝶図」

  咲き定まりたる牡丹花は ほかの花とは交わらず

  日なかの木陰 傾くも 母ネコ眠らず子のために

  誰かが見ている春の夢 蝶々ちようちよのはかない羽のよう

  鋭い牙にもかからずに 二匹の蝶が悠々と……

2022年3月11日金曜日

原在明のネコ絵7

 

チョットまた朔旦冬至に戻りますが、南畝が「乙丑至後」と書いているのは、冬至の後の日の意味だと思われます。また南畝は、この賛を浪速の客舎でしたためたと書いていますが、『南畝日記』よって、このとき南畝は大坂に居たことも確かめられるのです。

 僕が原在明という画家にはじめて興味を覚えたのは、昭和45年(1970114日、日本橋・三越本店7階ギャラリーで開催されていた「京都御所・桂離宮展」で、その筆になるカルタ(霊鑑寺門跡蔵)を見たときでした。魚をモチーフにした絵10枚、詞10枚からなるカルタで、父在中の動物絵10枚、詞10枚からなるカルタとセットになっていました。障屏画家と思っていた在中に、このような遊戯的作品があることに驚くとともに、在明の的確な画技に心惹かれるものがありました。


2022年3月10日木曜日

原在明のネコ絵6

 

万里集九が賛詩を加えたというこの作品が、中国画か日本画かは不明だとしても、五山文学を代表する詩僧は、その吉祥性をよく理解していたにちがいありません。そのことは『國華』解説に書きましたが、万里の詩を引用する紙数はありませんでした。

しかし、すごくいいネコ詩です。スキップして次の月岡芳年私論にいくのは忍びなく、またまたマイ戯訳で紹介することにしましょう。万里集九はネコ好き禅僧だったらしく、もちろんネコを飼っていました。その「猫賛」という七言詩も忘れられないものがありますので、これも続けてマイ戯訳で……。

2022年3月9日水曜日

原在明のネコ絵5

 

その後、何点か原在明の作品を見る機会がありましたが、この「朝顔に双猫図」を凌駕するものはなかったように思います。

  ヤジ「それはオマエがネコ好きだからだろう!! いや、静嘉堂文庫美術館のディレク

ターをやっているからじゃないのか!!

先に、ネコ+蝶が長寿延命を寓意する、中国のお目出度い画題であることをアップしました。早くこの画題がわが国へ入っていたことは、室町時代の禅宗詩僧・万里集九が吟じた詩を集める『梅花無尽蔵』に、七言絶句「猫児双蝶図」が収録されることによって確認されます。

2022年3月8日火曜日

原在明のネコ絵4

 

画面上部には、文化2年(1805112日と推定される大田南畝の賛が加えられています。この日は朔旦冬至さくたんとうじの翌日でした。朔旦冬至というのは、陰暦の111日がちょうど冬至に当たる日のことで、19年に一度しか巡ってこないお目出度い日だそうです。

文化2年が朔旦冬至であったかどうか確証は得られないのですが、19年前の天明6年(1786)は確かに朔旦冬至だったので、文化2年が天文学上の朔旦冬至であったことはほぼ確実だと思われます。平成26年(2014)が朔旦冬至の年であったことは記憶に新しいところですが、これから逆算しても文化2年が朔旦冬至の年となるからです。もう僕には関係ありませんが、次の朔旦冬至は2033年のはずです。

2022年3月7日月曜日

原在明のネコ絵3

 

在明はネコに蝶を添えています。これは中国語のネコと耄の発音が同じ「マオ」、蝶と耋が同じ「ディエ」であることを利用して、延命長寿を寓意させた、中国の吉祥的画題です。耄も耋も老人を意味する漢字――今でいえば後期高齢者を意味する漢字です(!?)「朝顔に双猫図」に、このような中国吉祥画の寓意性が流れ込んでいることは、否定できない事実です。

しかし、ごく限られた人しか唐話、つまり中国語会話ができなかった当時、それを理解した上でみんなが鑑賞したかどうかについては、慎重であるべきでしょう。たとえ在明は知っていたとしても、多くの鑑賞者はただ可愛いネコの絵として眺めていたのではないでしょうか。この2匹の愛くるしいネコを見ていると、そんな気がしてくるんです。


2022年3月6日日曜日

原在明のネコ絵2

 

原派は原在中が開いた京都画派の一つで、岸派などとともに、円山四条派を中心とする京都画壇の一翼を担いました。長男の在正が、なぜか父在中の勘気に触れて別居したため、在明がその跡を継ぐことになったそうです。画技は父在中から学び、宮廷や公家社会を中心に活躍しました。花鳥図や有職図などの画題をもっとも得意としました。

可愛らしいネコのフォルムと毛描きには、当時人気を集めていた写生風が強く打ち出されています。その平明な画風は、成熟した京都市民社会をよく反映しているように思います。ネコは在明が得意とする画題であったらしく、寛政8(1796)秋の東山新書画展観に「猫図」が出品されています。画家が覇を競う東山新書画展にネコ絵を出品した在明にとって、自負するところ大なるモチーフであったにちがいありません。

2022年3月5日土曜日

原在明のネコ絵1


 原在明筆「朝顔に双猫図」(『國華』1514号)

 『國華』1514号に原在明の傑作「朝顔に双猫図」を紹介しました。ネコブームに便乗し、『國華』の売れ行きを少しでもよくしようなんて、スケベ根性を出したわけじゃ~ありませんよ( ´艸`)

この作品は、20206月末から静嘉堂文庫美術館で開催した「美の競演 静嘉堂の名宝」に初めて出陳されました。ということは、つまり静嘉堂文庫美術館コレクションなんです。これを見たネコ好き館長が感動しないはずもありません。さっそく館長おしゃべりトークで取り上げ、マイベストテンに選んだという次第です。筆者の原在明(1781?1844)は原在中の次男にして、原派の2代目です。

2022年3月4日金曜日

下川裕治『12万円で世界を歩く』7



 この「饒舌館長」を見た遠藤湖舟さんから、さっそくコメントが寄せられました。湖舟さんはいま活躍中のすごくいい写真家で、何回か「饒舌館長」にも個展の印象記をアップしたことがあるように思います。

湖舟さんと下川さんは松本深志高校の同期で、今も交流が続いているとのこと、この世は狭いものだと驚きました。いつか機会があったら、ぜひ紹介してくださいと湖舟さんにお願いすると、さっそく連絡をとってくれたらしく、いま下川さんはカンボジアに居るというレスポンスがありました。

 売れっ子旅行作家になった下川さんは、豪華なカンボジア旅行を楽しんでいるのでしょうか? しかし『下川裕治の豪華カンボジア旅行』なんて、だれも読まないかな?――失礼致しました!! 

2022年3月3日木曜日

下川裕治『12万円で世界を歩く』6

先の『週刊朝日』<創刊100周年!>増大号によると、下川さんは最近『12万円で世界を歩くリターンズ タイ・北極圏・長江・サハリン編』を出されたとのことです。『12万円で世界を歩く』の「文庫版あとがき」に、「僕はもう42歳なのだが」と書いていらっしゃいますから、現在67歳のはずです。

ますます元気にハードなお仕事を続けられていることを知って、こんなうれしいことはなく、また尊敬の念もいや増したのでした。下川さんは『週刊朝日』増大号のインタビュー記事を、つぎのように〆ています。

僕が12万円の旅をしたころからメディアの状況は、大きく変わってしまいました。今の状況をしっかり取り入れ、多くの人に読まれる週刊朝日をこれからも期待しています。

 しかし下川兄、同じ朝日でも「多くの人に読まれる國華」はチョット無理かな?() 

2022年3月2日水曜日

下川裕治『12万円で世界を歩く』5

 

当初、このシリーズでは明細書を掲載しなかった。しかし、読者からの、「本当に12万円で?」という疑惑を晴らすために、くわしい明細書をつくった。すると読者から、「3日目にコーヒーを飲んでいるでしょ。あれは甘いと思う」などという電話が入ってくる。これには相手が読者といえども頭にきた。

人気貧乏旅行作家となった下川さんは、そのあと徳間書店から次々と貧乏旅行記を発表しました。下川ファンになったとはいえ、僕が持っているのは『アジア赤貧旅行』と、編著の『アジア辺境紀行』(ともに徳間文庫)だけですが……。今『12万円で世界を歩く』と一緒に書庫から引っ張り出してきて、懐かしくページを繰っているところです。

2022年3月1日火曜日

下川裕治『12万円で世界を歩く』4

 

1989年春、北京日本学研究センターへ講師として出かけたとき、ひまな時間を利用してずいぶん旅行をしました。これまでも結構アップしたと思いますが……。中国人民の生活を知りたくて、彼らと一緒に硬座に乗り、一緒に屋台で食べ、一緒に招待所に泊まりましたが、その勇気を与えてくれたのは下川さんの「12万円で世界を歩く」でした。

もしこれを知らなかったら、外人向けの旅行社CITSですべてを手配してもらい、外匯ワイホイの札びらをこれ見よがしに切り、通り一遍の中国を知っただけで帰国したことでしょう。そのあと下川さんは、これを単行本にまとめて朝日新聞社から出版しました。僕が持っているのは、1997年の朝日文庫本の方ですが……。下川さんは「あとがき」に、愉快な後日談を書いています。

出光美術館「トプカプ・出光競演展」2

  一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。  日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して 100 周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮...