2018年11月30日金曜日

鹿島美術財団講演会「グローバル時代の東西」8


畏友・有賀祥隆さんと大高保二郎さんが加わった総合討議も、たいへん熱気を帯びたものでした。それを聞きながら、近世近代におけるインド回帰の系譜も僕の頭を過ぎったことでした。たとえば、富永仲基に始まる大乗非仏説や岡倉天心の『日本の覚醒』、天心に指導された日本美術院の画家たちです。

また、ハインリッヒ・ヴェルフリンが『美術史の基礎概念』でいうように、バロックには開かれた様式という性格があって、それゆえにこそ世界で受け入れられ易かったのではないかという大高さんの指摘も、<目から鱗>でした。かつて「桃山バロック論」なる独断と偏見を書いたことがある僕ですが、そのときこの指摘を聞いていれば、もうちょっと厚みのあるエッセーになったんじゃないかなぁ(!?)




2018年11月29日木曜日

鹿島美術財団講演会「グローバル時代の東西」7


いずれにせよ、東大寺南大門とそこに安置される金剛力士像が、ともにその後ほとんど受け継がれなかったという事実は実に興味深く、そこには日本美術の秘密が隠されているようにも感じられるのです。

小林さんの発表でもっともおもしろいと思ったのは、17世紀から18世紀にかけて活躍したスペイン植民地時代のメキシコ人画家であるクリストバル・デ・ビリャルパンドの作品でした。そこには、マニエリスム様式とバロック様式が併存しているからです。

それは中国文化を学んだ日本文化のなかに、中国の時代相を異にする文化が併存していることを思い出させてくれます。

たとえば、南宋の文化である抹茶と、明の文化である煎茶がともに我が国で愛好されているように……。古い言葉は中央で消滅しても、その周辺に長く残存するという、柳田國男が『蝸牛考』で主張した定理は、やはり本当だったんだと思いながら、僕は耳を傾けていました。

2018年11月28日水曜日

鹿島美術財団講演会「グローバル時代の東西」6


それはきわめて合理的構造であり、「鉄骨建築を思わせる構造美」とたたえられるゆえんです。益荒男的構造だといってもよいでしょう。それは金剛力士像の造形と表裏一体をなしているといっても、過言じゃありません。

しかしこれまた興味深いことに、このような天竺様建築は、我が国においてほとんど継承されませんでした。ここには美意識の問題があったんだと思います。あまりに合理的で、あまりに力強く、あまりに益荒男的であった天竺様建築は、日本人の美意識とちょっと合わないものでした。

彫刻や絵画より、人間生活に密着する美術である建築の場合、生活様式や生活環境の問題も考えなければなりませんが、やはり美意識を無視することは許されないでしょう。なぜなら、生活様式や生活環境と美意識は、分かちがたく結びついているからです。

2018年11月27日火曜日

鹿島美術財団講演会「グローバル時代の東西」5


その前に立つ誰しもが、その勇姿に深く心を動かされるところです。それは金剛力士像の美意識と、何とよく呼応していることでしょうか。

ところで、このような東大寺南大門の力動感は、その非常に合理的な建築様式によって生み出されているのです。外観は二重ですが、柱はすべて上まで伸び、下層の屋根は指し掛けとして造られているにすぎません。太い柱に太い貫「ぬき」を数多くがっしりと通し、挿肘木[さしひじき]で六手先[むてさき]まで斗栱を強化して大きな屋根を支えています。

軒は単純な一軒[ひとのき]とし、隅扇垂木[すみおうぎだるき]にしています。日本人が好む目に美しい平行垂木に比べて、扇垂木の方が構造的に強く、合理的であることは、改めて指摘するまでもありません。金剛力士の間に立って上を見上げれば、天井などという構造本体と無関係な装飾はなく、はるか上方に基本構造の一つである大虹梁までが見通せます。

2018年11月26日月曜日

鹿島美術財団講演会「グローバル時代の東西」4


そしてこの手弱女的美意識が、我が国美意識の基底をなしており、それがほとんどDNAとなっていることについては、すでにマイブログ「饒舌館長」でも重ねて指摘したとおりです。東大寺南大門金剛力士像の型が孤立的であり、ほとんど継承されなかった理由として、やはりこのような様式、あるいは美意識の問題を考えてみたい誘惑に駆られるのです。

すると話はさらに広がります。その金剛力士像を収容するというか、護っているというか、ともかくも東大寺南大門の建築様式が、金剛力士像と軌を一にしているからです。大仏様とか天竺様とか呼ばれる東大寺南大門は、きわめて力強くエネルギーに満ち、堂々と文字通り仁王立ちのように立ち上がって天を摩し、益荒男的迫力をもって感動を呼び起こしてくれます。

2018年11月25日日曜日

鹿島美術財団講演会「グローバル時代の東西」3


東大寺南大門型金剛力士像の中世にさかのぼる遺品は、京都・万寿寺像や三重・府南寺像程度にすぎないとのことです。また、運慶一門は、歴史上著名な東寺南大門金剛力士像に、我が国で一般的な金剛力士像の型を採用した可能性が高いそうです。つまり、東大寺南大門金剛力士像型は、その後ほとんど継承されなかったのです。

これは実におもしろい事実だと思いました。根立さんは型に注目しましたが、様式的に見た場合も、東大寺南大門金剛力士像はきわめて特殊な像であるといってよいと思います。それは力強くエネルギーに満ち、きわめて合理的な造形によって支えられています。

一言でいって、益荒男的美意識そのものなのです。このような益荒男的美意識は、エレガントで優しく、たとえ若干不合理であったとしても、それを感情によって補いながら観賞する手弱女的美意識の対極に位置するものでした。

2018年11月24日土曜日

鹿島美術財団講演会「グローバル時代の東西」2


そのあと総合討議に移りましたが、最後に高階さんから一言求められた僕は、またまた以下のような独断と偏見をしゃべってしまいました。

根立さんの発表は、平安時代半ば以降の「三国」という世界観の高まりに加え、東大寺再興という特殊の場によってなされた仏教の始原への回帰を目指す動きが、東大寺南大門金剛力士像の特殊な像様や型、配置を生み出したことを実証したものでした。

その特殊性とは、一般的に阿形は向かって右側に、吽形は左側に置かれるのに対し、東大寺南大門では、反対になっている点に求められます。しかも通常は、両者が正面を向いているのにたいし、東大寺南街門では、両者がにらみ合うように配置されているのです。

2018年11月23日金曜日

鹿島美術財団講演会「グローバル時代の東西」1


鹿島美術財団東京美術講演会「グローバル時代の東西」(105日)

 鹿島美術財団では毎年秋に、赤坂の鹿島建設KIビルで美術講演会を行なっています。一昨年開かれた「美術と文字」を総合テーマとする美術講演会で、僕が日本美術の場合について発表を行なったことは、すでにアップしたとおりですが、今年の総合テーマは「グローバル時代の東西」です。

総合司会の高階秀爾さんの趣旨説明のあと、京都大学の根立研介さんが「東大寺南大門金剛力士像をめぐるグローバリズム――日本・中国・そしてインドへ――」、目白大学の小林頼子さんが「東西美術の邂逅と変容――フェルメールを起点に――」と題して講演を行ないました。

それぞれ大きな視点から問題をとらえ、とても刺激に満ちる内容でした。こういう講演会では――とくに最近は後期高齢者になったせいか、講話が子守唄のように聞こえてきて、至福のひと時にひたることも少なくないのですが、今回は初めから終りまで、ノートをとりながら熱心に耳を傾けたことでした。

2018年11月22日木曜日

東京国立博物館「斉白石」5


 こんな風にいつものごとく戯訳をつけてみましたが、「年々春至願春留 春去無声只合愁 夫婿封侯倘無分 閨中少婦豈忘羞」という七言詩の意味が正しくとらえられているかどうか、自信がありません。しかし、この詩が長い伝統をもつ閨怨詩の系譜に連なる、近代のみごとな閨怨詩であることは確かだと思います。

とくに僕が思い出すのは、やはり盛唐の詩人・王昌齢の「閨怨」ですが、斉白石もこれからインスピレーションを得たのではないでしょうか。これまた戯訳で掲げておくことにしましょう。

  日を送る閨[ねや]――若き妻 とくに心配事もなく…… 

 春の一日化粧して 青き高殿 登りたり

 路傍の柳ふと見れば 芽吹いているよ 青々と

 出世のため夫[]を戦場に 送りしことが悔やまれる 

2018年11月21日水曜日

東京国立博物館「斉白石」4


これは、友人が私に王夢白の画を模写させたものであるが、やや変化を加えているので、見る人が見れば、王夢白と私の二作品を比べることができ、どちらがよいかわかるだろう。老人というのは、人の望みにかなうよう、求められると応じてしまうものだ。

 ここに登場する王夢白とは、斉白石の弟子・王雲のことだそうですが、じつに愉快な款記ですね。斉白石の画にユーモアがあることはすでに指摘されるところですが、それが言葉として表現されているといってもよいでしょう。続いて賛詩を紹介しましょう。  

  毎年春が来るたびに 「春よ!往くな!」と祈るけど

  音も立てずに春往けば メッチャ愁いが募るだけ

  諸侯の夫[つま]が相応の 手柄挙げられなかったら

  うら若き妻 閨[ねや]にいて そを恥ずかしく思うだろう
 

2018年11月20日火曜日

東京国立博物館「斉白石」3



このように考えてくると、どうも「せいはくせき」の方が正しいようですが、長い間ずっと「さいはくせき」と呼んできたわけですから、それに従った方がいいのではないかというのが僕的見解です。


「エル・グレコ」が間違いだからといって、「ドメニコス・テオトコプーロス」といったのでは、専門家のほか誰にも分かりません(!?) どうしても「せいはくせき」にすべきだというのなら、むしろ「チーバイシー」と、中国読みにしてしまった方がスッキリするのではないでしょうか。

 さて「僕の一点」は「執扇仕女図」です。今回展示されている作品は、すべて北京画院のコレクションですが、「執扇仕女図」も例外ではありません。扇子を手に、後ろ向きに立つ仕女――女性の召使いをとらえており、そのムーブマン豊かな衣紋線に魅了されます。画面左上には賛詩と款記がありますが、まず、立派なカタログに載る款記の日本語訳をそのまま引用しておくことにしましょう。




2018年11月19日月曜日

東京国立博物館「斉白石」2


その後、中国や台湾、香港で斉白石の作品に触れる機会は何回かありましたが、これだけまとめて見るのは、もちろん初めての経験、改めて斉白石の豊饒な美的世界に深く心を動かされました。

 これまで一般に「斉白石」を「さいはくせき」と読んできましたし、『新潮世界美術辞典』でも「さいはくせき」で立項しています。もちろん僕も、「さいはくせき」で辞書登録していますが、この特別企画展では「せいはくせき」とルビをふっています。おかしいなぁと思って、『諸橋大漢和辞典』を引いてみました。

「斉」には「せい」と「さい」という二つの発音がありますが、ほとんどすべての熟語や固有名詞は「せい」です。「さい」は「斉戒」くらいしかなく、「斎戒」に同じとありますから、この読みを転用したのではないでしょうか。あるいは、日本の家名「斉藤」からの類推で、「さいはくせき」と読むようになったのかもしれません。ちなみに、現代中国語において「斉」は「qi」、「斎」は「zhai」で、まったく異なる発音です。

2018年11月18日日曜日

東京国立博物館「斉白石」1


東京国立博物館「日中平和友好条約締結40周年記念特別企画 中国近代絵画の巨匠 斉白石」<1225日まで>(1116日)

 



斉白石――すばらしい中国の近代画家ですね。はじめて僕が「いい画家だなぁ」と思ったのは、山形県寒河江市のT家で、「蝦図」と「雛鶏図」を見たときでした。東北大学で教鞭をとっていた辻惟雄さんが、「江戸時代絵画における中国画の影響」と題する科学研究費補助金を得て研究チームを立ち上げたとき、僕もメンバーに誘ってくれました。その調査旅行でT家をお訪ねした時のことです。


調査カードを引っ張り出してみると、みんなでT家をお訪ねしたのは昭和47年(19721120日、46年も前のことになります。ものすごく寒い日でした。もっとも11月中旬といえば、寒河江では当たり前なのかもしれませんが……。


T家では、文人画を中心にたくさんの優品を拝見しましたが、この2幅はとくに印象深い作品でした。ちょっと黄色くなっているカードには、「斉白石の画は余り見たことがないが、この二点は実に素晴らしい作品なり」などと書いてあります。そのころは僕も真面目だったらしく、最近は省略してしまう縦横の寸法まで、「136.2×33.5」「66.7× 33.2」としっかり記入しているじゃーありませんか()

2018年11月17日土曜日

出光美術館・与謝蕪村筆「夜色楼台図」


出光美術館・与謝蕪村筆「夜色楼台図」<1118日まで>(1116日)

 いま出光美術館では、江戸時代絵画の<雅>と<俗>に焦点をしぼって、「江戸絵画の文雅」<1216日まで>と題するオススメの企画展が開催されています。これに錦上花を添えているのが、先年国宝に指定され、改めて話題を集めた与謝蕪村の「夜色楼台図」です。その前に立ってじっと観賞すれば、日本絵画の本質が、たちどころに理解されてしまうのです。

雪景という感傷的主題、その叙情的にして象徴的な表現性、造形と文学のあえかな交響など、日本美術のエッセンスが、この一幅にすべて抜かりなく詰め込まれているといって過言じゃありません。

しかし、そのコレクターから許された特別出品はわずかに2週間、つまり18日(日)までの残り2日間です。皆さん、図版ではお馴染みでしょうが、何が何でも本物を見なくては、日本絵画を、いや、日本美術を、いやいや、日本文化を語ることができなくなってしまいますよ!! 

いま僕は、「行路の画家蕪村」の続編を『國華』に寄稿すべく書き進めているところです。しかし静嘉堂文庫美術館の仕事が忙しく、その他のおしゃべりトークなどもあり、さらに盲腸炎の後遺症や風邪で調子もイマイチのため、なかなか筆が進みません。

しかし今日会場で「夜色楼台図」をじっとながめていると、どこからか「そんなのみんな口実だろう。後期高齢者とはいえ、老躯に鞭打ってもうちょっと頑張れ!!」という蕪村の叱声が聞こえたような気がしたのでした(!?)

京都国立博物館「京の刀」13


このような日本の城の石垣に示される特有な造形は、ほんの一例に過ぎないが、これによっても、日本の意匠の美しさは、直線的構成の外に、曲線的構成にも特有のものがあることがわかる。それは日本の環境、風土、材料、構造などに関連すると同時に、私たちの造形的好み、或いは美意識に密接な関係を持つものと信ずる。本稿は、そのような日本の建築における曲線的な意匠を問題として、それを西洋や中国の造形と対比しながら、その造形的特性を明らかにしたいというのが目的である。

 先生はこの目的に沿って多くの実例を示しながら論証をすすめ、ある時は自由なイマジネーションの飛翔を楽しむがごとくに試みています。

以下、「前方後円墳とピラミッド」「軒の『そり』とその源流」「軒の『そり』の起源と竹構造」「軒の『そり』とテント起源説」「家形ハニワと軒の『そり』」「『そり』の意匠的表現」「平安時代の屋根の『そり』」と続いて、最後に「書と軒の曲線」をもって終わります。日本美術の特質や素性を考える際にも、必ず参照しなければならない名論文だと思います。


2018年11月16日金曜日

京都国立博物館「京の刀」12


 その「おもてなし」展をアップしたときも言及しましたが、この問題を考えるとき必ず読まなければならないのは、谷口吉郎先生の『日本建築の曲線的意匠・序説』<日本文化研究8>(新潮社 1960年)という論考です。その時はただ先生のお名前をあげただけでしたが……。確認はしていませんが、『谷口吉郎著作集』にも収められているにちがいないと思います。

僕が持っているのは50ページほどのA5版、小冊子にちかい本ですが、その内容はじつに示唆的です。まず先生は、「直線と曲線の建築意匠」と題して第一章とし、この問題の在りかを明らかにしています。そして、この間の熊本大地震で被害を受けた熊本城の石垣を取り上げて考察し、この論考の目的を次のようにまとめています。
 
  高級な整然とした石積みの意匠は、むしろ日本では古代の建築に多い。法隆寺の金堂や五重塔は、七世紀の古い建築であるが、規則正しい二段の石壇の上に建っている。それは中国の城壁の如く、外壁面は直線的で丸味を持たない。これは飛鳥時代の造形感覚で、中国の影響によるものであった。 

2018年11月15日木曜日

京都国立博物館「京の刀」11


ところが中国刀にも、「反り」をもつものがあるのですが、その「反り」は日本刀の「反り」とかなり違っています。日本刀に比べると、もっと強く反っているのです。僕は日本建築における軒の微妙な反りと、中国建築における軒の強い反りを思い出しながら、両者を見比べていました。

もっとも、日本刀の微妙な反りとよく似た反りをもつ中国刀もありましたが、中国刀はより一層力強く、日本刀の鋭いけれどもちょっと華奢な感じがないのです。柳葉刀と同じく、重さで叩き切るといった武器本来の猛々しさがそのままにあらわれているみたいなんです。やはり、益荒男振りと手弱女ぶりの違いがあるんじゃないかなぁと思われたことでした。

2018年11月14日水曜日

京都国立博物館「京の刀」10


 以下は、今回書き加えた補足です。去年夏、台南の奇美美術館で「おもてなし 宴のうつわ・茶のうつわ 静嘉堂蔵日本陶磁名品展」を開催いたしました。すでに「饒舌館長」にアップしたところです。その奇美美術館コレクションの一つに武器あり、その兵器ホールには世界各地の武器が展示されていて、とても興味深く感じたのです。

日本刀も15振ほど展示されていて、その美しい「反り」に改めて見入ってしまいましたが、もちろん中国刀もたくさん陳列されていて、容易に比較することができるのです。日本でいえば槍にちかい青龍偃月刀――俗にいう青龍刀のほか、柳葉刀(Liuyedao)がたくさん展示されていました。

柳葉刀というのは、現在中国で行われている剣舞や剣をもって行なう太極拳でも一般的に用いられるもので、もっともポピュラーな中国刀です。もちろん柳の葉に似ているところから、柳葉刀と名づけられたのでしょう。これは刃の方がカーブしていますが、ミネの方はほぼストレートです。つまり「反り」とはいえません。

2018年11月13日火曜日

京都国立博物館「京の刀」9


多くの匠[たくみ]や農民が ともに残留したために

今に至るも日本の 器物工芸みな精巧

唐の時代にゃ貢物 持ってしばしば遣ってきた

地位ある人はほとんどが 詩も文章も巧みなり

徐福が日本へ行ったのは 焚書坑儒がやられる前

だから本土にゃない『書経』 百篇そろって遺るはず

こちらじゃ所持さえ厳禁で 伝えることも許されず

ゆえに蝌蚪文字[かともじ]読める人 一人もおらず中国に

孔子が編んだ聖典を 持っているのは異民族

♪海は広いな 大きいな♪ その港にも近づけぬ

それを思うと胸痛み 涙こぼれる ひとりでに

錆びちゃう短刀そんなもん 比べられるか!! 聖典と 

2018年11月12日月曜日

京都国立博物館「京の刀」8



西のえびすの昆吾国[こんごこく] はるかに遠く行けやせぬ

玉さえ切れるその名刀 見た人はゼロ 噂だけ

ところが最近日本の すごい宝刀現れた

越の商人[あきんど]買ったのは あおうなばらの東の地

香りよき木でできた鞘[さや] それに鮫皮[さめがわ]貼ってある

黄金[こがね]の真鍮 銀白の 銅のKAZARIがみごとなり

大金払った好事家の 大コレクションに加わった

これを差してりゃ凶運も 妖怪さえも逃げていく

大きな島国 土地は肥え 風俗すぐれていると聞く

秦の徐福は人たらし 日本へたくさん連れってた

仙薬探して全国を…… やがて子供も老人に……

2018年11月11日日曜日

京都国立博物館「京の刀」7


欧陽脩は唐宋八大家の一人、仁宗・英宗・神宗の三代に仕えた政治家であり、また学者にして詩人でした。先日アップしたように、最近書いた拙文「田能村竹田の勝利」では、竹田が王安石の新法に反対した蘇東坡を尊敬し、みずからをなぞらえようとしていたのではないかという仮説を提出しました。おもしろいことに、新法党の王安石も、これに反対する旧法党の蘇東坡も、ともに欧陽脩のお弟子さんでした。

欧陽脩はさすが文人士大夫、中国では失われてしまった孔子の『書経』が日本には伝わっているにちがいないと、羨望のまなざしを向けています。日本刀はそのマクラとして引き合いに出されるだけですが、当時、中国でも日本刀がとても高く評価されていたことが分かります。もっとも、日本刀がすぐれているのは、中国から渡った人々が作り始めたからだというところ、「欧陽脩よ お前もか!?」という感じで、ちょっと微笑を誘いますが……。

2018年11月10日土曜日

京都国立博物館「京の刀」6


しかし、完成された日本刀は、そのような高度な技術や複雑な工程を微塵も感じされることなく、あくまで端整であり、清純であり、そして簡潔なのです。だからこそ、日本刀は日本文化のシンボリックな存在として、燦然たる光輝を放ち続けてきました。そして日本文化再評価という世界的潮流の中で、これからますます光り輝くことになるでしょう。

ここで普通なら「僕の一点」といきたいところですが、たとえば目玉ともいうべき国宝「手掻包永[てがいかねなが]」を取り上げて、独自の見解を開陳するというのは、さすがの「おしゃべり館長」の手にも余る仕事です。

仕方がないので、中国・北宋の欧陽脩(10071072)の「日本刀の歌」を、岩波版『中国名詩選』から、例のごとく僕の戯訳で紹介することにしましょう。

2018年11月9日金曜日

京都国立博物館「京の刀」5


 日本美の特質を一言で表現するならば、簡潔性に尽きる、英語を使うならばシンプリシティーに尽きるというのが私見です。簡素にして潔いのです。単純にして清潔なのです。そして看過できないのは、どんなに複雑な様式や構成や技術でも、簡潔に見せることを尊ぶ美意識が生まれたことです。これをも含めて、日本美術の簡潔性と私は呼びたいのです。

もしこれが認められるならば、日本刀こそ凝縮された簡潔性そのものだといってよいでしょう。そのフォルムはきわめて簡潔です。それを中国の青龍刀と比べてみれば、説明の要はないでしょう。

しかしそれを鍛え上げる技術は、これまたきわめて複雑であり、その痕跡が刃文や鍛え、映り、匂い、沸<にえ>となって、日本刀の見所になっています。その技術習得はたいへん難しく、何十年もかかるといいます。

2018年11月8日木曜日

京都国立博物館「京の刀」4


日本刀は王朝文化のなかで完成されたといってもよいでしょう。実に興味深いことです。そして重要なことは、その微妙なカーブを美しいと感じる美意識が醸成されていった事実です。おそらく両者は因果の関係に結ばれているのでしょう。

 私は日本刀のカーブが、平仮名の美しいカーブと共鳴していることを、大変興味深く感じます。中国の直刀が漢字であるとすれば、日本刀は平仮名なのです。前者が益荒男ぶりであるとすれば、後者は手弱女ぶりだといってもよいでしょう。

本来、律令官僚や公卿、武士[もののふ]が、つまり男性が身につけた武具を手弱女ぶりだというのは矛盾ですが、どうしても私にはそう感じられてしまうのです。

現代の手弱女たちが日本刀に興味をもち、それを愛するようになっている現象は、何と愉快なことでしょうか。それはともかく、日本美術を際立たせる美として「反り」があることは、近現代日本を代表する名建築家・谷口吉郎が早く指摘するとおりなのです。

2018年11月7日水曜日

京都国立博物館「京の刀」3


しかし、平安時代以降わが国で創り出された日本刀――この特別展で鑑賞いただくような日本刀は、すでに日本独自の美に昇華されているといって過言ではないでしょう。

 中国の刀は本来直刀でした。その強い影響を受けたわが古墳時代や正倉院御物の刀が直刀であるのは、不思議でも何でもありません。しかし平安時代を迎えると、徐々に日本刀は反り、つまり微妙なカーブを身に帯びるようになり、彎刀が誕生します。

それはきわめて高度な折り返し鍛錬法の技術が生み出す自然の美であったように思われます。あるいは騎馬戦が行われるようになった戦法の変化とも無関係ではないでしょう。 現在私たちが日本刀と聞くと、あの微妙な反りをまず思い浮かべますが、それを特徴とするフォルムが完成したのは、平安時代後期のことでした。まさに国風文化の時代でした。

2018年11月6日火曜日

京都国立博物館「京の刀」2


 僕が日本刀を見るとき、もっとも興味を感じるのは、その美しい反りです。それについては、去年新春、わが静嘉堂文庫美術館で開催した「超日本刀入門」の紹介を、旧「K11111のブログ」にアップしたときに書きました。これを再録いたしますので、すでにお読みになった方はスルーしていただいて結構です。ただ最後に、ちょっと補足を加えたいと思っていますが……。

岩崎弥之助は三菱の創立者・岩崎弥太郎の弟です。この「超・日本刀入門」のサブタイトルに「明治のサムライ実業家、秘蔵のコレクション」と謳ったのは、この岩崎家が土佐藩主・山内家の武士だったからです。

 日本刀は日本独自の武具です。世界に誇るべき美術であり、工芸です。もちろん、その源泉は中国に求めることができます。日本美術のオリジンは、多く中国に発するのですが、日本刀も例外ではありません。

2018年11月5日月曜日

京都国立博物館「京の刀」1


京都国立美術館「京[みやこ]の刀 匠のわざと雅のこころ」<1125日まで>(111日)

「古典の日フォーラム2018」の111日、午前中はフリーだったので、話題の京都国立美術館・京の刀展へ出かけました。到着したのは開館時間をちょっと過ぎたころでしたが、まず表門で行列、平成知新館入り口で行列、中に入って行列、エレベーターのところで行列――うわさに違わぬ人気です。展覧会の趣旨を、招待状から引用しておきましょう。

王城の地・京都では、平安時代から現在にいたるまで、多くの刀工が工房を構え、あまたの名刀を生み出してきました。これら京都で制作された刀剣は、常に日本刀最上位の格式を誇り、公家、武家を問わず珍重され、とりわけ江戸時代以降は武家の表道具として、大名間の贈答品の代表として取り扱われました。本店では、現存する京都=山城系鍛冶の作品のうち、国宝指定作品17件と、著名刀工の代表作を中心に展示し、平安時代から平成にいたる山城鍛冶の技術系譜と、刀剣文化に与えた影響を探ります。


2018年11月4日日曜日

京都劇場「古典の日フォーラム2018」


京都劇場「古典の日フォーラム2018」(111日)

111日は「古典の日」――今年は京都劇場でこれを祝うフォーラムが開催されることになりました。フォーラムのメインは池澤夏樹さんの講演「恋とあはれみ――古典に見る日本人の心」と、小説家・角田光代さんと元NHKアナウンサー・三宅民夫さんの対談「今、『源氏物語』を訳して」です。

この講演と対談のつなぎに、静嘉堂文庫美術館が誇る「関屋澪標図屏風」について、僕が解説することになりました。というのは、このたびDNPさんが作ってくれたすばらしい原寸複製が、今日ここでお披露目されることになったからです。

ところが許された時間はたったの10分です。「琳派四百年記念祭」でお世話になった山本壮太さんが今回もプロデューサーをつとめているわけですから、僕がおしゃべり館長であることはよく知っているはずなのに!! しかし人気作家、いや、現代日本を代表する知性であり、いつも朝日新聞でエッセーを愛読させてもらっている池澤夏樹さんの公演時間が50分なんです。10分でも大サービスだとみずからを納得させたことでした( ´艸`)

その「琳派四百年記念祭」の話から始めたところ、アシスタントの女性が「終了です」というボードを舞台の下で掲げた時は、まだ半分もしゃべっていませんでした(!?)


2018年11月3日土曜日

静岡県立美術館「幕末狩野派展」5


描表装というと、江戸琳派の場合がよく知られていますが、絵画性の強い鈴木其一などより、表装裂のように描いてしまう涅槃図の場合が思い出されて、興味尽きないものがありました。涅槃図の描表装には、釈迦に対する尊崇の念が込められていたにちがいありませんが、栄信の「桃鳩図」では徽宗に対するオマージュの気持ちであったかもしれません。

あるいは、現代のトリックアートに通じる、幕末の遊戯的美意識の方を重視すべきでしょうか? しかし「僕の一点」に選んだのは、こんな美術史的問題のためじゃなく、これなら我が家の壁に掛けて、一杯やるときに楽しめるからです。狩野一信の「五百羅漢図」じゃ我が家の壁に掛かりませんし、たとえ掛ったとしても、悪酔いしちゃうかも()

2018年11月2日金曜日

静岡県立美術館「幕末狩野派展」4


もっとも、写しとか模本とかいうと、意味がかなり拡散してしまいますし、コピーというといよいよキヤノンになっちゃいますから、やはり「複製作品」という言葉を定着させるのがベターでしょうか。

それはともかく、栄信筆「桃鳩図」の見所は、原本と見紛う本紙――絵の部分はもとより、その表装にあります。天地、中廻し、一文字、すべてを栄信が描いちゃっているんです。いわゆる描表装です。どう見たって、表装裂つまり織物にしか見えません。栄信も誇って、「装潢絹色一筆模之伊川法眼藤原栄信」と箱書きを施しているそうです。もちろん実際は、弟子がやったのでしょうが……。

2018年11月1日木曜日

静岡県立美術館「幕末狩野派展」3


もっとも印象深かったのは、晴川養信の「仙境・簫史・弄玉図」三幅対でした。のちにこの傑作は、東京国立博物館で開催された特別展「ボストン美術館 日本美術の至宝」で公開されましたので、ご覧になった方もいらっしゃるでしょう。

野田麻美さんは、幕末狩野派の豊かな絵画世界と美術史上のすぐれた意義に早くから気づき、着々と準備を進めてきました。そして明治維新150年という節目の年に、この特別展を開催することにしたのです。もちろん野田さんも、先の晴川養信に注目していますが、そのお父さんにあたる伊川栄信にも、すぐるとも劣らぬ関心を寄せています。

「僕の一点」は、栄信の「桃鳩図」(個人蔵)です。かの国宝に指定されて有名な徽宗筆「桃鳩図」の写しです。野田さんはこれを「複製作品」と呼んでいますが、かつて野田さんが美術史の仕事に就くため、その準備として数年勤めたキヤノンという感じもしないじゃありませんね()

出光美術館「トプカプ・出光競演展」2

  一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。  日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して 100 周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮...