2024年11月6日水曜日

追悼 高階秀爾先生5

 

中村幸彦先生の雅俗文化論にしたがえば、高階秀爾先生が雅文化の超人であったことは周知の事実であり、僕などが改めて言う必要もないでしょう。しかし先生は俗文化の超人でもありました。それを誕生させたのが、先に指摘した好奇心であったように思います。

ある委員会のあと開かれた会食の席で、画家の呼称について問題になったことがありました。僕の好きな画家の一人に、鮎描きとして有名な小泉檀山がいます。ところがそのころ号の「檀山」ではなく、名の「斐あやる」をもって呼ぶべきだという議論が起り、みんな小泉斐と言うようになりつつありました。

また以前から円山応挙おうきょは「マサタカ」、渡辺始興しこうは「モトオキ」と呼ぶべきだという意見もありました。しかし僕は反対でした。たとえそれが正しいとしても、古くからタンザン、オウキョ、シコウと読んできたんだから、もうそれでいいじゃないかという、いかにも「いい加減はよい加減」みたいなことを言ったんです。


2024年11月5日火曜日

追悼 高階秀爾先生4

 

代表的著作ともいうべき『名画を見る眼』から大きな影響を受けたことは言うまでもありませんが、日本の美術を専攻する僕にとっては、やはり『日本近代美術史論』なんです。それまで我が国近代絵画に興味はありながらも、これをどのように扱ってよいものやら、皆目見当がつきませんでした。しかし高階先生の『日本近代美術史論』が、決定的示唆を与えてくれたのです。

みずからの直感を大切にすること、しかし直感の正しさを証明するために既発表の論文を可能な限り精緻に読み込むこと、その上で証明のプロセスを明晰な日本語をもって客観的に記述すること――以上3つの重要性を『日本近代美術史論』が教えてくれたのです。

この高階メソッドを使って書けば楽勝だと思って、初めて書いた近代絵画史論が「高橋由一 江戸絵画史の視点から」(『三彩』512513 1990年)でした。これはのちに辻惟雄編『幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに』(ぺりかん社 1992年)に少し圧縮して載せてもらいましたが、鵜の真似をする烏はみごと水に溺れてしまったのでした。


2024年11月4日月曜日

追悼 高階秀爾先生3

 

その引き出しの中身が、引き出しを飛び出して渾然一体となり、知の有機体を形作っていることでした。引き出しのように見えたのは、僕らの眼が旧態依然とした学問の枠組みに規制されていたからでした。小さな箪笥の引き出しなんかじゃなく、有機体としての知が、一つの大きなクローゼットに入っていたんです。

そのような超人的仕事のなかから選ばせていただく「僕の一点」は、『日本近代美術史論』ですね。先生は参画された雑誌『季刊藝術』の創刊号(1967年)から10号まで連載した論文を単行本(1971年)にまとめられましたが、これが講談社文庫(1980年)に収められ、その後講談社学術文庫(1990年)となりました。

僕は単行本を所蔵していましたが、先生から講談社学術文庫版を頂戴したので、以後はもっぱらこれを使わせてもらっています。文庫版以後における重要な研究を加筆した「補注」も、きわめて有益だからです。



2024年11月3日日曜日

いきいきプラザ一番町「画技継承 森狙仙から森祖雪、さらに鎌田巌泉へ」

いきいきプラザ一番町「画技継承 森狙仙から森祖雪、さらに鎌田巌泉へ」 114日まで

 畏友・五十嵐雅哉さんのコレクション――通称「呑兵衛コレクション」の楽しい森派展です。森狙仙も愛する江戸時代画家の一人、僕の『國華』デビュー論文は950号(1972年)に載った「森狙仙研究序説」ですが、今回とくに興味を惹かれたのは、4点も出陳されている森祖雪でした。かのジョー・プライスさんも祖雪の猿をご所蔵で、拝見するたびにうまいなぁ、落款を隠されたら分からないじゃないかと思っていたからです。

小学館から出版された『ザ・プライスコレクション』(2006年)に言うまでもなく紹介されていて、解説者はチョッときびしい評価を下していますが、畏友・木村重圭さんが『日本美術工芸』506号論文で詳しく論じているとおり、なかなか力量のあるおもしろい画家だと改めて思いました。

 今回、鎌田巌泉(18441890)という狙仙の孫弟子をはじめて教えてもらいました。2点出陳されていますが、ともにすぐれた出来映えを誇っています。巌泉も先の木村論文で取り上げられていますが、最近では岩佐伸一さんが「『奥村房次郎像 鎌田巌泉筆』(大阪歴史博物館蔵)について」という論文を、同館の『研究紀要』21号(2023年)に発表しており、研究も進展しているようです。鎌田さんの作成したパネルから、新しい応挙情報を受けたことも感謝しなければなりません。 

2024年11月2日土曜日

追悼 高階秀爾先生2

 

しかし大学の研究室で、八王子セミナーハウスで、鹿島美術財団選考委員会で、あるいはサントリー美術館企画委員会でお話をうかがっていてつねに感じたのは、言語という人間最高の文化に対する深い洞察でした。

これら東京だけではありません。パリで、秋田で、京都で、そして倉敷で、会話を交わしながらすごいなぁと感を深くしたのは、日本語という言語の分析でした。そこに流れる日本語に対する愛惜の念でした。それは語学の天才ではなく、言葉を愛し、言葉の不思議を解き明かそうとする、真の言語学者である高階先生でした。

先生は知の引き出しをたくさんお持ちでした。一つ一つ数えていけば、いったいどれくらいになるのでしょうか。空前にして絶後の美術史研究者でした。しかし僕が真率感動するのは、その数の多さではありませんでした。


2024年11月1日金曜日

追悼 高階秀爾先生1

 

 高階秀爾先生が10月17日、92年の超人的生涯を終え白玉楼中の人となられました。ご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

一人の人間が、これほどの質量を兼ね備えた仕事を一生の間になし得るものでしょうか。しかも特定のジャンルに限定されることはありませんでした。もちろん中核には美術がありましたが、美術史家とか美術評論家とお呼びするのは、失礼に当たるような気がしてなりません。現代日本を代表する最高の人文科学者であり、ニーチェのいうユーバーメンシュであり、人口に膾炙する言葉でいえば知の巨人でした。しかしそれを根底で支えていたのは、もう一人の高階先生――好奇心の超人である高階先生だったと思います。

先生はしばしば語学の天才ともたたえられてきました。確かに英仏独伊西に堪能でいらっしゃいました。英語がよくできないので日本美術史を専攻した僕にとっては、これまた超人でした。

追悼 高階秀爾先生5

  中村幸彦先生の雅俗文化論にしたがえば、高階秀爾先生が雅文化の超人であったことは周知の事実であり、僕などが改めて言う必要もないでしょう。しかし先生は俗文化の超人でもありました。それを誕生させたのが、先に指摘した好奇心であったように思います。 ある委員会のあと開かれた会食の席...