一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。
日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して100周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮殿博物館に所蔵される至宝、また本展の趣旨にご賛同いただき出品協力をいただきましたトルコ・イスラーム美術博物館の名品、さらには出光美術館が誇る中国・日本陶磁やトルコ陶器の数々をご紹介いたします。
一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。
日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して100周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮殿博物館に所蔵される至宝、また本展の趣旨にご賛同いただき出品協力をいただきましたトルコ・イスラーム美術博物館の名品、さらには出光美術館が誇る中国・日本陶磁やトルコ陶器の数々をご紹介いたします。
出光美術館「日本・トルコ外交関係樹立100周年記念 トプカプ宮殿博物館・出光美術館所蔵 名宝の競演」<12月25日まで>
出光美術館では標記特別展が開催され、人気を集めています。まずそのカタログから、「ごあいさつ」の一部を紹介することにしましょう。
アジアとヨーロッパをつなぐ国際都市、トルコ・イスタンブルは、15世紀中頃からオスマン帝国(1299-1922)の首都となりました。歴代のスルタン(帝王)は、この地に築かれたトプカプ宮殿に居住し、政務をつかさどります。その後、16世紀に入り、オスマン帝国は中東、北アフリカ、中部ヨーロッパにまたがる最大領域を形成しました。トプカプ宮殿には貴金属をはじめ、東アジアからヨーロッパにおよぶ地域の珍しい宝物が集められ、彼らはそうした品々を使用したり、飾ったりしながら大切に継承しました。その所蔵品には当時の世界最高峰である中国・景徳鎮窯や龍泉窯などの極めて良質な陶磁器が含まれ、宮廷コレクションとしては質量ともに世界屈指と評されています。くわえて日本陶磁も数多く舶来、所蔵されています。
総合司会の大高保二郎さんがみごとに〆れば、2024鹿島美術財団東京美術講演会もほぼ定刻に終了、会場を地下ホールに移して、コロナ明け初のレセプションとは相なりました。僕たちは高階秀爾先生の一日も早き快復を祈念しつつ歓談、杯を重ねましたが、9日後に幽明界を異にされるとは誰も知りませんでした。これまた「朝日歌壇」に捧げられた鎮魂歌2首をもって、マイ追悼の辞を閉じることにしましょう。
ピカソの絵目鼻ちぐはぐなる意味を教へてくれし『名画を見る眼』
そんな眼をもちたいものと思いしは高階さんの「名画を見る眼」
*「饒舌館長ブログ」では、お元気な方は「さん」づけにし、鬼籍に入られた方のみ「先生」とお呼びすることにしておりますので、よろしくお願い申し上げます。
こんなに素晴らしい我が祭りの伝統が、実利主義やグローバリゼーション、あるいは天災や疫病の流行、そして何よりも少子高齢化によって、失われてしまうのではないかという危惧がないではありません。しかし心配するには及ばないと思います。
私たちの社会には、日本の祭りが形を変えつつもチャンと生き続けているからです。長嶋茂雄にならっていえば、日本の祭りは不滅です!! それを僕に確信させてくれたのは、最近「朝日歌壇」に載った2首の佳吟でした。
町内をワッショイの子らを引き連れて神輿みこしを乗せた軽トラがゆく
夏祭り吹奏楽のお母さん子をおんぶしてマリンバを打つ
この気風は無論近世に始まったものではない。従って既に明治以前からも、村里の生活にも浸潤して居た。村の経済の豊かな年には、農民はいつもこの「見られる祭」を美しくしようと心掛けつつ、しかも一方には彼等伝来の感覚、神様と祖先以来の御約束を、新たにしたいという願いを棄てなかった故に、勢い新旧の儀式の色々の組合せが起り、マツリには最も大規模なる祭礼を始めとして、大小幾つと無き階段を生ずることになり、一つの名を以て総括するのも無理なほど、さまざまの行事が含まれることになったのである。
しかしこれは五味さんをはじめ、皆さんの興味をあまり引きませんでした。むしろ資料にあげただけにもかかわらず、柳田國男「日本の祭」から抜いた一節の方がウケたようです。これこそ我らが祭りのキモだと思って引用したのですが、総合司会の大高保二郎さんがとくに取り上げてくれたので、「ヤッター」という気持ちになりました(笑)
日本の祭の最も重要な変り目は何だったか。一言でいうと見物と称する群の発生、即ち祭の参加者の中に、信仰を共にせざる人々、言わばただ審美的の立場から、この行事を観察する者の現われたことであろう。それが都会の生活を花やかにもすれば、我々の幼い日の記念を楽しくもしたと共に、神社を中核とした信仰の統一はやや毀れ、しまいには村に住みながらも祭はただ眺めるものと、考えるような気風をも養ったのである。
花祭にかぎらず、日本の祭りや芸能の研究のむずかしさは、幾重にもかさなって日本におしよせた大陸の文化を重層的にとりこんでいることである。その表皮を一枚一枚はがしてゆけば、芯にはなにものこらなくなることを覚悟しておかねばならない。日本の独自性をいうならば、素材を組みあわせる演出の技術をみるべきであって、素材自体は海外から渡来したものがほとんどをしめている。
「芯にはなにものこらない」には反発を覚える方もいらっしゃるでしょうが、僕は(イ)として宗像大社のみあれ祭図――よい作例がなかったので棟方志功の「宗像宮神樹の柵」で代用しました――、(ロ)として日吉山王祭礼図屏風、(ハ)として祇園祭礼図屏風、(ニ)として悠紀ゆき・主基すき屏風をあげ、僕が勝手に第5カテゴリーに加えた人への信仰、ある意味での政治的信仰として、豊国祭礼図屏風を映して〆としました。
(イ)すべてをのみこんで豊饒な幸にかえしてもどしてくれる海の信仰
(ロ)豊饒な恵みに感謝し、母の胎内に比定した山にこもって再生をはたす山の信仰
(ハ)善神の力をかりて不幸をもたらす悪霊をはらう儺なの信仰
(ニ)善神に同化してその力を体内にとりこんで再生する種子の信仰
四つの日本の祭りのタイプはけっして日本に固有のものではなく、源流をさかのぼってゆけば、アジアに共通するものである。花祭はこの四つのタイプの特色をすべてそなえており、この祭りの成立の複雑さをおもわせるのであるが、その基本モチーフの「生まれ清まり」は(ロ)(ニ)に由来する信仰である。(ニ)型は稲作文化とともに渡来したもっともあたらしい祭りのタイプであったが、それにしても日本への渡来の時期は稲作文化の渡来とともに弥生にまでさかのぼる。しかも、そののちの仏教、修験道、シャーマン儀礼などの影響もとりこんで花祭は成立しているのである。
しかし少しでもカッコウをつけようと思い、かつて読んで強く印象に残っている諏訪春雄さんの『日本の祭りと芸能 アジアからの視座』(吉川弘文館 1998年)の分類を援用することにしました。諏訪さんは次のように指摘しています。
日本列島には有史以前から幾次にもわたって大陸から文化の波がおしよせてきていたのであり、日本の花祭(霜月神楽)の基本構造もその波にのって大陸から朝鮮半島を経由して日本にわたって来たとかんがえることができる。その大陸渡来の文化のなかで日本の祭りにもっとも深刻な影響を与えたのは、稲作にともなう祭りであった。
日本の祭りの類型は基本の信仰モチーフによって、大きくつぎの四つに分類することができる。
今年のテーマは「祭りの美術」――これも高階先生の発案でした。本来であれば先生が総合司会とキーノートスピーチをされるはずでしたが、体調芳しからず、選考委員仲間の大高保二郎さんが急遽ピンチヒッターを買って出てくれました。押し付けられたのかな(笑)
講師には五味文彦さん(東京大学名誉教授)と木川弘美さん(清泉女子大学教授)をお迎えしました。五味さんは「祭の日本史」、木川さんは「聖と俗・都市と地方『あべこべの世界』を描く」と題して、それぞれ大変おもしろいお話を展開されました。
僕の役目は、五味さんの発表に対するコメンテーターでしたが、この日本歴史学界の泰斗、しかも先日文化功労者になられた権威に対して、さすがの饒舌館長もコメントをする――有り体にいえばチャチャを入れるほど厚かましくはありません。近世絵画史上、祭りをライトモチーフにした名品屏風を何点か選び、スライドショーで責をふさぐことにしました。
10月8日、鹿島美術財団主催の東京美術講演会が赤坂の鹿島建設KIビル講堂で開かれました。すでに何度もアップしたことがあると思いますが、テーマを決め毎年秋に開催される美術講演会で、好評理に回を重ねてきました。これをずっとプロデュースされてきたのが高階秀爾先生でした。テーマを決め、講演者を選び、みずからキーノートスピーチをされ、合同討議を含めた総合司会をされてこられました。
もちろん僕たち選考委員も加わって会議を開き、話し合って決めましたが、高階先生がいらっしゃらなかったら、何も決まらなかったことでしょう。とても長い時間がかかったことでしょう。あるいは内容の薄い講演会になっていたことでしょう。高階先生亡きあと、来年からどういうことになるのでしょう。こんなことを言ったら、天上の高階に「しっかりしろ」と怒られてしまうかもしれませんが、心細くって仕方ありません。
「僕の一点」は「風神・雷神」ですね。これは宗達の「松島図屏風」(フリーア美術館蔵)に関する刺激的論文を発表し、『光琳論』で國華賞を受賞した夫人・仲町啓子さんとの合作だ!!と思いましたが、たぶん図星だと思います。
長く日展で活躍されてきた相武さんは、いま国立新美術館で開催中の第11回日展にも出陳されていますが、西欧的ともいうべき人体の束縛を潔く振り切って、東洋の自然に忠実ならんとする新しいベクトルを見せています。
カタログには先日追悼の辞を捧げた高階秀爾先生が、「相武常雄さんの展覧会によせて」を寄稿されています。日本の美術史において工芸の占める位置が極めて大きいことを、相武さんの作品を通して改めて教えられたとお書きになっています。相武さんが伝統を受け継ぎながら、それを発展させているからです。このオマージュは高階先生の絶筆だったのではないでしょうか。
О<オー>美術館「金工/鍛金の世界 相武常雄 沌・転・歓・展」<11月27日まで>
金属に魅せられ、金属を愛し、作品を創り続けて半世紀――相武常雄さんの回顧展です。相武さんは東京藝術大学大学院時代から、品川にアトリヱを構えて創造に邁進してこられました。そこで品川文化振興財団が運営を担うО<オー>美術館で、この展覧会が開かれる運びになったそうです。
これまで相武さんの作品は、日展などで一点ずつ拝見してきましたが、こうして70点ほどの作品に一つの空間で対峙すると、その個性的フォルムの集合に刺激を受けて、みずからの審美眼が徐々に充血していくような不思議な感覚にとらわれました。
変化に富みながらも、見るものが等し並みに一瞬で相武アートだと認識できる統一感がとても心地よいのです。それにやさしく抱かれ、ときに羽交い絞めにされるような感官だといってもよいでしょう。
あいにくオープニングセレモニーには出席が叶いませんでしたが、翌日お祝いに駆けつけました。まず千雲さんの「墨華」双幅に、これは現代の新しい「描き表装水墨画」だと感を深くしました。招待作家の力作、前日行なわれた合同揮毫作、4室にわたるお弟子さん、孫弟子さんの作品を鑑賞してから、事務局のお部屋で楽しいティータイム、おしゃべりの時を過ごしました。饒舌館長が一人でしゃべりまくったような感じもしますが……(笑)
千雲さんはお弟子さんの葛西千麗さんに跡を託されるらしく、「これからはよき家庭人に戻ります」と微笑んでいらっしゃいましたが、35周年記念展のときは、ぜひ一曲余興で僕にアメリカン・フォークをやらせてほしいとお願いして、家路に着いたことでした。もし5年後元気だったらの話ですが( ´艸`)
神奈川県民ホールギャラリー「30周年記念 千墨会 墨の祭典」
水墨画家・藤崎千雲さんとはじめてお会いしたのは、総合水墨画展審査会の席だったと思います。僕も寄稿したことがある『趣味の水墨画』などで、お名前と画跡は前から存じあげていましたが……。それ以来、画品高き作品とお人柄に魅せられて親しくさせてもらってきました。
その千雲さんが主宰する水墨画のグループ教室が千墨会です。「千ボケ会」などと、自虐ネタで笑いをとっていらっしゃいますが……。千雲さんは台湾で黄君璧老師から画技運筆を修得、たくさん受賞を重ねたあと、この千墨会を立ち上げました。
千墨会25周年記念展については、この「饒舌館長ブログ」にアップしたことがあるように思いますが、それから早や5年、今年は30周年の大台に乗りました。それを記念して、同じく神奈川県民ホールギャラリーで「千墨会 墨の祭典」が開かれたのです。残念ながら11月3日で、終ってしまったのですが……。
もちろん雅文化であるクラシック音楽に、造詣が深かったことは言うまでもありません。ハープ奏者として活躍している摩寿(数)意英子さんは、高階先生と何度も一緒にお仕事をされたそうです。
その摩寿意さんが、先日僕の「追悼 高階秀爾先生」に、先生が音楽にも大変お詳しいことに驚き、尊敬の念を強くしたというコメントを寄せてくれたんです。この「音楽」とは、もちろんクラシック音楽のことにちがいありません。ハープ奏者の摩寿意さんがいう音楽とは、歌謡曲じゃ~ないと思います( ´艸`)
摩寿意さんのご尊父は、イタリアルネッサンス絵画研究の大家であった善郎先生です。高階先生はその授業を受けられたそうですが、僕も善郎先生の講義を拝聴してレポートを提出した――はずです。したがって高階先生と僕は、善郎先生の兄弟弟子ということになります。杜甫の「狂歌行」に「賢者是兄愚者弟」とあるそうですが、まさしく絵に描いたみたいですね😭
それに誰もドメニコス・テオトコプーロスなんていわないで、エル・グレコと呼ぶじゃないですかと僕が言うと、すかさず高階先生が「そうですね。みんな美空ひばりと呼んで、加藤和枝とはいいませんね」とおっしゃったのです。
みんな美空ひばりが芸名であることは知っていますが、本名の「加藤和枝」がすぐに口を突いて出てくる人はほとんどいないでしょう。しかも高階先生は、その時すでに文化勲章をお受けになっていたんです。少なくとも、文化勲章受章者で「加藤和枝」を知っている人、それがすぐに出てくる人などいないのではないでしょうか。高階先生は歌謡曲という俗文化においても、知の巨人だったのです。
中村幸彦先生の雅俗文化論にしたがえば、高階秀爾先生が雅文化の超人であったことは周知の事実であり、僕などが改めて言う必要もないでしょう。しかし先生は俗文化の超人でもありました。それを誕生させたのが、先に指摘した好奇心であったように思います。
ある委員会のあと開かれた会食の席で、画家の呼称について問題になったことがありました。僕の好きな画家の一人に、鮎描きとして有名な小泉檀山がいます。ところがそのころ号の「檀山」ではなく、名の「斐あやる」をもって呼ぶべきだという議論が起り、みんな小泉斐と言うようになりつつありました。
また以前から円山応挙おうきょは「マサタカ」、渡辺始興しこうは「モトオキ」と呼ぶべきだという意見もありました。しかし僕は反対でした。たとえそれが正しいとしても、古くからタンザン、オウキョ、シコウと読んできたんだから、もうそれでいいじゃないかという、いかにも「いい加減はよい加減」みたいなことを言ったんです。
代表的著作ともいうべき『名画を見る眼』から大きな影響を受けたことは言うまでもありませんが、日本の美術を専攻する僕にとっては、やはり『日本近代美術史論』なんです。それまで我が国近代絵画に興味はありながらも、これをどのように扱ってよいものやら、皆目見当がつきませんでした。しかし高階先生の『日本近代美術史論』が、決定的示唆を与えてくれたのです。
みずからの直感を大切にすること、しかし直感の正しさを証明するために既発表の論文を可能な限り精緻に読み込むこと、その上で証明のプロセスを明晰な日本語をもって客観的に記述すること――以上3つの重要性を『日本近代美術史論』が教えてくれたのです。
この高階メソッドを使って書けば楽勝だと思って、初めて書いた近代絵画史論が「高橋由一 江戸絵画史の視点から」(『三彩』512・513 1990年)でした。これはのちに辻惟雄編『幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに』(ぺりかん社 1992年)に少し圧縮して載せてもらいましたが、鵜の真似をする烏はみごと水に溺れてしまったのでした。
その引き出しの中身が、引き出しを飛び出して渾然一体となり、知の有機体を形作っていることでした。引き出しのように見えたのは、僕らの眼が旧態依然とした学問の枠組みに規制されていたからでした。小さな箪笥の引き出しなんかじゃなく、有機体としての知が、一つの大きなクローゼットに入っていたんです。
そのような超人的仕事のなかから選ばせていただく「僕の一点」は、『日本近代美術史論』ですね。先生は参画された雑誌『季刊藝術』の創刊号(1967年)から10号まで連載した論文を単行本(1971年)にまとめられましたが、これが講談社文庫(1980年)に収められ、その後講談社学術文庫(1990年)となりました。
僕は単行本を所蔵していましたが、先生から講談社学術文庫版を頂戴したので、以後はもっぱらこれを使わせてもらっています。文庫版以後における重要な研究を加筆した「補注」も、きわめて有益だからです。
いきいきプラザ一番町「画技継承 森狙仙から森祖雪、さらに鎌田巌泉へ」 11月4日まで
畏友・五十嵐雅哉さんのコレクション――通称「呑兵衛コレクション」の楽しい森派展です。森狙仙も愛する江戸時代画家の一人、僕の『國華』デビュー論文は950号(1972年)に載った「森狙仙研究序説」ですが、今回とくに興味を惹かれたのは、4点も出陳されている森祖雪でした。かのジョー・プライスさんも祖雪の猿をご所蔵で、拝見するたびにうまいなぁ、落款を隠されたら分からないじゃないかと思っていたからです。
小学館から出版された『ザ・プライスコレクション』(2006年)に言うまでもなく紹介されていて、解説者はチョッときびしい評価を下していますが、畏友・木村重圭さんが『日本美術工芸』506号論文で詳しく論じているとおり、なかなか力量のあるおもしろい画家だと改めて思いました。
今回、鎌田巌泉(1844~1890)という狙仙の孫弟子をはじめて教えてもらいました。2点出陳されていますが、ともにすぐれた出来映えを誇っています。巌泉も先の木村論文で取り上げられていますが、最近では岩佐伸一さんが「『奥村房次郎像 鎌田巌泉筆』(大阪歴史博物館蔵)について」という論文を、同館の『研究紀要』21号(2023年)に発表しており、研究も進展しているようです。鎌田さんの作成したパネルから、新しい応挙情報を受けたことも感謝しなければなりません。
しかし大学の研究室で、八王子セミナーハウスで、鹿島美術財団選考委員会で、あるいはサントリー美術館企画委員会でお話をうかがっていてつねに感じたのは、言語という人間最高の文化に対する深い洞察でした。
これら東京だけではありません。パリで、秋田で、京都で、そして倉敷で、会話を交わしながらすごいなぁと感を深くしたのは、日本語という言語の分析でした。そこに流れる日本語に対する愛惜の念でした。それは語学の天才ではなく、言葉を愛し、言葉の不思議を解き明かそうとする、真の言語学者である高階先生でした。
先生は知の引き出しをたくさんお持ちでした。一つ一つ数えていけば、いったいどれくらいになるのでしょうか。空前にして絶後の美術史研究者でした。しかし僕が真率感動するのは、その数の多さではありませんでした。
高階秀爾先生が10月17日、92年の超人的生涯を終え白玉楼中の人となられました。ご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
一人の人間が、これほどの質量を兼ね備えた仕事を一生の間になし得るものでしょうか。しかも特定のジャンルに限定されることはありませんでした。もちろん中核には美術がありましたが、美術史家とか美術評論家とお呼びするのは、失礼に当たるような気がしてなりません。現代日本を代表する最高の人文科学者であり、ニーチェのいうユーバーメンシュであり、人口に膾炙する言葉でいえば知の巨人でした。しかしそれを根底で支えていたのは、もう一人の高階先生――好奇心の超人である高階先生だったと思います。
先生はしばしば語学の天才ともたたえられてきました。確かに英仏独伊西に堪能でいらっしゃいました。英語がよくできないので日本美術史を専攻した僕にとっては、これまた超人でした。
一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。 日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して 100 周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮...