2024年7月31日水曜日

出光美術館「日本・東洋陶磁の精華」4

 

三上次男氏が「これを眺めていると、東部内モンゴルに波のように広がる草原の情景と、その野を埋め尽くす初夏の草花群の美しさが、髣髴として眼前に浮かび上がってくる」と褒め称えた長頸瓶――私もかつて遊んだ希拉穆仁シラムレンの草原を思い出さずにはいられない。黄瀬戸は黄釉であるけれども、基本的に共通する手法を採っている。当時、このような遼陶がわが国へもたらされていたかどうか問題だが、ここではその一致を指摘しておきたい。

 1997年秋、愛知県陶磁資料館(現愛知県陶磁美術館)で特別展「遺跡にみる戦国・桃山の茶道具」が開催され、これを記念してシンポジウムが行なわれました。そのとき僕は「桃山陶の意匠」なる口頭発表を試みましたが、その美濃陶に関する部分を増補して活字化したのがこの拙論です。準備の段階で、三上次男編『世界陶磁全集』13(小学館 1981年)のカラー図版をパラパラめくっていると、この「白地緑彩草花文長頸瓶」が目に飛び込んできたんです。


2024年7月30日火曜日

出光美術館「日本・東洋陶磁の精華」3

 

代表的作例として「黄瀬戸大根文輪花鉢」(重要文化財)を見てみよう。見込みには実に生き生きした線で、大根が線彫りされている。葉のリズム感豊かな線、そして根の部分の伸びやかで張りのある線は、筆では表現できないものである。縁に輪花の鐔つばをつけ、そこにも線彫りで丁子と花を描き、簡単な唐草文を加えている。()

線刻模様に緑釉を加えることは、わが国では黄瀬戸に始まるわけであるが、中国陶磁にまで視野を広げてみると、よく似た作品があることに驚かされる。たとえば遼(11世紀)乾瓦窯の「白地緑彩草花文長頸瓶」である。砂質の胎土に白釉をかけ、草花文を線刻で表わし、そこに緑釉を濃く薄く大胆に加えている。


2024年7月29日月曜日

出光美術館「日本・東洋陶磁の精華」2

 

僕は缸瓦窯のことを「乾瓦窯けんがよう・かんがよう」と記憶してきましたが、中国ウィキペディア「維基百科」で「缸瓦窯」を調べると、「日本人訛あやまりて『乾瓦窯』と作す」と出てきます(!?) 「僕の一点」に選んだ理由は、かつてこの長頸瓶を「桃山美濃陶試論」(『美術史論叢』17号 2001年)という拙論に使ったことがあるからです。その一節を紹介させてもらうことにしましょう。

古瀬戸釉のうち朽葉色の釉を特色とする黄瀬戸のなかでも、特に注目されるのは具象的文様や抽象的意匠を線彫りにし、それに銅緑釉、いわゆる胆礬たんばんをかけた作品群である。これを桃山以前に焼成された黄瀬戸、たとえば「黄瀬戸茶碗」や「黄瀬戸天目茶碗」と比較するならば、装飾的効果が飛躍的に高まっていることがわかるであろう。


2024年7月28日日曜日

出光美術館「日本・東洋陶磁の精華」1

出光美術館「出光美術館の軌跡 ここから、さきへⅢ 日本・東洋陶磁の精華――コレクションの深まり」<825日まで>

 すでにお知らせしましたように、出光美術館は帝劇ビルの建替え計画にともない、今年の12月をもって、しばらくのあいだ休館することになりました。皆さまを出光ギャラリーにお迎えする最後の1年は、4つの企画展によって出光コレクションの推し作品(!?)を鑑賞していただいています。

その第3弾は「日本・東洋陶磁の精華――コレクションの深まり」です。出光美術館日本・東洋陶磁コレクションは、創設者・出光佐三氏の審美眼に端を発するものですが、今やもっとも重要なジャンルを形成するに至っています。

 「僕の一点」は「白地緑彩草花文長頸瓶」ですね。中国・遼時代の缸瓦窯で焼成された作品です。缸瓦窯は内モンゴル赤峰せきほうにあった窯で、「こうがよう」とも「かんがよう」とも呼ばれているようです。 

2024年7月27日土曜日

東京国立博物館「神護寺」7

 

古川さんは神護寺薬師をもともと神願寺の本尊であったという説に立っているようですが、神願寺が宇佐八幡神の神託によって建立された寺院であったことを特筆大書されているのです。僕は拝読して快哉を叫びたいような気持ちになりました。

神護寺薬師は弘仁貞観時代を象徴する仏像です。もっとも最近、なぜか「弘仁貞観時代」はまったく使われなくなり、「平安時代前期」などという味も素っ気もない名称になっちゃっています。

しかし尊敬する蓮実重康先生には、『弘仁貞観時代の美術』(東京大学出版会 1962年)というすぐれた編著書があります。『広辞苑』だって、チャンと「弘仁貞観時代」という項目を立てています。時代区分には無味乾燥なる「平安時代前期」なんかじゃなく、美しい響きをもつ「弘仁貞観時代」を用いるべきです!!

 ヤジ「そういうのを時代区分じゃなく、時代錯誤というんじゃないの!?


2024年7月26日金曜日

東京国立博物館「神護寺」6

 

僕のいう日本美術の素性である素材主義を、ここにも見出すことが可能でしょう。これを伊勢神宮の白木建築まで引っ張っていけば、チョッとやりすぎかもしれませんが……。

しかし自然や風土まで持ち出してくれば、まったく無関係ともいえないでしょう( ´艸`) 霊木彫刻や立木仏に象徴されるごとく、素材と精神は表裏一体の関係に結ばれています。とくに自然崇拝やアニミズムが強い我が国では、当たり前田のクラッカーです(!?)

この神護寺薬師を語るとき、僕は以上の美意識と彫刻史と宗教の3点から考えてきました。内覧会では、この神護寺薬師のお顔を大きくクローズアップした260ページの大カタログを頂戴しました。その巻頭論文は、チーフキューレーターをつとめた古川摂一さんの「神護寺の歴史と高雄曼荼羅」という力作です。

テーマの中心はこれまた神護寺が誇る紺紙金銀泥絵「両界曼荼羅」、いわゆる「高雄曼荼羅」ですが、古川さんは薬師如来立像から説き起こしています。


2024年7月25日木曜日

東京国立博物館「神護寺」5


 この森厳なるお顔が、むしろ神像彫刻を思わせるのは、偶然じゃ~ないと思います。すでに垂迹美術だといえば言いすぎですが、薬師如来のうちに宇佐八幡が宿っているといった感じがします。これは最初に神護寺薬師を拝んだときの第一印象が異常発酵した結果生まれた独断と偏見です。

直感的に慈愛に満ちた仏様よりも、畏怖すべき神様のように感じられたんです。一言でいえば神々しかった――つまり最初から僕にとっては神様だったんです。畏怖すべき尊顔を、武神・軍神・弓矢神として尊崇された八幡神と結び付けたい誘惑にも駆られます。畏怖いふは威武いぶに通じるのかな( ´艸`)

2024年7月24日水曜日

東京国立博物館「神護寺」4

古くから高雄は山岳信仰の盛んな霊地でしたから、その地に建立された高雄山寺の本尊であったという説も魅力的だと思いますが、神願寺本尊説が定説のようです。しかしいずれにせよ、清麻呂が信仰し帰依していた宇佐八幡と密接に結びついていたことは明らかです。

もちろん仏教と宇佐八幡は、早くから不即不離の関係に結ばれていました。かの東大寺毘盧遮那仏びるしゃなぶつ、いわゆる奈良大仏の場合がよく知られています。

大仏建立を発願した聖武天皇は、はるばる宇佐八幡へ祈願の勅使を派遣して神託を得ると、完成の暁には宇佐八幡神を勧請して東大寺の守護神としたのです。垂迹思想の原点をここに求める研究者も多いようです。しかし神護寺薬師の場合、創建の経緯からみても、宇佐八幡神との関係はさらに濃厚であったのではないでしょうか。

 

2024年7月23日火曜日

東京国立博物館「神護寺」3

彫刻史的にみれば、いわゆる唐招提寺講堂木彫群との関係を考えなければならないでしょう。現在は新宝蔵にまつられている仏像彫刻群です。しかし関係の強弱については、見解が分かれているようです。

講堂木彫群を造ったのが鑑真和上と一緒に渡来した工人あるいはその影響を受けた仏師であったことは明らかですが、神護寺薬師を彫った仏師は、系統を異にしていたかもしれません。優婆塞や私度僧のような素人仏師とは考えられませんが、チョッと常軌を逸した、つまり神がかった仏師だったのかな?

だから言うわけじゃありませんが、宗教的にみれば、薬師如来という仏像でありながら、神像的要素も包摂しているのではないかと感じられます。つまり宇佐八幡との抜き差しならぬ関係です。この像が和気清麻呂の私寺であった高雄山寺の本尊であったか、正式な定額寺であった神願寺の本尊であったかはよく分かりません。

 

2024年7月22日月曜日

東京国立博物館「神護寺」2

 

NHK文化センター青山教室講座では、毎回マイベストテンを選んでしゃべることにしているのですが、もちろん今回はこの神護寺薬師を筆頭に掲げました。これを美意識的にみれば、一木造であることによって、強い垂直性が規定されていることになります。

樹木の垂直性は、日本仏教彫刻の簡潔性シンプリシティを生み出す基本的要素です。もちろん日本にも、金銅仏や乾漆像があるわけですが、その祖型や木組みや木心が木であることを考えれば、樹木の垂直性や直線性を無視することはできないでしょう。それは円空仏にまで継承されています。

日本仏教彫刻の簡潔性は樹木の垂直性に起因するというのがマイ独断です() しかし重要なのは、初めの材質による簡潔性が、やがてそれを美しいと感じる美意識に変化、あるいは昇華していったことかもしれません。


2024年7月21日日曜日

東京国立博物館「神護寺」1

 

東京国立博物館「創建1200年記念 神護寺 空海と真言密教のはじまり」<98日まで>

 NHK文化センター青山教室講座「魅惑の日本美術展 おすすめベスト6!!」については先にアップしましましたが、7月のトピックは東京国立博物館「創建1200年記念 神護寺 空海と真言密教のはじまり」です。ちょうど講座前日が内覧会だったので、予習(!?)を兼ねて出かけました。必ず教科書に載っている国宝の実物が何点も、マジカで拝見できる千載一遇の特別展です。

 「僕の一点」は、もちろん国宝「薬師如来立像」ですね。神護寺から展覧会場へお出ましになったのは初めてのことだそうです。いつもは神護寺の金堂に安置されていますから、参詣すればいつでも拝観できるわけですが、今回は平成館の明るい光の下、しかも露出展示です。足もとに額づいて、その圧倒的迫力を肌で感じ取れば、もうキャプションなんか読む必要はありません。この仏さんを拝むだけでも、2100円の入場料は高くありません(!?) 

2024年7月20日土曜日

サントリー美術館「尾張徳川家の至宝」9

 

森重行敏編著『ビジュアル版 和楽器事典』(汐文社 2012年)にはもう少し詳しく説明されています。二弦琴は1800年ごろ、覚峰というお坊さんにより広められたという説も紹介されています。とくに日本人の独創であることは強調されていませんが、一弦琴こそ「これ以上簡単にできない究極の楽器」だというのが愉快です。一畳台目の茶室みたいなものかな( ´艸`)

中国では箏の弦数がむしろ増えていったのに、日本ではついに一弦や二弦の琴きんが生まれたんです。「日本文化は簡潔性シンプリシティを志向する」というのが持論ですが、まさにそのエビデンスです。音楽に限れば、名指揮者フルトヴェングラーの「すべての音楽はシンプリシティを目指す」という至言が改めて思い出されます。もっとも中国には、陶淵明の「無弦琴」というのがありましたが…… ( ´艸`)


2024年7月19日金曜日

サントリー美術館「尾張徳川家の至宝」8

 

柳田國男は名著『蝸牛考』において、言葉の古層は周辺に残るという方言周圏論をとなえました。箏の場合も柳田の大発見を敷衍して考えたい誘惑に駆られるのです。すでに誕生の地では失われてしまった多くの唐文化が、あるいは宋文化が我が国に遺っていることを、僕は誇らしく、そしてうれしく思うのです。

もう一つ興味深く感じたのは、『箏と箏曲を知る事典』に「一弦琴いちげんきんと二弦琴は日本で作られたもの」とある点です。一弦琴の創始時期はよく分かりませんが、現在の形は江戸時代にできた可能性が高いようです。また二弦琴は江戸時代の後期に、中山琴主ことぬしと当道とうどう箏曲家・葛原勾当くずはらこうとうによって作られたそうです。当道とは盲人の官位を管理し、その仕事を保全する組織で、江戸時代には大きな力をもっていました。


2024年7月18日木曜日

サントリー美術館「尾張徳川家の至宝」7

 

つまり現在普通に日本で用いられている13弦の箏は、唐時代の形式だったんです。中国ではその後16弦に、さらに21弦や25弦に変化したんです。事実、ある中国の女性がホームパーティで演奏してくれたのは21弦でした。ところが我が国では、唐代の形式をかたくなに守ってきたんです。いや、唐文化の素晴らしさを正しく伝えてきたんです。

『箏と箏曲の事典』によると、近代になってかの宮城道雄が十七弦箏を考案したのをはじめ、戦後になって三十弦箏、二十弦箏(実際の弦数は21弦)、二十五弦箏などが考案され、現代曲の独奏楽器としても大いに活躍しています。

しかし現在でも、日本箏の基本はあくまで十三弦箏なのです。『広辞苑』に「日本では、細長い桐の胴の上に13弦を張り……」とあるとおりです。もちろんこれらの近現代に考案された我が国の多弦箏は、中国影響からまったく自由であったことでしょう。


2024年7月17日水曜日

サントリー美術館「尾張徳川家の至宝」6

内覧会出席者に配られた立派なカタログによると、「箏 銘・青海波」は桃山時代から江戸時代にかけてのころ、17世紀に制作された作品だそうです。超絶技巧に近い精緻な装飾が見所となっていますが、僕はフォルムのシンプルな美しさにまず惹かれました。そこには13本の弦が張ってありましたが、これが伝統的なわが国における箏の弦数で、現在も守られているそうです。

僕はこの点にもっとも強い興味を覚えました。というのは、『新潮世界美術辞典』に次のごとく書かれているからです。

漢代には12弦で、画像石に演奏するさまがみえる。のち唐代には13弦、明清時代には16弦、現在では21弦を基準とし、25弦も用いる。……日本には奈良時代に唐代の十三弦箏が伝わり、「そうのこと」と呼ばれ、後代に「こと」として発達した。

『中国音楽詞典』(人民音楽出版社 1985年)には、もっと詳しく書かれているようなので、そのうち見てみたいと思いますが……。

 

2024年7月16日火曜日

サントリー美術館「尾張徳川家の至宝」5

 

箏はフレットのあるギターに、琴きんはフレットのないヴァイオリンに似ているといったら判り易いでしょうか。当然、箏の方が最初は親しみ易いでしょう。石川憲弘さん編著の『はじめての和楽器』(岩波ジュニア新書 2003年)によると、昔から「三味しゃみ三年箏こと三月」という言葉があるとのことです。

箏を習い始めて3ヶ月もすれば、ある程度他人に聴かせることができますが、三味線は同じ程度になるのに3年かかるという意味です。三味線にはフレットや柱がないからですが、琴もそれと同じでしょう。ただし琴には、弦を押さえる際の目印となる徽があるようですが……。

「僕の一点」に選んだ「箏」には、「青海波」という銘がついています。共鳴胴である槽そうの磯と呼ばれる側面に、青海波のような波文の蒔絵が施されているためでしょうが、誰がつけた銘か不銘、いや不明のようです。


2024年7月15日月曜日

サントリー美術館「尾張徳川家の至宝」4

「笙しょう」も笛の一種ですが、フエという訓もあり、この方がきれいだからフエと読めという人はいないでしょう。こういうことはあまり厳格に決めず、フレクシブルに、ブッチャケていえばいい加減にしておいた方がいいと思います。「いい加減はよい加減」です!!

箏は古くから東アジアで愛されてきた弦楽器、厳密にいえば撥弦楽器はつげんがっきです。フォークギターでアメリカン・フォークを我鳴がなっているだけの僕は、このたび宮崎まゆみさんの『箏ことと筝曲そうきょくを知る事典』(東京堂出版 2009年)を読んで、多くのことを学びました。というより、はじめて知ることばかりでした。

細長い木製の胴の上に弦を張り、右手の何本かの指ではじきながら弾くことは僕も知っていましたが、重要なのは可動性の箏柱ことじを用いて調弦することです。よく似た撥弦楽器に琴きんがありますが、琴には琴柱ことじがなく、左手の指で弦を押さえて音を変えるんです。

2024年7月14日日曜日

サントリー美術館「尾張徳川家の至宝」3

そこで「僕の一点」には「箏 銘・青海波」を選ぶことにしました。「箏」はコトと読むべきだと強調する専門家もいらっしゃるようですが、コトもソウも両方認めればよいのではないでしょうか。

 なぜなら①歴史的に両方使われてきた、②コト説を採る専門家も「箏曲」の場合はソウキョクと読んでいる、③現在でも雅楽では箏をソウと呼んでいる、④専門家がソウに統一するのは自由だが、一般の人が両方使うのもこれまた自由である、⑤ソウが禁止されてコトだけになると、例えば「魅惑の日本美術展 おすすめベスト6!!」の場合、しゃべる方にも聴く方にも「琴こと」との混乱が生じて紛らわしくなる、⑥漢語と和語を巧みに混用しながら生活している私たちにとって、コトとソウの両方が使えることは素晴らしい言語文化である――というのが私見だからです。 

2024年7月13日土曜日

サントリー美術館「尾張徳川家の至宝」2

 

名古屋大学で過ごした5年半、しばしば学生と一緒にお訪ねしたからです。國華主幹をあずかっていた時、清話会の特別鑑賞会を開かせてもらったからです。その時お世話になった小池富雄さんと、やがて静嘉堂文庫美術館でともに仕事をするようになったからです。

今年上半期NHK文化センター青山教室で開いている「魅惑の日本美術展 おすすめベスト6!!」で、このあいだ本展を取り上げて紹介しました。しかしオープン前のため、ミズテンでしゃべっちゃったんです。それがチョッと恥ずかしく、今回はオープン前日の内覧会に馳せ参じたというわけです。

近年、額装から本来の巻物形式に改められた国宝「源氏物語絵巻」――僕が好んで使う「隆能源氏たかよしげんじ」のベストワン「柏木(三)」が燦然たる光を放っています。しかしこれについては、先の講座でチョッと詳しく私見を述べました。

2024年7月12日金曜日

サントリー美術館「尾張徳川家の至宝」1

サントリー美術館「徳川美術館展 尾張徳川家の至宝」<91日まで>

将軍家に連なる御三家の筆頭格であった尾張徳川家に受け継がれてきた重宝の数々を所蔵する徳川美術館。家康の遺品「駿府御分物」をはじめ、歴代当主や夫人たちの遺愛品から、刀剣、茶道具、香道具、能衣装などにより、尾張徳川家の歴史と華やかで格調の高い大名文化をご紹介します。とくに屈指の名品として知られる国宝「源氏物語絵巻」と、三代将軍家光の長女千代姫が婚礼調度として持参した国宝「初音の調度」も特別出品される貴重な機会となります。

 これはチラシの裏に刷られた本特別展の案内文です。徳川美術館――僕にとっても思いで深い美術館ですね。

2024年7月11日木曜日

追悼 舟越桂さん8

ご興味のある方は、パソコンで「饒舌館長ブログ」にアクセスすると検索機能がついていますので、「金子啓明」「岩佐光晴」「古代一木彫像の謎」などで検索をかけてみて下さい。ただしスマホの場合は、検索機能がカットされてしまうようです。マイ・ガラケーではアクセスすることさえできませんが……()

 79日の『朝日新聞』に、酒井忠康さんの新著『舟越桂――森の声を聴く』の広告が載っていたので、これまたシンクロニシティだと驚きました。求龍堂100周年記念出版、定価2750円だそうです。「『彫刻の詩人』舟越桂が思い、語り合った、言葉と時間が宿る森へ――旅、時、美、夢へ 言葉が光り羽ばたく」という詩的キャッチコピーが添えてあります。もともとコシマキのキャッチコピーだったようですね。実際に舟越桂さんと親しく交流した酒井忠康さんの舟越桂論を読んで、またいつか「饒舌館長ブログ」に続編をアップすることにしましょう。 

2024年7月10日水曜日

追悼 舟越桂さん7

しかし僕は、クスが神の依り代であった点により一層大きな重要性を認めたいのです。このような我が国古代仏教彫刻におけるクスと舟越のクスは、細いけれども強い糸で結ばれているというのが私見です。あるいは古代仏教彫刻のDNAが、舟越には受け継がれていると言ってもよいでしょう。だからこそ、舟越フェイスがいくら西欧的見えようとも、やはり日本の木彫以外の何ものでもないのです。

以上が2016年春、三重県立美術館で「舟越桂 私の中のスフィンクス」展を見て、すぐ「K11111のブログ」にアップしたオマージュです。しかしこの時は単なる思い付きでした。ところがその後、金子啓明さんと岩佐光晴さんが中心になって調査研究を行ない、その結果を一書にまとめた『<仏像の樹種から考える>古代一木彫像の謎』(東京美術 2015)を読む機会があり、きわめて多くを学ばせてもらいました。


2024年7月9日火曜日

追悼 舟越桂さん6

 

依り代になる樹木はクスに限りませんが、依り代として最も重要な樹木はクスでした。常緑樹であることに加えて、すぐれた香気や長い樹齢も太古の人々から尊崇を集めたことでしょう。実をいうと、槿域のもとになった中国の木彫像についても知る必要がありますが、ご存じのように、中国古代彫刻の遺品は石像や塑像、金銅像ばかりですから、諦めるしか仕方ありません。

仏像を神の依り代であるクスで作ることに、垂迹思想の原点を探りたい誘惑にさえかられます。もっとも、仏教誕生の地インドでは、仏像の用材として古来白檀などの檀木が珍重されてきたことから、その代用としてクスが選ばれたという見解もあります。弘法大師が唐から将来した仏龕、いわゆる枕本尊が檀材であることを考えれば、インドを無視することはでません。


2024年7月8日月曜日

追悼 舟越桂さん5

 

この事実を僕は大変興味深く感じるのです。飛鳥時代の木彫像がすべてクス材だからです。この時代を代表する法隆寺金堂の「四天王立像」も夢殿の「救世観音像」も大宝蔵院の「百済観音像」もクス材でできています。

ところが、この時代の仏教彫刻に決定的影響を与えた槿域――僕が好んで用いる朝鮮の雅称――では、むしろ松を使ったように思われます。例えば、同じくこの時代を代表する広隆寺の「弥勒菩薩半跏像」は赤松で作られていますが、これは槿域で作られ、我が国にもたらされたと推定されているのです。

この時代における槿域の木像は、これを除いて残っていませんが、もし松材が中心であったとすると、なぜ日本ではクスになったのでしょうか? それはクスが神の依り代であったからではないでしょうか。


2024年7月7日日曜日

追悼 舟越桂さん4

日本人離れをしているのに西欧人ではなく、あえて言えば混血美人や混血イケメンのような顔、いや、舟越フェイスとしか言いようのない顔です。この舟越フェイスはスフィンクス・シリーズにおいても健在ですが、そこに凄味が加わり、デモーニッシュなエネルギーが発散されることになりました。それをさらに強めているのが、長く垂れた耳なのです。

 名前は「桂」ですが、舟越が愛して止まないのはクスです。漢字で書けば「楠」あるいは「樟」ですが、舟越の場合はカタカナで書く方がふさわしいような気がします。なぜなら「スフィンクス」ですから(!?) 舟越は東京芸術大学大学院のときクスに出合って魂を奪われ、それからはもっぱらクスを使うようになったそうです。

 

2024年7月6日土曜日

追悼 舟越桂さん3

このすぐ後に人間の野生のことを思いライオンをイメージした顔の男性像を作った。これが、その後、男性器を思わせる、角を持った人物像を経てスフィンクスへつながって行ったのかもしれない。人間を見つづける存在としてのスフィンクスへ。

言うまでもなくスフィンクスは、ライオンの体に人間の頭部を有する怪獣、古代エジプトにおける王権の象徴でした。これにインスピレーションを得た舟越は、長く垂れた耳をもつ両性具有の人間像として、あるいは中性的な人間像として造形化したのです。

舟越といえば、モジリアーニの人物画のように長い首の上にのった小さめの端正な顔がまず思い出されます。左右の目の焦点が微妙にずれていて、正面からいくら一生懸命見ても絶対に視線を合わせてくれず、どこか虚空を眺めているような、あるいは遠い未来を夢見ているようなアンニュイをたたえた独特な顔です。

 

2024年7月5日金曜日

追悼 舟越桂さん2

 この追悼記事には、舟越さんのチョッと恥ずかしそうに笑うポートレートと、2016年春、三重県立美術館で開催された「舟越桂 私の中のスフィンクス」展の写真が添えられています。じつは僕もこの個展をみているんです。深く動かされた僕は、早速そのころやっていた「K11111のブログ」にオマージュを捧げました。それを再録して、追悼の辞に代えさせていただきたいと思います。

今もっとも輝いている具象彫刻家です。1980年代から最新作までの彫刻32点と、ドローイングおよび版画からなる大規模な個展です。神奈川県立近代美術館――先日さよならパーティが行なわれた通称カマキンで、1993年に開かれた個展を見て以来、ずっと憧れ続けてきた作家です。その舟越による新しい挑戦が、この「私の中のスフィンクス」です。求龍堂から出された「公式図録兼書籍」に、舟越は次のように書いています。

 

2024年7月4日木曜日

追悼 舟越桂さん1

 

 329日、大好きな現代彫刻家・舟越桂さんが亡くなりました。享年72でした。早すぎる逝去を心から惜しみ、追悼の辞を捧げたいと思います。敬愛する美術評論家・酒井忠康さんが、『朝日新聞』に「ストーリー語れる 彫刻の詩人」と題して追悼の辞を寄稿したのは、亡くなってから半月ほどあとのことでした。1980年ごろ、舟越さんが彫った「妻の肖像」をみて詩を感じたという酒井さんは、辞をつぎのように締めくくっています。

彫刻でストーリーを語れる数少ない一人だった。時代を強引に引っ張る感じではなったけれど、現代美術のなかのオンリーワンの存在。特異な彫刻の詩人が、ひとり静かに消え去った。寂しい。

2024年7月3日水曜日

追悼 篠山紀信さん4

 

「篠山は、スターたちの虚像を暴くといったことには関心をおかず、あくまでスターがスターとして最も輝く瞬間を捉えることを目指しています」というキャプションは疑問です。虚像を暴くことはともかく、「実像を見せる」ことをあえてやるからです。

今も熱狂的ファンである山口百恵――僕の百恵コレクションのなかに、LP「ひと夏の経験」があります。そのジャケットはもちろん篠山、ビキニをつけた百恵の上半身ですが、右腕の付け根にものすごいBCGの痕が写っています。あるいは「横須賀ストーリー」、おでこや頬のニキビがクッキリと浮き上がっています。

カメラ位置やライトをちょっと変えるだけで、いくらでもきれいに撮れたことでしょう。篠山はブロマイド写真家を拒否しようとしているのです。さて、マイコレクションの目玉はファーストアルバム「としごろ」――これは相当高くなっているだろうとヤフオクにアクセスしてみたら、終了間際なのに最低価格300円/入札0。ガックリきたことでした。


2024年7月2日火曜日

追悼 篠山紀信さん3

大嶋さんによると、2012年から全国で開催した「篠山紀信 写真力」展は100万人を動員したそうです。じつは僕もその100万人のなかの一人でした。2013年夏、出来たばかりの新秋田県立美術館で開かれた「篠山紀信 写真力」展を見ているんです。もし僕が見なかったら、動員数は999,999人になるところでした( ´艸`)

もちろん現代日本を代表する写真家であることはよく知っていましたが、お仕事の集大成が、「有名に虚名なし」という格言の正しさを改めて教えてくれたのでした。そのころ僕は、秋田県立近代美術館のディレクターをつとめ、ホームページに「おしゃべり館長」というブログを書いていましたので、さっそく印象記をエントリーしました。それをここに再録し、追悼の辞に代えたいと思います。

 

2024年7月1日月曜日

出光美術館「日本・東洋陶磁の精華」5

 


 線刻+緑釉というのが黄瀬戸と基本的に同じだ――そう直感されたのです。影響関係があったかどうかは分かりませんでしたが、よく似ていることは疑いありません。その図版解説をお書きになったのは、編集担当の三上次男先生です。東部内モンゴルでの体験を〆にされた解説も実にすばらしく、感動的美しさに2度も訪ねた内モンゴル希拉穆仁シラムレンの風景を思い出しながら、早速使わせてもらうことにしたんです。

しかし『世界陶磁全集』13には、所蔵者が書いてありませんでした。実際に見てみたいなぁと憧れ続けて23年――ついに邂逅のチャンスに恵まれたんです。しかもお手伝いしている出光美術館で開かれた「出光美術館の軌跡 ここから、さきへⅢ 日本・東洋陶磁の精華――コレクションの深まり」の内覧会においてですよ!! その瞬間残りの陳列を見ることなく、「僕の一点」はこれだ!!と決めたのでした。




 

追悼 篠山紀信さん2


 先日も大嶋さんは、土曜日be版「サザエさんをさがして」の「投票率」と題する回を担当、おもしろい分析をされていました。しかし「精算や細かい事務が苦手。会議も嫌い……万事ダメダメの記者だが選挙だけは行く。歯を磨かないのと同じで、なんだか気持ちが悪いのだ。いや、それなら、精算は遅くても気持ち悪くないのか? と経理に突っ込まれそうだが……」とのこと、一度ぜひお会いしてみたいと思わせるエディターです。

その大嶋さんがつけた見出しは、「時の人『激写』 話題の中心に」――あるときは被写体以上に「時代の寵児」となったキシンさんを的確に表わした11文字でした。大嶋さんに向って、「面白い企画があったらタダでやるよ」といったキシンさんの言葉が引用されていますが、頼まれた仕事を何となくこなしてきた僕とは、やはり類を異にするクリエーターだったんです!!

 ヤジ「オマエと篠山紀信とを比べたりするな‼」

出光美術館「トプカプ・出光競演展」2

  一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。  日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して 100 周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮...