2022年9月30日金曜日

久米美術館「久米桂一郎日本絵画コレクション展」4

 

 「僕の一点」は瀧和亭の「菊石図」ですね。和亭のすぐれた描写テクニックが遺憾なく発揮されています。画品きわめて高きものがあります。とても佳い漢詩の賛が加えられています。いま近代南画の評価はけっして高くありません。いや、有り体にいえばかなり低いのです。

しかしこのような作品を見ていると、もう少しチャンと見直すべきではないかといった感慨にとらわれます。確かに鬼面人を驚かすようなケレンもありませんし、刺激的な派手さにも欠けています。しかも一般的には知名度の低い画家がほとんどですから、仕方がないのかも知れませんが……。

2022年9月29日木曜日

久米美術館「久米桂一郎日本絵画コレクション展」3

 

洋画家・久米桂一郎は20歳でフランスに美術留学し、帰国後は黒田清輝らとともに明治期の美術界を牽引する一人でした。久米がその晩年に多くの日本絵画を蒐集していたことは、これまでほとんど知られていません。このたび小林忠・学習院大学名誉教授による監修の下コレクションの全貌が明らかになり、初公開のはこびとなりました。狩野派・琳派から文人画、中国絵画など、絵描きの審美眼が選び抜いた名品をご鑑賞ください。

 そうなんです!!「饒舌館長」でもお馴染みの小林忠さんが監修されたんです!! オープニング・セレモニーの案内をいただき、101日にオープンする静嘉堂文庫美術館新ギャラリー――コミュニケーション・ネーム「静嘉堂@丸の内」の仕事もソコソコに参上したのでした。

2022年9月28日水曜日

久米美術館「久米桂一郎日本絵画コレクション展」2


 近代歴史学の祖・久米邦武と、その長男で近代洋画をリードした久米桂一郎を記念する久米美術館には、もちろん桂一郎の傑作がたくさん所蔵されているわけですが、恥ずかしながら今回はじめてお邪魔したという次第なんです。開館はちょうど40年前の昭和57年(1982)だというのに……。

饒舌館長の印象に残っている久米桂一郎の作品は、かつて三重県立美術館で見た「秋景下図」という作品ただ一点です。タイトルに「下図」とありますが、よく描き込まれ、サインも入っていて、完成画のように見えるのが不思議でした。しかし今回ネットで調べると、久米美術館にこの完成画らしい作品が収蔵されているようなので、やはり下図なのかな? 

いよいよ始まった「久米桂一郎日本絵画コレクション展」のチラシをそのまま引いておくことにしましょう。

2022年9月27日火曜日

久米美術館「久米桂一郎日本絵画コレクション展」1

 

久米美術館「久米桂一郎日本絵画コレクション展 明治の洋画家が愛した日本美術」

 目黒の久米美術館で「久米桂一郎日本絵画コレクション展 明治の洋画家が愛した日本美術」の「前期展 文人画・写生画・近代日本画を中心に」が始まりました。1023日までです。続いて「後期展 狩野派・琳派・浮世絵を中心に」<1029日~1127日>が開かれます。

かつてジャン・カルロ・カルツァさんが主宰したシンポジウム「20世紀の日本美術」で、黒田清輝について口頭発表をしたことがあります。桂一郎については、そのとき清輝と一緒にチョット調べたことがあるといった程度なんです。というわけで、饒舌館長も饒舌になれないのが至極残念です()

2022年9月26日月曜日

与謝野晶子私論22

(正岡)子規子は集むるよりも寧むしろ選ばんと欲し、彼(鉄幹)は選ぶに遑いとまあらずして大おおいに喚さけび大に致す、故に子規の事業が時間的に永からんとするに反して、彼が事業は空間的に大ならんとす。

今の世詩人文人、凡庸の頭顱とうろ累々、桝ますを以て量はかるべし、その中より天才を求むれば、散文家として泉鏡花、韻文家としては鳳晶子の二人あるのみ。

鉄幹と晶子の詩を比ぶるに、似たもの夫婦の関係にあらずして、乳兄弟の関係にあり。四季中晶子は最も春を愛し、鉄幹は最も夏を愛すといふ。要するに二人の詩は積極的なり。……秋旻しゅうびんより悲哀を看取せざるところ、彼等が楽天的なる所以ゆえんにして、東洋詩人としては愈いよいよ珍しといふも是に在り。

 

2022年9月25日日曜日

与謝野晶子私論21

 

『小島烏水全集』をほとんど一人で、しかもものすごい緻密さをもって校訂と編集を行なったのは、名著『小島烏水 山の風流使者伝』を著わした近藤信行先生です。先々月『朝日新聞』の死亡記事で、717日に91歳でお亡くなりになったことを知りました。月報エッセー執筆の機会を与えていただいたことを改めて感謝するとともに、こころからご冥福をお祈りしたいと存じます。

小島烏水の「与謝野鉄幹と鳳晶子」も、鉄幹・晶子研究者にはよく知られているのでしょうが、一般的にはどうでしょうか? その数節を掲げながら、この私見、いや、独断と偏見に終止符を打つことにしましょう。

2022年9月24日土曜日

与謝野晶子私論20

 

ここで小島烏水に登場してもらいましょう。名著『浮世絵と風絵画』を著わした小島烏水のほぼすべての著作は、『小島烏水全集』14巻+別巻(大修館書店)にまとめられています。その第14巻月報に、「烏水氏と私」というエッセーを書いた僕にとって、忘れることができない浮世絵研究者です。

しかし一般的には、アルピニストとして有名でしょう。かつて感動をもって観た映画『剣岳 点の記』では、仲村トオルが烏水を好演、いま苦境に耐える香川照之が演じる山案内人・宇治長次郎のライバルとして登場していました。

『小島烏水全集』第3巻に収録される「与謝野鉄幹と鳳晶子」は、烏水も編集をつとめた青年投稿雑誌『文庫』に発表された月旦評で、明治361015日の刊行だそうですから、『みだれ髪』の2年後、文字通りの同時代批評ということになります。

2022年9月23日金曜日

与謝野晶子私論19


 『源氏物語』に次いで、『曽我物語』もお礼を言わなければなりません。長いあいだ僕は、『日本古典全集』の『曽我物語』を使ってきたからです。この編纂者は鉄幹+晶子+正宗敦夫の3人ですが、国文学者で歌人の正宗敦夫が中心となったことは明らかだと思います。しかし晶子と鉄幹が、何らかの形で関与したことは疑いないでしょう。

ちなみに、正宗敦夫は有名な小説家・正宗白鳥の弟です。僕にとっては富岡鉄斎の研究家として親しい洋画家・正宗得三郎の兄です。正宗敦夫は収集典籍を保存するため、現在に伝わる正宗文庫を創設しました。江戸絵画史とも関係浅からず、キコウ本である浦上玉堂の『玉堂琴士集』前集・後集の揃いと、玉堂七弦琴を所蔵している文庫として知られています。

2022年9月22日木曜日

与謝野晶子私論18

 

しかし「著者の資料分析や考証を読者が共に追いかける記述は、学術書という定義を越え、上質な推理小説を読むに似た興奮を与える」そうです。『朝日新聞』の記事でも、本のタイトルより大きな活字で「上質な推理小説 読むような興奮」という見出しがつけられています。最後に「!!」をつけるともっと効果的であったような気もしますが()、洛陽の紙価の高まらんことを!!

神野藤昭夫さんという珍しいお名前も今回はじめて知りました。『晶子源氏』で省エネをはかったような饒舌館長とは月とスッポン、きわめて真摯な国文学研究者であることを、澤田瞳子さんが教えてくれました。

2022年9月21日水曜日

与謝野晶子私論17

 

先日の『朝日新聞』読書欄に、神野藤かんのとう昭夫さんの新著『よみがえる与謝野晶子の源氏物語』(花鳥社 4180円)の書評が載っていました。評者は小説家の澤田瞳子さんです。澤田さんは去年直木三十五賞を受賞されましたが、その前に発表した『若冲』も大変話題になり、僕も興味深く拝読いたしました。

お母さんは同じく小説家の澤田ふじ子さんです。10年ほど前、そのコレクションを京都のご自宅で拝見したことが、いま懐かしく思い出されるのです。瞳子さんは『よみがえる与謝野晶子の源氏物語』を評して、「彼女の教養の中核を成した作品は源氏物語であると喝破した上で、晶子が挑んだその訳業の実像に迫る学術書」と見立てています。

2022年9月20日火曜日

与謝野晶子私論16

 

上の写真は、僕が持っている角川文庫版『全訳 源氏物語』、つまり『晶子源氏』の上巻カバー――いわゆる「隆能源氏」(国宝源氏)の「柏木 二」が使われています。もっともこれは、ヤフー画像から盗ったものですが()

奥付をみると、昭和50年の改版11版というバージョンで、発行者は「角川源義」となっています。角川文庫版は上中下の3冊からなっていますが、平成に入ってから下巻がなくなっていることに気づき、ソク買い求めました。

するとカバーが、田辺ヒロシのカッコいいイラストに変わっているではありませんか。今や「隆能源氏」じゃ~売れないのかな? それはともかく奥付をみると、発行者は角川春樹となっています。「角川源義」「角川春樹」――キョウビときどき目にするお名前ですね。「角川歴彦」ほどじゃ~ありませんが(!?)




2022年9月19日月曜日

与謝野晶子私論15


 僕にとっての与謝野晶子は、何よりも『与謝野源氏』――池田亀鑑先生によれば『晶子源氏』の筆者として大きな位置を占めています。昭和51年(1976)『日本美術絵画全集17 尾形光琳』(集英社)を編集したとき、安田靫彦画伯が愛蔵していらっしゃった「秋好中宮の侍女図」をカラー図版の一点に選びました。

その解説に、「女人の心をもって女人の心を見つめ、千年の時を隔てて近代によみがえらせることに成功した与謝野晶子『源氏物語』から、その部分を掲げてみよう」とパクった上、延々と引用して省エネをはかったんです() それ以来、この『晶子源氏』――角川文庫版『全訳 源氏物語』に、どれ位お世話になったことでしょうか。


2022年9月18日日曜日

与謝野晶子私論14

『文壇照魔鏡 第壱 与謝野鉄幹』が下品なシロモノだったとはいえ、鉄幹にまったく非がなかったわけではないでしょう。さすがのお聖さんも、そのなかの数箇条については、「それらはみな事実であるが、書きようによってはスキャンダルになるもの」と言わざるを得ませんでした。

しかし心やさしいお聖さんは、なぜ鉄幹がそうなったのか、文学的情熱から解釈し、心理的側面から丁寧に解き明かそうとしています。なるほどそういうことだったのかと腑には落ちますが、なぜあんなに女性の心を燃え上がらせることができたのかという疑問は、最後まで残ったのでした。

 ヤジ「結局はただうらやましいだけなんじゃ~ないの?」

 

2022年9月17日土曜日

与謝野晶子私論13


 これを書いたのは、小説家の田口掬汀だといわれているそうです。掬汀は美術評論家でもあり、美術史業界では美術雑誌『中央美術』を創刊し、鏑木清方、吉川麗華、平福百穂らを誘って美術団体「金鈴社」を結成したことでよく知られています。

掬汀は秋田の出身、同県人の饒舌館長は鉄幹と晶子に対し、今さらですが深くお詫びしたいと存じます――秋田を代表して(!?) 

当時、秋田出身の佐藤義亮が立ち上げた新声社があり、『明星』を刊行する鉄幹の東京新詩社と覇を競っていました。おそらく地縁から、掬汀はこの新声社に入ったのです。実際に書いたのが掬汀だったとしても、このような文学界の覇権争いが背景にあってのことでしょう。

新声社はのちに現在の新潮社に発展しました。角館にある新潮社記念文学館は、その資料を広く公開する施設で、秋田県立近代美術館ディレクター時代、お邪魔したことを懐かしく思い出します。

2022年9月16日金曜日

与謝野晶子私論12

どうして鉄幹はあんなにもてたんでしょう。『千すじの黒髪』を読むと、鉄幹は常軌を逸した男性でした。チョット意地の悪い言い方をすれば、そしてそれを今風にいえば、セクハラ常習犯であり、DV男であり、適応障碍であり、瞬間湯沸かし器でした。

明治34年春、『文壇照魔鏡 第壱 与謝野鉄幹』という小冊子というか、怪文書が出回りました。鉄幹への誹謗中傷・罵詈雑言で埋め尽くす、きわめて下品なシロモノでした。発行所もその代表者も架空の名前でした。お聖さんは、「寛(鉄幹)を葬るつもりの悪意ある文章」と書いています。


 

2022年9月15日木曜日

与謝野晶子私論11

 

ブッチャケていうと、僕が知る鉄幹の歌は、高野公彦編『現代の短歌』(講談社学術文庫)に載る30首ほどだけでした。これに漏れている一首だけに、ことさら心に沁みたのかもしれません。

しかしこの一首は、鉄幹を理解するための鍵となる三十一文字のように思われてなりません。鉄幹の一生と文学はここに収斂していくんだといっても、言いすぎではないような気がします。男として何と潔く、美しく、セクシーなのでしょう。

 人の屑くずわれ代り得ば今死なむ天の才なる妻の命に

2022年9月14日水曜日

与謝野晶子私論10

いや、晶子の方が自分よりずっと才能に恵まれていることを、鉄幹は最初から見抜いていました。だからこそ、鉄幹は晶子に接近したのでしょう。その意味で、鉄幹はすぐれた教育者でした。研究教育においても、教え子の才能を発見し、認め、褒めてやることが何よりも重要だと思います。

 ヤジ「オマエは発見しすぎ、認めすぎ、褒めすぎじゃ~ないの!?」

 渡辺淳一は、晶子が晩年狭心症で倒れたとき、鉄幹が詠んだきわめて印象深い一首を、著書『君も雛罌粟こくりこわれも雛罌粟 与謝野鉄幹・晶子夫妻の生涯』(文藝春秋 1996年)に引いています。 

2022年9月13日火曜日

与謝野晶子私論9

 

これを読みながら僕は、谷崎潤一郎の『痴人の愛』を思い出していました。譲治はトランプゲームの遊び方を知らないナオミに教えてやります。ナオミが少し覚えると、わざと負けてやったりするのですが、やがてナオミは強くなり、譲治がいくら本気で頑張っても、どうしても勝てなくなってしまうのです。

お聖さんは先生であったはずの鉄幹が、やがて晶子の影響を受けるようになったことを指摘していますが、こうなると鉄幹がいくら頑張っても、晶子を超えることは絶対不可能だったでしょう。

2022年9月12日月曜日

与謝野晶子私論8

 

三人だけではなく、さらに何人かの忘れがたき女流歌人も、すぐれた歌を詠むためにみずから進んで不幸と苦難を希求しているように思われてなりません。もちろん、この不幸と苦難というのは凡人が見立てるところであり、世俗的という意味であって、彼女たちが住む理想の精神的世界では、不幸や苦難どころか至福であり、悦楽だったにちがいありません。いずれにせよ、すべては歌のためだったというのが私見です。

 『みだれ髪』以後、晶子が大きく羽ばたいていくのに反比例するように、鉄幹は輝きを失っていきました。「晶子の夫」になっていきました。もちろん、晶子は鉄幹の才能を信じていました。そのあたりの心理を、お聖さんは実にうまく表現しています。

2022年9月11日日曜日

与謝野晶子私論7

 

鉄幹の男性的魅力と文学的思想に惹かれたためですが、晶子にはあえて幸福を捨てるという強い決意があったように思われてなりません。それはひとえに、すぐれた歌を詠むためだったのではないでしょうか。居心地のいい生活からは、けっして生まれなかったのです。

晶子は幸福をみずから断ったのです。苦難をすすんで求めたのです。すべては短歌のためでした。親が勧める手代の定七と結婚すれば、幸福は得られたでしょうが、『みだれ髪』は生まれなかったでしょう。それは晶子の弟子ともいうべき三ヶ島葭子よしこや岡本かの子にも、うかがわれるのではないでしょうか。

 今にして人に甘ゆる心あり永久とわに救はれがたきわれかも   葭子

 むづかゆく薄らつめたくやや痛きあてこすりをば聞く快さ   かの子


2022年9月10日土曜日

与謝野晶子私論6

 

一方、『千すじの黒髪 わが愛の与謝野晶子』(文藝春秋 1972年)を著わした田辺聖子さんは、『みだれ髪』以後もたえず流動し、変貌し、おとろえをしらない晶子短歌を高く評価しています。もちろん、お聖さんファンの饒舌館長としてはこれに1票を投じます。日夏耿之介はすぐれた批評家でしたが、「なしくづし」は勇み足でしたね。饒舌館長もときどき犯すナイモノネダリというヤツかもしれません。

 これに先立つ明治32年、鉄幹は恋愛関係にあった浅田信子さだこと別れると、ソク徳山女学校の教え子・林瀧野と結婚、男の子・萃あつむをもうけました。しかし34年には瀧野と別れて、これまたソク晶子を迎え入れました。晶子は家族と故郷を捨てて、鉄幹のもとへ走ったのです。


2022年9月9日金曜日

与謝野晶子私論5

 

『みだれ髪』の輝きがあまりに強かったために、その後の晶子短歌に対する評価が低くなることはやむを得ないでしょう。日夏耿之介は「『みだれ髪』の浪漫的感覚」(『明治文学全集』51)において、この歌集を「30年代浪漫思潮正嫡の美の感覚至上的高揚」であったと褒めたたえつつ、次のように厳しい結論を下しています。

この天才の女詩人はその受けて生まれたる天与を夙はやく五月兎のような多産の間に消耗してそのかけらを後期に持ち伝えたにすぎなかった。すなわち、与謝野氏晶子女士は天才のなしくづしで終った惜しむべき天縦の逸才の一人であった。

2022年9月8日木曜日

与謝野晶子私論4

 

須田寛さんといってもご存じない方がいらっしゃると思いますが、電車のシルバー・シート、いまの優先席の発案者といえば、ぐっと親しみを感じていただけるのではないでしょうか?

いま「ヌードと春画」の続編を、『みだれ髪』を加えて書きたい気持ちになっています。先の『心の花』誌上合評会で、ある美術家が『みだれ髪』の歌を絵にすると春画になると述べているからです。これにスポットライトを当てて書けば、結構おもしろい一編ができあがるでしょう。

ヤジ「またまた独断と偏見、妄想と暴走じゃないの?」


2022年9月7日水曜日

与謝野晶子私論3

 

じつは腰巻き事件をテーマに、3年ほど前「ヌードと春画」というエッセーを雑誌『視覚の現場』の第1号に書きました。すでに「饒舌館長」にもアップしたことがあると思います。『視覚の現場』は僕も尊敬してやまない洋画家・須田国太郎の遺志と、その志を実現に導いたご子息・須田寛さんの支援によって発行される美術雑誌です。

発行者は「一般財団法人 きょうと視覚文化振興財団」ですが、その代表者である原田平作さんが、独力で編集発行を行なっているような感じがします。醍醐書房を立ち上げ、『視覚の現場』や『美術フォーラム21』を発行して、美術文化の活性化に私財を投げ打つ原田さんには、ただただ頭の下がる思いです。

2022年9月6日火曜日

与謝野晶子私論2

 

フランスで制作した「裸体婦人像」(現 静嘉堂文庫美術館蔵)を携えて帰国した黒田清輝は、この年秋に開かれた第6回白馬会展に、これを出陳しました。すると猥褻わいせつであるという非難が起こって、撤去すべしという意見さえありましたが、下半身の部分をあたかも腰巻きのごとくに布で隠して展示を続けるという妥協案に落ち着きました。

乱倫の書とさえ非難された『みだれ髪』の出版と腰巻き事件が、ともに明治34年であったというのは、とても象徴的であり、興味深いことだと思います。それだけではありません。前年の11月、鉄幹が主宰する文芸雑誌『明星』は、掲載した裸体画のために発禁処分を受けているんです。


2022年9月5日月曜日

与謝野晶子私論1


 静岡県富士山世界遺産センター特別展「与謝野晶子没後80年 与謝野寛・晶子と富士山、静岡の文学」は昨日で終ってしまいました。しかし紹介しているうちに、愛してやまない与謝野晶子について、没後80年を記念して(⁉)独断と偏見、妄想と暴走をアップしたい気持ちになってきました。お許しいいただきたく存じます

『みだれ髪』は薄田泣菫や上田敏、森鴎外のように評価した文学者もありましたが、大半は「酷評」であり「石つぶて」だったそうです。すでに高山樗牛と佐々木信綱の酷評を紹介しました。ここで日本美術史をナリワイとしている饒舌館長は、同じ明治34年に起こったいわゆる「腰巻き事件」を思い出すんです。

2022年9月4日日曜日

富士山世界遺産センター「与謝野晶子と富士山」7

 

静岡県富士山世界遺産センターで開催されている「与謝野晶子没後80年 与謝野寛・晶子と富士山、静岡の文学」は、とても充実した内容を誇っています。饒舌館長もたくさんのことを学ばせてもらいました。実は今日4日で終わりなんですが……。

この展覧会タイトルも、一見して内容が分かる点ですごくいいものです。しかし、このごろやたらと七五調や和歌調のタイトルを拙文駄文につけて悦に入っている饒舌館長は、やはり晶子・鉄幹展であることに思いを馳せ、オセッカイながら次のようなタイトルを考えてみました。

  与謝野晶子と夫つま鉄幹――富士・静岡の旅と歌――

ヤジ「今日で終わっちゃうのに、そんなものを考えて何になるんだ!!

2022年9月3日土曜日

富士山世界遺産センター「与謝野晶子と富士山」6

 

佐々木信綱は、「人心に害あり世教に毒あるものと判定するに憚らざるなり」「娼妓、夜鷹輩の口にすべき乱倫の言を吐きて淫を勧めんとする」と口をきわめてけなしたそうです。

もっとも、渡辺淳一氏の『君も雛罌粟こくりこわれも雛罌粟 与謝野鉄幹・晶子夫妻の生涯』(文藝春秋 1996年)によると、この酷評は『心の花』に載った合評会における「蘇張生」なる人の発言で、信綱とは断定できないようです。しかし『心の花』は、信綱が主宰する短歌雑誌でしたから、信綱が『みだれ髪』に批判的であったことは疑いないでしょう。 

ところが1世紀近く経って、信綱の孫にあたる佐々木幸綱さんのもとから、晶子と同じく恋を歌って若い人から圧倒的支持を受けた口語短歌のスター・俵万智さんが誕生したんです。じつに愉快じゃ~ありませんか。


2022年9月2日金曜日

富士山世界遺産センター「与謝野晶子と富士山」5

 

僕の晶子イメージは、尊敬して止まない田辺聖子さんの『千すじの黒髪 わが愛の与謝野晶子』(文藝春秋 1972年)によって形作られています。

そのほか二、三読んだものもありますが、何といってもお聖さんです。「わが愛の与謝野晶子」ならぬ「わが愛の田辺聖子」については、3年前お亡くなりになったとき、その著『姥ざかり花の旅笠 小田宅子の<東路日記>』の思い出とともに、熱く語ったことがあるように思います。

『千すじの黒髪』を読んでいくと、高山樗牛の「<みだれ髪>は一時奇才を歌はれたれども、淫情浅想、久うして堪ゆべからざるを覚ゆ」という批判が引かれています。

2022年9月1日木曜日

富士山世界遺産センター「与謝野晶子と富士山」4

 

ゾロメの明治33年はジャスト1900年、この年から雑誌『明星』に発表された歌を中心に399首が選ばれ、翌明治34年に『みだれ髪』が出版されました。代表歌であり、また僕がもっとも好きな「その子二十はたち櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」は、6番目に載っています。

『みだれ髪』は当時の青年たちから熱狂的に迎えられ、現在、ロマン主義文学の最高傑作、近代短歌史上の金字塔であることを疑う人はいないでしょう。しかし発表当時、専門家の評価はけっして高くありませんでした。

出光美術館「トプカプ・出光競演展」2

  一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。  日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して 100 周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮...