2024年6月23日日曜日

太田記念美術館「国芳の団扇絵」8

 

しかしさらに筆が進んで、日本の男は醜いが、女は別人種のように美しくて優れていると書いた、モラエスやアーノルドやゴードン・スミスのような西欧人もいました。スミスは「この国ではひとりとして恰好いい男を見かけない。ところが女のほうはまるで反対だから驚いてしまう」と書いているそうで、「この野郎!!」と叫びたいような気持ちになります() 

彼らはこの「猫と遊ぶ娘」のような浮世絵で見ていたムスメが、極東の日本へ来てみると本当にいることを知って驚いたのかもしれません。

もしこれを機会に、『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)を読んでみようと思われた方がいらっしゃったら、一番愉快なこの第9章「女の位相」から始めることをおススメします。何しろ全部で604ページもありますから、ツードクはしなくたって構わないでしょう。それよりもツンドクになる可能性は十分ありかな(!?)

2024年6月22日土曜日

太田記念美術館「国芳の団扇絵」7

 

開国したこの国を訪れた異邦人の“発見”のひとつは、日本の女たちそれも未婚の娘たちの独特な魅力だった。ムスメという日本語はたちまち、英語となりフランス語となった。オイレンブルク使節団の一員として1860年初めてこの国の土を踏み、62年領事として再来日、72年から75年まで駐日ドイツ公使をつとめたブラントのいうように、「ムスメは日本の風景になくてはならぬもの」であり、「日本の風景の点景となり、生命と光彩を添え」るものだった。

渡辺京二先生が伝える西欧人の日本礼賛には、いくらなんでも買いかぶりすぎじゃないのと思われる言辞、こちらがこそばゆくなるような文章が少なくありませんが、ブラントをはじめとする日本ムスメ、さらには日本女性に対するオマージュには、「異議なし!!」と叫びたいような気持ちになります。

2024年6月21日金曜日

太田記念美術館「国芳の団扇絵」6

 

この「猫と遊ぶ娘」のマニエラもやはり歌麿美人だと思います。「台所四美人」における茄子(?)の皮をむく女房の茄子をネコに変えれば、「猫と遊ぶ娘」出来上がるというわけです。これに限らず、両手を前方に伸ばす美人は、歌麿が愛して止まないフォルムでした。これらが国芳にとって、重要なマニエラになったんです。

前髪を結ぶ緋色の飾り裂きれにより、彼女が芸者や遊女ではなく、おそらくは商家の娘であることが分かります。面長の典型的国芳美人ですから、もう少し年のいった女性に見えますが、キャッチコピーにある「チャキチャキ娘」なんです。

このころの日本娘は本当に可愛らしかったらしい。もちろん今も変わりありませんが……。幕末明治期、我が国へやってきた西欧人が、ひとしなみに魅了されたことを、渡辺京二先生の名著『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)が教えてくれます。その第9章「女の位相」は、つぎのように書き始められています。

2024年6月20日木曜日

太田記念美術館「国芳の団扇絵」5

 


また永井荷風は、「余の友人板倉氏の説に国貞の風俗画の佳良なるものは歌麿の画題と布局とを其の侭に摸写したるもの多しとぞ」と述べていますが、僕のみるところ、国芳も喜多川歌麿からとても強い影響を受けています。

もっともよく知られているのは、国芳の大首絵シリーズ「山海愛度図会」の「けむつたい 丹波 赤かゐる」です。そのイメージソースとなったのは、歌麿の二枚続き「台所四美人」でした。画面右奥一人の女房が茶碗にお湯を汲もうとしたところでしょうか、もう一人の女房が火吹き竹で吹いたかまどからの煙に顔をしかめています。

国芳はこの女房だけを取り出し、国芳風にメタモルフォーゼさせて「けむつたい」を創り出したのです。このような例は少なくありません。歌麿美人が国芳のお手本に、業界用語でいうマニエラになっているんです。こんな点から、国芳はマニエリスムの画家であり、江戸後期はマニエリスム浮世絵の時代だという独断と偏見をかつて発表したことがあるんです。

2024年6月19日水曜日

太田記念美術館「国芳の団扇絵」4

 

吾妻橋の上にたたずむ二人を想像すると、永井荷風という一人の人間をいとおしく思う気持ちがいや増すのを覚えますが、もちろんこれを汚けがらわしく感じる方も、だから荷風は嫌いだという人もいらっしゃるでしょう。

この荷風に名著『江戸芸術論』があります。そのなかに「衰頽期すいたいきの浮世絵」という評論が収められています。荷風は「国芳に於ては時として西洋画家の製作に接する如き写生の気味人に迫るものあるを見る。国芳の写生の手腕は葛飾北斎と並んで決して遜色あるものにあらず」と、いま「饒舌館長ブログ」にアップ中の歌川国芳をたたえています。しかし総体としては、この時代の浮世絵をあまり評価していないのです。

時世は最早もはや文政天保以後の浮世絵師をして安永天明時代の如く悠然として製作に従事する事を許さヾるに至れり。錦絵は歌麿以後江戸随一の名産と呼ばれ美術の境を出でゝ全く工芸品に属し、絵本は簡単なる印刷出版物となりぬ。浮世絵は社会の需用あまりに多くして遂に粗雑なる商品たるの止むなきに至りしなり。五渡亭国貞一勇斎国芳以下の豊国門人、また菊川英山、……は不幸なる此の時代を代表すべき画工たり。

2024年6月18日火曜日

太田記念美術館「国芳の団扇絵」3

 

今日は618日です。ジャスト75年前、昭和24年(1949)の今日、大好きな永井荷風は『断腸亭日乗』に次のごとく書き残しています。

晴。夕刻いつもの如く大都劇場に至る。終演後高杉由美子らと福嶋喫茶店に小憩し地下鉄入口にて別れ独ひとり電車を待つ時三日前の夜祝儀を若干与へたる街娼に逢ふ。その経歴をきかむと思ひ吾妻橋上につれ行き暗き川面を眺めつつ問答すること暫くなり。今宵も参百円ほど与へしに何もしないのにそんなに貰つちやわるいわよと辞退するを無理に強ひて受取らせ今度早い時ゆつくり遊ばうと言ひて別れぬ。年は廿一、二なるべし。その悪ずれせざる様子の可憐なることそぞろに惻隠そくいんの情を催さしむ。不幸なる女の身上を探聞し小説の種にして稿料を貪むさぼらむとするわが心底こそ売春の行為よりかえつて浅間あさましき限りと言うべきなれ。

2024年6月17日月曜日

太田記念美術館「国芳の団扇絵」2

 

国芳の団扇絵はほぼ600点あるそうですが、そのうちの220点を前期・後期に分け「総入れ替え」で展示するというんですから、ハンパじゃありません。とはいえ100点以上の団扇絵だけを、コレデモカといった調子で見せられたらウンザリするんじゃないかとお思いになるでしょう。しかしさすが国芳です!! 千変万化して見飽きることはありません!!

「僕の一点」は、チラシのメインイメージにもなっている「鏡面シリーズ 猫と遊ぶ娘」ですね。娘が猫の手を取って踊りを踊らせているシーンですが、それを鏡に映して楽しんでいるんです。ネコの方はあまり乗り気じゃ~ない感じもしますが()、ネコ浮世絵師・国芳の本領が遺憾なく発揮された団扇絵になっています。画面右端の三日月型は、丸鏡の黒漆でできた縁に、しゃれた模様の覆い布がかかっていることを表わしているようです。

2024年6月16日日曜日

太田記念美術館「国芳の団扇絵」1

 

太田記念美術館「国芳の団扇絵うちわえ 猫と歌舞伎とチャキチャキ娘」<728日まで>

見てヨシ、推してヨシ、あおいでヨシ! 歌川国芳は多彩なジャンルで活躍した浮世絵師です。本展はその国芳の、団扇絵と扇だけをご覧いただく世界で初めての展覧会です。団扇は、江戸っ子の夏の必需品であっただけでなく、デザインを楽しむお洒落のアイテムでもあり、また歌舞伎ファンには大事な推し活グッズでもありました。これを作るための浮世絵である団扇絵には人気絵師も筆をふるい、国芳も猫の戯画や役者などを描いています。なかでも女性をとらえた作品は数多く、団扇でははつらつとした国芳美人が好まれたようです。展示総数は初紹介作品を含めて220点、目にも楽しく涼やかな団扇絵の世界を存分にお楽しみください。

 これはチラシに刷られたパブリシティですが、「世界初!」というのがウリのようですね。チラシの裏にも「世界初! 団扇絵だけの国芳展」というキャッチコピーが大きく印刷されています。

2024年6月15日土曜日

富士山世界遺産センター「合目のハナシ」7

 

 今回無理をいって、アマゾンじゃ~ゲットできない石川忠久先生監修の『富士山漢詩百選』(静岡県文化・観光部発行)をゲットしました。去年アップした尾形光琳筆「夢中富士図」(サンリツ服部美術館蔵)と詩画一対となるような、服部南郭「夢に富岳に遊ぶ 二首 其の一」が載っていたのでうれしくなり、さっそく戯訳を試みてみました。大好きな中唐の詩人・李賀の「夢天」みたいな雰囲気もすばらしい!! 「浴池」を明見湖あすみこに当てたのがミソといえばミソかな()

  夢の中では万丈の 神山 踏破も簡単だ

  理想の国を一望に 眺めることも容易なり

  蓮がささえてくれるよう 沐浴すれば明見湖あすみこで……

  雪をくだいて食べてみりゃ 清浄なる露そのものだ

  提灯ちょうちんの火影 星宿を 貫き天の川までに……

  暗雲 鵬とりの翼はねのごと 冷え冷えとした海 覆ってる

  もともとすごい仙術を 自在に使える俺だから

  歌舞 盛り上がる天帝の 宴会だって飛んでける

2024年6月14日金曜日

富士山世界遺産センター「合目のハナシ」6

 

それはともかく、1合目から始まっているのは、ゼロという概念がなかったためであるという大高さんの解説を聞きながら、僕はちょうど満年齢と数え年の違いを思い浮かべていました。

ものごとは1から始めた方が分かりやすく、合理的だというのが持論です。とくに富士山の場合、1合目から始めれば頂上の10合目まで10区分されてスッキリしますが、ゼロ合目の登山口から始めると11区分となり、ハンパな数になってしまいます。十干より1多く、十二支に1足りない数なんて、霊峰にふさわしくありません(!?)

先に紹介した合目胎生説に引っ掛けていうわけじゃ~ありませんが、かつて娘が生まれたとき、ゼロ歳といわれると可愛い娘がまだ女房のお腹のなかにいるようで、変な気持ちになったものでした。現に僕が抱っこしているんですから、娘はゼッタイ1歳なんです()

2024年6月13日木曜日

富士山世界遺産センター「合目のハナシ」5

 

この「合目」という数え方は富士山に始まり、これがほかの山にも広がったようですが、日本各地にたくさんの○○富士があることと無関係ではないでしょう。わが国山岳文化の中心には、つねに富士山が存在していたことのエビデンスであるように思われます。

今は富士宮、御殿場、須走、吉田のどのルートも5合目から登るようになっていますが、もちろんかつては1合目から始まっており、その前に登山口がありました。つまり登山口はゼロ合目に当たるわけです。

さらに近代以前は、とくに登山口が決まっておらず、1合目から始まっていたそうです。おそらくこの発端は修験者だったでしょう。登山の目安として、分かり易く10に区分することが修験者のあいだで始められたのではないでしょうか。それが江戸時代に富士講が流行し、富士登山が庶民化するとともに定着していったのではないでしょうか。


2024年6月12日水曜日

富士山世界遺産センター「合目のハナシ」4

 

このような1合枡から「合目」が生まれたことは、疑いなきことのように思われました。1合枡の「合」に、順番であることを示す接尾辞の「目」がくっついて「合目」が生まれたのでしょう。合目と合目の間はさらに10に分けられ、その区切りを「勺」と呼んだそうですから、いよいよもって確実だということになります。

しかしフォルムの相似だけではなく、お米つまり瑞穂と瑞穂の国日本を象徴する富士山とは相性がよかったことでしょう。このダブル・ミーニングの方が強かったかもしれません。

ふじさんミュージアム所蔵「舛形牛玉図」の写真も出ていましたが、この枡のお米はすり切りになっていて、盛り上がっていなかったからです。これじゃ~フォルムが一致しているとはいえません。つまり瑞穂(お米)を1合、2合と量っていって、10合になると1升となります。「升」は「昇」と同じ意味ですから、そこで瑞穂の国を象徴する富士への登頂が成就したことになるというのが独断と偏見です( ´艸`)


2024年6月11日火曜日

富士山世界遺産センター「合目のハナシ」3

これらのなかでもっとも有力なのは①で、大高さんもこの説でしたし、僕も①かなぁと思いました。それを証明するような万延元年(1860)の「舛形牛玉図ますがたごおうず」(富士山世界遺産センター蔵 旧鈴木コレクション)が展示されていたからです。この年の干支は庚申かのえさるでしたが、そのためか「舛形牛玉図」がたくさん売り出されたようです。庚申の年には政治的変革が起こり、世が乱れやすいと信じられていたんです。

この「舛形牛玉図」をみると、3匹の猿に取り囲まれた1合枡ますにお米が山盛りに盛ってあるのですが、その形が美しいコニーデ型の富士山とソックリなんです。その向こうには、白雪をかぶった本当の富士山が描かれています。

上掲はネットから頂戴したイメージで、富士山世界遺産センター所蔵本ではありませんが、基本的に同構成だといってよいでしょう。

 

2024年6月10日月曜日

富士山世界遺産センター「合目のハナシ」2

 

 なぜ登山道における途中の通過点を「合目」というのでしょうか? 直接的に第○高度とか、札所のように第○番とか、あるいは山小屋と関連づけて第○宿とかいうなら分かりますが、「合目」とは一体どういう意味の標識なのでしょうか。『広辞苑』にも「丁目」という項目はありますが、「合目」はありません。しかしこれは古くから疑問になっていたらしく、井野辺茂雄氏の『富士の研究』という本には、5つの説があげられているそうです。

①舛形牛玉図ますがたごおうずによるとする説、②仏教で長い時間の単位である「劫」と関係付け、登山の苦を人生の苦になぞらえて「劫」を「合目」と表現したとする説、③人間における胎生までの10ヶ月と関係づける説、④噴火口の形を、米などを蒸すのに用いる器である甑こしきになぞらえたとする説、⑤米や麦を測る呼称を適用したとする説の5説です。

2024年6月9日日曜日

富士山世界遺産センター「合目のハナシ」1

 

静岡県富士山世界遺産センター「富士山の『合目ごうめ』のハナシ」<69日まで>

 先日、静岡県富士山世界遺産センターの運営委員会へ出かけました。会議の前に、企画展示室で開かれている「富士山の『合目』のハナシ」を委員の方々と一緒に見学させてもらいました。あの1合目、2合目という「合目」のハナシだけで、一つの展覧会が構成できるものかどうか、会場の入口では疑問に思いましたが、これがすごくおもしろかったんです!! キューレーションを行ない、解説してくれたのはセンター学芸課教授の大高康正さん、じつにたくさんのことを教えてもらいました。葛飾北斎の富士山を現代風にアレンジしたチラシには……。

現在、静岡県・山梨県の富士山の各登山道にある「合目」の標記――各登山道の各合目の標高は同じではないことを知っていますか? 江戸時代の途中から使われ始めたようですが、同じ登山道でも時代によって各合目は何度も付け替えられているのです! 謎!?の多い富士山の「合目」のハナシ――誰かにきっと話したくなるトリビアを学びましょう!

2024年6月8日土曜日

出光美術館「出光佐三、美の交感」6

 さて、うすにごりの清酒をしぼったあとには酒糟ができるわけですが、山上憶良の「貧窮問答歌」(『万葉集』巻5)には「糟湯酒かすゆざけ」なる酒が登場します。これまた『日本の酒』によると、その酒糟を湯でとかしたもので、塩をさかなに飲んだそうです。きわめてチープな酒にして、だからこそ「貧窮問答歌」に歌われることになったのでしょう。

上島鬼貫うえじまおにつらの「賤しずの女や袋洗ひの水の汁」は、江戸時代、伊丹で新酒をしぼった袋を洗った水を、近所の女房たちがもらって帰り、亭主に飲ませたことを詠んだものだそうです。もちろんこれも「賤の女」の話ですが、やはり江戸時代は貧しかったのでしょう。いや、江戸時代はモノを大切にしていたというべきでしょうか。

 

2024年6月7日金曜日

出光美術館「出光佐三、美の交感」5

 

カタログには「ひとり、濁り酒を飲む旅人のふっくらとした顔は、疎開先の赤倉で自適な生活を送り、好々爺となった放菴の面影に重なります」とあります。しかし面影が重なるだけじゃなく、放菴も上戸だったそうです。もし下戸だったら、こんな素晴らしい旅人像が描けるはずはありません。

先の「讃酒歌」にあるように、旅人が好きだったのは濁り酒だったようですが、描かれた小さなタカツキを見ると空になっていますから、全部飲んじゃったあとなのかな() 坂口謹一郎の名著『日本の酒』(岩波文庫)には、「おそらく当時(奈良時代)造られていた米の酒は、ざるか布でこして、糟かすをはなして、うすにごりの清酒の状態で飲まれていたものであったらしい」とあります。

となると、旅人がわざわざ「濁れる酒」と詠んだのは、この一般的な「うすにごりの清酒」ではなく、やはりドブロクだったように思われます。それにこの一首には、ドブロクこそふさわしいのではないでしょうか。


2024年6月6日木曜日

出光美術館「出光佐三、美の交感」4

 

実はそのときも、この放菴筆「大宰帥だざいのそち大伴旅人卿讃酒像」をイメージとして使わせてもらったように思います。中西進さんの『万葉集<全訳注原文付>』により、改めてはじめの5首をアップしておきましょう。

しるしなき物を思はずは一杯ひとつきの濁れる酒を飲むべくあるらし

酒の名を聖ひじりと負おわせし古いにしえの大き聖の言ことのよろしき

いにしえの七の賢さかしき人どもも慾りせしものは酒にしあるらし

さかしみと物いふよりは酒飲みて酔泣えいなきするしまさりたるらし

言はむすべせむすべ知らず極まりて貴とうときものは酒にしあるらし


2024年6月5日水曜日

出光美術館「出光佐三、美の交感」3

もちろんこの展覧会にも出陳されていますが、ソフトな浦上玉堂という雰囲気があって、これまたすごくいいんです!! 佐三が放菴に興味を抱くようになったのは、このように放菴が佐三の故郷をモチーフにした作品を描いていたからでしたが、それだけではなく、大好きな江戸時代の画家たち、とくに仙厓義梵と有無通じる美意識を感じたためだったそうです。

 大伴旅人は酒仙万葉歌人として有名ですね。「令和」という年号が、旅人により九州・大宰府で開かれた梅見の会――その酒宴で詠まれた「梅花の歌三十二首」の序(『万葉集』巻5)にちなむことは、よく知られるところです。

しかし酒仙旅人といえば、何といっても「讃酒歌<酒を讃むるの歌>」13首(『万葉集』巻3)ではないでしょうか。そこで年号も「令和」じゃなく、「讃酒」にした方がよかったという私見については、かつてアップしたように思います。今年は讃酒6年ということになります()

 

2024年6月4日火曜日

出光美術館「出光佐三、美の交感」2


  「僕の一点」は小杉放菴の「大宰帥だざいのそち大伴旅人卿讃酒像」ですね。先の「ごあいさつ」にあるように、小杉放菴は出光佐三が愛して止まない同時代の画家――コンテンポラリー・アーティストでした。カタログの「関連略年表」によると、両者の親交が始まったのは、昭和5年(1930)のころでした。この年、放菴は49歳、佐三は45歳でしたから、ちょうど兄弟といってもよい年齢差だったことになります。放菴が妙高高原の赤倉に別荘を建て、安明荘と名づけた記念的な年でもありました。

放菴は昭和3年から3年間にわたり、九州各地に旅のワラジを脱ぎました。もうワラジじゃなく靴だったと思いますが……() その成果として、「鎮西画冊」と題する5100余図からなるアルバムが生まれました。




2024年6月3日月曜日

出光美術館「出光佐三、美の交感」1

 

出光美術館「出光美術館の軌跡 ここから、さきへⅡ 出光佐三、美の交感――波山・放菴・ルオー――」<77日まで>

 先にアップした「出光美術館の軌跡 ここから、さきへ」シリーズ展の第2弾です。カタログの「ごあいさつ」から、一部を引用させてもらうことにしましょう。

第二弾となる本展では、当館の創設者・出光佐三(18851981)と同時代を生きた作家たちの活動に、スポット・ライトを当てます。佐三は、日本・東洋の古美術を蒐集することに情熱を傾ける一方で、自分と同じ時代の作家たちと親しく交流し、彼らの制作活動に寄り添いました。その代表的存在が、板谷波山(18721963)と小杉放菴(18811964)の二人です。彼らと佐三の関係は、一方が出資し、もう一方が作品でそれに報いる、というものとはいささか異なります。双方が深い信頼と敬意を寄せつつ、ときに芸術のあるべき姿を語り、互いの感性を深く響かせあった結果として、いくつかの珠玉の作品が生み出されました。

2024年6月2日日曜日

サントリー美術館「名品ときたま迷品」4


 

その土居先生は左隻について、「ポルトガルの根拠地マカオ(澳門)における南蛮人が日本へ出航しようとする直前の情景を表すものかと思われ、露台上に居並ぶ南蛮人たちのそばには中国官吏二人の姿も見られる。おそらく別離の挨拶に来訪したところを描いたものであろう」とされました。

ところが「学芸員のささやき」を見ると、まったく異なる見立て、ホンマカイナァと思わせる解釈が書かれているじゃ~ありませんか。「学芸員のささやき」というのは、キャプションのオマケみたいに加えられた学芸員マニアック情報(!?)で、今回の目玉というか、ウリになっているんです

興味のある近世絵画ファンは、とくに山楽・山雪マニアは、はたまたボーリングが好きなスポーツマン・スポーツウーマンは、サントリー美術館へ直行し「学芸員のささやき」を是非読んでください!!

2024年6月1日土曜日

サントリー美術館「名品ときたま迷品」3

 

 その通りなんです!! こんな風に視点を変えて、強く心を惹かれる美を「迷品」に発見し、それを「民藝」として体系化したのが、先の柳宗悦だったともいえるでしょう。そうなると、「民藝 MINGEI」展と「名品ときたま迷品」展がコラボ展みたいになっているのには、美術史的意味があることになります。チョッとこじつけ気味かな?()

 「僕の一点」は伝狩野山楽筆の「南蛮屏風」ですね。これは正真正銘の名品、重要文化財にも指定されています。落款がないせいか、所蔵するサントリー美術館では「伝」をつけています。

しかし、かの土居次義先生が「山楽の風俗屏風画の遺作の一つとして扱わるべきものと見られる」(『日本美術絵画全集』12)とお書きになっているんですから、もう狩野山楽筆で間違いありません(!?) 近世絵画ですから、筆者が決まれば、同じ名品でもさらにグレードアップすることになります。

太田記念美術館「国芳の団扇絵」8

  しかしさらに筆が進んで、日本の男は醜いが、女は別人種のように美しくて優れていると書いた、モラエスやアーノルドやゴードン・スミスのような西欧人もいました。スミスは「この国ではひとりとして恰好いい男を見かけない。ところが女のほうはまるで反対だから驚いてしまう」と書いているそうで、...