2022年6月30日木曜日

宝塚「めぐり会いは再び」4

 

 これだけじゃ~何がなんだかよく分からないと思いますが、分かるように書いていたら、筋だけで何日もかかっちゃいます。ものすごく入り組んでいるんです。どうしても知りたい方は、724日までやっていますから、どうぞ足をお運びくださいませ。

もちろん最後はハッピーエンド――礼真琴演じるルーチェと舞空瞳つとめるアンジェリークはめでたく結ばれ、その架空王国の王と王妃になるんです。このミュージカル「めぐり会いは再び」が大団円のうちに終了すると、休憩をはさんでレビュー「グラン カンタンテ」が始まります。〆て3時間、夢でも見ているようなあっという間の180分、じつに楽しかった!! おもしろかった!! 能のように眠くなることはなかった!!()

2022年6月29日水曜日

宝塚「めぐり会いは再び」3

 

王都マルクト。オルゴン伯爵の次男ルーチェ・ド・オルゴンは、大学卒業後も定職に就かず、友人レグルスが立ち上げた弱小探偵事務所の手伝いをして暮らしていた。ガールフレンドのアンジェリークとの関係も順調とはいえず、アンジェリークには実家から縁談の話も舞い込む始末。そんなある日、事務所に奇妙な依頼人が現われ、家に代々伝わる秘宝”一角獣の聖杯“を探し出して欲しいと頼まれる。捜査に乗り出したルーチェとレグルスは、いつしか王都を賑わす大盗賊ダアトとの争いに巻き込まれていくことになる。果たしてルーチェは”一角獣の聖杯“とアンジェリークの愛を手に入れ、さらには王都に平和を取り戻すことができるのか!?

2022年6月28日火曜日

宝塚「めぐり会いは再び」2

 

宝塚歌劇については、かつてアップした伊井春樹さんの著書『小林一三は宝塚少女歌劇にどのような夢を託したのか』を読んだことがあるだけ、右も左もわかりません。しかし日本の芸能からもっとも近いものを探すと、遊女歌舞伎以外にないような気がしました。

それじゃ~コチトラは若衆でいこうと、コムサ・デ・モードのレディースーツをネットでゲット、バッチリ決めて東京宝塚劇場へと向かいました() それではミュージカル・エトワール「めぐり会いは再び 真夜中の依頼人」のチラシから一部を紹介することにしましょう。

2022年6月27日月曜日

宝塚「めぐり会いは再び」1


 宝塚歌劇星組公演「めぐり会いは再び 真夜中の依頼人」<724日まで>

 生まれてはじめて宝塚歌劇なるものを鑑賞しました。宝塚歌劇は日本独自の芸能であり、他国には求めがたい文化です。その芸能と密接な関係に結ばれている日本美術、そしてわが国文化をもっともよく象徴する日本美術を専攻する一人として、絶対に見なければならないものであると長い間トラウマになってきました。

しかも最近では、宝塚歌劇を学問的に考究している欧米人研究者もいるという話じゃ~ありませんか。しかし僕は何となく腰が引けたまま、今日まで50年間そのままで来てしまいました。

しかしついに実体験する日がやってきました。小林忠さんから誘われたんです。奥様とご覧になる予定にしていたところ、急に奥様の都合がつかなくなり、一緒に行こうとメールが来たんです。二つ返事でお受けしたことは、言うまでもありません。

2022年6月26日日曜日

追悼 田沼武能先生2

 

伝統的技術をしっかりと伝える匠のような写真術が、大きな仕事を成し遂げた240名の人柄を的確に浮かび上がらせて、本当にその人に会っているような気持ちにさせてくれます。240名のなかに実際にお会いしたことがある方が7名いらっしゃいます。

ドナルド・キーン、安岡章太郎、辻邦生、黒川紀章、前田青邨、平山郁夫、絹谷幸二の7名の方々です。眺めていると、お一人おひとりの人となりが、お会いしたときの懐かしい思い出とともによみがえってきます。このうちドナルド・キーン先生については、3年前お亡くなりになったとき追悼の辞を捧げましたし、辻邦生先生については、「饒舌館長」の前身ともいうべき「K11111 のブログ」に思い出をアップしたことがあるように思います。

2022年6月25日土曜日

追悼 田沼武能先生1


 
 6月1日、写真家・田沼武能先生が93歳でお亡くなりになりました。ご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈りしたいと存じます。個人的には存じ上げませんが、尊敬して止まない美術家でした。いや、尊敬して止まない写真家と言いなおすことにしましょう。田沼先生は文化庁によって写真が美術の一分野とされることに満足できず、他の美術とは異なる写真の独自ともいうべき価値を認識させることに努力されたわけですから……。

 膨大にあるお仕事のなかから、今回は『時代を刻んだ貌』(クレヴィス 2014年)を紹介したいと存じます。帯には「昭和の文化を創りあげた諸家240名の傑作写真集」とあります。「昭和の文化」といってももちろん「戦後の文化」――ページを繰ると何か懐かしいなぁといった感慨がわいてきます。帯には「顔は精神の門にしてその肖像」というキケロの言葉も引用されています。 

2022年6月24日金曜日

唐寅の詩5

 

唐寅「伯虎絶筆」

 人間――この世で生きており また散っていくこの世から

 死んで冥土へ帰ってく そいつを誰も止められぬ

 この世と冥土は相似たり 大した違いありゃしない

 チョット遠くの他国へと ただ漂って行くだけだ

 

2022年6月23日木曜日

唐寅の詩4

 

唐寅「老少年」

 人は愁いが多いから 年を取るのさ若くして

 花は愁いがないゆえに 年を取ってもなお若い

 だから年寄りだろうとも 若者だろうと無関係

 しばし酒酌み詩を作り 花の前にて酣酔せん


2022年6月22日水曜日

唐寅の詩3

 

唐寅「落花の巻に題す」

 人気ひとけなき山 春終わり 花という花 散ってゆき

 雨が林を通りすぎ 輝く緑 玉のよう

 みずから山水やまみず汲んで来て 最高級の茶を淹れる

 渓たにの書斎に単座して 待つは親しき世捨て人

2022年6月21日火曜日

唐寅の詩2

 

 唐寅「枕を抱く」

  枕して寝りゃわけもなく 春 爛漫を夢に見る

  一体これは夢なのか はたまた現実? おぼろなり

  梢こずえにアンズの紅い花 咲いてることだけ確かなり

  なぜって馬上で花 愛でる 人を垣根で見てるから

2022年6月20日月曜日

唐寅の詩1


  すでにアップしたとおり、『國華』1518号に「蕪村謝寅試論」なる拙文を寄稿し、蕪村の「謝寅」号は明時代の画家にして詩人である唐寅にちなむものであることを述べました。そのとき『唐寅集』を読んだら、すごくいい詩が多いので、とくにお酒にちなむ数首を選んで戯訳を作りました。その後もパラパラながめていたら、あと数首紹介したくなりましたので、お付き合いください。上の写真は唐寅のラブエピソードをモチーフにした香港映画のポスターです。詳しくは「饒舌館長」ブログの「蕪村唐寅試論」で検索してくださいませ。

佳人月に対す

  髻もとどりおろせば色っぽく 床に臥す夜も遅くなる

  風も静もる梨の花 鳥のねぐらはその枝に

  心のうちを恋人に 打ち明けるのは恥ずかしい

  打ち明けちゃえば青天の 明月みたいにスッキリと……

2022年6月19日日曜日

太田記念美術館「北斎とライバルたち」3

 

いま太田記念美術館で開かれている「北斎とライバルたち」展では、北斎一人がたくさんのライバルたちを向こうに回して組んでほぐれつ――激しい肉弾戦を繰り広げています。いや、裂帛の気合をこめた対決を繰り広げています。

おもな対決は「北斎VS広重」「北斎VS写楽」「北斎VS英泉」「北斎VS国芳」の4回戦、いずれも北斎の勝ちといいたいところですが、写楽には完敗を喫しています。北斎の「三代目市川高麗蔵」と写楽の「二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木」を並べられると、どうヒイキ目にみても北斎の負けです。

とはいえ、「『三代目市川高麗蔵』は北斎がデビューした直後の勝川風役者絵なんだから、仕方ないじゃないか」なんて、言い訳を考える必要は毛頭ありません。「三代目市川高麗蔵」と「二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木」は、一人の同じ浮世絵師、つまり北斎が描いた作品なんですから()

2022年6月18日土曜日

太田記念美術館「北斎とライバルたち」2

 

 かつて『國華』創刊120周年を記念し、「対決 巨匠たちの日本美術」というライバル・アーティスト展を開催し、326784人の美術ファンに堪能してもらったことがあります。「運慶VS快慶」から「鉄斎VS大観」まで1224人の巨匠に登場してもらいましたが、浮世絵からは「歌麿VS写楽」という対決に白羽の矢を立てました。

天下の『國華』がやる展覧会としては、いかがなものかなんて、冷ややかにいう人もいましたが、「展覧会は質量主義でいくべきだ」という主張に立てば、大成功を収めた展覧会、理想的な特別展でした。

 ヤジ「『展覧会は質量主義でいくべきだ』なんて、オマエが勝手に言ってるだけじゃないか!!

2022年6月17日金曜日

太田記念美術館「北斎とライバルたち」1

 

太田記念美術館「北斎とライバルたち」<626日まで>

 サントリー美術館の「大英博物館 北斎――国内の肉筆画の名品とともに――」は終りましたが、太田記念美術館の「北斎とライバルたち」はまだ大丈夫、今月の26日までやっています!! チラシには次のように書かれています。

数多くの絵師たちが、時には北斎と覇権を争い、時には影響を受けたり与えたりしていたのです。本展覧会では、北斎の作品に注目するだけでなく、同時代・同世代に活躍した総勢15名以上の絵師たちの作品を並べることで、北斎とライバルたちがどのような関係にあったのかを紹介します。

2022年6月16日木曜日

サントリー美術館「北斎」8


 その木に生えている、チョット気持ち悪いキノコみたいのは木耳きくらげでしょう。『和漢三才図会』をみると、「痔を患わずらいて諸薬効あらざるもの、木耳を用いて羹にものに煮て之れを食せば、愈々いよいよ極めて験しるしあり。又血痢・下血を治す。木耳の炒研いためすりおろし<五銭酒にて之れを服す>」とありますから、漢方薬でもあったのです。

 ヤジ「漢方薬といったって、効くのは痔と血便で、疱瘡じゃ~ないじゃないか!!

こんなことを考えながら、北斎研究に一生を捧げた永田生慈先生により再発見された傑作を、たくさんの北斎ファンと一緒に改めてじっくり観賞したことでした。



 

2022年6月15日水曜日

サントリー美術館「北斎」7

 

これによれば、伐折羅大将は11番目の戌と結びつけられているんです。そしてもともとの本地仏は勢至菩薩となっています。ところがある仏像事典によると、金剛力士、つまり仁王さんは伐折羅と呼ばれることもあると書いてあるじゃ~ありませんか。

伐折羅はサンスクリットの音訳ですが、この漢訳が金剛であったため、金剛力士と結びついたのでしょう。つまり伐折羅大将の本地仏は、金剛力士ということにもなるんです!! 痘瘡を調伏するのに、これ以上強力な十二神将はほかにいないことになります。北斎が弘法大師と一緒に描いた犬は、伐折羅大将のメタファーだったんです!!

そもそも薬師如来は、衆生の病苦を救い癒すという仏様ですから、その眷属である十二神将にも、薬師如来効果のオコボレが回ってきているのではないでしょうか() 

2022年6月14日火曜日

サントリー美術館「北斎」6

 

この犬は薬師如来の眷属である十二神将の一つ、伐折羅ばさら大将の見立てだというのが、これまたマイ独断です。

平安時代後期以降、十二神将と十二支が結びつけられるようになりました。もっとも、畏友・中野照男さんの『十二神将』(日本の美術381)によると、両者の結びつきは複雑で、十二神将のどの尊に十二支のどれを配するかについては、諸説があるそうです。中野さんは鎌倉時代の修法図像集『阿娑縛抄』にしたがって4つの説をあげ、分かりやすくチャートにまとめています。

しかし饒舌館長が重視したいのは、江戸時代に刊行された土佐秀信の『仏像図彙』ですね。もし北斎が参照したとすれば、この図像集にもっとも高い可能性があるのではないでしょうか? なにしろ初め元禄年間に出版されて、その後ものすごく流布したんですから……。北斎が見たとすれば、『阿娑縛抄』なんかじゃなく、『仏像図彙』に決まっています。

2022年6月13日月曜日

サントリー美術館「北斎」5

 

とはいえ興味深いのは、斎藤月岑が編集した『武江年表』の記事です。弘化4年の条をみると、「33日より、西新井弘法大師開帳」と書いてあるじゃ~ありませんか。もともとは大絵馬であったとも推定されている「弘法大師修法図」も、このとき広くお披露目されたのではないかといった想像もわいてきます。

弘法大師が大きな経巻を捧げ持ちながら、左側から襲いかかろうとする痘瘡の大きな赤鬼を調伏しようとしています。しかしなぜここに、右側の木にまとわりつくような犬が登場するのでしょうか? 

2022年6月12日日曜日

サントリー美術館「北斎」4

 

痘瘡とは疱瘡、つまり天然痘のことです。ご存知のように、痘瘡はジェンナーにより牛痘種痘法が発明されて、1980WHOにより絶滅宣言が出されましたが、江戸時代にはとても恐れられていました。

死亡率が高いことはもちろんですが、あとに痘痕(あばた)を残すことも理由だったのでしょう。「痘神いてがみに惚れられ娘値が下がり」という川柳に、それはよく現われています。

「弘法大師修法図」はこの流行を機に、疱瘡退散祈願として描かれた作品ではないのでしょうか。弘化3年とすれば、北斎は没する3年前、87歳です。もっとも、天保7年には麻疹ましん(はしか)が流行っていますので、これと関係する可能性もありますが……。

2022年6月11日土曜日

サントリー美術館「北斎」3

 

カタログ解説を担当した池田芙美さんは、弘法大師が西新井の地を訪れたさい、護摩祈祷を行なって疫病を鎮めたのが西新井大師総持寺のはじまりとされるため、本作の鬼は疫病を表わすとの解釈があると述べています。まさにそのとおりなんです。

さらに加えれば、その疫病とは弘化3年(1846)から翌年にかけ江戸で大流行した疱瘡であるというのがマイ独断です。西山松之助先生が中心となって編集した『江戸学事典』の巻末には、「江戸年表」がついています。

その弘化3年の条を見ると、「冬 江戸にて痘瘡流行し翌年正月に及び本所辺病人最も多し」と書いてあります――画風からみてこれと関係するものにちがいありません。

2022年6月10日金曜日

サントリー美術館「北斎」2

 

本展では、この大英博物館が所蔵する北斎作品を中心に、国内の肉筆画の名品とともに、北斎の画業の変遷を追います。約70年におよぶ北斎の作画活動のなかでも、とくに還暦を迎えた60歳から、90歳で亡くなるまでの30年間に焦点を当て、数多くの代表作が生み出されていく様子をご紹介します。また、大英博物館に北斎作品を納めたコレクターたちにも注目し、彼らの日本美術愛好の様相を浮き彫りにします。

 「僕の一点」はやはり「弘法大使修法図」ですね。残念ながら大英博物館コレクションではなく、我が西新井大師総持寺の所蔵なのですが……。

2022年6月9日木曜日

サントリー美術館「北斎」1

 

サントリー美術館「大英博物館 北斎――国内の肉筆画の名品とともに――」<612日まで>

 さすが北斎です。ものすごい人気です。長い行列ができています。2年半におよぶコロナ禍によって美術ファンのフラストレーションが溜まりにたまっていたところに、オミクロンがピークアウトの様相を見せ始めたことが、援護射撃となっていることは明らかです。

しかし、やはりこれは北斎の圧倒的な表現力と、見るものを引きつけて止まない魅力の賜物であるというのが、正鵠を射る見方でしょう。とくにほかの特別展がボチボチであることを聞くにつけても……。この特別展の構成については、チラシの一部を引用させてもらうことにしましょう。

追悼ステファン・アディス先生11

 

19863月、1週間ほどアディス先生と一緒にニューヨークへ出かけたことも忘れられません。ある晩、誘われてニューヨーク・シティ・センターにマース・カニングハムのダンスを一緒に見に行きました。すると開演前に先生は、天下のジョン・ケージに僕を紹介してくださったのです。そこにはミュージシャンとしてのアディス先生がいらっしゃいました。

ジョン・ケージは先の『禅の芸術』に推薦の辞を寄せています。それによれば、先生が禅画に興味をもちだしたのは50年近くまえ――チョット誇張されているようですが――、その後研究はたゆみなく続けられて、ついに本書にまとめられたのです。

ステファン・アディス先生、40年間、本当にありがとうございました。安らかにお眠りください。                               合掌

2022年6月8日水曜日

追悼ステファン・アディス先生10

 

アディス先生は、山中信天翁、村瀬太乙たいいつ、土井聱牙ごうが3人を取り上げ、「文人芸術の隆盛を表わすと同時に、秋に咲く最後の花のように、その終わりの時が巡って来つつあることを次げる兆しでもあったのである」と、美しいレクイエムを捧げています。

『幕末・明治の画家たち』は、僕にとっても忘れることができない一書です。長い執筆活動のなかで、ほとんど唯一といってもよい近代画家試論――「高橋由一 江戸絵画史の視点から」という拙文が載っているからです。

しかし今となっては、それ以上に思い出深い本となりました。尊敬するアディス先生の論考と一緒に、私論が収録されている本なんですから……。

2022年6月7日火曜日

追悼ステファン・アディス先生9

 

今や禅画は僕たちの大きな研究テーマになっていますが、パイオニアとして先生が果たした役割は、とても大きなものがあると思います。これまでアップしてきた写真は、1989年出版された先生の主著『禅の芸術』です。

またアディス先生は村瀬太乙をはじめ、あまり関心を向けられていなかった文人画家を発掘し、そのおもしろさを教えてくださいました。

日本語で拝読できるものとしては、「南画後期の三人の個人主義画家たち」があります。辻惟雄さんが編集した『幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに』(ぺりかん社 1992年)に寄稿された論考です。

2022年6月6日月曜日

追悼ステファン・アディス先生8

 


あのときカンサス・ローレンスのアパートメントで一人飲んだのと同じ正真の「ブラック・ジャック」じゃないか!! 旅日記に$9.99TAXと書いてあるのと違わない正銘の「ブラック・ジャック」じゃないか!! これもアディス先生のお引き合わせにちがいなく、献杯が進みすぎてしまったのはそのせいだったのでしょう。

アディス先生はすぐれた日本美術史研究者であるとともに、ミュージシャンであり、書画の創作に精神の解放をゆだねる文人でもありました。日本美術史研究者としては、早くに禅画の素晴らしさに着目し、研究を進めたことが特筆されます。

2022年6月5日日曜日

追悼ステファン・アディス先生7

 


その後20年間、アディス先生とはもっぱらフェイスブックでお会いするだけでしたが、もうそれもかなわなくなってしまいした。そのフェイスブックで先生のご逝去を知った夜は、心静かに学恩を謝しながら献杯することにしました。

たしか「ブラック・ジャック」が床下倉庫にあったはずだと思って開けると、やはりありました!! しかも、いま日本でアサヒ・ビールが売っているブラック・ジャックなんかじゃない――瓶の形が異なり、度数は43度と3度も高く、ラベルのどこにも日本語がないんです。

2022年6月4日土曜日

追悼ステファン・アディス先生6

 

その楽しかった思い出は、2010年、千葉市美術館などで開催された特別展「帰ってきた江戸絵画 ニューオーリンズ ギッター・コレクション展」のカタログに書いたことがあります。

僕は「宗達の鴨と賀茂」と題し、レストラン・オーガストで行なわれた晩餐会のディナー・メニューと、その前のカクテル・パーティでしこたまやったことから書き始めました。その後ギターさんに会ったら、あのとき河野さんは「ボンベイ・サファイア」を1本空けたなんておっしゃっていましたが、もし本当なら、アディス先生を天国でお迎えする役回りになっていたことでしょう。

2022年6月3日金曜日

追悼ステファン・アディス先生5

 

僕は「宗達と能」という発表を行ないましたが、クロージング・リマークス――総評を担当された先生は、とても興味深い発表だったと褒めてくださいました。こういう場合、たいてい褒めるものではありますが……()

とはいえ、僕は発表するまでまったく自信がありませんでした。しかし、先生の一言によって活字化する決心がつき、駄文集『琳派 響きあう美』にも収めることになったのです。

というわけで、僕たち日本人一行を歓迎してくれたハリケーン・イズドアーとともに、生涯忘れられない国際シンポジウムになったのです。

2022年6月2日木曜日

追悼ステファン・アディス先生4

 

アディス先生から依頼されたのは、日本美術のセミナー1コマと、準備されていた日本美術事典の翻訳を手伝う仕事でした。無事終了して帰国後しばらくすると、先生が逗子の拙宅をわざわざお訪ねくださり、カンザスの思い出に花を咲かせたことも、いま懐かしく思い出されるのです。

 2002年秋、またニューオーリンズ美術館でカート・ギターさんの日本絵画コレクション展「エンデュアリング・ヴィジョン」が開催されました。これに併せて、国際シンポジウムが企画されましたが、これもまたアディス先生がコーディネーターをつとめられたのです。

2022年6月1日水曜日

追悼ステファン・アディス先生3

 

そして3年後、19863月~4月の2ヶ月間、先生はカンサス大学のゲストとして僕を招いてくださいました。先生はケンタッキー通りの洒落たアパートメントを確保してくださり、そこから毎日大学へ自転車で通いました。

アパートメントにはキッチンがついていましたから、たいてい夕食は僕でも簡単にできるアメリカンビーフのステーキでした。スーパーで買ってきた1パウンドの肉――アメリカ人なら一食分を、3回に分けて食べていました。

そのステーキを肴に、毎晩一杯やりました。近くのリカーショップで仕入れてきたテネシー・ウィスキー、つまりバーボンの「ジャック・ダニエル」黒ラベルが定番でした。ショップの人はそれを「ブラック・ジャック」と呼んでいました。

出光美術館「トプカプ・出光競演展」2

  一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。  日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して 100 周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮...