2024年5月31日金曜日

サントリー美術館「名品ときたま迷品」2

 

こんな企画があることも知らないで、「シンクロニシティ」が起こったなどと書きましたが、あとで両展覧会がちょっとコラボ展みたな関係にあることを知って驚きました。さて「名品ときたま迷品」のチラシには、こう書いてあります。

「メイヒン」と聞いてまず思い浮かべるのは、国宝や重要文化財に指定され、その芸術的な価値の高さを誰もが認めるような「名品」ではないでしょうか。しかし「メイヒン」とは、それだけにとどまりません。これまでほとんど注目されず、展覧会にもあまり出品されてこなかった、知られざる「迷品」の世界もまた、同時に広がっているのです。そしてたとえ「迷品」とされるようなものであっても、少し視点を変えるだけで、強く心を惹かれる可能性を秘めているかもしれません。そうした時、「名品」と「迷品」を分ける明確な基準はないといえるでしょう。

2024年5月30日木曜日

サントリー美術館「名品ときたま迷品」1

サントリー美術館「名品ときたま迷品」<616日まで>

 我が名著、いや、迷著『琳派 響きあう美』を是非ご参照いただきたい――なんて、ジョークではときどき「迷」を使ってきました。

ヤジ「ジョークじゃないんじゃないの?」

ところがついに、真面目なサントリー美術館の企画展に「迷」が登場しました。それがいま開催中の「名品ときたま迷品」展です。先にアップした世田谷美術館「民藝 MINGEI」展の最後に、サントリー美術館研究紀要に載った久保佐知恵さんの論文「サントリー美術館所蔵の津軽こぎん刺しについて」を紹介しました。

そのとき使った、そして今日も使っているイメージは、世田美の「民藝 MINGEI」展とサン美の「名品ときたま迷品」展のポスターをただ並べて写した写真のように見えると思いますが、実は両展覧会の相互割引サービスを知らせるイメージだったんです。

2024年5月29日水曜日

世田谷美術館「民藝」14

 

当時は布や糸が極めて貴重であったので、晴れ着として作られたこぎん刺しの着物は、着古したら労働着へ下ろされ、擦り切れやすい袖や裾は付け替えられた。いま「身頃」と呼ばれるこぎん刺しに袖や裾がないのはそのためである。そして、刺しを施した身頃が弱くなれば、上からさらに刺し子を施して補強したが、これを「二重刺しこぎん」という。あるいは、身頃の白い木綿糸が切れてしまったら、全体に藍をかけて染め直したが、これを「染めこぎん」という。二重刺しこぎんや染めこぎんは、年配の女性が着たことから「あばこぎん」(「あば」は年配の女性のこと)とも呼ばれる。このように、津軽こぎん刺しの着物は何度も再生しながら襤褸ぼろになるまで着古されたのである。


2024年5月28日火曜日

世田谷美術館「民藝」13

 

 今回もシンクロニシティが起こりました。417日、NHK文化センター青山教室の講座「魅惑の日本美術展 おすすめベスト6!!」で、この「民藝 MINGEI 美は暮らしのなかにある」を取り上げて紹介したのですが、その前日、たまっていた郵便物を整理すると『サントリー美術館研究紀要』第8号が出てきました。

開いてみると、学芸員の久保佐知恵さんが寄稿した論文「サントリー美術館所蔵の津軽こぎん刺しについて」が載っているじゃ~ありませんか。もちろん講座では、刺し子についてもしゃべることにしていましたが、久保さんのお陰で一夜漬けながら、パーフェクトな解説ができちゃったんです() このサントリー美術館コレクションは、弘前市出身の民族音楽&こけし研究家・木村弦三氏から寄贈されたものだそうで、僕はつぎの一節を読みながら、得もいえぬ心の高揚を覚えました。

2024年5月27日月曜日

世田谷美術館「民藝」12

 

柳の革命を可能にしたのは、国境を越えて民衆に注がれた阿弥陀如来のような、美醜を超越した眼差しでした。だからこそ、水尾先生が指摘するように、「柳宗悦は、敗戦によっていささかもみずからの思想や行動の方向を転じる必要のなかった、数少ない人物のひとり」になることができたのでしょう。

僕は「民藝 MINGEI 美は暮らしのなかにある」展を観ながら、柳宗悦の純粋な生き方、ブレないものの見方に対する尊敬の念がいや増すのを覚えました。しかし、とても俺には真似ができないなぁとあきらめつつ、会場をあとにしました。そして帰宅すると、すでにアップした愛用の民藝――三田青磁に先日福岡で求めた明太子を盛って一杯やり、みずからを慰めたことでした( ´艸`)

2024年5月26日日曜日

世田谷美術館「民藝」11

 

ところで、柳宗悦はかのイギリスの詩人にして美術工芸家であったウィリアム・モリスに対し、その失敗は正しい工藝の美を知らなかったことに、本質的、致命的原因があったと述べているそうです。結局モリスの目指した工藝美は、ソフィストケートされた伝統美の枠内に留まっていたと見ていたのではないでしょうか。

柳にとってモリスは反面教師だったことになりますが、大きな影響を受けたこと、そして尊敬の念を抱いていたことは否定できないと思います。昭和4年、個展を開く予定の濱田庄司とともにロンドンに着くと、ケルムスコットにあるモリスの旧宅をわざわざ訪問しているのですから……。


2024年5月25日土曜日

世田谷美術館「民藝」10

 

しかし『美の法門』には、確かな論理性と力強さ内包されています。多くの人に感銘を与えて止むことがないユエンですが、その根底に民藝があったからにほかなりません。これも「もの」が有する力のお陰だったのでしょう。

同じくもの(作品)を中核として美と宗教の問題を論じた思想家に、岡倉天心と和辻哲郎がいました。しかし柳のすごさは、「民藝」なる民衆芸術を発見するという革命を起こしながら、天心や和辻のアプリオリに存在した伝統的美的世界と覇を競い合ったことでした。

少なくとも現代への影響に限れば、天心や和辻を凌駕しているように感じられます。この特別展のタイトルにあるように、いまや民藝はMINGEIという国際語になっているのですから……。


2024年5月24日金曜日

世田谷美術館「民藝」9

 

柳不朽の名著『美の法門』のもとになる講演を行なったのは、昭和23年(1948114日のことでした。京都・相国寺で開かれた第2回日本民藝協会全国協議会においてです。それは『大無量寿経』を読んでいたとき得た霊感に発する思想であり、「信美一如の霊界の門が機熟して宗悦の前に開かれた」哲学でした。これから昭和3653日、72歳で幽明界を異にするまでが、美の法門時代です。美と宗教の関係が徹底的に考察された時代です。

美と宗教――この関係はまるでヌエのごとくとらえ所がなく、いかようにも論じることができます。下手をすると唯我独尊的解釈になり、あるいはトートロジーに陥る危険性に満ちています。少なくとも僕にとっては、そう感じられる有名な論考がありました。いや、僕の近世美術法華論がまさにそれだったかな()


2024年5月23日木曜日

世田谷美術館「民藝」8

 

この民藝発見がなかったら、その後の柳はどうなっていたことでしょうか。『白樺』のロマン主義と理想主義の亡骸なきがらにすがり付いて、柳自身が思想哲学の亡骸になっていった可能性もあるのではないでしょうか。耽美主義の罠にはまって、思い出に生きる寂しい晩年を送ることになったかもしれません。

少し意地の悪い言い方をすると、そのような『白樺』同人がいなかったわけではありませんでした。柳を救ったのは、「もの」が有する力の賜物であったと思います。ここに『白樺』時代に続く柳民藝時代が始まることになります。柳=民藝という等式が成立した時代ですが、これについてはかつて韓国・梨花女子大学シンポジウムで発表した内容を含め、改めて私見をアップしたいと思います。


2024年5月22日水曜日

世田谷美術館「民藝」7

 

それは早く朝鮮美術への親愛から生まれた「朝鮮民族美術館」設立計画となって現われましたが、民藝という観点からいえば、まだ萌芽の段階に留まっていました。そこから木喰上人の研究を通して、純粋な民藝哲学に飛躍するターニング・ポイントが大正14年でした。

この年、36歳の柳は河井寛次郎、濱田庄司とともに、「民藝」という新しいテクニカルタームを発明したのです。いや、翌年発表された「日本民藝美術館設立趣意書」を読むと、民藝という新語を作ったのではなく、民藝が柳によって発見されたのだという感を深くします。

2024年5月21日火曜日

世田谷美術館「民藝」6

 

『白樺』は明治43年(1910)創刊され、大正12年(1923)、160冊をもって終刊となりました。まさに大正年間の雑誌だったわけですが、内容をふりかえってみると、大正ロマン主義の申し子であったように思われてなりません。大正ロマン主義のシンボルであったといってもよいでしょう。それは大正デモクラシーと深く結びついていました。

だからこそ、大正ロマン主義、大正デモクラシーの時代が終焉に向うと、かつての輝きを失わざるを得ませんでした。確かに『白樺』を廃刊に追い込んだのは関東大震災でしたが、それが起こらなかったとしても、間もなくフェードアウトする運命にあったのではないでしょうか。その危機的情況にあって、柳を支え、新しい哲学へと導いてくれたのが民藝でした。

2024年5月20日月曜日

世田谷美術館「民藝」5

 

 柳宗悦にとって民藝はレーゾンデートルであり、柳哲学完成のための秘薬であり、存在最後の砦でした。柳はかの文芸雑誌『白樺』の同人――創刊から廃刊に至るまでずっと同人でした。柳の本格的文筆活動は、『白樺』に始まったといっても過言ではないでしょう。

水尾先生によれば、武者小路実篤とともに、論文・随想・批評・紹介・詩・翻訳など、もっとも多くを寄稿しているのですが、幅広い内容の総合誌たらしめるために、エディターとして、またアート・ディレクターとして柳の果たした寄与は少なくなかったそうです。すぐれた著述を数多く世に問いながら、このような実務的能力が豊かに備わっていた点でも、水尾先生は柳を確かに受け継いでいました。

 

2024年5月19日日曜日

世田谷美術館「民藝」4

 

 その後、憧れの水尾氏に会い、一緒に仕事をする機会が与えられた。伝統ある東洋古美術雑誌『國華』の編集を手伝うことになったからである。そのころ氏は編集の実務をほとんど一人でこなしていた。それは著作から想像していた才人のまったく異なる一面だった。そして十何年か振りに、ふたたび國華社で毎週お会いするようになったころ贈られたのが『評伝 柳宗悦』である。若き日、氏は日本民藝館の館務を手伝い、晩年の柳宗悦に親炙した。柳に関し、すでに多くの著作がある水尾氏であったが、柳宗悦全集の編集を通して全容再考の必要を感じて成ったのが本書である。思想に対する尊敬以上に、人間に対する仰望があふれていて、読むものに嫉妬の情さえ起こさせる。

 水尾氏の美学はうらやましいほどに高踏的であり、文章は流麗であり、行動はお洒落である。デビュー詩集『汎神論』に、水尾賛を寄せた川崎洋の「君はいつも澄ましている」にそれは象徴されている。


2024年5月18日土曜日

世田谷美術館「民藝」3

 

学生時代に最も愛読した――というより最も愛用した水尾氏の著作が『古都の障壁画』である。真珠庵から養源院まで京都の十五カ寺が取り上げられ、障壁画の筆者問題が意欲的に論じられている。それは足と眼で書いた本だった。近世の日本絵画に興味を感じ始め、障壁画を見て回っていた私にとって、最良の案内書であった。水尾氏初期の著作としては、毎日出版文化賞を受賞した『デザイナー誕生』を挙げるべきかもしれないが、カバーも擦り切れている『古都の障壁画』の方が思い出深い一書なのだ。

水尾氏はみずからを美術史家と規定しているが、美術批評家としても個性的だ。この方面で最も強く印象に残るのは『美の終焉』である。「美は速やかに失われつつある」という認識に、以前は反発も覚えたものだが、最近では腑に落ちるところが少なくない。氏は再生のための指針も示して、将来に希望を託している。


2024年5月17日金曜日

世田谷美術館「民藝」2

 

 民藝――それは僕にとって、水尾比呂志先生と分かちがたく結びついています。原始美術から現代美術まで、これが本当に一人の仕事なのかと疑わしめる水尾先生ですが、もっとも重要なジャンルの一つに民藝があります。これにも膨大な著作がありますが、「僕の一点」をあげるとすれば『評伝 柳宗悦』ですね。最初単行本として出されましたが、間もなく「ちくま学芸文庫」に収められて手に取りやすくなりました。

これを含めて水尾先生のマイ・ベストスリーを、毎日新聞(20061224日)の「この人・この3冊」というコラムに書いたことがあります。丸谷才一先生から求められたものですが、ここに再録し、202213日、享年91をもって白玉楼中の人となられた水尾先生のご冥福を改めて祈りたいと思います。

2024年5月16日木曜日

世田谷美術館「民藝」1

 

世田谷美術館「民藝 MINGEI 美は暮らしのなかにある」<630日まで>

 大阪中之島美術館→いわき市立美術館→東広島市立美術館と巡回してきた特別展が、いよいよ世田谷美術館へやってきました。最近の展覧会としては、チョッと渋い表紙のカタログから、まずは「ごあいさつ」の一部を紹介することにしましょう。

1926年に思想家・柳宗悦らが提唱した民藝は、生活文化運動として発展するとともに、この100年の間に、時代ごとの社会背景と共鳴し、度々取り上げられ、注目を集めてきました。とりわけ近年、エシカル消費に対する意識や、日々の生活を見直す需要が高まったこともあり、暮らしのなかにある美を慈しみ、素材や作り手に思いを寄せる、この民藝のまなざしは、私たちの生活に身近なものとして再認識されています。本展では、民藝について「衣・食・住」をテーマにひも解き、国内のみならず世界各地で柳らが集めた美しい品々役150件を展示します。改めてその源流を知り、民藝が提示する美の基準を知ることで、私たちの生活を豊かにするヒントにつながる機会となれば幸いです。また、柳没後の民藝運動のひろがりとともに、今に続く民藝の産地を訪ね、そこで働く作り手と、受け継がれている手仕事を紹介します。

2024年5月15日水曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」12

 

琉球塗板屏風「山水図」

  青葉 繁れる喬木が 千本 万本 描かれてる

  その青い峰さえいつか 白髪頭しらがあたまになるのだろう

  麓ふもとを故老が笠かぶり どこかへ帰って行くらしい

  その行路には太鼓橋たいこばし ごときアップとダウンとが……

2024年5月14日火曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」11

 

もう一つ「僕の一点」に「琉球塗板屏風」を挙げて、妄想と暴走を披露したかったのですが、それはまたの機会にゆずり、今回は裏面一扇の上下に描かれる「騎驢図」と「山水図」を取り上げ、賛の戯訳だけを紹介することにしましょう。「騎驢図」を選んだのは、やはりお酒が登場するからなのかな()

 ロバで行くのも歩くのも いくら力んでやったとて

 天地は無限に広いから 遅速の違いがあるでなし

 だからのんびり酒を酌み 詩を詠み俗塵 逃れよう!!

 そうすりゃ気持ちも晴々と 爽快になる――昔から

2024年5月13日月曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」10

 

実をいうと、はじめて僕に山上憶良の絶唱「いざ子ども早く日本やまとへ大伴の御津みつの浜松待ち恋ひぬらむ」を思いつかせたには、この友松屏風だったんです。浜松図屏風には珍しい橋が、わが国と中国を結ぶイメージに、あるいは象徴性をこめた虹の橋に感じられたからでした。『万葉集』を愛して止まなかった智仁親王は、もちろんこの一首をよく知っていたことでしょう。というわけでこの和歌を、浜松図という画題全体に敷衍させてみたくなったんです。

ところが、この「近世の御所を飾った品々」展のカタログによると、本屏風の制作年は慶長10年(1605)となっています。ということは、ちゃんとしたドキュメントがあるような感じがします。そうなると、これまで述べてきた私見は慶長6年制作という前提に立っていますから、またまた独断と偏見ということになっちゃうのかな()


2024年5月12日日曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」9

贈られる智仁親王自身が一品、つまり鶴なのですから、鶴を描いたらダブってしまいます。連句でいうベタ付けになってしまいます。友松は浜松図を描きながら、松から一品大夫を、波から一品当朝を連想させて、智仁親王の一品叙位をことほいだのでしょう。智仁親王を慶賀すべき一品大夫と一品当朝を同時に表象するような画題は、浜松図をおいて他になかったといってもよいでしょう。

あるいは鶴に代えて、同じ鳥類である浜千鳥を配したのかもしれません。浜千鳥は古くから筆跡、さらに手紙の寓意にもなってきました。和歌では浜千鳥に「あと」「あとなし」と続けられることが多いので、あと→跡→筆跡という連想を生んだからです。和歌や連歌を好み、細川幽斎から古今伝授を受け、古典の書写に情熱を傾けた能筆家・智仁親王には、鶴より浜千鳥の方がふさわしかったことでしょう。

 

2024年5月11日土曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」8

 

一品に叙せられた智仁親王にピッタリの画題ではありませんか。しかし松は描かれていても、丹頂鶴がいないじゃないかって? それがチャンと暗示されているんです。というのは「一品当朝」という謎語画題もあるからです。これまた『東洋画題綜覧』によると、いま述べたごとく一品は鶴ですが、「朝」は朝廷の朝にして「潮」に通じ、海辺の波を描く画題とあります。

鶴は番つがいで複数描かれることもありますが、必ず波とセットになるところがミソです。これは一品の官に昇って、朝廷に出頭する栄誉を祝した画題だというのです。大きく広がる青海波のような銀波のコノテーションが、「潮」を通して朝廷になるんです。

2024年5月10日金曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」7

 

もっとも慶長6年といえば、友松が桂宮家に出入りし始めたころですから、挨拶代わりの自己紹介、ブッチャケていえば売り込み作戦だったかもしれませんが、これは友松のために言わないほうがよかったかな()

当時智仁親王は弱冠22歳、千年の齢を保ちつねに緑を失わないトキワの松が、一品叙位をことほぐにふさわしいモチーフであったことは、改めて指摘するまでもありません。ここで思い出されるのは、「一品大夫」という謎語画題です。

金井紫雲の『東洋画題綜覧』によると、松樹に丹頂鶴を描くのが「一品大夫」です。一品はもともと中国における文官の位で、この位のものの装束には鶴が織り出されていたので、一品=鶴となります。大夫は、秦の始皇帝が松に大夫の位を授けたという故事から松のことになります。


2024年5月9日木曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」6


 友松は晩年、桂宮家を創始した智仁ともひと親王のもとにしばしば出入りし、押絵の注文などを受けていたことが、記録から明らかになっているからです。畏友・河合正朝さんの『友松・等顔』<日本美術絵画全集11>(集英社 1978年)によると、桂宮淑子すみこ関係の記録にある「屏風 浜松之画 友松筆」が、この屏風を指しているとのことです。

智仁親王は後陽成天皇の皇弟、かの桂離宮を造営した教養人でした。本屏風の制作には、友松と智仁親王との関係が推定されてきましたが、慶長6年(1601)智仁親王が親王の位階第一位である一品に叙せられたとき、祝賀の意味を込めて友松が描き贈ったのではないかと僕は疑ってきました。

2024年5月8日水曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」5

もちろん、中世に入れば山上憶良の歌は忘れ去られ、画家や鑑賞者に意識されることなく、記憶の残滓が脳内のどこかに沈殿しているに過ぎなくなっていたことでしょう。

しかし、憶良の歌のDNAだけは伝えられていたように思われてなりません。例えば俵屋宗達の傑作「松島図屏風」(フリーア美術館蔵)も浜松図のバージョンですが、日本絵画としては珍しいほどに気宇壮大、ワビやサビなど微塵もないのですから……。たとえそうでなかったとしても、現代の私たちが憶良の歌を通して浜松図を鑑賞することに、何の不都合があるでしょうか。

 皇居三の丸尚蔵館所蔵の六曲一双屏風は、海北友松の彩管になるやまと絵系屏風の傑作として、古くから高く評価されてきました。落款印章はありませんが、岩や土坡の皴法しゅんぽうをみれば、友松筆であることはいささかも疑いありません。旧桂宮家に伝来した作品であることも、傍証になるでしょう。



 

2024年5月7日火曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」4

 

 しかし浜松図の原点は、『万葉集』巻1に選ばれる山上憶良の絶唱であるというのが私見です。「山上臣憶良やまのうへのおみおくらの大唐にありし時に、本郷くにを憶ひて作れる歌」という詞書きをもつ「いざ子ども早く日本やまとへ大伴の御津みつの浜松待ち恋ひぬらむ」がそれですね。中西進さんは「さあみんな、早く大和へ帰ろう。大伴の御津の浜の松も、その名のごとく待ち恋うているだろう」と現代語に訳しています。

大伴の御津とは、難波の御津ともいい、大伴の地にあった港で、難波宮のあった上町台地の一角ですが、位置は未詳だそうです。

何と気宇壮大なる一首でしょうか。この大らかな気分が、中世絵巻の画中画や、僕が大好きな里見家旧蔵伝土佐光重筆六曲一双屏風(京都国立博物館蔵)に代表される浜松図屏風に、通奏低音のように流れています。波の向こうの大地には山上憶良が立ち、遠く日本の浜松を思いやっているんです。


2024年5月6日月曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」3

 

ところが訪ねてみると、512日が最終日になっているじゃ~ありませんか。つまり受講生が15日に僕の話を聞いたときには、すでに終っちゃっているんです。よく調べて計画を立てたはずなのに、またまたチョンボをやらかしていまいましたが、どうしようもありません。FBフレンドでもある島谷弘幸館長と畏友・朝賀浩さんに挨拶したあと、ゆっくりと拝見することにしました。

「僕の一点」は何といっても、海北友松の「浜松図屏風」ですね。『新潮世界美術辞典』に「浜松図」を求めると、つぎのように説明されています。

やまと絵系の画題で、海辺の松林を描く。海辺の景は平安時代の名所絵にしばしば描かれたが、伊勢(三重県)や摂津(大阪府・兵庫県)などの海岸を主題としながらも、場所の描き分けはほとんどなく、きわめて概念化されたものであったらしい。

2024年5月5日日曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」2

 

 この新館開館記念展の第3期に当たるのが、312日から始まった「近世の御所を飾った品々」です。カタログに載る「ごあいさつ」の一部を、最初に掲げたというわけです。去年から新生「皇居三の丸尚蔵館」をお訪ねしようと思いながら、ついに今日まできてしまいました。

実をいうと、今年上半期、NHK文化センター青山教室で、下にチラシをアップしたような「魅惑の日本美術展 おすすめベスト6!!」という講座を開いています。その2回目、515日の回に「近世の御所を飾った品々」を選んだので、その準備を兼ねてお邪魔したのです。

魅惑の日本美術展 おすすめベスト6だ!!

講師
東京大学名誉教授・出光美術館理事 河野 元昭
カテゴリー

おすすめベスト6はこれだ!

日本は美の国です。美術のまほろばです。絵画彫刻工芸のシャングリラです。だからこそ、素晴らしい美術展がたくさん開かれ、老若男女を問わず多くの人々に感動を与えて止むことがないのです。それは文字情報とは異なる真の教養を高め、明日を生きるためのエネルギーを心に注ぎ込んでくれます。美術ブログでお馴染みの「饒舌館長」こと河野元昭先生が選ぶ2024年度日本美術展おすすめベスト6だ!で予習をしてから出かければ、もうカタログなんか買う必要はありません(!?)


2024年5月4日土曜日

皇居三の丸尚蔵館「近世の御所を飾った品々」1

 

皇居三の丸尚蔵館「開館記念展 皇室のみやび――受け継ぐ美―― 第3期 近世の御所を飾った品々」<512日まで>

平成元年(1989)、昭和天皇まで代々皇室に受け継がれた品々が、上皇陛下と香淳皇后により国に寄贈されたことを機に、それらを保存・研究・公開するための施設として、平成5年(199311月に、宮内庁三の丸尚蔵館が開館しました。その後も香淳皇后や各宮家からの品々が加わり、現在は約2万点の作品を収蔵しています。……令和5年(2023)、当館は開館30年を迎えました。収蔵品の増加と入場者の増大に対応するために施設の拡充をはかり、令和元年(2019)より新館の建設がすすめられ、その一部が完成しました。それとともに、組織が宮内庁から独立行政法人国立文化財機構へ移管され、館の名称も新たに「皇居三の丸尚蔵館」と変わりました。拡張工事は今後も引き続き、全館開館は令和8年(2026)を予定しています。新館の一部開館を記念して開催する本展では、当館を代表する収蔵品を、4期に分けて紹介いたします。

2024年5月3日金曜日

出光美術館「復刻 開館記念展」8

 

ネットで調べたら、「蘭陵の美酒」というお酒が売られていましたが、これは李白の「客中行」からヒントを得て、沖縄・石垣島の高嶺酒造所が醸しているリキュールでした。

チョッと脱線してしまいましたが、梅瓶はもともと花瓶じゃ~なく、酒器だったにちがいありません。下がかなりすぼまっていますから、お酒を入れてはじめて安定するのではないでしょうか。益荒男ぶりの吐魯瓶に対して、手弱女ぶりといった感じがします。吐魯瓶には辛口の男酒が、梅瓶にはふくよかな女酒がふさわしいのではないでしょうか。いずれにせよ、花瓶なんかにはもったいない!!と、誰でも思いますよね。

 ヤジ「誰も思わない!! そんなことを思うのはオマエだけだ!!

2024年5月2日木曜日

出光美術館「復刻 開館記念展」7

 

このような器形を一般に「梅瓶」と呼んでいます。梅を生けるのによく用いられた花瓶であるところから、梅瓶と呼ばれるようになったというのが通説のようです。しかしカタログ解説によると、中国の『源氏物語』ともいわれる長編小説『紅楼夢』のなかに、瓶に梅を生けて観賞するシーンがあり、それが「梅瓶」の由来になったそうです。

これが『金瓶梅』だったら、文字どおりピッタリだったような気もしますが……。先に蘭陵の美酒をたたえた李白「客中行」の戯訳を掲げましたが、『金瓶梅』はこの蘭陵の笑笑生なる文人が書いたことになっています。内容から考えても、笑笑生は蘭陵の美酒を一杯やりながら執筆したのかな?() 

2024年5月1日水曜日

出光美術館「復刻 開館記念展」6

 

  蘭陵らんりょう特産この美酒は 鬱金うこんの香りも芳かぐわしく

  あぁ玉杯になみなみと 注げば輝く琥珀色こはくいろ

  ご主人!! 旅するこの俺を 酔わしておくれ存分に……

  そうすりゃ他郷もふるさとも なくなっちゃうさ区別など

 もう一つ、影青――青白磁のゼッピンが出陳されています。「青白磁刻花渦文梅瓶」がそれです。先の「牡丹唐草文吐魯瓶」のような凝りに凝った文様ではなく、6筋の小さな櫛みたいな用具で、幾何学的というか、抽象的というか、リズミカルに渦文を全体に散らしたシンプルなデザインですが、これがまたすごくいい!! 

出光美術館「トプカプ・出光競演展」2

  一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。  日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して 100 周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮...