2019年7月31日水曜日

松浦武四郎11


松前藩のひどいアイヌ政策が、当たり前のように行なわれていた時代、アイヌを自分たちと同じ人間としてみるヒューマニズムが、武四郎の胸中に育まれていた事実は、ほとんど奇蹟のように思われる。武四郎に何かインスピレーションを与えるような思想が、すでにあったのだろうか。あるいは、まったく独自に、あのような平等思想に到達したのだろうか。そして人間としての行き方である。自己の思想に忠実に従い、あとは悠然たる余生を送ったのだった。

私は武四郎と相似た人生を送った文人画家・田能村竹田をたたえて、かつて「田能村竹田の勝利」という拙文を『國華』一四五九号に寄稿したことがある。文化八年(一八一一)、藩内に領民一揆が起こったとき、竹田は二度にわたって藩政改革のための建言書を提出したのだが、それがまったく無視されたのを知ると、官職を辞し、一文人墨客として詩書画三昧の後半生を送ったのである。

2019年7月30日火曜日

松浦武四郎10


武四郎は、自分が死んだらこの「一畳敷き」を解体して荼毘の薪にし、骨は大台ケ原に埋葬してほしいという遺言を残して旅立ったそうである。おそらく幕末明治といえども、亡骸をそのまま田圃に打ち捨てておくことなど、許されなかったであろう。辞世はナチュラリスト武四郎の憧憬――もしそれが可能なら、どんなに素晴らしいことだろうなぁという憧れの気持ちを詠んだものとみるべきだ。

憧れといえば、僕が武四郎に憧れるのは、まずその行動力である。先の江戸行を皮切りに、全国をくまなく旅行して回った行動力である。その記録を整理して、『東西蝦夷山川地理取調図』や、いわゆる多気志楼物を出版することができたのも、すぐれた行動力があったればの話だ。次にその思想性、あるいは感性である。


2019年7月29日月曜日

松浦武四郎9


 『自伝』の一節もすごいなぁと感動を呼び起こすが、僕はその辞世に、さらに強く心を動かされた。それは歳をとるにしたがって、祥月命日がめぐってくるたびに、だんだんと強まっていった。その後、中西進氏の『辞世のことば』(中公新書)などによって、少なくない偉人の辞世を知ったが、武四郎ほど心に響く辞世はほかにない。

ところが今回、これは武四郎が理想を述べた辞世であって、実際はそうではなかったことを知った。武四郎は晩年、法隆寺や伊勢神宮外宮、出雲大社など、かつて訪れた全国の名だたる社寺から古材を譲り受けた。それを用いて「一畳敷き」の書斎を、神田五軒町の自邸に増築し、そこで悠々自適の日々を送った。現在は、国際基督教大学内の有形文化財「泰山荘」に移築され、大切に保存管理がはかられている。

2019年7月28日日曜日

松浦武四郎8


私が松浦武四郎という偉大な存在をはじめて知ったのは、桑原武夫氏の『一日一言』(岩波文庫)においてである。毎日、その日の項を必ず読むという日課を、学生のころから続けてきた。二月六日の条に、「この日伊勢に生まれた探検家」として、次のごとく武四郎が登場する。

我、もと遊歴を好んで山川を跋渉して、いかなる険もいとわず、日に十六、七里、その甚だしきときには三十里にも向うことなり。しかるに粗食を常として、生来、美服を好まず。不毛の地に入るときは、日に二合の米を食して、その余は何にても生草生果の類、生魚、干魚等を多分に食し、身命堅剛……勢国を出でしより未だ一日も病にさわり候こともなく、一帖の薬を服することもなし。(自伝)

我死なば 焼くな 埋めな 新小田に 捨ててぞ秋の みのりをば見よ(辞世)

2019年7月27日土曜日

虎吉1

 これまでこの「饒舌館長」を一人でも多くの方に読んでいただきたく、フェイスブックにリンクを張りシェアしてきました。ところがこの間から、フェイスブック画面に、鉛筆マークのボヤっとした変なイメージが勝手に現われるようになり、削除しようと思ってもうまくいきません。ところが僕みずからが添付したイメージがある記事には、この変なイメージが出てきません。
 
そこで、試みにいま我が家のソトネコになっている虎吉――通称トラの写真を添付して、シェアしてみることにしました。これでうまくいけば、これからは必ず虎吉の写真を添えて「饒舌館長」にエントリーし、これをフェイスブックでシェアすることにしたいと思います。やはり変なイメージが現れるようでしたら、虎吉には引導を渡すことにしますが( ´艸`)

2019年7月21日日曜日

山種美術館「速水御舟」12


*山﨑妙子「速水御舟――日本画への挑戦」
(山種美術館『新美術館開館記念特別展 速水御舟――日本画への挑戦』カタログ 2009年)
《名樹散椿》は、昭和52年に昭和期の作品として初めて重要文化財に指定された。……御舟は、前年の《翠苔緑柴》に引き続いて金地の大画面に再挑戦したわけだが、当初は椿でなく京都愛宕山の桜の大樹を描く予定であった。そのために、各地の桜の名木を取材した写生も多数残されている。彼が、椿に変更したきっかけの一つに、柳田という絵具屋から非常にいい朱が手に入ったため、その朱を使おうという気持ちがあったようである。一般的な制作のプロセスとは逆の、使いたい絵具があってそれに合う画題を選んだというこのエピソードは、御舟という画家の制作の実態を物語るものとして興味深い。日本画の画材の特質を知り、最大限にそれを生かしていくことは彼の目指していた新しい日本画の創造に不可欠なことであったといえよう。


*御舟の本質、いや、日本絵画や日本文化の本質を突くこの興味深いエピソードは、御舟を尊敬して止まなかった弟子の吉田善彦が伝えるところであるそうですから、真実であったにちがいありません。

2019年7月20日土曜日

山種美術館「速水御舟」11


*吉田善彦「回想の御舟先生」

(山種美術館『開館10周年記念特別展 速水御舟――その人と芸術――』カタログ 1976年)

研究会の日、画室を片付けに入って描きかけの御作を拝見出来たことも得難いことであった。「白芙蓉」は葉も墨ぐまも何の当りすらなく、唯毛氈に置かれた白紙にぽってりと動かせば流れる程胡粉が溜っているだけのを拝見した。胡粉を溶いていると絵具ではなく花そのものの気持がするといわれたことが、全くその通りで絵具とは思えなかった。「牡丹」などの描線から順を追って拝見出来た。殊に花の表現は見る度に変えられ其の執拗さには驚嘆するばかりであったが、何等渋滞の跡すらなく堂々の威厳ある風格の花は、成るべくして成ったものとして美事に定着した。更に白い蕾が下に配されるに至って、鮮やかな心にくい完結となった。果してどこまでを予定されたか知る由もないが、先生の身を以て打込まれた体験を拝見出来たことは、あの怖しい気迫に満ちたお作を通して、いつまでも心の支えである。

2019年7月19日金曜日

山種美術館「速水御舟」10


*速水御舟「今の私の気持」(『美之国』 昭和103月号)

此頃は筆を持つのに、以前と違って、「間伸び」があるように感じます。写生を離れて、書けるという気持で す。以前は、写生したものに直ぐに即いて書かなければならないような気持でいましたが、それが今では、例えば菊でも梅でも去年写生して置いたものを季節を外れて――菊なら菊、梅なら梅に即かないでも書ける、即かないでも書いて見たい心持になっています。以前には、空想では書けなかった。自分の眼で見たものを其の時に書かなければ、書けなかったのですが、それが近頃では「間伸び」がしたとでも申しましょうか、空想でも書けるようになっています。狭い所から広い所へ出たような感じです。

2019年7月18日木曜日

山種美術館「速水御舟」9


地隈を塗る時にも絹と紙とには大きな相違がある。さっと隈を塗ると絹の場合はその織物の繊維を伝って絵具がずんずんと拡がり走って行く、そして終いには端の方に濃い隈を作って了う。然し紙の場合は隈を引くと筆の当ったところに絵具が濃く滲み込んで、それを中心として或る程度まで絵具が薄く走って行く。だから筆の中に含ませてある絵具のデリケートな変化をそのままに表現して行く。ここに紙に描く面白い味が存在する のであ る。又紙には様々の種類があって、それが夫れぞれの特徴を持ち、従って描く時の絵具の付き方が違って行く。 それだけに描く場合はその紙の性質に対する心構えが必要である。

絹にも勿論、紙程の種類はないが、それでも多少の相違がある。普通一般に用いられているのは美濃絹である が、これを西陣の絹と比較するとどうしても品がおちる。一見すると美濃絹は何等のむらもなく綺麗に平盤に出来ているが、それだけに味が乏しい。西陣の絹を広げると、例えば和やかな湖水の沖に静かに動いている小波の如き味を感じる。然しこの絹の味を最後までよく生かせる程の作家は稀れであろうと思う。

2019年7月17日水曜日

山種美術館「速水御舟」8


*速水御舟「絹と紙」(『美術街』 昭和102月号)

絵を描く場合に絹と紙とどちらをより多く使用するか、どちらを好むかと言う事はよく訊かれることだが、絹には絹のよさがあり、紙には紙のよさがあって、それをはっきり言う事は困難である。何れをとるかは絵を描く場合の心持にあると思う。ただ自分としてはこういう事は言える。即ち大作をする時は絹の方がいいと思い、小さな作品を作る時は紙の方がいいと思う。然しこれは勿論極く概念的な話である。

絹は紙に比較してどうしても目が荒い。だから非常にデリケートな仕事は仕悪いのだ。そこから行くと紙はずっと目がつまっていてどんな細かい仕事でも出来る。味も絹よりは紙の方にデリケートなものが表現される。そんな理由から言っても、紙の上の表現はデリケート過ぎて自分としては大作に適しないような気がする。

2019年7月16日火曜日

山種美術館「速水御舟」7


*速水御舟「苦難時代を語る」(『美術新論』昭和610月号)

次に画の上での苦悩を救ってくれたことは――同門の諸君 と団栗会というのを作った。日曜の度毎に、二三銭の会費で、 郊外へ写生散歩をしようという、小茂田青樹、黒田古郷、田中咄哉、小山大月、牛田鶏村などという人達である。ごく卑近なところから名をつけたのだが、会の内容的な動きはなかなか高遠な理想に燃え、且つ厳正な研究的精神に高まっていた。一日団栗会が気転のどんぐり山で催された。そこで小茂田君は私の画の辛棘な批評をしたものである――君の絵は理想化することが強く、君は絵を作りすぎる。桜に花を咲かす。 爛漫とした趣のみを君は描こうとする。が実在はもっときたなくて垢がある。爛漫の梅にも虫食もあれば、やにもあろう。一面皮肉な物の言い方ではあるが理解してみれば真実である。私は中島(光村)さんの言葉以外、こんな有意義な言葉をきいたことはない。美の対蹠的意識である醜を知らないで、美は成立つものではない。私は未だに一代の教訓としてこのことを感銘している。ややともすると理想化する気持が強く、真を掴もうとする意識を与えられたのであった。私を根本的に立ちなおらせる楔となったものである。先輩や友人は持つべきものである。


2019年7月15日月曜日

山種美術館「速水御舟」6


*速水御舟「速水御舟語録」(『美術評論』昭和104月号)

芸術は商品として取扱われる場合はあっても、それは根本精神に於て商品として制作せられたものではない。芸術が商品でない以上、作家の生活は確保されないこととなる。然しながら今日の社会に於て良き芸術を創造する作家は生活を支持されている。これは取りも直さず精神と精神の交錯経緯が物質にまで連繫して行く力に外ならない。物質欲に囚われて創作上に不安を持つならば、寧ろ去って他に転業する外はあるまい。


2019年7月14日日曜日

山種美術館「速水御舟」5


*速水御舟「想片」(『塔影』昭和810月号)

伝統 伝統の真意は以心伝心によるものであって、決して形式的なものではないと思う。丹霞和尚が一切経を焼き捨てたところに、本当の伝統の精神の衣鉢をつたえていると思われる。

技法 技法の究極は無色透明だと思う。いささかでも他色があれば自己の真意をつたえるものに禍いとなる。われわれ画道の学徒は種々の技法を習得し、而して次第に脱落させ――無色透明にかえったとき、技法の真諦に逢着する。

2019年7月13日土曜日

山種美術館「速水御舟」4


マイベストテンをもとに、このような僕の御舟観をしゃべっていたら、あっという間に90分が過ぎちゃいました。そのときに配った資料から、御舟の言葉を中心に、重要なものを引いておきたいと思います。

ちなみに、静嘉堂文庫美術館が御舟とちょっと関係をもっているというのは、実にうれしいことです。先日レポートしたように、我が館が誇る俵屋宗達の傑作「関屋澪標図屏風」をメトロポリタン美術館の「源氏絵展」に貸し出しましたが、この特別展は多くのアメリカ人を魅了し、成功裏に終了しました。

この「澪標図」の右上には、明石が乗る船が描かれていますが、あるとき御舟はこの船の描写を見て感動おくあたわず、「御舟」という号をみずからに与えたと伝えられています。「関屋澪標図屏風」がなければ、「御舟」というあまりにも美しい画号は誕生しなかったのです。

2019年7月12日金曜日

山種美術館「速水御舟」3


 今年、僕はNHK文化センター青山教室で「絶対オススメ12選<魅惑の日本美術展>」なる講座を受け持っています。例によって「おしゃべり講座」なのですが……。毎月1回、おもしろい日本美術の特別展を選んで、見所を解説するという講座です。オープン直前に開く予習講座といってもよいでしょう。

そこで宣伝チラシに、「美術ブログでお馴染みの『饒舌館長』が選ぶ2019年度日本美術展ベスト12で予習をしてから出かければ、もうカタログなんか買う必要はありません(!?)」と書いたんです。ウケ狙いのジョークですから、各美術館のみなさん、どうぞお許しください!!

 5月の第2回目は言うまでもなく、この速水御舟展です。御舟は日本絵画における求道者です。「炎舞」は写実が古典により理想へ昇華した傑作です。御舟は素材主義の一点において、日本絵画のすぐれた伝統を受け継いでいます。

2019年7月11日木曜日

山種美術館「速水御舟」2


1976年、種二は旧安宅産業コレクションの御舟作品105点の一括購入を決断、現在当館は国内外で最大とされる120点を有しています。

一方御舟は23歳の若さで日本美術院同人に推挙され、横山大観や小林古径らにも高く評価された画家。生涯を通じて、短いサイクルで次々と作風を変えながら、画壇に新風を吹き込んでいきました。

本展では、御舟の最高傑作といわれる《炎舞》、《名樹散椿》(ともに重要文化財)をはじめ、初期から晩期まで当館が所蔵する御舟作品全点を10年ぶりに公開いたします。

2019年7月10日水曜日

山種美術館「速水御舟」1


山種美術館「生誕125年記念 速水御舟」<84日まで>

 
僕がもっとも尊敬する近代日本画家の一人、速水御舟の特別展です。拝見して、改めて御舟の凄さに心の高まりを覚えました。何はともあれ、チラシのリードを紹介することにしましょう。

本然は、日本画家・速水御舟(18941935)の生誕から125年、そして山種美術館が現在の渋谷区広尾の地に移転し開館してから10年目にあたります。これを記念し、当館の「顔」となっている御舟コレクションの全貌をご紹介する展覧会を開催いたします。

当館創立者の山﨑種二(18931983)は御舟と一つ違いでしたが、御舟が早世したため、直接交流することがかないませんでした。しかし、御舟の芸術を心から愛した種二は、その作品を蒐集し、自宅の床の間にかけて楽しんでいました。

2019年7月9日火曜日

静嘉堂文庫美術館「書物にみる海外交流の歴史」11


秦の始皇帝は学問や思想を弾圧して焚書を行なったわけですが、その秦をやっつけるために決起したのは、研究者や思想家である儒者じゃなく、書物なんか読まない劉邦や項羽だというのが実に愉快じゃ~ありませんか。

書物を焼いた煙消え 始皇の偉業も夢のあと

  空しく黄河と函谷関 宮殿跡を守りたり

  焚書の灰も冷めぬうち 反乱 山東から起こる

  決起したのは本読まぬ 劉邦・項羽で儒者じゃない

この漢詩はともかく、聞一多の手紙を読み直してみると、彼は詩集や詞集を古書の山のなかに含めていないような気もします。それならそれで、聞一多はやはり正しかったのだと断を下したいと思います。

ヤジ「聞一多先生のご高説はやはり正しかったのだと断を下す? オマエは一体自分が何様だと思っているんだ!!()

2019年7月8日月曜日

静嘉堂文庫美術館「書物にみる海外交流の歴史」10


僕が大好きな寺山修司は、「書を捨てよ、町へ出よう」といいましたが、これも聞一多や魯迅と相似た思想から出た言葉だと思います。もっともそれを彼が本で発表したというアイロニーのなかに、やはり本が持つ超絶力が語られているんだと思います。

なぜ、寺山修司が好きなのかって? それはこれまで一番多く僕が口ずさんだ和歌は、『万葉集』でも『新古今』でも石川啄木でもなく、寺山修司の「一つかみほど苜蓿[うまごやし]うつる水 青年の胸は縦に拭くべし」だからです。風呂からあがって体を拭くとき、必ずこれを唱えるので、けっきょく75年間で一番多くなっちゃったんです( ´艸`)

僕の趣味で、ときどき戯訳を披露している漢詩も、書物のなかに存在しています。少なくとも僕にとって、漢詩と書物は表裏一体の関係に結ばれています。渡辺秀喜さんの『漢詩百人一首』に、秦の始皇帝による焚書を詠んだ晩唐の詩人・章碣の七言絶句「焚書坑」がありましたので、この展覧会にちなみ、これを紹介しておきましょう。

2019年7月7日日曜日

静嘉堂文庫美術館「書物にみる海外交流の歴史」9


 聞一多や魯迅が膨大な量の中国古典を読んでいたことは、改めて言うまでもありません。そのような知識人の言葉であり、ここには書物の何にも増して強い悪魔的な力が語られているように思います。もちろん僕は、本なんか読んだって仕方がないということを強調するために、あるいは二人の巨人が言っているのだから、確かに本には害毒が含まれているのだということを主張するために、これを引用したのではありません。

それどころか、やはり本は読むべきだと言いたい。とくにスマホでゲームばかりやっている少年少女や青年たちに言いたいと思います。確かに本を読むより、スマホゲームの方がおもしろい――だからこそ、僕はスマホを持たないんです!! スマホを持ったら、四六時中ネットマージャンをやることになるのが怖いんです――語るに落ちるとはこのことかな()

それはともかく、このような近代中国を代表する知識人が、意を尽くして否定しなければならなかったほど、書物には圧倒的エネルギーが内包されているという事実をいいたかったのです。それは初めに指摘したような書物の特性から、おのずと生まれたものにちがいありません。

2019年7月6日土曜日

静嘉堂文庫美術館「書物にみる海外交流の歴史」8


 聞一多には、書物への愛惜の情がいまだ感じられますが、かの魯迅になると古書の山に敵対する気持ちがもっとはっきりと表現されています。それは『阿Q正伝』を著わして、中国の国民性に冷徹な眼を向けた魯迅の言葉として、スンナリと理解することができます。若干、青年を扇動しようという感情がなかったわけではないとしても、魯迅の本心であったことは疑いないでしょう。

私が、青年はなるべく、あるいは全然、中国の書物を読むな、と主張したのも、多くの苦痛をもってあがなった真剣な言葉であり、決して一時の快をむさぼる言葉でも、あるいは笑談、憤激の言葉でも何でもなかったのである。古人は、書を読まなければ愚人になる、といった。それはむろん正しい。しかし、世界はそうした愚人によって造られているものであって、賢人は絶対に世界をささえることはできない。ことに中国の賢人はそうである。             (『墳』の後に記す)

2019年7月5日金曜日

静嘉堂文庫美術館「書物に見る海外交流の歴史」7



 さらに時代が下ると、このような書物に対する見解をより一層はっきり表現する知識人も登場してきました。すでに曜変天目に関する私見を述べたとき引用した『中国神話』の著者・聞一多は、つぎのように述べています。かつて掲げたことがあるような気もしますが、桑原武夫の『一日一言』(岩波新書)をそのまま引いておくことにしましょう。おそらく『聞一多全集』のなかに収められているんだと思いますが……。

私は十年余りも古書の山のなかで暮らして、確信ができました――わが民族、わが文化の病根がはっきり分かったのです。そこでそれの処方箋を書く気になりました。その方式が、文学史(詩史)になるか、または詩(史詩)になるかは分からないし、どれにしても駄目かもしれません。決定的な処方箋ができ上がるかどうかは、環境がそれを許すか否かにかかっています。しかし、私としては、このやり方に誤りはないと信じています。実は私はあの古書の山を誰にも増して憎むものです。憎むからこそ、そいつをはっきりさせずには済まされないのです。 (臧克家氏への手紙)

2019年7月4日木曜日

静嘉堂文庫美術館「書物に見る海外交流の歴史」6


清の考証学は、異民族国家であった清朝による学問政策の結果であるという通説を認めた上でなお、書物の芳しい香りを抜きには語れないように思います。しかし清初の時代は、それでもまだよかったかもしれません。近代を迎え、西欧文化に基盤を置く近代国家を建設しなければならなくなったとき、いち早く目覚めた近代中国知識人の苦悩は、この点にあったように思います。

汗牛充棟の古典的書物を放擲し、西欧の近代思想と近代科学を学ばなければならない、そして国家と社会というものをみずから考えなければならない時代がやってきたのに、多くの知識人は古典的書物に囲まれて唯々諾々としているという焦燥です。とくに僕が興味を覚えるのは、そのように考える先覚的知識人の中にも、やはり書物の魅力あるいは魔力から逃れることができなかった例を、容易に見つけられるという事実です。

2019年7月3日水曜日

静嘉堂文庫美術館「書物にみる海外交流の歴史」5


 このような書物のメリットは、またデメリットともなりました。膨大な情報を比較的安価に長期間保存できるがために、それをすべて理解するためには、これまた膨大な時間が必要となります。下手をすると、理解することが人生最大の目的となり、やがて大きな喜びとなり、みずからの頭で考えることを止めてしまうのです。

とくに、漢字という情報伝達にすぐれた機能をもつ文字を作り出した中国では、長い歴史のなかで、想像を絶するような書物の山が築かれてきました。それを読むだけで精一杯となり、みずから思索する時間がなくなり、やがて完全に止めてしまう風潮が生まれてきました。

僕のみるところ、はじめてそれに異を唱えたのは、明の王陽明だったと思いますが、陽明学が儒学の主流にならなかったのは、やはり書物が本来的にそなえていた魅力が、これまた想像を絶して大きかったからにちがいありません。

2019年7月2日火曜日

静嘉堂文庫美術館「書物にみる海外交流の歴史」4


それだけではありません。膨大な情報量を、比較的簡単に蓄積することができます。ヒトはやがて死んでしまいますし、モノをたくさん蓄積するためには、巨大な建物が不可欠でしょう。書物は、それに比べればずっと小さい空間に、うまくすれば1000年以上にわたって蓄えておき、必要な時に取り出して読むことができます。その間に、複製を作ることも簡単なことです。

 もちろんコスパがいいといっても、古くから書物は高価でした。例えば、平賀源内はヨンストンの『動物図譜』を購うために、家屋敷私財のすべてを売らなければならなかったと伝えられています。しかし、西洋に留学してヒトに就き、モノを調べてあれだけの知識をみずから獲得することに比べれば、ずっと安上がりであったことはいうまでもないでしょう。そもそも当時は留学などできなかったのですが……。

2019年7月1日月曜日

静嘉堂文庫美術館「書物にみる海外交流の歴史」3


モノでは、正倉院御物や唐物や地球儀に代表されるような西洋文物があげられます。鉄砲のような武器も、眼鏡絵のようなおもちゃも、戦後我が国がアメリカから輸入して学んだ家庭電化製品も、重要なる文化的モノでした。もちろんこれに彫刻や絵画も加えることができます。

今回のテーマともなっている書物は、モノといえばモノにちがいありませんが、ほかのモノとは決定的な違いがあります。ヒトやモノと比較して情報量がものすごく多いのです。それでいて運搬に便利です。ヒトを複製することはできませんし、モノを複製することは大変な労力を必要とします。しかし、書物は簡単に増刷できますし、いざとなれば復刻版――今の言葉でいえば海賊版を作ることもむずかしくありません。

ということは、経済的に大変すぐれているということになります。ヒトやモノに比べて、コストパフォーマンスがとてもすぐれています。

出光美術館「トプカプ・出光競演展」2

  一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。  日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して 100 周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮...