横浜美術館「石内都 肌理と写真」と山口百恵
横浜美術館協力会の講演会で、「饒舌館長『琳派絵と近代日本画』口演す」と題して90分しゃべりました。「饒舌館長琳派絵と 近代日本画口演す」と七五調にしたところがミソです(!?)
そのあと、はじめて石内都の世界を堪能しました。昭和54年(1979)石内都が発表した、ほとんどデビュー写真集といってもよい『絶唱、横須賀ストーリー』の名前だけは、記憶の底に沈殿していました。いくら憧れても憧れ足りない山口百恵が書いた、あまりに早すぎる自叙伝『蒼い時』に登場するからです。山口百恵はその「序章・横須賀」に、つぎのように描写しています。
ある日、私のもとに、手紙を添えて一冊の写真集が届けられた。
『絶唱、横須賀ストーリー』と題されたその写真は、全て、私の知らない表情をした横須賀だった。
あの街に、これほどのあざとさが潜んでいたのだろうか。これほどの哀れさが匂っていたのだろうか。
恐ろしいまでの暗さ、私があの街で光だと思っていたものまでが、全て反転してしまっていた。
坂道も、草原も、ドブ板横丁も、米軍に入りこまれたことによって仕方なく変らざるを得なかったあの街の、独特の雰囲気が、その写真の中では、陰となって表わされていた。哀しかった。恐怖さえ抱いた。
同じ街が見る側の意識ひとつでこんなにも違う。私の知っている横須賀は、これほどまでにすさまじくはなかった。
今にも血を吐き出しそうな写真にむかって私は呟いた。
この街のこんな表情を知らずに育ってこられたことに、わずかな安心感を抱いていた。
何という写真集なんだ。僕の山口百恵をこんなにも哀しませるなんて。血を吐きそうになる恐怖のどん底に陥れるなんて。たとえこれを書いたのが残間里江子だとしても……。言うまでもなく僕は、『絶唱、横須賀ストーリー』を見てみたいとも、その写真家の名前を聞きたいとも、それが男なのか女なのかを知りたいとも思いませんでした。
そもそも、そのころ僕は写真というものに興味がありませんでした。近現代美術史において、写真がきわめて重要な位置を占めていることを認識するようになったのは、もうちょっとあとのことでした。やがて何かの機会に知った、スーザン・ソンダクの「今日、あらゆるものは写真になるために存在する」という名言――「インスタ映え」を的中させた名言も、まだ僕の言語記憶中枢に収まっていませんでした。
しかも最初は、高橋由一や浅井忠、竹内栖鳳のような近代の画家が、写真を利用して作品をこしらえたという事実に興味をもったのです。つまり、写真そのものではありませんでした。山口百恵を哀しませたことはもとより、この写真集にまったく関心が向かなかったのも、当然だったのです。
『絶唱、横須賀ストーリー』と写真家・石内都の名前が結びついたのは、その発表から4半世紀も経ってからでした。郷里である秋田の県立近代美術館の仕事を正式にやるようになる2年前から、アドバイザーというような立場になりました。そこで、美術館でやってみたい特別展をいろいろと考えることにしたのですが、そのうちの一つに「木村伊兵衛展」がありました。
そのころは写真に結構興味をもつようになっていましたし、興味なんかなくたって、かの傑作「秋田おばこ」は早くから網膜に焼き付いていました。それを今は亡き天羽直之さんに話すと、親切にも木村伊兵衛の写真集を、朝日新聞社の図書室から「國華」編集室へ借りだして来てくれました。天羽さんも木村伊兵衛が大好きでした。というよりも、「秋田おばこ」が大好きだったんです。
早速ページを繰ると、もうこれは秋田県立近代美術館でやらなければならないという使命感に駆られました。そこで木村伊兵衛のことを少し調べてみると、逝去翌年の昭和50年(1975)、その業績を記念して木村伊兵衛写真賞が設定されたのですが、その受章者のなかに石内都がいたのです。昭和54年、石内都は第4回木村伊兵衛賞を受賞していました。
対象作品は、前年に発表した『APARTMENT』でしたが、その後の略歴には、『絶唱、横須賀ストーリー』もあげられていたので、アッと気がついたのです。あの山口百恵を哀しませた写真集は、石内都という女性写真家の作品だったのです。
しかし関心の的はもっぱら木村伊兵衛でしたので、またもやこの写真集を手にとることなく、そのうち忘れるともなく忘れてしまいました。そして結局、木村伊兵衛展もいろいろな理由で、ポシャッてしましました。
この「石内都 肌理[きめ]と写真」は、館長である逢坂恵理子さんが、みずからチーフ・キューレーターとなって企画した特別展のようです。すごいなぁ! うらやましいなぁ!! いつか僕も静嘉堂文庫でこういう風にやってみたいなぁ!!!
このおススメ特別展を、テルモ生命科学芸術財団がサポートしていることも、ぜひ書き添えておきたいと思います。この公益財団法人が、本来専門とする医療分野だけでなく、芸術にも支援を惜しまないというのは、何と素晴らしいことでしょうか。両者の融合が、現代ほど強く求められる時代はありません。
とはいっても、僕には初期の「横浜」がもっとも好ましく感じられました。たとえば「金沢八景」は、遅すぎた青春の思い出というわけじゃないけれども、何かとても懐かしい感じが僕を惹きつけるのです。「Apartment」も「yokohama互楽荘」も「連夜の街」も、実際は住んだことはない空間なのに、こういう風景が僕らの世代にとって、決して別世界のストーリーではないのです。
同時に逢坂さんは、美術館のコレクション・ギャラリーで、収蔵作品の「絶唱、横須賀ストーリー」55点を展示して、重層的構成に高めています。もちろん、ヴィンテージプリントです。今まで写真集なんか見ないでよかった! 小さい画面なのに、圧倒的迫力で迫ってきます。
いっぺんに石内都という写真家が好きになりました。いや、尊敬の念が湧いてきました。美は人間の好悪を180度転換させてしまうこともあるんだと思いました。そこでは、醜を超越した美が存在を主張していました。山口百恵をあんなに哀しませたことも、許せるような気持ちになりました。
それとともに、山口百恵が恐怖を覚えた理由が分かるような気がしました。「自分の意識の中での私自身は、あの街にいる。あの坂道を駆け、海を見つめ、あの街角を歩いている。私の原点は、あの街――横須賀」と絶唱する山口百恵にとって、絶対見たくはなかったはずの横須賀が、そこに繰り広げられているからです。
しかし、もし山口百恵が写真集ではなく、このヴィンテージプリントを見たとしたら、表層を超えた写真としてのエネルギーに、ちょっと、あるいはまったく異なる感慨をもったかもしれません。少なくとも、現在、幸せな家庭生活を営む山口百恵なら、40年もまえ石内都によって写し撮られた横須賀に、もう哀しみも怖れも感じることはないでしょう。
山口百恵様、ぜひ3月4日までに、横浜美術館をお訪ねくださいませ!!
「石内都 肌理と写真」から選ぶ「僕の一点」は、「Apartment」№004のパジャマを着て布団の上に横座りする男のポートレートです。なぜかって? 男のうしろの壁に、篠山紀信が撮影した山口百恵の大きなピンナップが、無造作に画鋲で止めてあるからです(!?)