2025年2月28日金曜日

『昭和が恋した女優たち』6

 

 早田氏の本名は橘雄二郎、『映画の友』と『映画ファン』を発行していた映画世界社の社長、橘弘一郎氏の弟さんでした。年はずいぶん離れていたそうですが……。そのような関係もあって、早田氏は映画世界社の写真部員になったのでした。

若いころ、日本ものより洋画やアメリカのテレビドラマが好きだった僕は、時々『映画の友』を求めてながめていました。みな処分してしまいましたが、好きな女優が大きく載る号は数冊残してあります。もしやと思って、アン・マーグレットが表紙を飾る『映画の友』19647月号の奥付を見たら、制作者のはじめに「橘弘一郎」の名があり、終りの方に「写真 早田雄二」とあるのが見つかりました。ちなみに編集長は「淀川長治」でした。

今年は早田雄二氏が亡くなってちょうど30年、誰か没後30年記念遺作展を企画してくれないかな!!


2025年2月27日木曜日

『昭和が恋した女優たち』5

 


 もちろん早田氏は、自分の個性と立ち位置をよくわきまえていました。秋山庄太郎氏との対談では、つぎのように語っています。

僕は職人で、庄ちゃん(秋山)は野人でね。僕なんかもたくさん撮っていると、きれいに撮るばかりでなく、今度はもう少しアーティスティックに撮りたいな、という気持ちがしょっちゅうあった。だけど、なかなかねぇ。

 職人――素晴らしいじゃ~ありませんか。言うまでもなく東洲斎写楽はすごいけれど、初代歌川豊国も同じようにすごい浮世絵師だったと思います。しかも早田氏は仕事がなければ、パーティやゴルフ、麻雀、釣りに寸暇を惜しんで出かけていたと、長男の写真家・橘牧男氏が思い出を語っています。これはもう人生の達人と呼ぶべきです!! 素晴らしい一生を送った写真家だったのです!!

2025年2月26日水曜日

『昭和が恋した女優たち』4

 

写真評論家の鳥原学氏も、「自分の写真は『ポートレートに始まりポートレートに終わる』と早田は語っている。しかもできるだけその外面を美しく撮り、グラビアで再現したい。そのために心がけた配慮のなかに、彼の成功の理由が見えてくるのである」と述べています。

加えて仕事が速かったようです。先の鳥原氏は「早田は撮影相手に必ず次の仕事の予定を聞き、時間を逆算して仕事に掛かった。またポーズを決めてから照明を設定していたが、これも時短のためだった」と書いています。さらに第2章のトビラには「スタジオのセットが決まれば、撮影にかかる時間は15分ほど。忙しい女優たちにも歓迎された」とあります。つまり土門拳のように、時間など頓着せず凝りに凝るなどということは絶対なかったのでしょう。


2025年2月25日火曜日

『昭和が恋した女優たち』3

 

ベンヤミンにしたがえば「アウラ」というものだったのかな() アウラはともかく、3人以外の方々もほとんど会ったことがあるように感じられるのが不思議です。

 『昭和が恋した女優たち』の副題は「生誕100年 写真家・早田雄二の世界」――大正5年(1916)に生まれた写真家、早田雄二氏の生誕100年を記念する企画だったのです。

どの女優さんも本当に美しくきれいに撮られているなぁと思って、早田氏みずから執筆した「映画スタア撮影の苦心」(再録)を読んでみると、つぎのように書いてありました。

狙いとしては、モデルその人自身の持っている一番よい所、よい面を掴むのをモットーにしている。私としては本人に喜んで貰える写真が撮りたい。

「本人に喜んで貰える写真」は、もちろんそのファンにも喜んで貰える写真だったにちがいありません。


2025年2月24日月曜日

『昭和が恋した女優たち』2

激動の時代を駆け抜けた、116人の女性たち。スクリーンで輝くその姿は、明日への希望そのものだった。誰もが胸にしまっている、黄金色の青春がよみがえる――

 この116人のうち、僕が実際に会ったことがあるのは八千草薫さん、若尾文子さん、扇千景さんの3人です。八千草さんは静嘉堂文庫美術館@世田谷岡本で、若尾さんは黒川紀章さんと一緒にパリで、扇さんは坂田藤十郎さんとのオシドリで、東京都心のある祝賀会だったように思います。細見良行さんの招待だったので、あるいは京都だったかもしれません。最近、昔のことはすべてオボロ、みな曖昧、夢のまた夢といった感じなんです()

 それぞれにお会いしたのは、『昭和が恋した女優たち』に載る写真よりずっとあとだったように思いますが、やはり女優さんというのは何か違うなぁと感じさせる雰囲気がありました。

 

2025年2月23日日曜日

『昭和が恋した女優たち』1

 

別冊太陽『昭和が恋した女優たち 生誕100年 写真家・早田雄二の世界』(平凡社 2015

 義理のアネキが、図書館で借りてきたといってこの写真集を見せてくれました。第1章銀幕の大スタア(戦前~1950年代初め)は田中絹代、原節子、高峰秀子、山田五十鈴、高峰三枝子……、第2章百花繚乱の春(1950年代)は北原三枝、若尾文子、司葉子、芦川いづみ、南田洋子……、3章スクリーンの妖精(1960年代)は吉永小百合、浅岡ルリ子、岩下志麻、三田佳子、鰐淵晴子……、そして第4章青春を彩るヒロインたち(1970年代)は大原麗子に始まり山口百恵で終っています。

懐かしさ満載の写真集です。もちろん僕ら、昭和世代にとっての話ですが( ´艸`) 原節子のモノクロ写真をフィーチャーした表紙には、白抜き文字のキャッチコピーが光っています。


2025年2月22日土曜日

『芸術と社会』16

しかし結局、天才ヴォルター・ベンヤミンといえども論理的解決はついにできなかったのだと思います。それは何故なのでしょうか? 答えは芸術と複製技術が二律背反だったからです(!?)

最後にぜひ書き添えておきたいことがあります。それは社会学的芸術学や社会学的美術史の研究に新しい地平を拓く『芸術と社会 近代における創造活動の諸相』(森話社 2025年)の誕生に、鹿島美術財団の出版助成が重要な産婆役を担ったことなのです。鹿島美術財団については、これまで何度もアップしたことがあると思いますが、僕もチョッとお手伝いをしている、美術に特化した公益財団法人です。

 ヤジ「お手伝いじゃなく、邪魔をしてるんじゃないの?」 

2025年2月21日金曜日

『芸術と社会』15

 

北澤さんは「『美術』受容史ノート」という副題をつけていますから、受容美術史研究の重要性を主張したのかもしれませんが、明らかに社会学的美術史と呼んでよい視覚が包摂されています。北澤さんへのオマージュは、かつてある拙文で捧げたことがあるように思いますが、いつか「饒舌館長ブログ」にもアップすることにしましょう。

今回ベンヤミンの名著『複製技術時代の芸術作品』<岩波現代文庫>を書架から引っ張り出し、改めて読んでみました。もちろん以前読んだときと同じく、難解晦渋にしてほとんど理解できませんでしたが、あえて独断と偏見でまとめれば、本書はベンヤミンが芸術と複製技術という二律背反の相克を、論理的に解決しようとして苦闘した軌跡の記述である――ということになります。高階先生、僕の見立ては間違っていますでしょうか?


2025年2月20日木曜日

『芸術と社会』14

ひるがえって日本の美術史ではどうだったでしょうか? 美術史家による社会学的芸術学、もう少し限定して社会学的美術史への関心はかなり薄かったと思いますが、さすが岡倉天心は慧眼の士でした。日本美術史の荒野を開拓した岡倉天心――その東京美術学校における講義筆記録『日本美術史』をながめてみると、そこには社会学的美術史の思考が抜かりなく準備されていたと思われます。

しかしその後、実証主義や感覚主義、あるいは様式論が日本美術史研究の主流となり、社会学的美術史が健康に育つことはありませんでした。もちろん部分的には論じられたわけですが、日本美術史学における天心の後継者はずっと現われなかったと思います。

ここでオーラルヒストリーを許してもらえるならば、かの『眼の神殿』(美術出版社 1989年)こそ、我が国における美術史家による社会学的美術史のエポックであり、著者・北澤憲昭さんこそそのパイオニアだったと思います。

 

2025年2月19日水曜日

『芸術と社会』13

たとえばピエール・フランカステルの『絵画と社会』<大島清次訳>(岩崎美術社)は、題名から社会学的芸術学の書かと錯覚しますが、実際は絵画における諸要素の関係や対立の在り様を分析した、いかにもフランス的な、あるいは構造主義的な美術書なんです。

僕も社会学的芸術学に色目を使い始めたころ、早速求めてみましたが、フランカステル先生にみごとハシゴを外されたような思いにとらわれました。5300円もしたのに() それはともかく、美術史における方法論的趨勢は、社会学的芸術学よりも図像学イコノグラフィーへ、やがて図像解釈学イコノロジーへ移っていったように思われます。

 

2025年2月18日火曜日

『芸術と社会』12

 

いかにもブルクハルト的な修辞に彩られ、僕にはちょっとペダンティックに感じられる文章の行間を読んでいくと、ブルクハルトの真意は、むしろオスカー・ワイルドを先取りしたような「国家は芸術を模倣する」ことにあったのかも知れません。しかし僕は、美術史家による社会学的芸術学の嚆矢に位置づけたい誘惑に駆られるのです。『イタリア・ルネサンスの文化』の初版が出版されたのは1860年、日本でいえば桜田門外の変が起こった万延元年だったというのが驚きです。

このあと欧米において、美術史家による社会学的芸術学がどのような発展を遂げたのかよく知りませんが、注意しなければならないのは、「社会」という語が研究者によってまったく異なる点です。


2025年2月17日月曜日

『芸術と社会』11

 

その『イタリア・ルネサンスの文化』<柴田治三郎訳>(中公文庫)を開くと、最初に「芸術作品としての国家」という章があります。これを読んでみると、国家や政治や宗教は、人々の精神に大きな影響を与えると考えられていたように思います。しかしさすがブルクハルトです。直接的に指摘することは控え、「個人の発展」以下の章と微妙に交響するような記述を心掛けているようです。

しかし最終節「愛国者のイタリア」を、「最後になおかいつまんで、このような政治的状況が、国民一般の精神にどんな反応を及ぼしたかを、考察しよう」と書き出しているところをみると、やはり政治と精神は分かちがたく結びついていると考えていたといって間違いじゃ~ありません。これは一種の芸術社会学だといってもよいでしょう。『新潮世界美術辞典』にしたがえば、社会学的芸術学と呼んでもよいことになります。


2025年2月16日日曜日

『芸術と社会』10

 チョッと読んだだけでは、よく分らないでしょう。美学というのは、かくも難しい学問なんです。じつは学生時代、編者である竹内敏雄先生の講義を受講しました――美術史専攻の学生は美学の単位が必須だったからです。しかしほとんど理解することができず、当然成績は「可」でした( ´艸`) 

余談はともかく、『新潮世界美術辞典』にあるように、初め芸術社会学は社会学の一部門でした。つまり社会学者の仕事だったのです。しかし美術史研究者も、美術と社会の重要な関係に早くから気づいていたと思います。そのパイオニアはかのヤーコプ・ブルクハルトだったのではないでしょうか。「うまく隠れていた者こそ、いい生き方をした者だ」を人生のモットーとしたというブルクハルトが、それを実践しながら著わした名著があります。

 

2025年2月15日土曜日

『芸術と社会』9

 

これは一面では社会に対する芸術の意義、すなわち芸術の社会的効果、 芸術家と公衆との関係、天才の環境創造力、芸術教育等の問題、他面では芸術に対する社会の影響、すなわち芸術の社会的経済的制約、芸術の階級性等の問題を考察する。芸術の社会学的考察は、特に唯物史観の立場では、芸術を一定の社会や一定の階級のイデオロギーによって根本的に制約されるものとみて、価値の相対化に陥ったが、最近にはこの欠陥を克服して芸術評価の客観的規準を確保しようとする方向へ発展している。なお社会学的美学は実際にはしばしば芸術社会学と区別しがたいものとなるが、厳密にはこの二つの概念は同一視されるべきでない。なぜなら芸術社会学は芸術を必ずしもその本来の美的意義において観察せず、むしろ社会現象研究のための単なる材料あるいは手段として扱うものだからである。


2025年2月14日金曜日

『芸術と社会』8

 この芸術社会学とよく似た研究法に社会学的美学があります。竹内敏雄編『美学事典』(弘文堂新社 1961年)「美学と芸術学」の項には、つぎのように書かれています。

美は個人の意識において個性化の原理のもとに創造され、受容されるものでありながら、しかも時代の超個人的形式感や国民的趣味によって背後から支持され、制約され、また芸術品に客観化されて社会的機能をあらわすものであるから、それを人間共同体における集合現象として観察することもできるし、またそうすべきである。ヴントが示したような、原始芸術の民族心理学的研究もこの研究方向に属するが、その主なるものは社会学的観点から美的現象、特に芸術を考察しようとする社会学的美学である。

 

2025年2月13日木曜日

『芸術と社会』7

 

芸術社会学  Kunstsoziologie () 芸術の創造や公衆による享受の研究を通して社会機構の認識を目指す社会学の一部門。 ある芸術現象をそれを生みだした社会の現象の一つとみなし、とくに社会内の一定の階級や集団との結びつきを前提とする。 芸術は社会の政治や経済などのさまざまな因子によって規定されるが、同時に表現や伝達の機能により社会に働きかけるので、このような芸術と社会との関連の解明は、社会学的研究であるとともに、価値的認識は含まないが芸術の理解に資するところも多く、社会学的芸術学といってもよい側面を有する。 なお芸術社会学のなかではとくに文芸社会学と音楽社会学が盛んである。


2025年2月12日水曜日

『芸術と社会』6

 

しかしオマエなんかに写真を論じるのはとても無理だと、引導を渡してくれたのがこの名著だったんです() もっともそのとき高階先生の「アウラの夢と嘘」がすでに発表されていて、これを精読することが叶ったなら、何とかなったかもしれませんが……。

 ヤジ「そういうのを負け惜しみというんだ!!

 さて『芸術と社会 近代における創造活動の諸相』のコシマキにあるような「芸術と社会との関係」を研究する学問を、ふつう芸術社会学と呼んでいます。これまで何度も引用したことがある『新潮世界美術辞典』(新潮社 1985年)を開くと、つぎのように解説してあります。


2025年2月11日火曜日

『芸術と社会』5

改めて若々しい好奇心に満ちた智の巨人に脱帽です!! これからは「智の巨人」とお呼びしたいと思います。高階先生は知識の巨人ではなく、智慧の巨人だからです。

実をいうと、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』には苦い思い出があるんです。もう20年近く前でしょうか、佐藤康宏さんから、編集中の『講座日本美術史』2<形態の伝承>に「粉本と模写」といった内容で書いてほしい、できたら現代の粉本ともいうべき写真についても、取り扱ってほしいと頼まれたことがあるんです。

その前に高橋由一について拙文を書いたことがあり、そのとき絵画における写真の重要性に気づかされたので、佐藤さんの依頼に悪乗りして()写真に対する私見を物してみようと思いつきました。となれば何はともあれベンヤミンです。さっそく少し前に出た多木浩二『<複製技術時代の芸術作品>精読』(岩波現代文庫)を読んでみたんです。

 

2025年2月10日月曜日

『芸術と社会』4

 

 先生はベンヤミン以降におけるアウラの変貌を概観したあと、ご自身のアウラ観をもって結語とされています。

「アウラ」はすぐれた作品の中から出てくるものというよりも、すぐれた芸術家や作曲家の夢が、そのようにとらえられるのではないだろうか。

ベンヤミンはニーチェから大きな影響を受けたそうですが、ニーチェの名言「この世に事実というものは存在しない。存在するのは解釈である」と、先生のアウラ観が何となく共鳴している点にも興味をそそられました。先生の論文は2021年春開催された、第6回芸術と社会研究会における発表を編者がまとめたものだそうですが、出版順でいえば先生の絶筆というも不可ないでしょう。


2025年2月9日日曜日

『芸術と社会』3

先生はベンヤミンの「パリ論」、とくにパサージュ論が『複製技術時代の芸術作品』と深く関わっていることから説き起こします。続いてベンヤミンのいう「儀礼的価値」と「展示的価値」から「アウラ」――普通にいう「オーラ」の問題へ発展させ、ここで本書のキモとなる一節を摘出しています。

オリジナルのもつ<いま―ここ>的性質が、オリジナルの真正さという概念を形づくる……真正さの全領域は、技術的――そしてもちろん技術的なものだけではない――複製の可能性を受けつけない。

これらの特徴をアウラという概念でひとまとめにして、こう言うことができる――芸術作品が技術的に複製可能となった時代に衰退してゆくもの、それは芸術作品のアウラである。

 

2025年2月8日土曜日

『芸術と社会』2

 芸術と社会の関係を考える際のヒントがテンコ盛り(!?)になっています。この問題に関心をもつ方々に、ぜひお勧めしたい1冊です。〆て22論文、すべて示唆に富んでいますが、「僕の一点」は去年幽明界を異にされ、この「饒舌館長ブログ」にも追悼の辞をアップさせてもらった智の巨人・高階秀爾先生の「アウラの夢と嘘――W・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』をめぐって」ですね。

先生は1940年、48歳でみずから命を断ったヴァルター・ベンヤミンの名著『複製技術時代の芸術作品』を取り上げて、この問題を考察していらっしゃいます。ベンヤミン――『広辞苑』にはドイツの「批評家」とありますが、間違っていると思います。ベンヤミンは「思想家」です!! 

2025年2月7日金曜日

『芸術と社会』1

 

高階絵里加・竹内幸絵編『芸術と社会 近代における創造活動の諸相』(森話社 2025年)

 20204月から、京都大学人文科学研究所において「芸術と社会――近代における創造活動の諸相」という共同研究が開始されました。実際はコロナ禍のため、半年近くスタートが遅れたそうですが、ほぼ3年半にわたり熱き発表と討論が続けられました。中心になったのは京大人文研の高階絵里加さんと同志社大学社会学部の竹内幸絵さん、お二人が編者となってその研究成果をまとめたのが本書です。コシマキにはつぎのように書かれています。

芸術と社会の関係を問い直す――個人の営み・個性の表現である芸術は、一方で社会のなかに生まれ、社会によって変化し、社会にはたらきかける力を持つ存在でもある。その芸術は、いかなる政治的・経済的環境のもとで生み出されたのか。それはなぜ受容者に受け止められ、それを必要とした社会は何を求めていたのか。本署は、社会の多様な位相における影響関係のなかで、近代の西洋、東アジア、日本の芸術を再考する。

2025年2月6日木曜日

東京国立博物館「大覚寺」16

藤岡通夫先生の『京都御所』によると、このときの障壁画筆者としては狩野孝信の名前しか出てこないようです。しかし孝信はあくまで棟梁であって、多くの狩野派画家を組織して障壁画制作に当たったことは改めて指摘するまでもありません。そのなかに山楽がいたのではないでしょうか。

もっとも、この後水尾天皇新造内裏は徳川幕府による大プロジェクトでしたから、豊臣家の御用絵師格であった山楽が採用されたかどうか微妙です。しかし元和元年(1615)起こった大阪夏の陣以前、つまり男山八幡社僧であった松花堂昭乗のもとに山楽が身を隠す前であれば、山楽が参加した蓋然性は、これまたゼロじゃ~ないということになります。いれにせよ、慶長度造営御所障壁画の可能性を考えたい誘惑に駆られるのです。

  ヤジ「令和7年も饒舌館長は独断と偏見、妄想と暴走みたいな予感がするなぁ」

 

2025年2月5日水曜日

東京国立博物館「大覚寺」15


 ここで『友松・山楽』の巻末に付された「友松・山楽年譜」から山楽の項を見てみましょう。すると慶長12年に「後陽成院御所の障壁画を描くか(『土佐文書』)」とあるではありませんか。後陽成院御所に山楽が「牡丹図」や「紅白梅図」を揮毫した可能性は、ゼロじゃ~ないということになります。

 もっとも二つの造営のうち、より一層大規模であったのは後者の後水尾天皇新造内裏であり、「牡丹図」「紅白梅図」にふさわしいのもこの新造内裏であったようにも思われます。ただしこの障壁画を主導したのは狩野孝信で、彼の筆になる「賢聖障子」は仁和寺に伝えられてよく知られるところです。これを最初に指摘されたのも、先の土居次義先生でした。 

2025年2月4日火曜日

東京国立博物館「大覚寺」14

このたび改めて川本さんの『友松・山楽』を拝読し、しばらくぶりに美術史の醍醐味にワクワクする自分を感じたのでした。図像解釈学イコノロジー全盛の現在、川本さんの様式史に対する揺るぎなき信頼がじつにカッコよかったからです。「障壁画の年代は、新しい史料でも発見されないかぎり、その様式から判断する以外に手立てがないのである」というのが、川本さんの基本的スタンスなのです。

この川本説にしたがえば、両者を慶長度造営御所の障壁画とするよりほかに、途はないのではないでしょうか。先の『京都御所』によれば、慶長度造営御所は慶長11年ごろの後陽成院御所造営と、慶長16年から始まった後水尾天皇のための内裏新造に大別されます。「牡丹図」「紅白梅図」はいずれかの障壁画だったのではないでしょうか。

 

2025年2月3日月曜日

東京国立博物館「大覚寺」13

しかし様式的に、貞信一門とはどうしても見なせない点から、美術史研究者の間では元和5年東福門院女御御所説だけを生かし、「牡丹図」「紅白梅図」はそのころの山楽画とする見方が通説になっていました。土居先生もこの立場でした。

これに再考を迫ったのが、若き日の美術史家・川本桂子さんでした。川本さんは著書『友松・山楽』<名宝日本の美術>(小学館)において、東福門院女御御所説を完全に否定し、様式的にみて山楽慶長末期の傑作であることを明快に論じたのです。僕の所有する『名宝日本の美術』は<新版>なので、『友松・山楽』の発行は1991年になっていますが、オリジナル版は数年早いと思います。

*川本桂子さんの『友松・山楽』は、新たに<新版>に加わった1冊だそうです。佐藤康宏さんから教えてもらいました。ありがとう❣❣❣ <新版>が出たとき、オリジナル版は断捨離しちゃったものですから……。

 

2025年2月2日日曜日

東京国立博物館「大覚寺」12

 

しかし土居先生も、1972年著わされた『永徳と山楽』(清水書院)では、一部に異なる画家の筆が混じることを指摘しつつ、基本的に「牡丹図」も山楽筆とみる立場に変わっています。その後出された『山楽・山雪』<日本美術絵画全集>(集英社 1976年)でも、土居先生は同じ考えを表明されています。

現在、この土居アトリビューションを否定する美術史研究者はいないでしょう。つまり筆者問題は解決しているわけですが、問題は先に指摘した何時、何処、何故です。

1956年、建築史家・藤岡通夫先生が『京都御所』(彰国社)を出版されました。そして「牡丹図」「紅白梅図」がはめられる現宸殿の前身は、元和5年(1619)建てられた東福門院女御御所であることを指摘されました。東福門院は徳川二代将軍秀忠の娘和子まさこ、翌年後水尾天皇のもとへ入内された閨秀です。したがって藤岡先生は、記録に残る狩野貞信一門に障壁画筆者をアトリビュートされたのです。


2025年2月1日土曜日

東京国立博物館「大覚寺」11

 

ところが不思議なことに、こんな傑作障壁画がいつ、いかなる建物のために描かれ、なぜ山楽が担当することになったのか、まったく不明なんです。これが嵌っている宸殿は、もともと大覚寺のために建てられた建物ではないんです。「牡丹図」「紅白梅図」のいずれにも落款印章はありませんが、狩野山楽の作であることは寺伝として伝わってきました。寺伝は鵜呑みにできないものの、この場合は信用できることを土居次義先生が早くに実証していました。

先生は昭和18年(1943)に『山楽と山雪』(桑名文星堂)を出版され、「紅白梅図」は山楽筆で間違いなきことを断言されました。もっとも「牡丹図」については、「山楽画に極めて近き作風をもつ作品」とされるだけでした。とくに関係ありませんが、昭和18年は僕が生まれた年です( ´艸`) 

『漢詩花ごよみ』春9

  款冬花(蕗の薹 ふきのとう )――中唐・張籍「賈島に逢う」 遊楽原の青龍寺 たまたま見つけたフキノトウ   寺 出て漢詩を口ずさみ 歩めば沈む夕日かげ   都大路を一面に 白く染めたり名残り雪   馬蹄 ばてい パカパカここを去り どっかの飲み屋に繰り込もう ...