2024年9月30日月曜日

東京都美術館「田中一村展」1

東京都美術館「不屈の情熱の軌跡 田中一村展 奄美の光 魂の絵画」<121日まで>

千葉市美術館「特集 田中一村と千葉」<109日~121日>

一村は生前まったく無名の存在でしたが、作品に魅了された人々により没後に顕彰の動きが生まれ、その名が知られるようになった画家です。本展覧会は神童と称された幼年期から終焉の地である奄美大島での最晩年まで、一村の作品をあますところなく紹介するこれまでにない大回顧展です。第1章若き南画家「田中米邨」東京時代、第2章千葉時代「一村」誕生、第3章己の道奄美への3部構成により、一様ではなかった彼の制作の道筋を辿ります。

将来を楽しみにされながらも、世俗的な栄達とは無縁であった人生において、常に全身全霊を傾けて描くことを体現した一村の歩みは、不屈の情熱の軌跡ともいえるものでした。自然を主題とする澄んだ光にみちた絵画はその情熱の結晶であり、静謐な雰囲気の内に、魂の輝きをも宿しているかのようです。

 

2024年9月29日日曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」19

 

もっともヤバイ!!と思ったのは、右隻の浅草寺参道あたりに描かれる三十三間堂の建築年代です。完成したのは寛永20年(1643)、家光の命を受けて4月に射初めの儀式が執り行われたというのです。

となると、この「江戸名所図屏風」が制作されたのは、寛永20年以降ということになります。失われてしまった建築が、ある象徴として記憶や粉本により描かれることは珍しくありませんが、まだ建っていない建物が想像で絵画化されることはありません――当たり前田のクラッカー、今まで延々とアップしてきた私見の運命やいかに!?

翌年は正保元年、もうチャキチャキの江戸時代です。言われてみると、代表的な寛永風俗画から少し距離を置くような感じもします。チョッと反論の余地はなさそうですが、でもヤッパリお話としては三十三間堂よりペリカンの方がおもしろい!!と思ったのでした。旧ブログにアップしたローラ・インガルス・ワイルダーの愉快なお話を心に浮かべながら……。

2024年9月28日土曜日

アート疾走✖本木雅弘 再放送

 

 「アート疾走✖本木雅弘 シン・アートドキュメンタリー  金と黒の本木雅弘」が再放送されるそうです。

 BSプレミアム4K 10月3日(木)午後2:30~3:30 時間がありましたらご高覧のほどを❣❣❣

出光美術館「物、ものを呼ぶ」18

以上が僕の「江戸名所図屏風」試論でした。ところが「物、ものを呼ぶ」展を企画した出光美術館キューレーター・廣海伸彦さんから、黒田日出男さんの『江戸名所図屏風を読む』<角川選書>(KADOKAWA 2014年)という本を先日教えてもらったんです。10年前といえば、まだそんなにボケていなかったはずなのにまったく知りませんでした。やはりボケ始めていたのかな() 

さっそく読んでみると、さすが黒田日出男さんだと感を深くしました。黒田さんは一緒に仕事をしたこともある畏友、いや医学者、いや畏学者です‼ 一番の思い出は、「国宝伝源頼朝像」をテーマにした鹿島美術財団美術講演会ですが、これについては旧ブログにアップしたことがあると思います。

 

2024年9月27日金曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」17

 

福井における又兵衛および又兵衛工房の活躍からみて、寛永6年ごろこのような又兵衛追随者が、江戸で町絵師として生計を立てていた可能性は充分に考えられます。又兵衛派を拡大させて、これを広又兵衛派と呼んでみたいと思います。

ヤジ「おこがましくも、辻プレ又兵衛派の向こうを張ろうとでもいうのか!?

京都や福井から遠く離れた江戸の町絵師となれば、又兵衛や正規又兵衛工房の画家に比べて又兵衛様式から距離をおくことは避けられませんでした。しかし江戸の地理や風俗、起こった事件をよく知っていたことは論をまちません。

そもそもこの屏風の主題や画面の形式が、今や又兵衛その人の作品と認められて国宝にも指定された先の舟木本「洛中洛外図屏風」(東京国立博物館蔵)と共通する事実は、30年も前に指摘されていたことなのです。


2024年9月26日木曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」16

 

これが「江戸名所図屏風」ではなく、「武蔵野図屏風」だったら話は簡単だったでしょう。先行作品や粉本がたくさんあったからです。また「洛中洛外図屏風」なら、又兵衛も二つ返事で引き受けたことでしょう。何しろ舟木本「洛中洛外図屏風」の経験がありましたし、いわゆる第2類型に分類されるような洛中洛外図屏風なら、すでにたくさん描かれていたからです。それを参考にすればよかったのです。

しかし、江戸の時世粧を描く江戸名所図屏風となるとそうはいきません。それ以前の作例がまったくなく、粉本も乏しく、もちろん又兵衛は制作したことなどなかったからです。そのためには福井から江戸までの長い旅路を、踏破しなければならなかったのです。そこで又兵衛は江戸にいる弟子か、又兵衛に私淑したり影響を受けたりしている町絵師を、ピンチヒッターに立てたのではないでしょうか。


2024年9月25日水曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」15


 

しかも「村松物語絵巻」は、傑作「山中常盤物語絵巻」が出た大正14年の松平子爵家入札目録に一緒に載っているのです。明らかに「村松物語絵巻」も又兵衛工房の作品であり、それによく似る「江戸名所図屏風」も同じく又兵衛工房作と考えてよいことになります。しかしよく比較すると、形態や比例の感覚など異なる点も多く、ただちに又兵衛工房作と断じてしまうこともはばかられるのです。

これから先はあくまで僕の想像ですが、松平家から慶事に際して当代の繁栄振りを伝える「江戸名所図屏風」を依頼された又兵衛は、困惑してしまったのではないでしょうか。いまだ江戸に行ったことがなかったからです。又兵衛が徳川将軍からの招聘を受け、福井から江戸へ上るのは寛永14年、8年もあとのことなのです。

2024年9月24日火曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」14

 

とはいえ、この屏風を又兵衛その人にアトリビュートするのは、様式的に無理があります。そこで注目されるのは、又兵衛工房にこのような相貌の人物を描く画家がいたという事実です。その美人の特徴は、又兵衛得意の豊頬長頤というよりむしろ卵形の大きな顔であり、くっきりとした目鼻立ちとオチョボ口にあります。辻さんいうところの「美保純タイプ」です。男の場合は太い眉毛が異様に目立つ点がポイントです。

すでに指摘されるように、チェスター・ビーティ図書館と海の見える杜美術館に分蔵される「村松物語絵巻」に登場する人物がそれを代表しています。「江戸名所図屏風」の人物は、これにかなり近似するのです。ところがこの絵巻は、彩色法や源氏雲などの装飾法において、又兵衛工房の作品と推定される古浄瑠璃絵巻群の「堀江」や「をぐり」と共通性をみせ、詞の筆跡もそれらと同じグループに分類されるというのです。


2024年9月23日月曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」13

 

この慶事を記念するために、少なくともこの慶事に際して制作されたのが「江戸名所図屏風」だというのが私見です。描かれる唯一の大名屋敷は松平伊代守、つまり叔父である忠昌の屋敷なのですが、これをもって光長を含む松平家を象徴させたのでしょう。

あの不忍池に飛来したというペリカンを大きく描き込んだのも、もちろん珍しくしかも話題になったからですが、その写生を家光の御覧に供したことに加え、のちに「大猷院殿御実記」に記録されるほど家光時代の記念すべき出来事だったからではないでしょうか。もしそうなら、松平家が制作を命じる画家は、岩佐又兵衛をおいてほかにないはずです。寛永6年といえば又兵衛52歳、辻惟雄さんによれば、47歳のころから福井における又兵衛の画業が活発化するそうです。まさに脂の乗り切った時期です。


2024年9月22日日曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」12

 

一方、忠直の嫡子・仙千代は、元和9年ただちに父の家督を継ぎ福井藩主となりましたが、翌寛永元年越後国高田転封を命じられ、当時高田藩主となっていた叔父の忠昌と入れ代わることになりました。これが紆余曲折の顛末ですが、仙千代はいまだ10歳だったので、2代将軍徳川秀忠の娘である母・勝子とともに江戸屋敷に入り、二人の家老が越後に下って政務を執りました。実際に彼が母とともに高田に入ったのは、寛永11年のことでした。

ところがこの江戸在住時に、仙千代にとって、勝子にとって、また松平家にとってきわめて大きな記念すべき慶事があったのです。寛永6年、仙千代は15歳にして元服、しかも3代将軍家光の一字を拝領して光長と改名することができたのです。断絶の危機にも直面した松平家にとって、これ以上の慶びがあるでしょうか。


2024年9月21日土曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」11

 

内藤さんは屏風に描かれたただ一つの大名屋敷が福井藩松平家である点から、福井方面からの依頼によって制作された作品であろうと推定しました。画家については、福井藩松平家と関係浅からぬ岩佐又兵衛が編み出した、又兵衛様式あるいはその時代様式の影響を受けた福井関連の絵師だろうというのです。

京都で町絵師として活躍していた又兵衛を福井へ呼び寄せたのは、徳川家康の孫にあたる福井藩主・松平忠直でした。ところが忠直は、病気と称して参府を怠るなど常軌を逸した行動が目立つようになり、元和9年(1623)幕府から隠居を命じられ、豊後の萩原(大分市)に流されてしまいました。忠直追放後の福井藩は、紆余曲折を経て寛永元年(1624)弟の忠昌が継ぐことになりました。

2024年9月20日金曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」10

 

中野さんは不忍池の左岸に大きく描かれる奇妙な白い鳥に注目しました。そして『徳川実記』巻13から寛永6年(16294月の記事「東叡山山麓の不忍池に異鳥三飛来る。人これを見しるものなし。画工をしてその形状を模写せしめて御覧にそなふ。西海の辺には多く住む鳥にて。名は島鵜といふよしなり」を見出して、両者を結びあわせたのです。

つまり不忍池に描かれる異鳥は『徳川実記』に記録されるこの「島鵜しまう」であり、島鵜とはペリカンであることを実証したのです。その結果、屏風の作画期は寛永6年、あるいは遅れたとしても、ペリカンが不忍池に滞在していたか、その後人々の記憶に強く残っていた期間と限定されることになりました。しかし、もはや寛永6年制作と決定してよいと思います。完成が翌年にずれ込んだとしても……。中野さんは制作したのも江戸の画家、少なくとも一時は江戸にいた画家で、制作地も江戸とみて間違いないとされました。


2024年9月19日木曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」9

 

今回は「僕の一点」をもう一つあげておきたいと思います。なぜなら「物、ものを呼ぶ」ですから() それは「江戸名所図屏風」ですね。この名品については、かつてある会誌に独断と偏見を書いたことがありますが、チョッとバージョンアップしましたので、「饒舌館長ブログ」ファンにもぜひ読んでいただきたいと存じます。

この屏風だけを取り上げ、たくさんの部分写真を使いながら、詳細に論じたのはもと出光美術館のキューレーターだった内藤正人さんです。それは『江戸名所図屏風 大江戸劇場の幕が開く』(2003年)という<小学館アートセレクション>のなかの一冊で、ページを繰っていく楽しみは得もいえぬものがありました。

内藤さんはこの屏風を、様式の観点から寛永年間の制作と推定しました。ところが10年後、これを決定づける論文が発表されたんです。それは中野(藤元)晶子さんの「出光美術館所蔵『江戸名所図屏風』の作画期について」(『國華』1414号)でした。

2024年9月18日水曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」8

 

去年「饒舌館長ブログ」にジョーさんへの追悼をアップすると間もなく、悦子さんもジョーさんのもとへ旅立たれたのです。少し前にお会いしたときは、あんなにお元気だったのに……。お二人が愛して止まなかった酒井抱一筆「十二ヵ月花鳥図」の12月に描かれる鴛鴦おしどりのように、天上で江戸絵画蒐集の思い出を語り合っていらっしゃるにちがいないと、昨秋プライスファンが集まって偲んだことでした。

以上のエントリーを書いていると、またまたシンクロニシティが起こりました。小学館の清水芳郎さんから『若冲になったアメリカ人 ジョー・D・プライス物語』が送られて来たんです。

日本美術応援団長の山下裕二さんが、プライスさんをインタビューしてまとめた単行本が2007年に出版されました。この度それがバージョンアップされ「小学館文庫」に収められたんです。再読すれば、プライスさん夫妻から受けた学恩、親切、温情が改めて心に熱くよみがえってきたことでした。


2024年9月17日火曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」7

 

それはともかく僕にとって、この屏風は何よりも旧蔵者であるエツコ&ジョー・プライス夫妻の思い出と分かちがたく結びついています。ご夫妻には半世紀にわたり家族のごとく親切にしていただきましたが、若冲には会ったこともないんですから() 改めてお二人の逝去を悼み、心からご冥福をお祈りしたいと存じます。

思い出は尽きませんが、一つあげるとすれば1993年秋、プライスご夫妻が主催した国際シンポジウム「Legacy of Japanese Art Scholarship」に参加させてもらったことですね。ご夫妻はカリフォルニアのコロナ・デル・マールに新しく建てた、おとぎ話に出てくるような家――マッシュルーム・ハウスにお住まいでした。

その別棟ともいうべき、スタディルームにおける贅沢な鑑賞体験を忘れることはできません。谷一尚さんと一緒に泊めていただいた研究宿舎と、ご夫妻の心づくしが懐かしく思い出されるのです。


2024年9月16日月曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」6

 

つまり禅においては、不立文字ふりゅうもんじ・教外別伝きょうげべつでん・直指人心じきしじんしん・見性成仏けんしょうじょうぶつがもっとも重要な四つの精神ですが、この屏風には四つともすべて完全にそろっています。真理によって導かれる理想世界が、お経ではなくイメージにより、若冲の心から我々の心へストレートに伝えられているからです。我々の心を鷲づかみにし、また若冲が内包する世界の表現がソク若冲の悟りに昇華しているからです。

これらについては、「饒舌館長ブログ」の前の「K11111ブログ」にアクセスの上、「東京都美術館 若冲展 生誕300年記念」と「若冲と草木成仏思想<末木文美士『草木成仏の思想』>」をご笑覧くださいませ。もう少し詳しく述べていると思います。いや、チョッと詳しすぎたかな()


2024年9月15日日曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」5

 

辻惟雄さんが指摘する「奇想」の極致だといっても過言じゃ~ないでしょう。いくら江戸絵画には「奇想の系譜」が脈々と息づいていたといっても、こんな奇想を思いつく画家は、若冲をおいてほかにいるはずがありません。少なくとも最初のアイディアマン、升目描きのパイオニアが伊藤若冲であったことは、否定できない事実です。

この「鳥獣花木図屏風」や、今や国宝になった「動植綵絵」(皇居三の丸尚蔵館蔵)に、山川草木悉皆成仏とか、草木国土悉皆成仏とかいわれる仏教思想が反映していることもすでに指摘されるところです。これまた否定できない事実ですが、若冲が相国寺の大典和尚から教えを受けて心を寄せ、とても大きな影響を受けた臨済禅や黄檗禅から、より一層直接的に解釈することもできるというのが私見です。


2024年9月14日土曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」4

 

しかし独創とはいっても、何かヒントになったオリジンがあるのではないか――と美術史研究者は考えるものなんです。探究心が旺盛というか、猜疑心が強いというか、はたまた職業病というか……() 

カタログには、西陣織のための織物図案という説があげられています。そのほかにはペルシア絨毯や、槿域の剪紙工芸に先蹤を求める説が提示されてきました。とくにペルシア絨毯説は、普通なら屏風の表装にあたる縁へりの模様と、ペルシア絨毯の縁取り模様との近似に注目しています。

この屏風では縁が石灯籠の連続模様みたいに見えますが、じつはこれも升目描きになっているんです。鳥獣花木が何となく異国風に見える点を含めて、僕はペルシア絨毯説に一票を投じたいと思っています。


2024年9月13日金曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」3

 「僕の一点」は伊藤若冲の「鳥獣花木図屏風」ですね。タテ168㎝、ヨコ374㎝という巨大な方眼紙を思い浮かべてください。一つの方眼はほぼ1㎝で、全部で42800個あるそうです。これが「鳥獣花木図屏風」一隻の方眼数です。つまり両隻合わせて一双にすると85600個ですよ。

それを一つ一つ丁寧に顔料で塗っているんです。それもただ塗るんじゃなくて、主要モチーフを含め、ほとんどの部分を「回」の字みたいに二つの色相で塗り分けているんです。気の遠くなるような作業です。若冲は自閉スペクトラムとかアスペルガー症候群という発達特性をもっていたという説がありますが、それと結び付けたいような誘惑に駆られます。

このような若冲の描き方は「升目描ますめがき」と名づけられています。おのずから画箋紙上に現れる、薄墨の境界線を生かした若冲の水墨画は「筋目描すじめがき」と呼ばれていますが、それと一対をなす若冲の独創的手法です。

2024年9月12日木曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」2

もともと、当館のコレクションは、江戸時代の文人画に象徴されるような枯淡な魅力をたたえた作品から出発しています。ただし、美術館としての活動がはじまった昭和41年以降は、日本絵画の歴史を体系的にとらえることを意識した蒐集が重ねられました。院政期絵巻の傑作「伴大納言絵巻」や室町時代のやまと絵屏風、<江戸琳派>の絵画など、いまでは当館の顔になっているような作品のいくつかが加わったのは、1980年代から90年代ころのことです。そして近年、伊藤若冲をはじめとする江戸時代絵画のコレクター、エツコ&ジョー・プライス夫妻が蒐集した作品の一部を迎えたことにより、当館の絵画コレクションはいっそう華やかになりました。まさに作品と作品が呼応するかのように幅を広げてきた当館の絵画コレクションの粋を、心ゆくまでお楽しみください。

 

2024年9月11日水曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」1

 

出光美術館「<出光美術館の軌跡 ここから、さきへ Ⅳ>物、ものを呼ぶ――伴大納言絵巻から若冲へ」<1020日まで>

 先に3回にわたり紹介してきたシリーズ展「出光美術館の軌跡 ここから、さきへ」の掉尾を飾る「物、ものを呼ぶ――伴大納言絵巻から若冲へ」が始まりました。まずはカタログの「ごあいさつ」から一部を引いておきましょう。

物、ものを呼ぶ――このタイトルは、陶芸家・板谷波山が当館の創設者・出光佐三に対して語った言葉に由来しています。それは、「なんらかの理由で別れ別れになっている作品でも、そのうちのひとつに愛情を注いでいれば、残りはおのずから集まってくる」という、蒐集家が持つべき心得を述べたものでした。

2024年9月10日火曜日

國華清話会小樽芸術村特別鑑賞会6

 


翌日は旧三井銀行小樽支店のツアーから始まりました。この建築は最近重要文化財に指定されたのですが、それに尽力された似鳥文化財団理事・宗本順三さんのガイドですから、こんな贅沢なツアーはめったにありません。宗本さんは京都美術工芸大学で同僚だった、魅力あふれる建築家です。10年振りに遠く北海道の小樽で予想もしなかった再会――驚くとともに縁は異なもの味なものと感じ入ったことでした。

そのあと小樽芸術村のステンドグラス美術館や、西洋美術館を見学すればちょうど昼時です。河合さんと洒落たチャイニーズレストランを見つけ、小樽芸術村特別鑑賞会の無事終了を祝して乾杯したあと、ルイス・ティファニー・ステンドグラスを改めて眼に焼きつけ、一緒に帰路についたのでした。無事終了!!とはいっても、とくに準備のため何かをやったというわけじゃ~なく、ただ参加しただけなのですが……()

上にアップしたQRコードは國華清話会のコードです。ご興味のある方はアクセスを❣❣❣

 


2024年9月9日月曜日

國華清話会小樽芸術村特別鑑賞会5

 

もとはアメリカ・ニュージャージー州ジョージシティにあるセント・ジョーンズ・エピスコパル教会を飾っていたステンドグラスでしたが、縁あって似鳥文化財団のコレクションとなったそうです。似鳥昭雄会長、よくぞゲットしてくれた!!――と思わずにはいられませんでした。

世紀末から20世紀初頭にかけ欧米でブームを起こした、アール・ヌーヴォー様式による傑作建築装飾芸術です。いや、本来の建築から取り外されても、これ自体独立した美的価値を誇っています。

帰宅して『新潮世界美術辞典』をみると、ルイスは日本の文展(文部省展覧会)にも何度か出品したと書いてあるじゃ~ありませんか。彼は半分日本の芸術家だったんです(!?) 僕の大好きな岸田劉生や佐伯祐三のゼッピンにも胸の高まりを覚えましたが、はじめて見るルイス・ティファニー・グラスマーレライの迫力に圧倒されてしまいました。


2024年9月8日日曜日

國華清話会小樽芸術村特別鑑賞会4

 

彬子さまからは今話題のご著書『赤と青のガウン』と、発刊されたばかりの『<新装版>京都ものがたりの道』を頂戴しました。しかも『赤と青のガウン』の中表紙には、ご自筆で献辞が認められているではありませんか!!

何とかご説明を〆にもっていったところで、旧北海道拓殖銀行小樽支店を改装した似鳥美術館へ移動、みごとなコレクションを会員の皆さんと観賞しました。入口を入ると、まず迎えてくれるのは、ルイス・カンフォート・ティファニーのステンドグラスです。

ルイスはかの「ティファニー」の創立者チャールズ・ティファニーの息子として生まれ、アメリカを代表する画家・工芸家・デザイナーとなりました。その感動的美しさ!! これは英語のステンドグラス(着色されたガラス)より、ドイツ語のグラスマーレライ(ガラスの絵画)の方がふさわしいと深く心を動かされました。

2024年9月7日土曜日

國華清話会小樽芸術村特別鑑賞会3

 

9年前、僕が司会をつとめた琳派400年記念祭・古典の日国際シンポジウムで、キーノートスピーチを賜ったことを懐かしく思い出しながらカードを取りました。今そのカードを見ながらこれを書いているんです。

そのあと彬子さまに、特別鑑賞室で似鳥文化財団コレクションの名品、伊藤若冲筆「雪柳雄鶏図」と葛飾北斎筆「詠歌美人図」「雲龍図」をご説明申し上げましたが、僕の饒舌は止まらず、ご先導役の島尾新さんから何度もマキの合図を受けたことでした() 「僕の一点」はもちろんこの「雪柳雄鶏図」ですが、『國華』1472号に載った佐藤康宏さんの意を尽した解説にすべてをゆだねたいと思います。

2024年9月6日金曜日

國華清話会小樽芸術村特別鑑賞会2

 


午後から彬子あきこ女王殿下のご講演「大英博物館が教えてくれたこと」を、その旧三井銀行小樽支店ホールで拝聴しました。このたび彬子さまには、國華清話会名誉会長にご就任いただいたのです。

お話の前半は、伝統を誇る大英博物館が挑戦している、刺激的な新しいプロジェクトについてでした。以前このブログにアップしたニコル・ルマニエルさんの「マンガ展」も取り上げられました。大英博物館は、かつて彬子さまがボランティア・スタッフとしてお仕事をされた思い出の知的空間です。

後半は日本の子どもたちが佳き文化の記憶をもち、それを未来へ伝えていくための場を再生するべく彬子さまが創設された心游舎の活動についてでした。二つながらに多くのことを学ばせていただきました。

2024年9月5日木曜日

國華清話会小樽芸術村特別鑑賞会1

 

 先々月722日、23日の二日間にわたり、國華清話会小樽芸術村特別鑑賞会が行なわれました。世界最古の美術雑誌『國華』と、すぐれた美術史研究者を顕彰するための國華賞については、何度かアップしたことがあると思います。両者をサポートするために設立された美術愛好団体が國華清話会です。年2回ほど特別鑑賞会が開かれるのですが、数年前沖縄・浦添美術館特別鑑賞会をこのブログにアップしたことがあるように思います。

今回は似鳥文化財団が小樽に開設した小樽芸術村の特別鑑賞会です。『國華』編輯委員は去年定年となりましたが、清話会の方はまだ役員としてお手伝いをしています。同じく役員の河合正朝さんと、22日朝の飛行機で新千歳空港へ、電車とタクシーを乗り継いでメイン会場となる旧三井銀行小樽支店へ駆けつければ、もうスタッフは緊張の面持ちでスタンバイしています。

 https://publications.asahi.com/original/zasshi/kokka/seiwakai/

 國華清話会にご興味のある方は、上記QRコードまたはURLからアクセスを!!!!


2024年9月4日水曜日

大木康『山歌の研究』12

 


 大木康さんはこれに註を加えて、「明の万暦年間ごろには多くの春画が出回っていたことが、『万暦野獲編』巻26<春画>などに記述されており、実際『花営錦陣』などの作品が残っている。この一首は、この当時の春画の普及の一端を物語るものといえよう。『夾竹桃頂針千家詩山歌』「纔了蚕桑」に「我搭情郎一夜做箇十七八様風流陣」とある」と指摘されています。じつに興味深いじゃ~ありませんか!! 

辻惟雄さんから頼まれて、なぜか学習研究社から出た豪華春画本に、「春画――中国から日本へ」という拙文を寄せたのは1992年――まだ大木さんの大著を頂戴する前のことでした。あれから早や30年以上、「山歌」の「春画」を加えて続編を書かなければなりません。

 ヤジ「こんなブログを書いている時間があるんなら、その続編とやらをサッサと書いたらいんじゃないの!?

2024年9月3日火曜日

大木康『山歌の研究』11

 

 やはり最後に原文をアップしておくことにしましょう。いくつか挙げたなかで、美術史的にもっとも資料的価値が高いと思われる「春画」の原文を……。

   姐児房裏眼摩矬

   偶然看看子介本春画了満身酥

   箇様出套風流家数儕有来奴肚裏

   *得我郎来依様做介箇活春画

 *は「冉」の右に「阝おおざと」をくっ付けた変な漢字で、僕のワードでは出てきません。『諸橋大漢和辞典』によると「那」の譌字にせじとのこと、現代中国語の「那麼ナーマ」(それでは・ところで)と同じような意味だと思われます。那麼、かの漢文名テキストを編まれた加地伸行教授に教えていただかなくても、字面だけで意味はだいたい想像できますが、先のマイ戯訳を参照してもらえればなおよく分かるかな()


2024年9月2日月曜日

大木康『山歌の研究』10

 

  『山歌』巻6の「詠物」に収められた山歌の大部分は、宴席における文人の遊びではなかったかと考えられるそうです。巻6の最初は「風」――3首のうちの一首を……。4句目は「知らぬ間に来て知らぬ間に 去っていくけど――でも好きよ」というのも悪くないかな。

  愛しい恋人できたけど ソイツはまるで風のよう

  東西南北 飛び回り 来たっていつも実じつがない

  春 三ヶ月 一回も 触れてはくれぬ柔肌に

  知らぬ間に来て知らぬ間に 去っていくのがいとおしい

2024年9月1日日曜日

大木康『山歌の研究』9

 

 馮夢龍のポン友である文人・蘇子忠が作った3首目はストレートで、大いに笑わせてくれます。男好きで有名な唐の則天武后に願をかけているんですから……。

  下らないこと古いにしえの 人は決定したもんだ

  一人の可愛い女の子 結婚できるのただ一人

  淫乱則天武后様 明の法律 変えてくれ!!

  姦通罪で捕まっちゃう 娘はいなくなるだろう

出光美術館「トプカプ・出光競演展」2

  一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。  日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して 100 周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮...