2024年10月31日木曜日

サントリー美術館「英一蝶」18

 

そのような一蝶に対し、日蓮宗の寺院や信者からたくさん仏画の注文が寄せられたことは、改めていうまでもないでしょう。こうして生まれた一蝶仏画の力作として、『國華』1373号に「仏涅槃図」(ボストン美術館蔵)を紹介したことがあります。その概略は「饒舌館長ブログ」にアップしたことがありますので、ご興味のある方はアクセスの上ご笑覧くださいませ。

今回サントリー美術館「没後300年記念 英一蝶 風流才子、浮き世を写す」展のキューレーションを行ない、力こもるカタログを編集したのは、学芸員の池田芙美さんです。学部・大学院時代から英一蝶を研究してきた成果が、一蝶配流前の傑作『雑画帖』(大倉集古館蔵)に描かれる牡丹のような大輪を、東京ミッドタウンで花開かせたのです。これこそ僕のいう「研究展覧会」です。池田さん、おめでとう!! ありがとう!!

2024年10月30日水曜日

サントリー美術館「英一蝶」17

 

そのころ僕は、本阿弥光悦も不受不施派だったのではないかと疑っていたので、とくに関心をもって拝読していました。しかし結局一蝶も光悦もウラが取れなかったので、そのままにしてしまいましたが、少なくとも光悦の場合、いわゆる「内信」であったかどうかはともかく、心情的には不受不施派に共感を覚えていたのではないかという気持ちを捨て切れません。かの光悦村には不受不施派的雰囲気が感じられるからです。

一方一蝶の場合は、原理主義ともいうべき不受不施派が、幇間なんかやるかなぁという疑いがぬぐえませんでした。しかし最近では、畏友・狩野博幸さんが一蝶不受不施派説を主張しているので、改めて考えてみなければならないと思っているところです。いずれにせよ、一蝶が本格的仏画に筆を採った基盤には、強い法華信仰があったように思われます。


2024年10月29日火曜日

サントリー美術館「英一蝶」16

つまり、いま遺る二つの墓はともにもともとのものではありませんが、一蝶が熱心な法華信徒であったことは疑いありません。実は一蝶を幕府に禁圧された日蓮宗不受不施派と見なして、三宅島配流をそれと関連づける見解もあるんです。

 もう35年も前のことですが、永瀬恵子さんという研究者が、いまは廃刊になってしまった美術雑誌『日本美術工芸』に「一蝶拾遺」というとても興味深い連載をされました。結論を一言でいえば、一蝶不受不施派説で、それを実証すべく発表された論文でした。いま僕の手元に残っているのは、その618号だけですが、この号には「一蝶拾遺③ 『乗合船図』と人物モチーフ」が載っています。 

2024年10月28日月曜日

サントリー美術館「英一蝶」15

 

承教寺は正安元年(1299)、一乗院日調によって開かれた日蓮宗の寺院です。現在、承教寺本堂の前には「北窓翁一蝶墳」と正面に彫られた墓石が建っています。背面の銘によれば、もとの墓が安政2(1855)の江戸大地震によって壊れたので、明治6(1873)6世の孫にあたる英一蜻が旧様を模して再建したものだそうです。

 ところが日蓮宗4大本山の一つである大田区池上の本門寺にも、一蝶のお墓があります。正面に一蝶の法号「英受院一蝶日意居士」と没年月日のほか、女性3人の法号と没年月日が彫られています。これは明治45年(1912)市区改正条例のため、承教寺より2代以下の墓をここへ移したとき、英一蜻が新たに造ったもので、その旨が墓石右側面に刻されています。かつて調査した日のことが、懐かしく思い出されるのです。


2024年10月27日日曜日

サントリー美術館「英一蝶」14

その多くは紙本墨画あるいは淡彩の質素なものですが、「虚空蔵菩薩像」(個人蔵)のように絹本濃彩に金泥を加えた本格的な仏画もあります。その興味深い解釈が、カタログ解説に述べられています。この「地蔵菩薩像」のように、一蝶は早くから本格的仏画を描いていたわけですが、三宅島の作画環境が仏画との親和性をさらに高めたように思われます。

 また形而上的問題として、一蝶が熱心な法華信徒だった点を見逃すわけにはいかないでしょう。基本的に狩野派は法華宗(日蓮宗)の信徒でした。狩野安信に就いた多賀朝湖、つまり一蝶ももともと法華宗であつたか、その後信徒となったのでしょう。かくして享保9(1724)正月13日、73歳をもつて一蝶が没したとき葬られたのは、江戸二本榎の承教寺塔頭顕乗院でした。 

2024年10月26日土曜日

サントリー美術館「英一蝶」13

一蝶の「地蔵菩薩像」は仏画にふさわしく、金泥落款が入っています。そのため会場ではよく読めませんでしたが、カタログによると「狩林席下朝湖敬図」だそうです。この「狩林」は「禅林」と同じように「狩野が多く集まった場所」とも、「狩埜」の省略とも考えられますが、いずれにせよこの落款には、一蝶における狩野派としてのプライドが読み取れるように思います。「朝湖」は一蝶がそのころ用いていた号です。

 四捨五入をすれば60年も前()、私は辻惟雄さんと小林忠さんに誘われて、島一蝶を調査する機合に恵まれました。その結果は『國華』920號に報告されている通りで、仏画あるいは民開信仰的な画題がほとんどすべてを占めています。島民から求められるのはこのような絵画であつたにちがいありません。江戸市民向けに「日待図巻」のような風俗画が制作されましたが、三宅島における一蝶は仏絵師であったといってもよいでしょう。 

2024年10月25日金曜日

サントリー美術館「英一蝶」12

もしそうだとすれば、やはりこれは日本文化を考える際のヒントとなりそうです。そこには日本人の子供を純真無垢なるものと見なす観念が大きく働いていた――これが私見です。

幕末明治のころ、わが国へやって来た西欧人がひとしなみに驚いたような、子供を聖なるものとする考え方です。前のブログに、日本における不動信仰流行の基底には、子供聖性観があった可能性を考えてみたいとアップしたことがあります。

地蔵信仰、とくに小僧地蔵の誕生と普遍化にも、同じような背景があるのではないでしょうか。日本における仏教と子供聖性観の強い結びつきは、「坊主」「小僧」という言葉が僧侶を指すと同時に、男の子を指すという事実にも、象徴されているのです(!?)

  

2024年10月24日木曜日

サントリー美術館「英一蝶」11

 

そんなことはないと思います。ほんのわずかな中国旅行の体験からいえば、路傍の小僧地蔵を見たことは一回もありません。しかし日本では、涎掛けをつけられ、帽子を被らされた小僧地蔵を容易に目にすることができます。事実、我が家の近くの三角公園にも鎮座ましましています。これまた清水邦彦さんによると、政教分離を原則とする我が国でも、公有地にお地蔵さんをまつることは合憲とされているそうです。

これほどまでに我が国では、地蔵信仰――とくに小僧地蔵信仰が広く行きわたっているのです。たとえ地蔵信仰や小僧地蔵信仰のオリジンが中国にあるとしても、その普及は日本独特の宗教現象だといってよいでしょう。


2024年10月23日水曜日

サントリー美術館「英一蝶」10

地蔵菩薩は釈迦の入滅後、弥勒仏が出現するまでのあいだ、無仏の世界にあって衆生を教化救済するという菩薩です。言うまでもなくインドで生まれ、中国を通して我が国へ伝えられた仏さんであり、成人として造形されるのが常でした。それが我が国で小僧姿の地蔵――小僧地蔵になって流布したことには、日本文化のある性格を見出すことができるのではないでしょうか。

 もっとも、ネット検索で知ったのですが、清水邦彦さんという方の神奈川大学博士論文「日本に於ける地蔵信仰の展開――祖師から民衆まで」によると、中国にも小僧地蔵は存在するそうです。しかし、たとえそれが我が国の小僧地蔵と関係するとしても、中国でも日本と同じように小僧地蔵が愛好され、一般化しているのでしょうか。 

2024年10月22日火曜日

サントリー美術館「英一蝶」9

 

 


 画歴の初期に一蝶が「地蔵菩薩像」を描いているという事実は、とてもおもしろいと思います。この作品でも地蔵菩薩は少年のように表現されていますが、一蝶風俗画に感じられる子どもに対する優しく温かい眼差しと、明らかに共鳴しているからです。

2017年春、奈良国立博物館で特別展「快慶 日本人を魅了した仏のかたち」が開かれました。すばらしいキューレーションによる空前絶後の快慶展でした。

「僕の一点」に宮津・如意寺の「地蔵菩薩坐像」を選んで、「饒舌館長ブログ」に私見を述べましたが、その一部をアップさせてもらうことにしましょう。詳しく知りたい方は、このブログの方をご覧ください。同じ趣旨のエントリー「小澤優子文化交流サロン「『稚児大師』にこめられた日本人の感性をひもとく」もおススメです(!?) こちらには『今昔物語』からモース、ルース・ベネディクトまで参考資料も引用してあります。もちろん極めて恣意的選択ですが()

2024年10月21日月曜日

サントリー美術館「英一蝶」8

 

和漢融合を完成させて狩野派を飛躍的に発展させた狩野元信には、本格的仏画ともいうべき「白衣観音図」(ボストン美術館蔵)が知られています。一蝶の師であった狩野安信などは、このような仏画をもう制作しなかったと思いますが、狩野派の原点にはこの元信みたいな仏画があったのです。

「摸古を愛す」という朱文方印を愛用した一蝶は、古き狩野派のレパートリーであった仏画をみずからの画嚢に取り込んで、狩野出身者としての誇りを保持しようとしたのではないでしょうか。今回のサントリー美術館「没後300年記念 英一蝶」展には、すばらしい「地蔵菩薩像」(メトロポリタン美術館蔵)が、美しいピンクの雲に乗ってニューヨークから飛んできてくれました。三宅島に流される前、僕が「幇間絵師時代」と呼んでいる初期の傑作です。


2024年10月20日日曜日

サントリー美術館「英一蝶」7

 

このような風俗画家一蝶に、少なからぬ仏画――しかも本格的な着色仏画が遺されていることは不思議な気がします。世俗画のなかでもっとも世俗性の強い風俗画と、宗教画の中核を占める仏画――それは対極的絵画ジャンルだといってもよいでしょう。風俗画は見て楽しむ絵画であり、仏画は祈りを捧げる信仰の絵画です。桃山風俗画家の描いた仏画なんて見たことがありません。仏画も得意とした浮世絵師なんて聞いたことがありません。

ところが一蝶は、仏画を得意とする風俗画家だったんです。その基底には、一蝶が風俗画家として有名になってからも、出発点であったアカデミックな狩野派画家としてけっして失わなかった矜持があったのではないでしょうか。仏画はその自負を支えてくれる絵画ジャンルだったのだと思います。

2024年10月19日土曜日

サントリー美術館「英一蝶」6

 

江戸からの隔絶が、現実感に満ちた描写を一蝶から奪ったわけでは決してありませんが、鐘一つ売れぬ日のないその都市はあまりに遠すぎたのです。それは一蝶が三宅島で見た白昼夢だったのです。それが画面に影を落したとしても、不思議でも何でもないでしょう。

その意味で、島一蝶には画家の心情が投影されているように思います。享楽的な風俗を主題としながら、その表層をなぞったものではないのです。ともに遊んだ友人たちからの注文画であったとしても、いささかの私的性格が看取されるのです。ここに島一蝶風俗画の素晴らしさがあるのだ――と思います。

2024年10月18日金曜日

サントリー美術館「英一蝶」5

 

しかし、遠く江戸を離れた三宅島において描かれた事実の方が重要ではないでしょうか。3作品とも百万都市になろうとしていた江戸おける、かつての華やかな生活を思い出すようにして描かれた島一蝶作品なのです。それは現実の風俗ではなく、時世粧でもなく、一蝶の胸底で浄化された江戸という都市でした。

以前の楽しい生活を思い出して再現しようとすればするほど、絶海の孤島ともいうべき三宅島にいる自分が強く意識されるはずです。諦観の反映だといえば言いすぎだとしても、人々の湧き上がるエネルギーに真率なる共感を寄せ、その造形化を明日への活力源にしようという積極的表現意欲が希薄なのです。あまり上質とはいえない顔料がそれに寄り添うこともあります。


2024年10月17日木曜日

サントリー美術館「英一蝶」4

 

あるいは、何か白日夢を見ているような感じにとらわれるといってもよいでしょう。一般的に風俗画であれば、あふれる躍動感を稱賛するものですから、静謐だなどと言えば、チョット島一蝶をおとしめているように聞こえるかもしれませんが、もちろんそうではありません。それどころか、静的なところに美的特質があり、魅力があるのです。たとえば岩佐又兵衛の舟木本「洛中洛外図屏風」と比べてみれば、よく理解されるのではないでしょうか。それじゃ~時代が違い過ぎるといわれるなら、菱川師宣を脇に置いてもよいでしょう。

艶やかな恋愛の世界に、表層を越えて深い情趣的共感を示した井原西鶴や本居宣長にならいたい気持になります。あるいは、「歓楽極まって哀情多し」と詠んだ漢の武帝を思い出します。これらの作品に対するとき、華やかさに潜むもののあわれや哀情に深く心を奪われます。もちろん一蝶が、それを表現しようとしたと考えることも不可能ではないでしょう。

2024年10月16日水曜日

サントリー美術館「英一蝶」3

 

英一蝶は江戸時代におけるもっともすぐれた風俗画家の一人でした。一蝶に少し先んじて活躍した久隅守景が、農村風俗に関心を寄せたのに対し、都市風俗をライトモチーフとして、忘れ難い作品を遺してくれました。その代表作として「布晒舞図」(遠山記念館蔵)があります。「四季日待図巻」(出光美術館蔵)があります。「吉原風俗画巻」(サントリトリー美術館蔵)があります。

これらの作品は元禄文化はなやかなりし頃、世界最大都市の一つになっていた江戸の心浮き立つような雰囲気のなかへ僕たちを誘ってくれます。しかしそれだけなら、ほかにも画家や作品がないではありません。

この3作品に僕が深く魅了されるのは、都市生活のなかに流れるアンニュイが表現されているからです。喧騒沸き立つ都市風俗を描きながら、楽器の音も歌う声も、話し声も足音もかすかに聞こえるだけ、むしろスタティックな画面感情が支配的なのです。

2024年10月15日火曜日

サントリー美術館「英一蝶」2

 

加えて、その波乱万丈な生涯も人気に拍車をかけました。一蝶は元禄11年、数え年47歳で三宅島へ流罪になるという異色の経歴を持ちます。安永6年、将軍代替わりの恩赦によって江戸へ戻りますが、島で描かれた作品は<島一蝶>と呼ばれ、とくに高く評価されています。そして江戸再帰後は、「多賀朝湖」などと名乗っていた画名を「英一蝶」と改めました。

2024年は一蝶没後300年にあたります。この節目に際し、過去最大規模の回顧展を開催します。瑞々しい初期作、配流時代の貴重な<島一蝶>、江戸再帰後の晩年作など、国内外の優品を通して、風流才子・英一蝶の画業と魅力あふれる人物像に迫ります。


2024年10月14日月曜日

サントリー美術館「英一蝶」1

サントリー美術館「没後300年記念 英一蝶――風流才子、浮き世を写す――」<1110日まで>

 英一蝶――これまた愛して止まない江戸時代の絵師ですね。「饒舌館長ブログ」にも、『ボストン美術館日本美術総合調査図録』紹介の回をはじめとして、ずいぶん登場してもらっていると思います。一蝶が1724年に73歳で没してからちょうど300年、この節目の年を記念する特別展がサントリー美術館で始まりました。まずは力作カタログから、「ごあいさつ」を引用させてもらいましょう。

英一蝶は元禄年間前後に、江戸を中心に活躍した絵師です。はじめは狩野探幽の弟・安信のもとでアカデミックな教育を受けますが、菱川師宣や岩佐又兵衛らに触発され、市井の人々を活写した独自の風俗画を生み出しました。この新しい都市風俗画は広く愛され、一蝶の画風を慕う弟子たちにより、英派と呼ばれる一派が形成されます。

他にも、浮世絵師・歌川国貞のように一蝶に私淑した絵師は多く、後世にも大きな影響を与え続けました。また、松尾芭蕉に学び俳諧をたしなむなど、幅広いジャンルで才能を発揮しています。

2024年10月13日日曜日

東京都美術館「田中一村展」14

 

 中野惇夫さんの『アダンの画帖 田中一村伝』(島の道社 1986年)は、9年後小学館から再刊され、平成11年(1999)『日本のゴーギャン 田中一村伝』という売れ筋ねらいの改題()のもと、「小学館文庫」に収められました。

家蔵するのはこの小学館文庫本で、逗子市立図書館所蔵の小学館再刊本も借り出してみましたが、島の道社の初版本は見たことがありません。初版本の表紙は「アダンの海辺」だったようですが、小学館はこれを「初夏の海に赤翡翠あかしょうびん」に変えて出版しました。確かにデザインとしてはこちらの方がインパクトも強く、キャッチーでしょう。来年のマイ・モノクロ年賀状は、これを参考にして彫ってみようと考えている今日この頃です。

  ヤジ「参考なんて耳障りのいいことを言ってるが、またパクろうとしてるんだろ」

 *先日の『朝日新聞』<天声人語>によると、いまや「耳障り」もこういう風に使われるそうです(!?)

2024年10月12日土曜日

東京都美術館「田中一村展」13

 

 もう一人、田中一村のすばらしさを、いや、すごさを私たちに教えてくれた恩人を忘れるところでした。NHK出版の大矢鞆音ともねさんです。その大矢さんに『田中一村 豊饒の奄美』(NHK出版 2004年)というモノグラフがあります。その最後は「作品の中に深いかなしみと、自身が信ずる情念とが込められて……。」という一行で終っていますが、そのかなしみと微光感覚を安易に結びつけたりしたら、大矢さんに怒られるでしょうか。

小林忠さんが巻頭エッセーを寄せる『NHK日曜美術館<黒潮の画譜>田中一村作品集』(日本放送協会 1985年)の巻末に、「田中一村の俳句」が載っています。微光感覚こそ奄美一村最大の美的特質だと信じる僕が選ぶベストワンは、何といってもつぎの一句ですね。

緋桜に雷轟きあられ降る

2024年10月11日金曜日

東京都美術館「田中一村展」12

 

いまだ原文にあたるチャンスがなく、湯原かの子さんの『絵のなかの魂 評伝・田中一村』<新潮選書>(新潮社 2006年)から引用して、このエントリーを締めくくることにしましょう。といいつつ、もうチョット続きますが……。

朝と夕に訪れる、昼と夜のはざま、暗から明に、明から暗に移ろうひととき。神々と人間が交感するひとときであり、神の啓示に耳を傾ける人にとっては、時計の針が止まる悠久の時間帯である。ギラつく陽光を忌み、静ひつな、まどろみに似た『隙』の時空に、苦痛のない極楽の世界をかいま見るという観念は、南島に成立した琉球文化に通底するものだという。

2024年10月10日木曜日

東京都美術館「田中一村展」11

 

九州は鹿児島のはるかかなた、南の海に浮かぶ奄美は、一日中ギラギラした陽光、すべてのものを光と影に二分する直射、目を射るような光芒のシャワーが降り注ぐ島みたいに想像されるからです。しかし実際のところ、そうではありませんでした。朝と夕方、つまり闇から光、光から闇へのあわいには、神と人間が渾然一体となるような微光のたゆたいがあったというのです。一村生来の微光感覚は、それと瞬間的に反応し、より鋭敏になったのではないでしょうか。

誰よりも早く田中一村という天才の不思議な魅力に気づき、それを丹念な調査と聞き書きによって新聞に連載し、一村研究の基礎となる『アダンの画帖 田中一村伝』(島の道社 1986年)を出版したのは、南日本新聞社記者・中野惇夫さんでした。その中野さんに、「一村と琉球文化圏」(『琉球新報』198899日)という見逃すことができない記事があるそうです。

2024年10月9日水曜日

東京都美術館「田中一村展」10

 

代表作の「アダンの海辺」と「不喰芋と蘇鉄」(ともに個人蔵)は、一見眼に美しい華麗なる装飾絵画、あるいは染物や織物のような応用美術にも見えますが、それらから画然と区別し、一村その人の表現に昇華させているのは、微光感覚にほかなりません。アダンの背後、不喰芋の彼方、蘇鉄のしりえに広がる虚空の表現に、目を凝らしてみたいと思います。細心の注意を注がれた筆遣いが、得もいえぬ微妙な光をとらえていることが理解されるでしょう。

それがモチーフに、清新なる生命感を与えているといっても過言じゃ~ありません。それは一村生来の感覚であり、九州・四国・紀州旅行によって発芽した心的受容機能であり、奄美大島で完全に開花した美意識でしたが、考えてみるとチョッと不思議な気がします。

2024年10月8日火曜日

東京都美術館「田中一村展」9

葉時代の傑作に「仿蕪村四季山水図」(田中一村記念美術館蔵)があります。一村を魅了した蕪村のオリジナルも知られています。蕪村が創り出した絵画と俳句の魅力は、微妙な光の感覚――「微光感覚」にありというのが持論ですが、この一村四幅対もすばらしい微光感覚にあふれています。そう思ってこのころの一村作品を見渡すと、これ以外にも微光感覚の横溢する作品が少なくありません。

一村が持って生まれた感覚だともいえそうですが、興味深いのは昭和30年(19556月、九州→四国→紀州と巡る旅に出た一村が描いた色紙画に、微光感覚のきわめて魅力的な作品が含まれるという事実です。それが奄美時代に入って、微光感覚がライトモチーフになっているような傑作を生み出す原動力になったにちがいありません。

すでに多くの書を読んでいたにちがいない一村が、はじめて千里の道を行くことにより、もって生まれた微光感覚を自覚するようになったようにも思われます。

 

2024年10月7日月曜日

東京都美術館「田中一村展」8

 

すごくいい!! 芳賀徹先生の『桃源の水脈』を紹介したときにもアップしたように思いますが……。十代の神童「米邨」が南画家、いやむしろ文人画家としてスタートを切ったことを考えれば、陸游の『剣南詩稿』を書架に収め、日々馴染んでいたのではないでしょうか? 

もちろん陸游文学の豊かなイメージに惹かれたためでしょうが、侵略してきた金に対する徹底抗戦を唱え、要路ににらまれて不遇の生涯を送らなければならなかった、憂国の詩人・陸游に対する愛惜の念も強かったことでしょう。

一村に強い政治思想があったとは思われませんが、「不遇の生涯」のなかで数多くの傑作を作詩した、いや苦吟した陸游、そしてつねに慷慨の気を失わなかった陸游に、みずからを重ね合わせるようなビジョンが育っていたのではないでしょうか? 「飢え我を駆る」という一村の矜持は、陸游にも通じるごとく思われてなりません。

2024年10月6日日曜日

東京都美術館「田中一村展」7

 

農家の師走の仕込み酒 濁っていたって構やせぬ

客へのご馳走 鶏とりや豚 豊年ゆえか山盛りだ

川は入り組み山高く 行き止まりかと思ったら

芽吹く柳と桃の花 こんな処にまた一村

笛や太鼓が響き来る もうすぐ春の祭りらしい

みんなの着物は質素だが 古きゆかしさ遺ってる

今後も一人 月の夜に 訪ねて来てもいいならば

  迷惑だろうがこの杖で 門をたたかん真夜中に

2024年10月5日土曜日

東京都美術館「田中一村展」6

 

真に心を動かされる画家、鳥肌が立ちときに目頭が熱くなる画家、そしてこういう生き方はゼッタイ真似ができないなぁと、尊敬の念とともにちょっと忸怩たる思いにさせてくれる画家――田中一村が遺した不屈の情熱の軌跡に打たれ、終了時間とともに会場をあとにしたことでした。

かつて南宋のネコ詩人・陸游にオマージュを捧げ、20首もあるといわれるネコ詩の何首かを紹介したことがあるように思います。もちろんマイ戯訳で……。田中一村の「一村」という号は、それまでの「米邨」に替えて、陸游の七言律詩「山西の村に遊ぶ」から自分で選びとったようです。これまたマイ戯訳を掲げれば……。

2024年10月4日金曜日

千葉市美術館「田中一村展」5

 

いまNHK文化センター青山教室で、「魅惑の日本美術展 おすすめベスト6だ!!」という講座を開いています。月に一度、ゼッタイ観たい、ぜひ観てもらいたいと思う展覧会を紹介する講座なのですが、8月はこの「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」に指を折りました。まだオープン前だったのですが、千葉市美術館展と「椿図屏風」の強烈な印象が心中に残っています。

僕は奄美一村の傑作に見られる「微光感覚」についてしゃべることにして、準備を進めました。というわけで、ミズテンでしゃべっちゃった自責の念抑えがたく、どうしても「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」は内覧会の日に観たかったのです。

ゲストキューレーターをつとめた千葉市美術館の松尾知子さんに、無理をいって招待状をせしめてありましたから、出光美術館の「物、ものを呼ぶ」展を取り上げたNHK文化センター青山教室講座のあとゆっくりランチを取って、上野へと向いました。

2024年10月3日木曜日

千葉市美術館「田中一村展」4

 

速水御舟がかの「名樹散椿めいじゅちりつばき」(山種美術館蔵)を発表したのは、一村の「椿図屏風」に先立つこと2年、昭和4年(1929)秋の第16回院展でした。一村が「名樹散椿」を見て、インスピレーションを得たことは疑いないでしょう。しかし、ほとんど越えることのできない御舟の傑作に対峙した24歳の一村には、二つの「苦」があったように感じられました。「苦悩」と「苦闘」です。

それを想像しながら、僕は魅入られるようにカードを取っていました。いまそれを引っ張り出してくると、その日は201425日、丁寧に落款印章を写したあと、一村は「名樹散椿」を見たにちがいないなどとメモっています。「A゜新出の傑作なり」という評価をながめていると、10年前の感動が昨日のことのようによみがえってくるのです。

2024年10月2日水曜日

東京都美術館「田中一村展」3

2010年、小林忠さんが館長をつとめる千葉市美術館で、館長みずから企画し開催した「田中一村 新たなる全貌」展が開かれました。僕にとって一村との初対面でした。その四半世紀ほど前、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画家――異端の画家・田中一村」が放映され、私たちは初めて一村という画家の魅力を知ったのでした。

この番組にコメンテーターとして出演し、伊藤若冲にたとえて一村の稀有なる美的世界を熱く語った研究者こそ小林忠さんでした。小林さんは謙遜していますが、一村の発見者だといっても過言ではありません。

より直接的な一村との出会いは、千葉市美術館に「椿図屏風」が収められるときでした。千葉市美購入委員をつとめていた僕は、一村ファンに先んじてこの傑作をナマで観賞するチャンスに恵まれたんです。

 

2024年10月1日火曜日

東京都美術館「田中一村展」2

一村ゆかりの地として、栃木、千葉、奄美が挙げられますが、本展覧会の開催地の上野も縁の浅からざる場所でした。大正15年(1926)、東京美術学校(現・東京藝術大学)へ入学するもわずか2ヶ月で退学。戦後は、東京都美術館が会場である公募団体展に何度も挑戦しますが入選することは遂になく、終焉の地となる奄美に旅立っていったのです。「最後は東京で個展を開き絵の決着をつけたい」と語っていた一村。没後半世紀近くを経て開催される本展覧会において、その芸術の真髄が明らかになることを願ってやみません。

 待ちに待った「不屈の情熱の軌跡 田中一村展 奄美の光 魂の絵画」が、919日から東京都美術館で始まりました。冒頭に掲げたのは、そのカタログから引いた「ごあいさつ」の一節です。

 

出光美術館「トプカプ・出光競演展」2

  一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。  日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して 100 周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮...