NHK文化センター青山教室の講座では、この2書を紹介したあと、マイベスト15のスライドを制作年代順に映しながら、棟方志功は日本独自の表現主義であるという持論を開陳したことでした。
「棟方志功展」のキャッチコピーは、「国際展受賞作から書、本の装画、商業デザイン、壁画まで――『世界のムナカタ』の全容を紹介」「青森―東京―富山、棟方の暮らした土地をたどる、初の大回顧展」――これにウソ偽りはありません。空前にして絶後の棟方志功展です。少なくとも僕にとっては疑いなく絶後でしょう。
「棟方志功展」のキャッチコピーは、「国際展受賞作から書、本の装画、商業デザイン、壁画まで――『世界のムナカタ』の全容を紹介」「青森―東京―富山、棟方の暮らした土地をたどる、初の大回顧展」――これにウソ偽りはありません。空前にして絶後の棟方志功展です。少なくとも僕にとっては疑いなく絶後でしょう。
続いて紹介したのは、棟方の自叙伝ともいうべき『板極道』(中公文庫 1975年)です。棟方芸術を考えるときに読むべき、もっとも重要な1冊でしょう。いや、読み物としても上々の1冊です。すごくおもしろいんです。棟方の体内から自然に湧いてくるようなユーモアがとてもいいんです。子ども時代の赤貧と苦労を知ると、涙がこぼれてきます。もちろん棟方という芸術家に、改めてオマージュを捧げたい気持ちが高まってきます。
もっとも僕は、最後の「わたくしの極道」を読み終えたとき、「あぁ俺にはこういった人生に対する情熱と意欲が欠けていたなぁ」という、忸怩たる気持ちにもなったのでした。根が真面目なせいかな(笑)
じつはこの10月から、月に1回NHK文化センター青山教室で、「魅惑の日本美術展 厳選ベスト6シックスだ!!」という展覧会を紹介する講座を開いています。チラシに「この講座を聴いてから出かければ、もうカタログなんか買う必要はありません」と書いたら、ブーイングが飛んできましたが……(笑)
その第1回に選んだのが、この「生誕120年 棟方志功展――メイキング・オブ・ムナカタ――」でした。最初に棟方のお孫さんである、石井頼子さんが著わした好著『もっと知りたい棟方志功 生涯と作品』(東京美術 2016年)を紹介しました。
東京国立近代美術館「生誕120年 棟方志功展――メイキング・オブ・ムナカタ――」<12月3日まで>
棟方志功――大好きな、そして尊敬して止まない日本の版画アーティストです。棟方の用語にしたがえば、「板画」と書くべきかもしれませんが、棟方を含めたすべての版画をイメージする場合には、やはり「版画」とせざるを得ません。
棟方志功は明治36年(1903)青森に生まれましたから、今年は生誕120周年の節目の年に当たっています。そこで棟方ファンの僕は、棟方美人をパクって今年の恒例版画年賀状にしたのでした。元旦の「饒舌館長」にアップしたように思いますが、改めて紹介させていただきましょう。ケッコウうまくできてるんじゃないかな(笑)
『画本虫撰』はきわめてソフィストケートされた寛政の改革批判でした。いや、批判といえば強すぎます。ソフィストケートされた揶揄といった方がよいでしょう。そもそも虫狂歌合せの転用だったのです。これなら絶対幕府に気づかれません。たとえ気づかれても、申し開きはたやすかったでしょう。たまたま筐底に眠っていた虫狂歌合せを思い出して、出版しただけだと……。
それは南畝という天才が放った18世紀の、あまりにもロマンティックなさとり絵(風刺画)でした。19世紀に入ってたくさん生まれた直接的なさとり絵とは、類を異にするきわめて上質なさとり絵です。
しかしそんなことを知る必要はまったくありません。そもそもこれは饒舌館長の妄想と暴走に過ぎません。ただ心をマッサラにして、喜多川歌麿というもう一人の天才が創り出した絵画世界に沈潜する――これこそ『画本虫撰』最高の鑑賞法だといってよいでしょう。
しかし、南畝が撰者になることは憚られました。南畝が撰者になればともかくも目立ち、幕府から目をつけられやすくなります。そんな危険をあえて冒す必要など毛頭なかったでしょう。メンバーは多士済々、南畝を除く29人のなかから選べば問題ないのですから。
南畝は宿屋飯盛を撰者に仕立てて韜晦とうかいをはかりました。しかし、実際の撰者は南畝であったにちがいありません。『画本虫撰』の傑出せる出来映えがそれを証明しています。あまりにも美しい虫の絵本が、生類憐みの令という悪政とかすかな共鳴を起こします。するとそれが寛政の改革という悪政と、また微妙な共鳴を起こすんです。虫だから言うんじゃ~ありませんが、それは共鳴にすぎません。
チャートにすれば、『画本虫撰』→虫→生類憐みの令→悪政→寛政の改革となりますが、矢印を逆にたどることもできるでしょう。
虫を苦しませることは僻事とされ、害虫殺傷さえ禁じられたと考えられていたのが生類憐みの令でした。生類憐みの令の象徴ともいうべき虫のイメージが、南畝の胸底に浮かび上がったとき、ほとんど同時に、かつて心を許しあう友人と楽しんだ虫狂歌合せがよみがえってきたのではないでしょうか。その記録が筐底に眠っていることを、思い出したのではないでしょうか。
さっそく南畝は、蔦屋重三郎のもとに駆けつけ、サナギから蝶に羽化するのを待っていた喜多川歌麿に白羽の矢を立てたのです。
大田南畝は始まりつつあった寛政の改革と、生類憐みの令を重ね合わせるようにして眺めたのではないでしょうか。松平定信が老中となり、本格的に寛政の改革が開始されたとき、身の危険を感じた南畝は、すぐに狂歌から、そして軟派文芸から転身をはかります。しかし心中は、かの宝井其角とまったく同じだったのではないでしょうか。
南畝にとって、寛政の改革は生類憐みの令と同じ悪政だったのです。しかも生類憐みの令はジャスト100年前の悪政でした。老中定信が誕生した天明7年は、生類憐みの令100百年祭(!?)ともいうべき年でした。南畝の脳裏に生類憐みの令が浮かびやすかったともいえるでしょう。
当時は虫と考えられ、『画本虫撰』に登場する蛇も、もちろん生類憐みの令の対象でした。先の「生類憐みの令関連年表」の元禄4年(1691)10月21日の条をみてみましょう。
蛇を使い客を集め、薬を売った南小田原町(中央区築地)の藤兵衛、蛇を貸した市右衛門の2人捕まる。市右衛門は11月16日牢死。死骸取り捨て。藤兵衛は翌年2月江戸追放。
続いて10月24日の『徳川実記』には、「蛇にかぎらず、たとえ犬猫鼠に至るまで、此の類に技芸をおしえ観物になすことあるべからず。生類をくるしむるは、いと、ひがごとなり」とあります。
先にあげた板倉聖宣さんが『生類憐みの令 道徳と政治』で指摘するように、確かなことは、当時すでにそういう噂話がとんでもおかしくないほどに、綱吉の周辺では殺生が厳禁されていたということだけなのかもしれません。
しかしその殺生厳禁の対象として、蚊や蚤があがっている点に、饒舌館長はとくに注目したいんです。改めていいますが、それ以外の虫は当然のことだったんです。仁科さんは克明な「生類憐みの令関連年表」を制作し、この伊東淡路守閉門事件を「生類憐みの令ではないが、関連する事項」としています。しかし戸田茂睡がこれを生類憐みの令と考えていたことは、疑いないところでしょう。
何か両者を一緒にして、江戸絵画すべてを言い表す言葉はないものでしょうか。よく僕は「江戸絵画は写実と心象の均衡だ」と言うんですが、これじゃ~キーワードになりません。ずばりワンワードじゃなきゃ人口に膾炙しません。
しかし奇想派のチャンピオンである伊藤若冲だって、晩年に描いた掛幅水墨画には、「軽み」の美しさを生かしたような作品がたくさんあります。「軽み」は奇想派を含めた、江戸時代絵画の総体を象徴する言葉と見なしてよいのでしょうか。
こんなことを考えながら、あるいは出光美術館コレクションとなった、かの伊藤若冲筆「鳥獣花木図屛風」を思い出しながら、「江戸時代の美術 『軽み』の誕生」展の会場を巡るのも、きっと楽しいことでしょう。
このような観点から本展をキューレーションしたのは、学芸員の廣海伸彦さんです。おっしゃるとおりです!! 饒舌館長も相似た立場から、「江戸の色」とか「江戸の美学」という思いつきを発表したことがあるんです。恥ずかしながら拙文集『江戸絵画 京と江戸の美』にも収めたところです。
しかしパソコンのキーをたたきながら、つねに頭を去らなかったのは、この対極に奇想派の画家たちがいたという事実です。それも江戸時代の絵画でした。いや、現代的嗜好、少なくとも現代的人気の点からいえば、奇想派に軍配があがるという事実です。
つまり、絵の要素のすべてを画面のなかに描きつくすのは好ましくない、ゆとりや隙を感じさせるようにすべきだ、と。
後水尾は、絵が「つまらない」ことを高く評価する探幽の意見に賛同しながら、このような考え方が和歌の世界にも当てはまること、さらに、そのほかのさまざまな芸術の道において普遍的なものだと述べたといいます。江戸時代の文芸において、余白や余情といった要素を何よりも尊ぶことは、たとえば発句に「軽み」を求めた松尾芭蕉の俳諧理論などとも強く響き合うように、この時代を広く覆った価値観のひとつであったといえるでしょう。
出光美術館「江戸時代の美術 『軽み』の誕生」<10月22日まで>
江戸時代の美術を鑑賞しようとする際、もう少し絞れば江戸時代の絵画を鑑賞しようとする際、きわめて重要なキーワードを教えてくれる絶対おススメの展覧会です!! 洒落たカタログの「ごあいさつ」からチョット引用させてもらいましょう。
300年近い歴史を持つ江戸時代の画壇において、いつも中心的な役割を担ったのが狩野派です。とりわけ、瀟洒で淡麗な絵画表現を打ち出し、狩野派の繁栄の礎を築いた画家こそが狩野探幽でした。……その探幽は、絵画の心得をめぐって、後水尾天皇に対して「絵はつまりたるがわろき」という、すぐれて印象的な言葉を残しています。
ここに蚊や蚤――虫が登場することはきわめておもしろいと思います。それさえも殺してはならないというのです。つまり虫が生類憐みの令のシンボリックな生類になっているんです。虫といっても害虫ですから、それ以外の虫を殺すことは言うまでもなくご法度ということになります。
もっとも、茂睡の書き振りからみてこれは伝聞でしょう。しかも伊東淡路守閉門の理由は、妻がないのに妾に子を産ませたこととも、蚊を殺したことともいわれていたわけですから、後者が唯一無二の理由とは断定できません。
しかし禁令があったため、事実を隠していたところ、それが露見して罰せられることになったという。また伊東淡路守は蚊に刺されたとき、思わず知らず手でたたき殺した。その血が顔についたのを、井上彦八(利実)が見て注意したところ、淡路守は紙で拭き取り、手を洗ってから勤務に就いた。そのことが将軍の耳に達し、鳥類畜類はいうに及ばず、蚤や蚊までも殺してはならないと言われていたのに、それに違反したという罪だともいう。彦八はそれほどのことを見ていたのに、どうして報告しなかったのかを問われて、閉門を言い渡された。
校注を加えて解説を書いた塚本学氏は、「筆者(茂睡)の入手した情報は幕府内部にも及んで豊富で精度の高いものであったといえる。本書の記述内容には、かなり高い信憑度を認めることができるのである」と指摘しています。『御当代記』の貞享3年6月6日の記事はよく知られるところです。現代語に直して掲げることにしましょう。
6月6日、小姓衆の伊東淡路守(基祐)に閉門が言い渡され、その後南部遠江守(直政)にお預けとなった。将軍近くに勤務する者は女性と馴染んではならないと禁じられていたが、淡路守は妻がないのに妾をもち、これに子を産ませた。
一昨日の夕方、愛器で「アーリー モーニングレイン」を熱唱していたら、1弦が「ピーン」という音とともに切れてしまいました。40年近く伴走してくれたヤマハ・フォーク・ギターが、ついに上げたかすかな悲鳴のように聞こえました。
8年ほど前、二子玉川の島村楽器でピックとケースを求めてから、ずい分楽器屋さんに行っていません。いい機会なので、持参しプロに張ってもらおうと思いましたが、毎日通っていた二子玉川が何かとても遠く感じられます。横浜にも大きな楽器屋さんがあるはずだと検索したら、3軒ありました。そのなかに島村楽器があるじゃ~ありませんか。ソクここに決め、愛器を背負って出かけ、調弦までやってもらい、マーティンやテイラー、シーガルなどの名器を飽かずながめてから店を出ました。
ちょうどランチタイム、しばらくぶりで昼酒を許してもらうことにして、楚々屋という焼鳥屋さんへ……。まだやったことがない「雪男」を注文すれば、これまた銘酒です。帰って検索すると、「鶴齢」で有名な南魚沼・青木酒造の別ブランドで、鈴木牧之の『北越雪譜』から取ったと出ていました。しかしその名酒振りは妖艶な雪女を思わせましたし、そもそも「雪女」にした方が「雪男」よりよく売れるんじゃ~ないかな(笑)
これは寛政の改革に批判的であった、大田南畝の情況と心情そのものだったでしょう。『画本虫撰』がわかる人にしかわからない絵本になった理由なのではないでしょうか。
もっとも、貞享4年より早く虫類愛護令によって過酷な処罰が行なわれていたという記録もあります。それは先にあげた戸田茂睡の『当代記』です。言うまでもなく茂睡は、綱吉と同時代を生きた江戸前期の歌人にして歌学者です。『当代記』は編年体の同時代記録で、平凡社の東洋文庫に『当代記 将軍綱吉の時代』として収められ、簡単に参照することができます。
仁科さんは俳人・宝井其角を登場させて、じつに愉快な推論を展開しています。その一つが其角の「頬摺やおもはぬ人に虫屋迄」という難解句の解釈です。詳細は『<生類憐みの令>の真実』をお読みいただくとして、「生類憐みの令と関連づけ、深読みして虫屋の句を解釈」した仁科さんは次のように結論を下しています。
其角は生類憐みの令に批判的だったが、あからさまに批判すれば、捕まってしまう。だからといって黙っていたら胸のつかえがおりない。いきおい生類憐みがらみの句はわかる人にしかわからない難解な句になる。
『日本博物学史』にあるように、生類憐みの令は貞享4年正月以降、数次にわたって拡大発令され、ついに虫にも及びました。貞享4年7月2日、「どこででも生類を売買してはいけない。キリギリス、松虫、玉虫の類、慰めにも(趣味でも)飼ってはいけない」という町触れが出たんです。この現代語訳は、先の仁科邦男さんによるところですが、もちろん南畝もこれを知っていたでしょう。
しかも同日、京橋5丁目の者がこれらの虫を売って牢屋に入れられているんです。戸田茂睡の『御当代記』では、逮捕の翌日に町触れが出たように書いてあります。同日でもひどいと思いますが、町触れが出る前の逮捕であったとすれば、言語道断以外の何ものでもないでしょう。
ところが、以前は貞享4年に始まったといわれていたんです。『広辞苑』の第1版(1955年)には、そう書かれているそうです。板倉聖宣著『生類憐みの令 道徳と政治』(仮説社 1992年)も『江戸学事典』(1984年)も、貞享4年開始説を採っています。あるいは大田南畝も、そう思っていたのではないでしょうか。
明けて翌貞享5年が元禄元年(1688)、この年号は「元禄文化」という称号とともに記憶されていますが、生類憐みの令が熾烈を極めた時代でもありました。『画本虫撰』が出版された天明8年(1788)は、元禄100周年という節目の年にあたっていました。これは偶然かもしれませんが、偶然には必ず意味があるというのが持論です(笑)
「2月26日」は「3月26日」の方が正しいかもしれませんが、そんなことはどうでもよろしい。生類憐みの令が悪政であり、貞享4年に厳格化され、天明7年がその100年祭(!?)であったことさえ確認されれば、それで十分です。これがいかに悪政であったか、仁科邦男さんが著書『<生類憐みの令>の真実』(草思社 2019年)において明らかにしています。最近の定説ともいうべき善政説を論破しています。
言うまでもなく、生類憐みの令は貞享4年だけ行なわれた禁令ではありません。2年前に、将軍通行の際つないでおくことになっていた犬猫を、道に出しても差し支えなしとした解禁令が発端とされています。そして宝永6年(1709)綱吉の死去とともに撤廃されるまで、24年間も続いたんです。それを象徴する年が貞享4年だったといってよいでしょう。
『画本虫撰』が編集されたであろう天明7年(1787)の100年前は、貞享4年(1687)――それは生類憐みの令を記念する年(!?)でした。愛用する上野益三著『日本博物学史』(平凡社 1973年)から貞享4年の項を見てみましょう。
正月28日、生類憐みの令の追加、牛馬など(実記)。
2月21日、生類憐みの令、犬に関するきびしい禁令(実記)。
2月26日、生類憐みの令、生鳥飼事および養鶏絞殺の禁(実記)。生類憐みの令はこの後も数次にわたって拡大発令された。行き過ぎた禁令の害(刑罰)が多数の人間の上に及び、遠流(島流し)になったものもある。本末を転倒し、迷妄の上に立った動物愛護。
それはかの5代将軍徳川綱吉により行なわれた生類憐みの令でした。動物愛護と質素倹約という「正しい理念」の違いがあるだけで、その悪影響はとてもよく似たものでした。先にアップした南畝の予感が、現実のものとなったのが生類憐みの令でした。一言でいって、ともに悪政だったのです。生類憐みの令はいうまでもありませんが、寛政の改革も悪政でした。少なくとも南畝にとっては……。
生類憐みの令はかつて行なわれた悪政でした。いや、かつてどころの話じゃ~ありません。ジャスト100年前だったんです。
しかし南畝の心中はどうだったでしょうか。やはりあの華やかな天明狂歌に、さらにいえば人間的な天明文化に対する共感が、けっして消滅することはなかったはずです。しかしそれを表立って表明することは、もちろんできませんでした。そんなことをすれば、ほとんど田沼一派と見なされていた南畝は、ソク身の危険にさらされたからです。
理念は正しくてもどこか息苦しい社会、それまで普通に行なわれてきた人間の楽しみが規制される生活、監視と密告におびえる日常が生まれようとしていました。しかし、まったく同じような時代がかつてあったことを、あの鋭い歴史感覚をもち、狂歌というパロディ文学の天才であった南畝が、気づかないはずはありません。
05.22 江戸で打ちこわしが起こる。
06.19 松平定信、老中となる。
08.04 幕府、3年間の倹約令を出す。
09.15 幕府、上杉治憲(鷹山)の治世を賞する。
10.02 田沼意次の所領を没収する。
江戸の社会に180度の大転換が起こったのです。軟派文化の寵児・大田南畝がいち早くこれに適合し、転身を図ったことはよく知られるところです。浜田義一郎先生は、著書『大田南畝』<人物叢書>の天明7年の条を、「こうして南畝は文芸活動を停止し、狂歌界と絶縁した。後に再び狂歌を作ったけれども、狂歌界には全く関係しなかった」と〆ています。早くもその年の正月には、狂歌会めぐりなどを一切やめているそうです。
天明7年(1787)5月、米価高騰などの理由により都市打ちこわしが起こり、天明文化を根底で支えてきた田沼意次政権が崩壊します。すぐに松平定信を筆頭に、御三家・御三卿や門閥譜代層を中心とする新政権が成立し、6年間に及ぶ「寛政の改革」がスタートします。
貨幣経済を重視する田沼政治路線を破棄するとともに、都市秩序の安定と厳格化、本百姓制度の復活、幕府財政の健全化、公儀権威の再建などを図らんとする江戸三大幕政改革の一つであること、改めていうまでもありません。僕もチョット編集を手伝った『日本文化総合年表』(岩波書店 1990年)を開いて、天明7年の<政治・社会>をのぞいてみましょう。
この南畝がリードするかたちで、さらに早く狂歌ブームは興っていました。したがって虫詠題狂歌合が行なわれたのは、安永末年から天明初年であった可能性もありますが、いずれにせよ、天明6年にはこの虫合狂歌30首が南畝や飯盛の手元にあったのです。
それを彼らは筐底きょうていから引っ張り出してきて、蔦屋重三郎に頼み込み、天明8年正月に出版したのです。そこにはタイムラグがあったわけで、その理由こそ寛政の改革だったというのがマイ妄想と暴走です。
ここで重要なのは、出版されたのが天明8年(1788)正月だったという点です。浅野さんの解説にもあるように、宿屋飯盛(石川雅望)や四方赤良(大田南畝)や尻焼猿人(酒井抱一)ら狂歌師30人が集まって、木下長嘯子の『虫歌合』にならい、虫を詠題に狂歌合を試みたのは8月14日のことでした。しかしそれが何年のことであったかは分からないんです。
南畝は天明7年7月ごろ狂歌から距離を置くようになり、俗文学から雅文学へ方向転換を始めます。しかし『画本虫撰』には、2番目に四方赤良(南畝)の「毛をふいてきずやもとめんさしつけてきみがあたりにはひかゝりなば」という1首が採られています。つまり、その虫狂歌合が行なわれたのは、天明6年以前の8月14日ということになります。
飯盛の序にあるように、8月14日の夜、実際に狂歌師が集い(葛西太郎中田屋か)詠んだ狂歌を基に作画・制作したものと推定される。歌麿と蔦屋重三郎が刊行した彩色摺狂歌絵本7種の中で最も早い作品。歌麿の絵は狂歌を凌駕する出来で、彫師・藤一宗と摺師の技もすばらしく、同種の木版絵本としては世界的にみても最高峰に位置づけられる。
かつて千葉市美術館で「ブラティスラヴァ世界絵本原画展」を企画した浅野秀剛さんが、世界の最高峰だと言っているんだから間違いありません。クオリティについてはこれに尽きるわけですが、饒舌館長にはいつもの独断と偏見があるんです(笑)。結論を先に言えば、『画本虫撰』は松平定信による寛政の改革を揶揄した絵本、業界用語をつかえば「サトリ絵」だったんです。
「僕の一点」は喜多川歌麿の『画本虫撰』(千葉市美術館蔵)ですね。見れば見るほど素晴らしい。見えれば見るほどおもしろい。見れば見るほど言葉を失う。というわけで、饒舌館長もチョットお手伝いした国際浮世絵学会編『浮世絵大事典』から、畏友・浅野秀剛さんの解説をそのまま引用させてもらうことにしましょう。
喜多川歌麿画の狂歌絵本。彩色摺大型2冊。天明8年(1788)正月刊、版元・蔦屋重三郎。……1画面に2種の虫を配したもの15図に、それぞれ2首の狂歌を入れている。撰者の宿屋飯盛やどやのめしもりが、木下長嘯子の『虫歌合』にならい、虫を詠題に当時の狂歌師30人による狂歌合を試みたもので、天明狂歌壇の主要メンバーをほぼ網羅している。
一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。 日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して 100 周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮...