2018年3月31日土曜日

サントリー美術館「寛永の雅」2


 「僕の一点」は、この特別展の主役をつとめる後水尾天皇の宸翰「忍」(聖護院門跡蔵)です。『広辞苑』に「忍ぶ」を求めると、第一義に「こらえる。我慢する。耐える」とあります。「禁中并公家中諸法度」や紫衣[しえ]事件に代表される徳川幕府の宮廷統治政策を忍ぶ――というよりも、忍ばざるをえなかった後水尾天皇の心中が、この一字に表象されているように感じられます。

「忍ぶ」の第二義は、「秘密にする。かくす」です。後水尾天皇はおよつ御寮人を寵愛し、梅宮という子までなしていたにもかかわらず、二代将軍徳川秀忠の娘・和子との政略結婚が進められていました。およつ御寮人のことは秘密にしておきたかったでしょうが、ことは明らかになって、四辻季継らの公家が処罰されることになります。

「忍ぶ」の第三義は、「人目を避ける。かくれる」です。いつのころからか、後水尾天皇には、文学に逃避して人目を避けるといった自己韜晦がかなり強くなります。これまた幕府の政策に従わざるを得なかった結果だったとはいえ、否定できない事実です。このようにみてくると、『広辞苑』にみる「忍ぶ」の三つの意義が、すべて後水尾天皇に関係しているといっても過言ではありません。宸翰「忍」にそれを読み取ったとしても、必ずしも牽強付会の説とはいえないでしょう。

もっともこんなことをいうと、寛永文化菊葵楕円説を採る研究者からは反論されるかもしれません。しかしこのごろ僕は、若い研究者から次々と反論やら批判やらを浴びているので、もうカエルの面に*****というヤツで痛くもかゆくもなく、生来内気にして気弱な僕もメゲルことはないでしょう(笑) どうぞ遠慮なく反論・批判をお寄せくださいませ。

2018年3月30日金曜日

サントリー美術館「寛永の雅」1


サントリー美術館「寛永の雅 江戸の宮廷文化と遠州・仁清・探幽」<48日まで>

 革命的ともいうべき特別展です! まさに眼からウロコです!! 近世文化に関心のある方は特に必見です!!! これまで寛永美術というと、豪壮華麗なる桃山美術の最後を飾る様式をもつ美術であると考えられてきました。天正様式→慶長様式→寛永様式というチャートがあったくらいです。

寛永絵画は明朗にして豪放であり、強烈な個性の表現であり、洗練された人工美に特徴があると思い込まされてきました。それを象徴するのは、俵屋宗達の金碧屏風や狩野探幽の二条城二の丸障壁画であり、岩佐又兵衛の古浄瑠璃絵巻群や町絵師による寛永風俗画であり、狩野山雪の彩管になる妙心寺天球院障壁画だったのです。

ところが、この「寛永の雅」を担当したキューレーター柴橋大典さんは、それらと対蹠的ともいうべき美と妙が寛永文化に存在したことを、145点の作品によって実証して見せてくれたのです。それを一言でいえば、「きれい」というまったく新しい美意識でした。この「きれい」が加えられることによって、これまでの寛永美術が、さらにスケールの大きな時代様式につつまれた美術に昇華したといってもよいでしょう。


2018年3月29日木曜日

広瀬淡窓6



とはいっても、僕にとってはあくまで漢詩人ですね。もっぱら岩波版『江戸詩人選集』で親しむだけで、お恥ずかしい限りですが……。最も人口に膾炙するという「桂林荘雑詠 諸生に示す」中の一首に、『人物叢書』からの引用も加えて好もしい数首を、またまた僕の戯訳で紹介することにしましょう。

桂林荘雑詠示諸生の二
 ふるさとを出て学問を 続けることは辛いけど 弱音を吐いちゃーいけないよ
 一枚しかない綿入れを 一緒に使うほどの友 そのうち出来ることだろう
 柴の扉を朝早く 開けて出てみりゃ真っ白に 雪のごとくに降りた霜
 君は川水汲んでくれ 俺はタキギを拾い来ん 寮生活も楽しいぞ

隈川雑詠五首の二
 朱の欄干にあそび女が 春に誘われ身を寄せる
 風に向かって何ゆえに 哀調おびる琴を弾く
 澄んだ歌声 旅人は 漕ぐ手休めて聞きほれる
 乗った小舟が急流に 吸い寄せられるも気づかずに

 





2018年3月28日水曜日

広瀬淡窓5


夫婦が同じ所に住むのは、人として守るべき道である。現在、諸侯は年とって官をやめ郷里に帰るとなると、その夫人は江戸に留まり、生涯もう会うことがない。幕府の法とはいいながら、人倫にもとり、じつに悲しむべきことである。もし前述のごとく統治上、参勤交代がどうしても必要であるならば、諸侯が隠退するとき夫人も一緒に国許へ帰り、江戸にはその跡継ぎ夫婦だけが住めば、それで目的は充分達せられるはずである。

淡窓は思想家であり、教育者であり、漢詩人であったわけですが、教育者としての淡窓も僕の理想とするところです。淡窓は、自分が理想とする型に弟子を押し込もうとするのではなく、もって生まれた長所を最大限発揮させるように教育しました。その根本理念は、淡窓が作ったとされる「以呂波歌」の「鋭きも鈍きもともに捨てがたし 錐[きり]と槌[つち]とに使い分けなば」という一首に象徴されています。

2018年3月27日火曜日

広瀬淡窓4


 確かに、呑み助が酒を止めようとするとき、これは体に悪いから止めようと決心するより、今度飲んだら必ず天罰があたるとみずからに思い込ませた方が、効果的であるように思います。もっとも、完全なアル中になっちゃったら、いずれでもダメだと思いますが()

淡窓は塾舎として咸宜園[かんぎえん]を建て、子弟教育にあたりました。その数3000に及ぶと伝えられていますが、淡窓の思想がいかに当時の人びとの心をとらえたか、思い半ばに過ぎるものがあります。この中から、高野長英、大村益次郎、上野彦馬など、じつにたくさんの人材が誕生、我が国の近代化に多大の貢献を果たしたのでした。

また交流した文人の一人に、わが田能村竹田がいます。もっとも、あまり深い関係ではなかったらしく、『竹田荘師友画録』にも立項されることなく、ほかでちょっと言及されるだけに止まっています。

著書に『約言』『迂言』『遠思楼詩鈔』『淡窓詩話』などがあります。僕は『日本思想体系』38<近世政道論>に収められる『迂言』を拾い読みしてみましたが、最も心を動かされたのは、次の一条でした。これまた拙訳で……。


2018年3月26日月曜日

広瀬淡窓3


僕は井上義巳氏の『広瀬淡窓』(人物叢書)と、頂戴した尚美さん編の『広瀬資料館図録』などによって、その思想と意義を知るのみです。井上氏によると、淡窓における「敬天」は、朱子学における「天即理」説がもたらす「天」の法則化、固定化を排して、人間の内面=「心」の問題において、その拠り所あるいは道徳的修身論を提示したところに意義があるそうです。

淡窓は、禁酒といった卑近な比喩を引いてこれを説明しているのですが、僕にはこの方がずっとよく理解できました()。それを僕的現代語に直してみると……。

自分の心に誓いをたてて酒を止めようとするのは、唯心論者が自分の心に誓いを立てて身を律しようとするのに似ている。一方、神罰を畏れて酒を止めようとするのは、天を敬う者が天の威力をもって身を律しようとするのと似ている。したがって私は、その天を敬う気持ちこそ、もっとも重要なことだと考えているのである。


2018年3月25日日曜日

広瀬淡窓2


 そのとき、広瀬淡窓のご子孫である広瀬尚美さんとお会いする機会に恵まれました。その後、広瀬さんは淡窓関係資料を携えて、わざわざ静嘉堂文庫美術館をお訪ねくださり、多くの貴重なことどもをお教えくださいました。

広瀬淡窓は江戸時代後期のすぐれた儒学者にして教育家、また有名な漢詩人です。名は簡、建、字は廉郷、子基、通称は寅之助、また求馬、号の淡窓をもって知られています。豊後(大分県)日田に生まれた偉人です。

淡窓は独自に編み出した「敬天の説」を中心として、さまざまな考えをこれに導き入れ、スケールの大きな総合的思想を打ち立てたそうです。したがって淡窓は、折衷派と考えられる場合が多いようで、関儀一郎編『近世漢学者伝記著作大事典』でも「折衷学」となっています。だからこそ淡窓は、広く儒学一般に通暁する「通儒」といわれたそうで、同時代を生きた幕末の志士・吉田松陰の対極的立ち位置にあったとも考えられるでしょう。

しかしその「敬天の説」とは、絶対的真理である天を絶対的に信頼すべきであるとする説のように感じられます。それは究極の理想主義であって、折衷学というのはあたらないような気もしますが……。


2018年3月24日土曜日

広瀬淡窓1


 この初春、ついに僕も歌舞伎座デビューを果たしました()。歌舞伎座タワー3階にある「花籠」で開かれている、もっと知りたいシリーズ講演会で、「もっと知りたい曜変天目」というのをやるハメになったからです。常務理事の安藤さんが歌舞伎座の知人から仕入れてきた話ですが、曜変天目日本限定現象に一家言ある僕としてもやぶさかではありません。

しかし、やはり専門である長谷川さんの方が適任では……といったのですが、もう館長名で約束してきちゃったというので、それじゃー3人で掛け合い風に……ということにして準備を進めました。もっとも、当日しゃべりだすと悪い予感は的中して饒舌館長は止まらず、90分をほとんど独占しちゃいましたが……。

何といっても天下の歌舞伎座、お薄と高級和菓子つきの講演会はハイソにしてセレブといった感じでしたが、それに合わせて急遽トークをグレードアップするわけにもいかず、いつも通りのおしゃべりトークで終わってしまいました。もっとも、こういうソフィストケートされた方々は、打てば響くというのでしょうか、とても気持ちよく持ち時間を使い切ったことでした。

2018年3月23日金曜日

静嘉堂ロバート・キャンベルさん講演2


このとき、「歌川国貞展」の講演をお願いしたところ快諾をいただき、当日を迎えたというわけです。葛飾北斎をはじめとするこの時代の浮世絵師は、みな濃密な人間的交流によって結ばれる一つの文化圏のなかに生きており、それが彼らのすぐれた芸術を生み出す原動力になっているのだという結論は、まさに目からウロコでした。

お話のあと、僕も壇上に引っ張り出されて、トークショーとは相成りました。20分ほどでたしたが、実におもしろく、いつか機会があったら、もうちょっとゆっくりお話がしたいなぁという気持ちを、拭うことができませんでした。

僕も至文堂版「日本の美術」シリーズの1冊として、『北斎と葛飾派』を担当したことがあります。このときも北斎を孤高の天才とみる浪漫主義的見方に毒されていたことを、ロバートさんのお話によって改めて思い知らされました。

もっとも、北斎と曲亭馬琴との関係については、ちょっとキャンベル史観と通い合うような視点から、駄文を草したことがあります。皆さんにぜひ読んでほしいとお願いしたいところですが、ちょっとビビッてしまいます。なぜなら、それはハングルで発表されているからです(!?)
 

*当然「ロバート・キャンベル先生」とお呼びすべきところですが、幽明境を異にされた方のみ先生とし、お元気な方は「さん」づけとするという「饒舌館長」のルールにしたがったことを、お許しくださいませ。

 
 
 
 

2018年3月22日木曜日

静嘉堂ロバート・キャンベルさん講演1


静嘉堂文庫美術館 ロバート・キャンベルさん講演「浮世絵師のコラボレーション空間」<310日>

 ロバート・キャンベルさんについては、改めて紹介するまでもないでしょう。日本文学の碩学にして、現在は国立国文学研究資料館の館長をつとめられ、ご本やテレビで皆さんお馴染みですね。以前、数回お会いしたことはあるのですが、これまで一緒に仕事をさせていただく機会には恵まれませんでした。

ところが昨秋、キャンベルさんから、茶道雑誌『淡交』で「名品に会いに行く」という連載を始めるにあたり、その第一回に静嘉堂文庫美術館の曜変天目を取り上げたいのでよろしくというオファーをいただきました。もちろん、こちらとしても名誉なことであり、こんなうれしいことはありません。

対談の相手には、この「饒舌館長」でも曜変天目について偏見と独断を書き散らしている僕が選ばれました。すでに新年号に掲載されたので、お読みになった方もいらっしゃることでしょう。これまでもっぱら夜空にたとえられてきた曜変天目に、「深海」という新しいイメージを読み込むところに、キャンベルさんの面目躍如たるものを感じました。

2018年3月21日水曜日

静嘉堂文庫美術館「歌川国貞展」25日(日)まで! お見逃しなく!!


 企画展「錦絵に見る江戸の粋な仲間たち 歌川国貞展」は、すでに1万人以上の方々に楽しんでいただきましたが、残すところ5日となりました。まだご覧になっていらっしゃらない方は、ぜひ静嘉堂文庫美術館までお運びくださいませ。すでにこの「饒舌館長」でも紹介しましたとおり、歌川国貞――またの名を三代豊国といいます――は、浮世絵を代表するマイスターです。とくに幕末浮世絵界を代表する絵師です。

現代では葛飾北斎や歌川広重、歌川国芳ほど、お馴染みじゃないかもしれませんが、その時代に立ち戻ってみれば、明らかに彼らの人気を凌駕するスター浮世絵師でした。だからこそ、彼らが束になってかかってもかなわないほど、膨大な量の作品を遺すことができたのです。

「なーんだ、量が多いだけじゃないか」なんて言わないでください。その画質もきわめて高いことは、会場を一巡するだけで、おのずとご理解いただけるものと思います。たしかにあれだけたくさん作れば、なかに駄作、代作、手抜き、省エネ、自己模倣といった作品が混じることは否定できません。しかし、それらがなければ、傑作「北国五色墨」や「今風化粧鏡」も、あるいは「星の霜当世風俗」や「誂織当世島」も、そして「錦昇堂版役者大首絵」も誕生しなかったのです。

それは良質かつ多量だったのではありません。良質であることによって多量になり、多量であることによって良質になったのです。これを僕は「質量主義」と呼んでいるんです。

2018年3月20日火曜日

神奈川県立近代美術館・葉山「堀文子展」6


とつおいつ考えてくると、老生も児島さんや龔穎さんの忠告にしたがった方がよいような感じもします。しかし、もうしばらくのあいだ使わせてもらいたいなぁ。『諸橋大漢和辞典』にしたがえば、「閨秀」にエロティックな意味はないわけですし、「ケイシュウ」という音も、何と美しいことでしょうか。あの麗しかった「慶州」へと、想い出は飛んでいきます――コジツケじゃないのか!?

堀文子さんや柴田安子を「女性画家」と呼ぶと、「閨秀画家」に含まれる「すぐれた」「賢い」という語感がとんでしまいます。「女流画家」といえば少し残るかもしれませんが、聞くところでは、この言葉もフェミニズムの観点から、ちょっと問題を含んでいるそうですね。

しかし、もし堀さんが「閨秀画家」とは呼んでほしくないという気持ちをお持ちでしたら、もちろん僕もそれに従います。呼ばれる本人が不快に感じる、あるいは止めてほしいと思うなら、周りの人間がその言葉を使うべきじゃないことは、改めて言うまでもないでしょう。

なお、柴田安子の夫の名前を、ずっと「宣勝」と書いてきましたが、正しくは「宜勝」でした。お詫びするとともに、すでにアップした記事も、「宜勝」に訂正しておきました。

2018年3月19日月曜日

神奈川県立近代美術館・葉山「堀文子展」5


『諸橋大漢和辞典』に「閨秀」を求めると、「賢婦人。才学のすぐれた婦人」とあります。「閨秀画家」は、すぐれた婦人の画家ということになります。出典には『世説新語』など、たくさんあがっています。

ところが「閨」だけをみると、もともとは独立した小門という意味のようですが、第三義に『後漢書』を引いて「ねや。婦人の居間」とあり、第四義に『王琚 美女篇』を引いて「男女のみそかごと」とあります。ちょっとエロティックなイメージもつきまとう漢字ということになります。

龔穎さんが異を唱えたのは、そのためだったのでしょう。あるいは、何となく男性の上から目線を感じ取ったのでしょうか。日本の学生が何も言わなかったのは、目立つことを嫌う国民性のせいなんかじゃなく、単に「閨」の派生的意味を知らなかったためかもしれません。そうなると日中文化比較はナンセンスということになりますが……。

2018年3月18日日曜日

神奈川県立近代美術館・葉山「堀文子展」4


 「奔る女たち 女性画家の戦前・戦後1930-1950展」のことは、フェイスブック友達?の児島薫さんからも教えてもらいました。また児島さんからは、もうそろそろ「閨秀画家」を止めた方が……といわれてしまいました。

「閨秀画家」では、忘れられない想い出があります。1989年、北京日本学研究センターへ講師として派遣されたとき、僕はゼミの教材に田能村竹田の『山中人饒舌』を選びました。「南画の興隆」の章に「女子玉瀾」と出てきたので、僕が「日本の最もすぐれた閨秀画家の一人です」というと、いきなり龔穎さんが手をあげて、「『閨秀画家』という言葉はよくないと思います。使わない方がよいのではないでしょうか」と発言したのです。

僕はびっくりしてしまいました。日本では、講義で何度もこの言葉を発しましたが、一度も学生から抗議されたことはなかったからです。「閨秀画家」に限らず、授業の途中で「オブジェクション」が入ったことなど、一遍もありませんでした。あるいは、「閨秀画家」に不快感や違和感をもった女子学生がいたかもしれませんが、挙手も発言もありませんでした。日中比較文化の観点からも、じつに興味深く感じたのです。

2018年3月17日土曜日

神奈川県立近代美術館・葉山「堀文子展」3


  

1987(昭和62530
残されていたスケッチ類が、夫宜勝により秋田県立博物館に寄贈される。平成6年に秋田県立近代美術館へ保管移管。

1988(昭和63
1月7日 日本画 昭和の熱き鼓動展に「めらはど」が出展(1.7-2.14・山口県立美術館)
7月17日 柴田安子 早世の女流画家展(7.17-1989.1.11・秋田県立近代美術館)

1995(平成7
811日 美しき大地・その四季彩―東北を描く―展の「めらはど」が出展(8.11-9.10・秋田県立近代美術館)

2001(平成13
1021日 奔る女たち 女性画家の戦前・戦後1930-1950年代展に「めらはど」が出展(10.21-12.9・栃木県立美術館)

2007(平成19
728日 描かれた秋田展第1部に「めらはど」他が出展(7.28-9.2・秋田県立近代美術館)

2018年3月16日金曜日

神奈川県立近代美術館・葉山「堀文子展」2


1946(昭和2139
2月中旬 堀文子が病気のため伏せている安子を見舞う(1950.6.1・『三彩43号』・堀文子「柴田安子女史の思い出」pp22-25)。甲状腺癌と堀は記述している。その後、3月中旬までに安子は下僕に命じて自分の作品を焼却した。

1947(昭和22
115日 デッサン「髑髏」を制作。
727日 逝去。世田谷区世田谷1-212.死亡診断書では悪性リンパ腫(ホジキン氏病)。遺骨は父の郷里角間川の最上家菩提寺浄蓮寺に埋葬される。法名・麗光院貞誉彩苑妙安大姉。
91日 『働く婦人7号』の表紙絵に柴田安子のデッサンが使用される(1947.9.1・『働く婦人7号』・表紙絵)。夫宜勝の関係か。看護婦の頭像のようだ。

1961(昭和36
15日 女流画家展―近代百年を彩る―に「めらはど」が出展(1.5-15・日本橋高島屋・主宰女子美術大学)

2018年3月15日木曜日

神奈川県立近代美術館・葉山「堀文子展」1


 畏友・水沢勉さんが企画した「白寿記念 堀文子展」については、すでにこの「饒舌館長」でも、心からのオマージュを捧げたところです。懐かしさのあまり、会場を「鎌近」なんて書いちゃいましたが、今回は正しく「神奈川県立近代美術館・葉山」とすることにしましょう。

いよいよ残りも10日ほどです。一人でも多くの方々に、堀文子ワールドを堪能してほしいなぁ!! その美的分析は、充実したカタログにお任せすることにして、前回意外にアクセス数が多かった柴田安子のことを、もう少し続けることにしたいと思います。

秋田県立近代美術館特別展「描かれた秋田」のカタログの巻末に、詳しい柴田安子年譜が載っています。もちろん堀文子さんもたくさん登場します。堀さんの名が最後にみえる、1946年以降を全文紹介することにしましょう。僕は写しながら、ちょっと目がウルウルになっちゃいましたが、これは年取って涙もろくなったせいじゃありません。なお、この年譜は「めらはど」の出品歴ともなっていて貴重です。

2018年3月14日水曜日

三重県立美術館「今村幸生展」5


フランソワ・ド・ラ・ロシュフーコーの『箴言集』には、「青春は不断の酔い心地である。健やかな体のほてり、理性の狂気である」とあるそうですが、絶対ちがう。ラ・ロシュフーコー先生、的をはずしちゃっているんじゃないでしょうか。たとえそうであったとしても、そんな青春の対極に、17歳の今村も、そして17歳の僕もいたような気がします。

あるいは、ポール・ニザンのあまりにも有名な「僕は二十歳だった。それが人の一生で一番美しい季節などとは誰にも言わせない」という言葉の方が、「十七歳の自画像」に似合いそうですが、これもやや違うように感じられます。ちょっとカジュアルですが、やはり僕らの世代だと阿久悠でしょうか。

 ♪青春時代が夢なんて あとからほのぼの思うもの

  青春時代のまん中は 道にまよっているばかり♪

♪青春時代が夢なんて あとからほのぼの思うもの

   青春時代のまん中は 胸にとげさすことばかり♪

2018年3月13日火曜日

三重県立美術館「今村幸生展」4


もちろん「風神雷神図屏風」が今回の「僕の一点」ということになりますが、もう一点「十七歳の自画像」を、どうしても加えておきたいのです。すごくいい! 巧みじゃないけどいい!! ものすごくいい!!! 

十代後半の男の子が必ずもっている、あるいは必ずもたなければならない孤独感や将来に対する得もいえぬ不安が、寒色の深い陰影のうちに、愛おしいほどよく写し取られています。男なら誰でも自分の十代を重ね合わせて、感情移入をしないではいられないでしょう。

そのころ、女性はもう完全に成熟していて、女の子から女にメタモルフォーゼを果たしているのに、男の子は男の子のまま置いてきぼりを食わされている。それがナーバスな感情やちょっとニヒルな感覚を生み出していく。男女差だけが原因ではないとしても、もっとも大きな原因であることは否定できないでしょう。

17歳の今村もそうであったことを語って、この7月には後期高齢者の仲間に入ろうとしている僕を、青春時代に連れ戻してくれたのでした。

2018年3月12日月曜日

三重県立美術館「今村幸生展」3


制作場所は伊勢のアトリエではなく、屏風制作に相応しい場所を用意することにした。京都、建仁寺、禅居庵の住職の理解を得、2007年、2008年の春秋4回にわたり、寺院での滞在制作を決めたのである。

 こうして準備された制作環境のなかで、今村がいかに金屏風に立ち向かったかは、梶川さんのエッセーを読んでいただくことにしましょう。それも大変おもしろいのですが、それ以上におもしろいと感じたのは、今村がその4半世紀も前に、「風神図」と「雷神図」を描いていることでした。

それぞれ縦長の大きなキャンバスに油絵で描かれ、三幅対のような形式になっているのですが、こちらは完全なアブストラクトで、どこが風神で、何が雷神なのか、まったく判らないのです。普通であれば、具象から抽象へ進むように思われますが、この場合には抽象から具象へ舞い戻っているのです。

もちろん、屏風の方は梶川さんに提案されたという特殊事情があるわけですが、具象と抽象の関係を考える際、必ずしも具象→抽象と進化するわけじゃないという意味で、ちょっと示唆的なヒントとなりそうです。

「風神図」「雷神図」は、さらにその10年ほどまえ、今村が盛んに試みたウィーン幻想派風のきわめてエロティックな作品群の様式が、日本的なシンプリシティーを志向した結果のように感じられましたが、これまたとても興味深いことでした。


2018年3月11日日曜日

静嘉堂文庫美術館コンサート「クァルテット・クロマティカ」


静嘉堂文庫美術館コンサート「クァルテット・クロマティカ」<311日>

 去年、わが静嘉堂文庫美術館で初めてミュージックコンサートを開きました。また聴きたいという希望に応えて、今回お呼びしたのは「クァルテット・クロマティカ」という弦楽四重奏のグループです。齋藤碧さん、木ノ村茉衣さん、伴野燎さん、山本大さんの東京芸術大学の2年生、彼らは入学後間もなくこの四重奏団を結成したそうです。

クロマティカというのは半音階という意味ですが、ギリシア語では「色」も指すところから、4人のさまざまな色を表現したいという願いを込めて名づけたそうです。曲目はかの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」と「弦楽四重奏曲 第22番 変ロ長調」、午後のひと時を、天才モーツァルトの豊饒にして典雅なハーモニーとメロディーに包まれながら、贅沢に過ごしたことでした。

もうすでに完璧にして、僕にはジュリアード弦楽四重奏団との区別さえ、とてもつきません。我が大学2年時代を振り返ってみると、まだ進むべき道も決まらず、何の特技もなく、ほとんど毎日無為に過ごしていました。それと比べるのも失礼ながら、彼らがすでに一つの世界を創り上げていることに、すごいことだなぁという感嘆を禁じえませんでした。

プログラムの2曲が終わると、伴野さんの紹介により、7年前の今日お亡くなりになった方々のために、同じくモーツァルトの讃美歌「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が捧げられました。さらにさらに心に残る一日となったことでした。

三重県立美術館「今村幸生展」2


その時は写真を見ただけだったので、今回は実際の作品が見られるかと思いましたが、陳列替えが終わった後期のため、残念ながら思いはかないませんでした。しかし、カタログに寄せられた何必館館長・梶川芳友さんの巻頭エッセー「現代の鬼才 今村幸生」によって、その制作事情を知ることができたのは、とてもうれしいことでした。

1970年代から、梶川さんは今村を知っていましたが、30年ぶりに伊勢のアトリエで今村の作品を見たとき、何必館でぜひその展覧会を開いてみたいという思いに駆られました。それにもかかわらず、梶川さんは次のように書いています。

しかし、この展覧会には何か足りないものがある、という思いがあった。その中で、私は長年コレクションしていた、100年以上の時代を経た金屏風に絵を描くことを提案した。既成概念を嫌う今村に、完成された伝統様式の金屏風に絵を描くことを提案するには覚悟がいった。


2018年3月10日土曜日

三重県立美術館「今村幸生展」1


三重県立美術館「今村幸生展 パリ45年・現代の鬼才」<325日まで>

 今村幸生は伊勢市に生まれた「鬼才」と呼ぶにふさわしいアーティストです。中学生のころから美術や演劇に興味をもっていた今村は、三重大学教育学部美術科に入学、卒業後は三重県内の中学校で教鞭をとりながら、独立展に出品して注目されるようになりました。

しかし1962年、誕生間もない長女が事故死するという悲劇にみまわれ、これからは絵画創造の道を迷わずに歩むことを決意した今村は、教職を辞して退路を断ち、フランスに渡りました。帰国後10年ほどは日本で活動しましたが、1977年にはふたたびパリに渡り、その後は83歳を迎える現在に至るまで、パリと伊勢を拠点として創作活動を続けているそうです。

僕が今村幸生という画家の名を知ったのは、あの「琳派400年記念祭」に際し、何必館・京都現代美術館が所蔵する「風神雷神図屏風」に逢着したときでした。俵屋宗達の傑作にインスピレーションを受けながら、もう完全に今村宗達になっちゃっています。僕は同じ姓をもつ紫紅という天才を、ちょっと思い出したりしたものでした。

2018年3月9日金曜日

渡辺京二『逝きし世の面影』10


彼(チェンバレン)はその好例として、英国の詩人エドウィン・アーノルドが1889(明治22)年に来日したとき、歓迎晩餐会で行ったスピーチが、日本の主要新聞の論説でこっぴどく叩かれた話を紹介している。アーノルドは日本を「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ」と賞讃し、「その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙虚ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」と述べたのだが、翌朝の各紙の論説は、アーノルドが産業、政治、軍備における日本の進歩にいささかも触れず、もっぱら美術、風景、人びとのやさしさと礼儀などを賞めあげたのは、日本に対する一種の軽視であり侮蔑であると憤激したのである。

 最後に、ほとんどすべての欧米人が日本人最大の悪徳としてあげる飲酒についても、酒好き饒舌館長は触れずにおれません。さすがの渡辺さんもこれにはお手上げらしく、弁護や解釈はあきらめ、モースのユーモアに満ちた言葉を引いてお酒を、いや、お茶を濁しているのが愉快です。

日本人は酒に酔うと、アングロサクソンやアイルランド人、ことに後者が一般的に喧嘩をしたくなるのと違って、歌いたくなるらしい。 


2018年3月8日木曜日

渡辺京二『逝きし世の面影』9


かつて僕は、「ジャポニスムの起因と原動力」というエッセーを書いたことがあります。それは小林忠さんが監修した『秘蔵日本美術大観』の第3巻<大英博物館Ⅲ>(講談社 1993年)のためでした。

僕が言いたかったのは、ジャポニスムの原点には異国趣味があったと思われるけれども、それは決して単なるエキゾティズムなどと軽視されるべきものじゃないということでした。その時はまだこの名著を読んでいませんでしたが、僭越ながら、何となく通い合う視点でもあるように感じられたのでした。

 本書は「ある文明の幻影」から、「心の垣根」までの14章に分かれています。シルベスター・モースをはじめ、多くの異邦人を感動させた日本の美術・工芸に関する記述は、第5章「雑多と充溢」にまとめられています。しかし、第1章に出るエドウィン・アーノルドの演説に関するエピソードほど、おもしろいものはありません。アーノルドも日本の「美術」を褒めたたえたのですが、それに対して当時の日本人がいかに反応したか、その一節を引用しておくことにしましょう。



2018年3月7日水曜日

渡辺京二『逝きし世の面影』8


そんなことを思いながら、「平凡社ライブラリー版あとがき」へと読み進めば、さらにはっきりと渡辺さんは語っているのです。

私はたしかに、古き日本が夢のように美しい国だという外国人の言説を紹介した。そして、それが今ばやりのオリエンタリズム云々といった杜撰な意匠によって、闇雲に否認さるべきではないということも説いた。だがその際の私の関心は自分の「祖国」を誇ることにはなかった。私は現代を相対化するためのひとつの参照枠を提出したかったので、古き日本とはその参照枠のひとつにすぎなかった。

 これを読むとき、さらに心は深く動かされます。平川祐弘さんの「解説――共感は理解の最良の方法である」によると、渡辺さんは「九州に住む在野の思想史家」で、「学問世界の本道を進んだ人ではない」そうですが、今の言葉でいえば、インディペンデント・スカラーと呼ぶべき、偉大な思想家だと思います。むしろ学問世界の本道を自認しているような東京や、京都からも距離を置くインディペンデント・スカラーゆえに、このような独創的視点と思想が生まれたのでしょう。


2018年3月6日火曜日

渡辺京二『逝きし世の面影』7


しかしここでも、渡辺さんは「自分のちっぽけな『愛国心』を満足させたいわけではない」と、沈着冷静そのものです。それどころか、ペリー艦隊に随行したウィリアムズのような中国びいきの欧米人をちゃんと登場させます。それにもかかわらず、欧米人に対する中国民衆の敵対的反応があった事実も明らかにするのですが、それは欧米人自身の侵入が招いた結果であって、その因果関係をまったく顧慮しないボーヴォワルをちょっとたしなめています。

そして最後に、中国南部海岸のひどい気候条件や、あまりに異質な中国の風土を――つまり人間の性質や観念ではなく、自然条件を挙げています。渡辺さんて何とすごい人間なんだろうと、さらに感銘を深くします。

 このような渡辺さんの意図にもかかわらず、この文庫本で600ページに近い大著を通読したとき、僕は思わずにいられませんでした。やはり日本は素晴らしい国なんだ。江戸時代こそ理想的な時代だったんだ。僕は100年遅く生まれちゃったんだと……。明らかに渡辺さんの意図に反する読後感であることは百も承知ですが、こういった気持ちをぬぐうことはできませんでした。


2018年3月5日月曜日

渡辺京二『逝きし世の面影』6


欧米人観察者が日本の古き文明に無批判でなかったこと、それどころかしばしば嫌悪と反発を感じさせさえしたことは、以上のような事例を一瞥しても明らかである。しかしその批判者が同時に熱烈な讃美者でありえたのはどういう理由によるのだろうか。日本のさまざまなダークサイドを知悉しながらも、彼らは眼前の文明のかたちに奇妙に心魅かれ続けたのである。彼らが書いていることを読むと、「この楽園には蛇がいないのではな」いと承知したうえで、なおかつ日本を「妖精の国」[エルフ・ランド]などと形容したくなる気持が手にとるように了解されてくる。

 先にミッドフォードを引きましたが、欧米人の日中比較も興味深いところです。もちろん渡辺さんがスルーすることなどありません。特に、日本人の清潔さを強調するとき、欧米人観察者の念頭には、もう一つ中国という対照がありました。中国に比べれば、日本は天国だという感想を述べている欧米人は、カッテンディーケをはじめ、多くて挙げきれないほどだそうです。

2018年3月4日日曜日

渡辺京二『逝きし世の面影』5


あるいは、乞食の有無という問題も、欧米人の興味を掻きたてたそうです。日本に乞食はいないという言説が流布していたからです。そんなことがあるはずもなく、当時の日本に乞食がいたことは事実です。しかし、例えばかのケンペルがいう「乞食」とは、今日的な意味での乞食ではなく、正しくいえば遊行する人々であって、お伊勢詣や巡礼、比丘尼、山伏、旅芸人が含まれていると、渡辺さんは見抜いてしまうのです。

いずれにせよ、徳川期の乞食は、欧米人観察者が故国で知っていた工業化社会における乞食とは、異なる社会的文化的文脈に属していたと、渡辺さんは考えています。これだけでもホッとした気持ちになりますが、渡辺さんは次のような疑問に対する回答として、日本人の親和と礼節という話を始めるのです。

2018年3月3日土曜日

渡辺京二『逝きし世の面影』4


以前、日本へのオマージュばかりを集めた本を読んだとき、そんなはずはないだろう、きっと来てみて日本が嫌いになったヨーロッパ人や、悪口をいったアメリカ人もいたにちがいないと思ったものでしたが、渡辺さんはそれも抜かりなく指摘しているんです。

渡辺さんのしなやかな感覚と深い教養に裏打ちされたバランス感覚に、ただただ頭が下がるばかりです。しかも渡辺さんは、アフターフォローを加え、あるいは彼らの批判や嫌悪に因ってきたる理由があったことを解き明かして、僕たちを救ってくれます。

 例えば、書記官として英国大使館に赴任したミットフォードは、父宛の手紙に、「私はどうしても日本人が好きになれません。中国人のほうがつき合うにはずっと気持ちのいい国民です」とか、江戸は風景の美しい街だけれども、壮麗な建造物は全然見当たらず、街並みじたい、家畜小屋が何列も並んでいるようなものだとか、はじめは悪態をついています。

しかし、ミットフォードは間もなく江戸に魅力を感じ、日本人に好感をもつようになりました。晩年に書かれた『回想録』は、バラ色の日本追想で彩られているそうです。

2018年3月2日金曜日

渡辺京二『逝きし世の面影』3


 それでは、渡辺さんがこれを著わした意図をどこのあたりに求めればよいのでしょうか。これについても、渡辺さんみずから語るところです。

私の意図するのは古きよき日本の愛惜でもなければ、それへの追慕でもない。私の意図はただ、ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。外国人のあるいは感激や錯覚で歪んでいるかもしれぬ記録を通じてこそ、古い日本の文明の奇妙な特性がいきいきと浮かんで来るのだと私はいいたい。そしてさらに、われわれの近代の意味は、そのような文明の実態とその解体の実相をつかむことなしには、けっして解き明かせないだろうといいたい。

 だからこそ、渡辺さんは異邦人が見出した幕末明治日本の欠点や唾棄すべき点にも、ちゃんと目配りを施しています。驚くべきことに、日本人の心の温かさや慎み深さをたたえる「親和と礼節」の章が、渡辺さんの言葉を借りれば、「ダークサイド」から書き起こされているのです。

2018年3月1日木曜日

渡辺京二『逝きし世の面影』2


この場合、文化とは私のいう文明とほとんど同義である。幕末から明治初期に来日した欧米人は、当時の日本の文明が彼ら自身のそれとあまりにも異質なものであったために、おどろきの眼をもってその特質を記述せずにはおれなかった。しかも、これまた文化人類学の定石通り、彼らは異文化の発見を通じて、自分たちの属する西洋文明の特異性を自覚し、そのコードを相対化し反省することさえあった。もちろん彼らの自文化に対する自負は、いわゆる西欧中心主義なる用語が示すように強烈であった。その意味では、ごく少数の例外を除いて、彼らのうちで、日本文明に対する西洋文明の優越を心から信じないものはなかった。だが、それゆえにこそ、そういう強固な優越感と先入観にもかかわらず、彼らが当時の日本文明に讃嘆の言葉を惜しまず、進んで西欧文明の反省にまで及んだことに、われわれは強い感銘を受けずにはおれない。

出光美術館「トプカプ・出光競演展」2

  一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。  日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して 100 周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮...