2023年5月27日土曜日

『國華』池大雅特輯号15

 


漁村夕照(呉鎮「題画十首 其一」)

  蔦つたや葛かずらに覆われた 茅屋だけど目立ってる

  僻地で深い森の中 ほかに一軒あるでなし

  春になっても春風が 吹いてこないと嘆くじゃない!!

  以前と同じに鳥が花 啄ついばんでるよ門前で

2023年5月26日金曜日

『國華』池大雅特輯号14

 

遠寺晩鐘<煙寺晩鐘>(王士熙「高房山画」)

  重なる呉の山 幾重にも 団子だんごを高く積んだよう

  朝早くっからから旅人が 瀟洒な筆で描いてる

真珠 百両 払っても 買えないほどに素晴らしい!!

峰の向こうに果てしなく 輝く波が漫々と……

 大雅は承句に一字脱字をやらかしていましたが、それは「洒」であることも「中華詩詞網」で分かりました。つまり「有客晨興洒灑毫」となるんです。


2023年5月25日木曜日

『國華』池大雅特輯号13

 

瀟湘夜雨(呉鎮「子昂仿張僧繇」)

  秋雨 降り止み増水し 蛇行の川に浮く堤

  家路につく人 かがみつつ 浅い早瀬を渡ってく

遥かに望む川向こう 小さな村が霞んでる

突然 琴の音 聞こえ来た 夜明けの寒さ裂くごとく……


2023年5月24日水曜日

『國華』池大雅特輯号12

 

洞庭秋月秋月(鮑恂「盛叔章画」)

  枯れ木の林を雲煙が 潤うるおし緑の靄もや流る

  渚なぎさの花や水際みずぎわの 草はさみしく風に揺れ……

  仙人 住む家 その雲の 彼方かなたにあるに違いない

  だからこの世も石橋山しゃっきょうざん――それを越えてはなりませぬ


2023年5月23日火曜日

『國華』池大雅特輯号11

 

烟浦帰帆<遠浦帰帆>(胡宗仁「茂之乞画楚山図 余将游武林走筆戯答」)

  すでに帆を揚げ我が船は 夜の明けるのを待っている

  日に日に強まる旅心 とても我慢はできません

  描きたいのだ 楚の国の 青く広がる山々を

  今に伝えるオモテナシ 期待し山を越えゆかん!!

 結句の「余行」とは「後世に伝えられている行ない」のことだそうです。「看」にはもてなしの意があるので、楚の成王にまつわる故事を思い出し、「戯答」らしくこんな風に訳してみましたが、実のところ自信がありません。



2023年5月22日月曜日

『國華』池大雅特輯号10

 

山市晴嵐(呉志淳「題小山水景二首 其一」)

  どこへ行くのか渡し舟 誰かが堤で訊いている

  仲春 二月 かの渭城いじょう 東湖の柳は芽吹きたり

  老人 独りそんな絵を 異郷でながめていたところ

  旅立つ友へ餞はなむけに 贈った柳を思い出す

 大雅は詩人の名を「呉忠淳」と書いていますが、これは明の詩人である「呉志淳」が正しいのです。かつて鄭麗芸さんの著書によって教えられましたが、もちろん「中華詩詞網」でも正しく出てきました。

2023年5月21日日曜日

傘寿記念「饒舌館長ベスト展」2

 昨日はたくさんの饒舌館長ファン?にご来場いただき、感謝の言葉もございません。誠にありがとうございました。とくにギャラリートークは盛り上がり過ぎて、ご迷惑をおかけする結果となってしまいました。お詫び申し上げます。最終日の28日(日)14:00からもう一回ギャラリートークを行なう予定にしていますが、2回目ですから、今度はゆっくりお聴きいただけると思います。饒舌館長人気で、もっと盛り上がるかな( ´艸`) 

『國華』池大雅特輯号9

 

 カットした『國華』池大雅特輯号序文の前半部は以上の通りですが、今回、僕は大好きな「東山清音帖」の解説を担当しました。これは画家にして書家であった池大雅を象徴する画帖です。なぜなら画と賛詩で一セットになっているからです。

 賛詩はただ白文で紹介しましたが、実はすでに出来ていた戯訳も一緒に載せたかったのです。サイト「中華詩詞網」のお陰で、詩の題をはじめ新しい事実も判明していたからです。しかし学術誌の『國華』でもあり、また字数も限られていたので泣く泣く取りやめることにしたんです() そのマイ戯訳をここにアップすることにしましょう。

2023年5月20日土曜日

傘寿記念「饒舌館長ベスト展」

いよいよ今日から傘寿記念「饒舌館長ベスト展」が始まります❕❕❕ ご存知❕❕❕安村敏信さんのキューレーションです。場所は静嘉堂@世田谷岡本です。静嘉堂@丸の内じゃ~ありません❕❕❕ 今日はギャラリー・トークもあり、饒舌館長なのにちょっとドキドキしています( ´艸`) よろしくお願い申し上げます❕❕❕
 

『國華』池大雅特輯号8

 

なお山根氏は、これが江戸時代における最も重視さるべき絵画ジャンルであること、往古の中国文化に対する憧憬の美しき結晶であったこと、日本の自然に捧げられた真率なる賞賛であること、胸中を吐露し人格を投影させた自己表現であったことを指摘している。

そして私たちも、それらを追体験することにより理想の楽園に遊び、彼らと気持ちを通わせれば、現代生活で失われがちな本来の人間性を取り戻すことができると述べている。

日本文人画の絵画史的評価と美的特質、そして現代的意義はここに尽きるというべきであろう。


2023年5月19日金曜日

『國華』池大雅特輯号7

かくして我が国文人画研究の将来に危惧を抱いた國華編輯委員会は、改めてその魅力を伝え興味を喚起するべく、断続的に特輯号を編むことを企画した。その第一冊は一二〇七号(一九九六年)で、新たに紹介された静嘉堂文庫美術館所蔵の作品を中心とした特輯号であったが、そのタイトルは「文人画と南画」とされた。

この点に関し、序文を起草した山根有三氏は、「『國華』でも長い間「南画」が採用されていた。しかし、この二つはそれぞれ歴史的背景を有するとともに、きわめて魅力的な名称であり、どちらか一方を切り捨てるには忍びないものがある。そこで本特輯号は「文人画と南画」と銘打つことにした次第である」と述べている。本池大雅特輯号も、この立場を守って編輯されることになっている。

 

2023年5月18日木曜日

『國華』池大雅特輯号6

やがて吉澤氏の南画説は広く認められるようになったが、文人画説も廃れたわけではなく、『文人画粋編』(中央公論社 一九七四年~)のような大部の研究図録も出版された。このシリーズが日本南画だけでなく、中国文人画も含むものだったことを考えれば、『南画粋編』では具合が悪かったであろうが、これと相前後して日本の場合も「文人画」と呼ぶ若い研究者が現われ始めた。

中国文化に対する憧憬や中国文人画家に対する尊敬の念を重視して、社会的階層の違いをむしろ軽視するのだが、この文人画説も一定の広がりをみせるようになった。このように日本文人画・南画への眼差しはつねに注がれていたのだが、かつての強い美術史的関心と、高い評価は失われてしまったように思われた。

 

2023年5月17日水曜日

『國華』池大雅特輯号5

 

その後も長い間文人画と南画の両者が行なわれてきたが、一九六〇年代末から、徐々に南画説が強くなってきたように思われる。戦前「南画と文人画」(六二二号~ 一九四二年)を発表していた吉澤忠氏は、これを発展させた「文人画・南宗画と日本南画」を『原色日本の美術18 南画と写生画』(小学館 一九六九年)の総論に当てた。

ここで吉澤氏は日本の場合、「南画」を用いるべきであることを強く主張、また中国文人画と本質的な違いが認められるゆえに、南宗画の省略後である南画を使えば、おのずと源流から区別されるとしたのである。



2023年5月16日火曜日

『國華』池大雅特輯号4

 

 池大雅が大成した絵画ジャンルを、文人画と呼ぶべきか、はたまた南画と称すべきか、いまだ結論は出ていないようだ。我が『國華』についてみれば、最初の論考は瀧精一氏の「文人画説」(二一六号 一九〇八年)で、その後瀧氏は講演をまとめた『文人画概論』(改造社 一九二二年)を発表している。

おもに中国文人画を論じたものだが、我が国の場合も文人画と呼んでいる。これに対し、田中豊蔵氏は「南画新論」(二六二号~ 一九一二年)を七回にわたって連載、中国を中心に論じながら、日本の場合もこれを南画と名付けている。のちに田中氏は「日本南画」という一文を執筆することになる。


2023年5月15日月曜日

『國華』池大雅特輯号3

 

この特輯号は、かつての大雅に対する熱い研究的情熱とエネルギーを呼び戻す起爆剤になることでしょう。また往年の美術愛好家が池大雅に寄せたような、愛惜の念が蘇生する契機となることでしょう。もっとも『和楽』さんにでもやってもらわないと、『國華』じゃチョット無理かな() しかし饒舌館長はそのような願いを込めながら、序文「『池大雅生誕300年記念』特輯に当って」を書かせてもらうことにしました。

ところが何といっても饒舌館長のこと、規定枚数の何倍も書いてしまったんです。結局、後半部の『國華』における大雅研究史だけを摘まんで使いましたが、イントロダクションにあたる前半部も、「饒舌館長ブログ」ファンには読んでほしいなぁという気持を捨てきれません。ここにアップするゆえんです。


2023年5月14日日曜日

『國華』池大雅特輯号2

 

國華特輯号のイイダシッペは饒舌館長でしたが、編輯担当は若い(?)佐藤康宏さんにお任せすることにしました。佐藤さんは巻頭論文「大雅における模写の意義」を執筆して、素晴らしい特輯号に仕上げてくれました。この佐藤論文はいつもながらの実証性に富み、読むものをしてなるほどと思わせてくれます。

一方、饒舌館長による「東山清音帖」の解説は、ただ大雅が生まれながらの天才であったことを縷々述べたものにすぎません。こういうのを、かの北大路魯山人は「天才連発癖」といって軽蔑嘲笑したものですが……()


2023年5月13日土曜日

『國華』池大雅特輯号1

 

『國華』1530号「特輯 池大雅 生誕300年記念」

 日本文人画、またの名を南画、その大成者とたたえられる池大雅は、享保8年(172354日、京都に生まれました。父は京都両替町の銀座役人中村氏の下役をつとめた池野嘉左衛門で、家は西陣菱屋町にあったと伝えますから、そこで生まれたのでしょう。もっとも、祖父金左衛門がいた北山深泥池村とする説もあり、さらには捨て子説まであるのですが、現在では西陣誕生説が通説となっているようです。

いずれにせよ、今年2023年は大雅誕生300年という節目の年に当たっています。これを記念して『國華』の池大雅特輯号が発刊されました。ちなみに、大雅が没したのは安永5年(1776413日、3年後には没後250年を迎えることになります。

2023年5月12日金曜日

追悼 ジョー・D・プライスさん

 さる413日、「饒舌館長ブログ」に何度も登場していただいてきたアメリカの日本美術、とくに江戸絵画のコレクターとして著名なジョー・D・プライスさんがお亡くなりになりました。享年93でした。心からご逝去を悼み、ご冥福をお祈り申し上げます。

すでにアップしましたように、今年のはじめ、出光美術館において特別展「江戸絵画の華」が開催されました。先年、ジョーさんと奥様の悦子さんが情熱を傾けて蒐集された作品の200点ほどが里帰りして、出光美術館のコレクションとなりました。「江戸絵画の華」はそのお披露目展で、第1部「若冲と江戸絵画」と第2部「京都画壇と江戸琳派」にわけて85点が展示され、見るものの眼を楽しませ、心を沸き立たせてくれました。そのときのエントリーをバージョンアップして、天上のジョーさんに捧げたいと存じます。

ジョーさんが尊敬して止まなかった建築家であるフランク・ロイド・ライトの親友にして、弟子であった建築家にブルース・ゴフがいます。その設計になるオクラホマ州バートレスヴィルのプライス邸にお邪魔し、コレクションを拝見させていただいたのは昭和50年(1975)初夏のことでした。山根有三先生をリーダーとする在米琳派調査旅行のときでした。誰よりも伊藤若冲を愛するジョーさんは、若冲の号にちなんでその私邸を「心遠館」と名づけていらっしゃいました。

1993年秋には、プライスご夫妻が主催した国際シンポジウム「Legacy of Japanese Art Scholarship」に参加させてもらいました。ご夫妻はカリフォルニアのコロナ・デル・マールに新しく建てた、おとぎ話に出てくるような家――マッシュルーム・ハウスにお住まいでした。

その別棟ともいうべき、スタディルームにおける贅沢な鑑賞体験を忘れることはできません。谷一尚さんと一緒に泊めていただいた研究宿舎と、ご夫妻の心づくしが懐かしく思い出されるのです。

あの2011.3.11の東北大震災のあとには、東北の人々を、いや、日本人を鼓舞し元気づけるために、ジョーさんと悦子さんはあえてコレクションを貸し出し、仙台、盛岡、福島で特別展「若冲が来てくれました――プライス・コレクション 江戸絵画の美と生命――」を開催してくださいました。

秋田出身にして秋田県立近代美術館のディレクターをつとめていた僕は、ジョーさんの男気、プライスご夫妻の心意気に感ぜずにはいられませんでした。無理をいって、盛岡と福島におけるご夫妻の講演会に加えてもらったのでした。

先の在米琳派調査旅行の前にも、ジョーさんの盟友ともいうべき辻惟雄さんに紹介され、東京でお会いしていますから、文字通り半世紀の間親しくさせてもらってきたわけです。改めてジョーさんに、そして悦子さんに感謝の辞を捧げたいと存じます。

 特別展「江戸絵画の華」から「僕の一点」を選ぶとすれば、何といっても円山応挙の「懸崖飛泉図屏風」ですね。京都の個人宅でこの屏風をはじめて見て感を深くしたのは、20001218日のことでしたが、相前後してプライス・コレクションとなりました。3年後『國華』で「プライス・コレクション特輯号」が組まれることになったとき、この傑作はぜひ僕に紹介させてほしいと、主幹の辻惟雄さんにお願いしたのでした。その特輯号は1290号として発刊されましたが、ジョーさんがとてもお喜びになったとお聞きし、こんなうれしいことはありませんでした。

僕は「このような傑作が海を渡ってしまうことを、少し残念に思う気持がまったくなかったわけではないけれども、自己の美意識にのみ忠実に収集を続けるジョウ・プライス氏に末永く愛されることになったこの屏風は、ふたたび幸せな環境に戻ったというべきであろう」と書き出しています。

しかしそれがふたたび里帰りし、しかも永住の地・出光美術館に収められたわけですから、僕の少し残念に思う気持が天に通じたにちがいありません。ジョーさんも天上で「よかった よかった」と改めてお思いになっていらっしゃることでしょう。

 ジョー・D・プライスさん、長い間本当にありがとうございました。安らかにお眠りください。                              合掌

 

 

2023年5月11日木曜日

静嘉堂@丸の内「明治美術狂想曲」19

 

いや、昭和9年前後といえば、清輝のころよりかえって西洋文化に対する忌避感が強まっていたかもしれません。この年、三上参次は中等学校における英語授業時間の削減を主張しています。あるいは、描いたのが女子学生だったからなのでしょうか。いずれにせよ、黒田清輝「裸体婦人像」腰巻き事件と通底する感覚がうかがわれるじゃ~ありませんか。

毬子さんが大人向け雑誌の挿絵から、子ども向け雑誌の挿絵に転向したことも、その背景はチョット似ているように感じられます。大人向け雑誌の挿絵では、官能的なシーンもあったわけですが、お母さんがこれを大変嫌がりまたお怒りになったため、毬子さんは子ども向け雑誌の挿絵に活躍の場を移したというのです。

大人向けの小説に男女情愛の描写があることは当然であり、おそらく今見れば何ということのない挿絵だったのでしょうが、サタさんは自分の娘が描くことに、母として我慢できなかったのでしょう。これが息子なら、どうということもなかったのでしょうが……()

 


2023年5月10日水曜日

静嘉堂@丸の内「明治美術狂想曲」18

 

(毬子さんは)もともと絵が好きで、福岡の筑紫女学園時代は絵を一生懸命描いていたという話は聞いていました。その頃、絵画の展覧会に裸婦を描いた絵を出品したら、賞をもらって貼りだされたんだそうです。でも、そのとき先生に叱られて、作品の下腹部に白い紙を貼られてしまったと言っていましたけど()

 毬子・町子姉妹のお母さん・サタが、娘たちに東京で教育を受けさせようと決意し、一家で東京に出たのは昭和9年(1934)のことです。この腰巻き事件ならぬ白紙事件は、上京直前の出来事でしょう。まだヌードに対し、このような偏見というか無理解があったのです。


2023年5月9日火曜日

静嘉堂@丸の内「明治美術狂想曲」17

 

しかし、みずからは決して表舞台に立つことなく、町子さんと長谷川家を陰で支え続けたそうです。そして平成24年(2012129日、94歳でお亡くなりになりました。

『長谷川町子の漫畫大會 町子・戦中の仕事』の巻末に、長谷川町子美術館館長・川口淳二さんのインタビュー記事「『お姉さま』と『町子ちゃん』の昭和 町子を支えたもう一人の天才・長谷川毬子」が載っています。川口さんは昭和60年(1985)長谷川町子美術館がオープンしたときから責任者となり、平成24年からは館長をつとめていらっしゃいます。その記事のなかで、川口さんは次のようなエピソードを披露してくれています。


2023年5月8日月曜日

静嘉堂@丸の内「明治美術狂想曲」16


この黒田清輝「裸体婦人像」腰巻き事件で思い出すのは、かつて読んだ『長谷川町子の漫畫大會 町子・戦中の仕事』(小学館 2016年)にあったエピソードですね。かの長谷川町子さんには毬子まりこさんという3歳年上のお姉さんがいました。

毬子さんは画家をめざして藤島武二に師事しましたが、家計が苦しかったため、菊池寛などの小説に挿絵を描いて一家を支え、その後、子ども向けの雑誌に活躍の場を移しました。戦後、町子さんの『サザエさん』の連載が始まると、それを単行本として出版するため「姉妹社」を設立して社長の座につきました。

 

2023年5月7日日曜日

静嘉堂@丸の内「明治美術狂想曲」15

その原田平作さんが、『美術フォーラム21』に続いて、言葉足らずでもいいから、もっと言いたいことを簡単に書くことができる雑誌として、10年ほど前、『視覚の現場・四季の綻ほころび』をお出しになりました。これは10号で中〆とされたのですが、去年『須田記念 視覚の現場』として復刊されることになりました。僕も大好きな須田国太郎画伯のご子息である、須田寛さんの高配と援助によるところだそうです。

須田寛さんといえば、一昨年、「饒舌館長」に優先席問題をアップしたとき、シルバーシートの発案者としてお名前を挙げさせてもらいました。もっともその時、須田画伯のご子息とは存じ上げなかったのですが……。

いま美術雑誌を出版することには、ものすごい苦労がともないます。個人で醍醐書房を立ち上げ、企画出版を継続していらっしゃる原田さんに、どのようなオマージュを捧げたらよいのでしょうか。尊敬の念とともに、心から感謝の辞を贈りたいと思います。

『須田記念 視覚の現場』は、去年「祝賀復刊記念号」に続いて、第1号が刊行されました。求められるままに僕は、「ヌードと春画」というエッセーを寄せました。

ちょうど同じころ、中国美術学院で開かれる国際シンポジウム「歴史と絵画」に招待されたので、かつて横浜美術館で特別展「ヌード」を見たときの感慨を取り入れながら、「黒田清輝の写実と天真」というペーパーを用意していたからです。というよりも、どのようなテーマでも、自由に書いてもらって結構だという原田さんのお言葉に甘えたのです。

僕がディレクターをつとめている静嘉堂文庫美術館には、かの腰巻事件でよく知られる黒田清輝の「裸体婦人像」があります。1900年、パリ万博のために渡欧した黒田は、そこで「裸体婦人像」を制作し、帰国後の翌1901年、第6回白馬会展にこれを出品したのです。

明治維新に続いて近代国家を建設しようとした日本は、ご存知のように中国文明に別れを告げ、西欧文明をモデルとして採用しました。西欧文明の基本には人体があり、したがって西欧美術の根本にはヌードがありました。

それにも関わらず、どうして黒田の「裸体婦人像」や、それに先立つ「朝妝」が猥褻だということになったのでしょうか。ずっと考えてきた問題であり、また私見もあったので、原田さんに甘えて文字にしてみたのです。

ここにはすでに説かれるキリスト教的価値観とともに、儒教的価値観が存在しました。またヌードという伝統を持たない我が国では、それが春画と結び付けられやすかったのです。さらに「裸体婦人像」がリアリズム絵画であり、それが広く一般に公開され、しかも凝視を強いる芸術であったことが問題にされたのです。ご興味のある方は、『須田記念 視覚の現場』第1号をどうぞ……。

しかしこれらは表層的要因というべきものであって、もっと根本的問題が横たわっていたようにも思いますが、これはまだよく煮詰まっていないので、書く勇気はありませんでした。

 

2023年5月6日土曜日

静嘉堂@丸の内「明治美術狂想曲」14

静嘉堂文庫美術館には、この帯紙コシマキを考えた安村敏信副館長というすごいアイディアマンがいたんです!! この作品については、3年前「饒舌館長」に「醍醐書房『須田記念 視覚の現場』第2号」と題してアップしたとき、触れたことがあります。今回はその「おまとめ版」でお許しいただくことにしましょう。

 原田平作さんの醍醐書房から出ている『美術フォーラム21』に、お世話になっていない美術史研究者は少ないと思います。かつて僕も特別編集員に加えてもらったことがありますし、「江戸の美学」という拙文を寄稿したこともあります。原田さんが編集する『民族芸術』に、これまた拙文を載せてもらったこともあります。

 

2023年5月5日金曜日

静嘉堂@丸の内「明治美術狂想曲」13

 



さらに加えたい「僕の一点」があります。それはカタログ表紙になっている黒田清輝の「裸体婦人像」です。カタログ表紙の裸体婦人は、紫色の帯紙――いわゆるコシマキで下半身が隠されています。そこに「腰巻事件かくありき!!」と、白抜きで大書されています。

「今度はとうとう幕を張られました。(中略)最も困難で最も巧拙の分るる所の腰部の関節に力を用いたつもりであるが、其の肝腎な所へ幕を張られた訳だ」という黒田清輝の言葉も、その下に引用されています。

詳細はこれまたカタログの「コラム④ 裸体画論争と黒田清輝」をご覧いただくことにしましょう。

2023年5月4日木曜日

静嘉堂@丸の内「明治美術狂想曲」12


 この屏風における菊の寓意――それはこれを紋章とする天皇・皇室だったように思われてなりません。幽谷は菊と鶏を組み合せ、これを敬う国民とその家庭の平和を祈念したのではないでしょうか。

これこそ内国勧業博覧会の趣旨である、殖産興業の根底をなす重要なエレメントだったはずです。天皇・皇室のもと各家庭の安寧なくして、殖産興業が成功するはずもありません。幽谷がそう考えたかどうかは分かりませんが、饒舌館長はこんな風に妄想したんです。

もっとも、菊といえば誰だって菊慈童が飲んで不老長寿になった川の水から「菊正宗」や、彌之助が愛飲したかもしれない「土佐菊水」を思い出します。鶏からはソクうまい焼き鳥――両方あわせれば小奇麗な居酒屋のイメージだなんていう呑み助がいるかもしれませんが……()

2023年5月3日水曜日

静嘉堂@丸の内「明治美術狂想曲」11

ところで明治28年4月といえば、日本は日清戦争に勝利し、講和条約を結んだところでした。松本楓湖はその戦勝を暗示するような「蒙古襲来碧蹄館図屏風」を、この第4回内国勧業博覧会に出品しています。同時に出品された橋本雅邦の傑作「龍虎図屏風」にも、同じような寓意を読み取ろうとする見解もあります。

これらはかなり直接的な寓意ですが、野口幽谷の「菊鶏図屏風」にも、ある寓意が込められているように思われてなりません。すでに鶏をモチーフにした「闔家全慶こうかぜんけい」という画題についてはお話ししたとおりですが、つぎに菊ですね。菊にはさまざまな寓意があります。花ですので花言葉といってもよいでしょう。

 

2023年5月2日火曜日

静嘉堂@丸の内「明治美術狂想曲」10

 

まだ生きているどころじゃありません。すべての国民が「慶応」という大学も、「鶏卵」という物価の優等生ではなくなった食品も知っており、毎日のように言葉に出しているんです。「大慶至極」という四字熟語も、「鶏頭」という美しい花もお馴染みで、これを読めない日本人の大人はいないでしょう。

日本人は1000年以上前の唐文化――本場では滅びてしまった唐文化をしっかりと継承しているんです。感動を覚えない人はいないはずです。もっとも、単にコンサーバティブなだけともいえるかな()


2023年5月1日月曜日

静嘉堂@丸の内「明治美術狂想曲」9

「闔家全慶」が中国でいつ編み出された画題か知りませんが、まだ漢音が使われていた時代なのでしょうか。あるいは、漢音までさかのぼらせたのかも知れません。

いずれにせよ、現在の「チン」と「ジー」では成立しないことになります。もっとも、30年近くまえ香港大学で教えていたとき求めたロイ・カウルスの『広州話袖珍字典』を見ると、「鶏」は「カイ」ですので漢音が生きているようですが、「慶」は「ヒン」ですので、やはり広東語でも上手くいきません。

ところが日本では、「慶」も「鶏」も漢音の「ケイ」であり、バッチリ同音になります。素晴らしいことじゃ~ありませんか!! 唐時代の、しかも首都長安の発音が、我が国にはまだ生きているんです。


出光美術館「トプカプ・出光競演展」2

  一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。  日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して 100 周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮...