市河寛斎「丁未ていびの除夕じょせき」
色んなことが起こったが 過ぎ去らんとするこの一年
まだ老衰じゃ~ないけれど すでに鬢びんの毛 白くなる
寒さ去らんとする時を 教えてくれる――まず梅が……
氷 溶けんとする頃は 水面みなもにさざ波 立ち初そめる
着物はダブダブ――そのわけは 作詩の苦労で痩せたため
貧乏なのはいとけなく 養う子どもが多いため
明日は四十みな嫌う 老いが始まることになる
もし春の酒なかったら 老いの憂うれいを如何いかんせん?
市河寛斎「丁未ていびの除夕じょせき」
色んなことが起こったが 過ぎ去らんとするこの一年
まだ老衰じゃ~ないけれど すでに鬢びんの毛 白くなる
寒さ去らんとする時を 教えてくれる――まず梅が……
氷 溶けんとする頃は 水面みなもにさざ波 立ち初そめる
着物はダブダブ――そのわけは 作詩の苦労で痩せたため
貧乏なのはいとけなく 養う子どもが多いため
明日は四十みな嫌う 老いが始まることになる
もし春の酒なかったら 老いの憂うれいを如何いかんせん?
この年末年始は揖斐高さんがすばらしい校注を施した『市河寛斎 大窪詩仏』<『江戸詩人選集』5>(岩波書店 1990年)を酒の肴にすることにしました。これにしたがって、詩仏の賛酒詩「来りて酒を飲むに如かず。楽天の体に傚う」を紹介したことがあると思いますが……。
しかし今回は、詩仏の先輩にあたる市河寛斎に登場してもらい、年末年始の感慨をうたった詩などを楽しむことにしましょう。寛斎はいわゆる清新性霊派のパイオニアとなった一人です。僕が大好きな詩仏は、漢詩といってもポピュリズム的(⁉)ですが、寛斎はもうちょっとクラシックな感じがします。古文辞格調派の古典主義を批判したはずなのに、清新性霊派・寛斎をクラシックな感じなんていうのはおかしいのですが、寛斎には古文辞格調派の影響が、まだ残存していたのかもしれません。
④杉本欣久説(『古文化研究』2号 2003年) 大塩平八郎の乱を鎮圧し、藩の栄誉に結びつく大坂城代の役目を無事に果たした記念碑的意味を込めて、4月15日という年記が選ばれている。
⑤高橋佳奈説(『美術史論叢』20号 2004年) 「大塩平八郎捕縛の報告」と「藩主の代参」を分けて考えれば、鷹見家の本像に関する口伝を無下に否定する必要はない。すると年記が正しい可能性と遡及させた可能性が考えられ、前者の方に傾くが、断定は避けて今後の課題とする。
②藤懸静也説(『世界美術全集28』 1930年) 当時土井侯は大阪城代であったので、泉石は家老として付き従っていた。ところがかの大塩平八郎の乱が勃発、泉石らは平八郎を召し取り、その報告ため江戸へ出てきた。そのとき泉石は主君の代理として、浅草・誓願寺にお参りをしたが、帰りがけに崋山の家を訪ねてきた。そこで崋山は画稿を作り、数日後にこの像を完成させた。ちなみに藤懸先生のお母さんは、泉石の孫娘でした。
③吉澤忠説(『國華』765・766号 1955年) この作品の年記は天保8年4月15日となっているが、そのとき泉石は大阪に滞在しており、藩主の名代として江戸の菩提寺を参拝することは不可能であった。したがって崋山と泉石はこれ以前に交流があり、そのころスケッチしたものをもとにして、天保8年4月15日に完成させたと推定される。
日比野秀男さんの新著『渡辺崋山――作画と思想――』のキモは、崋山肖像画の最高傑作である『鷹見泉石像』(東京国立博物館蔵)の制作事情と制作年代に関する、日比野さんの新しい解釈にあるといってよいでしょう。言うまでもなく、この点については多くの推定が語られてきました。日比野さんにしたがって主要なものを挙げれば、次のとおりです。
①『國華』239号説(1910年) 天保8年(1837)、泉石は藩主土井氏の命により、同家の菩提寺に代参した。その帰り道、崋山宅に寄ったところ、さっそく崋山は下書きを作り、その数日後、完成画をみずから泉石宅へ届けた。
そのかたわらには満英嬢の写真が添えられていたので、チョット生々しく感じられましたし、それは「校書図」と似ても似つかないものでした。
しかし<校書>のような歴史をもつ文学的な言葉が、意外やわれわれに近い時代まで生きていたことを知って驚きました。重要文化財の指定名称が「芸妓図」だったため、それが流布しましたが、直接的な「芸妓図」より、「校書図」とした方がエレガントでいいじゃないかというのが独断と偏見です(!?) <校書>は洒落た古語というだけではなく、ずっと生きてきた言葉だったんです。もっとも何人かの中国人に訊いてみましたが、知っている方は一人もいなかったようです。
満英嬢 塘西第一の<校書>である。歳は二十にして姿と髪が美しい。話し方は典雅で、眉を顰ひそめても笑っても魅力的だ。才媛の風香りたち妓女の卑しさがない。酔えばいつも明朗にして闊達、応接に暇なき売れっ子である。<校書>とは、まさに花柳界の佼々こうこうたる美人をいうのだ。
「佼々」とは「みめよいさま」をいうのですが、「校」に合わせて同じツクリの「佼」をもってきたところがミソなのでしょう。
日比野秀男さんが『渡辺崋山――秘められた海防思想』を出版されたとき、編集を担当したブリュッケの橋本愛樹さんから、その書評を雑誌『日本の美学』24号に書いてほしいと頼まれました。僕は日比野さんの独創的な崋山海防思想を紹介しながら、美術史関係者に限らず、多くの歴史ファンにも読んで欲しいと祈念しました。
しかし当然のことかもしれませんが、本書には僕の大好きな「校書(芸妓)図」がチョットしか論じられていなかったので、ぜひ日比野さんの見解をもっと聞いてみたいと思いました。その書評を書いたのは、ちょうど1995年秋から冬にかけ、香港大学で日本美術史を講じていたときだったので、そのときの見聞をもって〆としたんです。
大作から小品まで、抽象から半具象まで、寒色系から暖色系まで、刺激される官能のなかに理性を秘めた李焱ワールドが、醒めた陶酔へ見るものをいざなってくれます。「僕の一点」は蛾を描いた小品でしたが、『國華』へ向かうタクシーのなかで聞くと、辻惟雄さんもこれがイチオシとのことでした。つまりそれは奇想美と琳派美のマリアージュになっているんです(!?)
カタログには辻惟雄さんと島尾新さんが、李焱さんの博士論文にも目配りを利かせ、魅力的な分析を行ないながら推薦の辞を寄せています。なお、年明けの1月29日から2月2日まで、虎ノ門森ビル1階の中国文化センターで、「多摩美術大学大学院博士展――第1期・第2期博士号取得者による展覧会――」が開かれるそうです。李焱さん、そこでまた是非お会いしましょう!!
というわけで、しばらくぶりに辻惟雄さんも出席して、後輩の二人にハナムケの言葉を贈ってくれることになったんです。運よく李焱さんの個展が銀座メディカルビル・ギャラリーで開かれているので、二人で一緒に、編輯会議の前に寄らせてもらおうということになりました。
1階と地下の広いギャラリー空間が、濃密佳麗にして清浄無垢なる李焱カラーに染め上げられています。その魅力は東洋的な水墨と西洋的な油彩のマリアージュにあります。個展の副題「水墨と油彩を融合する」がみごとに成功しています。さすが豊かなモノクロームとポリクロームの歴史を誇る中国の画家です。我々にはちょっと思いつかないチャレンジングな発想です。しかも素晴らしいハーモニーをかもし出しているんです!!
12月18日、今年最後の『國華』編輯会議が開かれました。『國華』編輯委員の定年は80歳ですので、僕にとっても最後の編輯会議です。僕は昭和44年(1969)編輯補助員――有り体にいうとアルバイターとなりました。今年は昭和98年ですから、54年間お世話になったことになります。もっとも東京国立文化財研究所と名古屋大学につとめていた期間は単に応援団でしたが、応援団長を自負していました(笑)
『國華』ではその年に辞める編輯委員がいる場合、忘年会が歓送会――学生でいえば追い出しコンパとなります。このところコロナ禍のため、ずっと忘年会が開かれてなかったので、3年前に定年となった小林忠さんも一緒に、歓送されることになりました。
銀座メディカルビル・ギャラリー「李焱画展 水墨と油彩を融合する」<12月23日まで>
李焱リーイエンさんは国際的に活躍する中国の女性画家です。早くも10代から高く評価され、17歳のときには北京中国美術館で作品が展示されましたが、これは歴代最年少の快挙でした。その後、李焱さんは日本文化に対する関心を高め、多摩美術大学大学院へ留学、芸術博士号を取得しました。
そのとき審査したのは、「饒舌館長ブログ」でお馴染みの辻惟雄さん、島尾新さん、板倉聖哲さんたちでした。というわけで、李焱さんのお名前は聞いていましたし、作品の写真も拝見していましたが、直接鑑賞する機会はこれまでありませんでした。
いまから48年前、若かった僕は怖いもの知らずで、「渡辺崋山――写生から心象表現への旅」などという大それた題をつけた拙文にまとめ、田中一松先生に見ていただいたあと、印刷に付しました。その結論が「黄粱一炊図」の昨日アップしたような読みでした。もちろんこのような解釈は、すでに吉澤忠先生により発表されていましたが、僕は写生からの展開として考えたかったんです。
その後、日比野秀男さんが中心となって編集した『定本 渡辺崋山』(郷土出版社 1991年)という総合的研究図録が出版されました。求められるまま、「崋山と江戸絵画」という拙文を寄稿した僕は、このような自己の感情や思想を反映した崋山の絵画世界に何よりも強く惹かれ、「隠喩メタファーの画家」というオマージュを捧げたのです。そのさい決定的影響を受けたのは、美術史学会全国大会で聴いた日比野さんの崋山海防思想論でした。
僕も「黄粱一炊図」(個人蔵)を取り上げて、そこに現実社会との絆を断ち切られ、葛藤から諦観へと向かわざるを得なくなっていた、崋山の空虚寂寥たる心象の反映を読み取ったことがありました。決して長くなかった一生に対する感慨を込めた墓標だった――なんて気取ったことを臆面もなく活字にしています。
最初に出版された崋山のすぐれた作品図録として、崋山会が編集した『渡辺崋山遺墨帖』(審美書院 1911年)があります。もちろん日比野さんも言及されています。昭和50年(1975)、田中一松先生はこの複製本を歴史図書社から出版されましたが、その解説を僕に書かせてくれたんです。
ところが日比野さんは、そんな回顧や安寧とはマギャクともいうべき、崋山のビビッドな同時代的感覚を、この二つの作品に読み取ったのです。つまり日本の植民地化をねらう西欧列強に対して、わが国はそれをしっかりと認識し、防御につとめなければならないという崋山の危機感です。それを日比野さんは崋山の海防思想と呼んだのでした。
日比野さんはこの『渡辺崋山――秘められた海防思想』を著わすに先立ち、「千山万水図」に焦点をしぼって美術史学会の全国大会で口頭発表を行ないました。はじめてそれを聴いたときの驚きを忘れることができません。目から鱗が落ちるとは、こういうことを言うのでしょう。言われてみれば、まったくその通り、反論の余地はありませんでした。
日比野秀男『渡辺崋山――作画と思想――』(中央公論美術出版 2023年)
30年ほど前、日比野秀男さんは『渡辺崋山――秘められた海防思想』(ぺりかん社 1994年)を著わして世を驚かせました。それまでは崋山が自己の艱難辛苦に満ちた一生を顧みて、その感慨を描いた傑作掛幅が「千山万水図」(田原市博物館蔵)であると考えられてきました。
また蟄居という窮屈な生活のなかで、身近な生物を見つめ、ありのままに描く時間がとれた平安なひと時を表象する優品画帖が、「蟲魚帖」(岡田美術館蔵)だと見なされてきました。もちろん僕もそれに従ってきました。
黄山谷「伯時の*ようを揩かいする虎を画えがけるに題す」
喰らった狗いぬに酔い爆睡 猛虎 目覚めてゆっくりと
かゆい喉もと掻かいた時 その勢いで風起こる
周りの草はひれ伏したけど 楠くすの枯木は泰然自若
旅人たびとを感動させるのは 楠の梢こずえで草じゃない
結句の「木末 応に行人の知る有るべし」はチョット分かりづらく、荒井健さんは「木末」を「山の高所」と解釈されましたが、僕は文字どおり「梢」と考えてみました。梢ならぬ根が単純なせいかな(笑) *は僕のワードに出てこない変な漢字で、虫偏に「羊」を書き、皮膚がかゆいという意味のようです。
終りの二句はチョット意味が取りにくいようですが、荒井健さんによると、「正義の士が酒に隠れねばならぬという、この酔いの意味ばかりは、酒も飲まぬやつに語るのはむずかしい。光明を恐れて月夜には寝ているぬすびとにも似た小人が世にはびこり、正義を忌み嫌っているからなのだ。風雨に暗黒の暁にも必ず時を告げる鶏のように、しかし、胸のうちの節義は決して変わらない」となります。何だか酒を飲むために考えだした、黄山谷の口実みたいに聞こえますね(笑)
「五馬図巻」に跋文を寄せた黄山谷は李公麟と親しかったらしく、「伯時のヨウを揩する虎を画けるに題す」という七言絶句もあります。
もちろん黄山谷も酒仙詩人、お酒をたたえる詩はたくさんありますが、「仲車の『元達の為に置酒す 四韻』に次韻す」に指を折りたいですね。
三万戸の家 謝陽しゃようにあるが 徐公の家が一番高貴
誰も御前へ近寄れないが 董君だけは飲み交わす仲
李白もたたえた酔いの至福を 飲まない奴には説いても無駄だ
明るい月夜にゃ寝てる泥棒 雨で暗くも朝にゃ鳴く鶏とり
黄山谷はネコ好きだったようです。これも僕が黄山谷を尊敬する理由です(笑) もっとも中国の文人がネコを飼うのは、僕が「タビ」を可愛がったのとはちがって、所蔵愛蔵する本をネズミにかじられないようにするためだったんです。黄山谷の「猫を乞う」をマイ戯訳で……。
この秋 以来ネズミども ネコの逝去をいいことに
お盆で遊ぶわ甕かめの水 飲んで騒ぐわ眠られず
お宅の家ネコ数匹の 子ネコを育てていると聞く
魚うお買い柳で目刺しにし それもて一匹 招聘しょうへいせん
このエントリーを読んだ饒舌館長ファン(?)の清水雅智子さんから、「私もそうですが、80代の過ごし方は悩むところです。でも、バンドは趣味だから続けて戴きたいですね。自分の元気の源・運動になるのに~」というコメントがありました。そこで僕は次のようにレスポンスしたんです。
テネシー・ベアーズは卒業しても、お一人では続けられるでしょう。そしてこれまでとは違う80代の味と艶が、深まるにちがいありません。僕の持ち歌にイアン&シルビアの「フォー・ストロング・ウインズ」があります。たくさんの歌手によってカバーされている名曲ですが、僕のイチオシは、最晩年のジョニー・キャッシュが語り掛けるように歌うカバーです。若い時のジョニー・キャッシュにはぜったい出すことができなかったと思われる味と艶に、感を深くします。YouTubeで聴けますので、アクセスしてみてください!! きっと木村君は晩年のジョニー・キャッシュになりますよ!! そしてテネシー・ベアーズのライブがあれば、飛び入りで披露してくれるにちがいありません。
そのうち独断的書評を書くことにして、今回「饒舌館長ブログ」に過日求めた北原白秋の『明治大正詩史概観』をアップしたのは、その巻末にジャスト85年前の今日、市川秀という方がペン書きした跋文があったからです。
しかし単なる書評なんかじゃなく、チョット胸が熱くなるような跋文です。きっと本書を読んで感を深くし、また種々考えるところがあり、市川氏はこれを書かずにはいられなかったのでしょう。1938年は昭和13年、日中戦争の2年目、国家総動員法が成立した年です。日本とソ連の軍隊が衝突した張鼓峰事件もこの年でした。無関係ながら、僕が生まれる5年前の話です(!?)
皇軍連勝の而して我が病苦の為に、依然とし意味なき生活を余儀なくせられし。昭和十三年はやがて去らんとす。病気回復の機運見え初めしを歓ぶ。一九三八・十二・十
*「饒舌館長ブログ」では、お元気な方はすべてさん付けにし、鬼籍に入られた方のみ先生とお呼びすることにしています。失礼の段、お許しください。
もちろん中西進さんの『万葉集 全訳注』<講談社文庫>は家蔵し、『万葉集』といえば必ずこれを引用するところです。しかし北原白秋の『明治大正詩史概観』は、聞いたことがあるようにも思いますが、読んだことはありませんでした。高階秀爾さんのお話をうかがいながら、これは読まなくちゃ~いかんと思ったことでした。
アマゾンで検索しましたがヒットしないので、「日本の古本屋」にアクセスすると、改造文庫の1933年オリジナル版が出ているじゃ~ありませんか。即ゲットして一気に読了しました。さすが高階さんが取り上げるだけのことはあるなぁと、心に深く残る内容でした。
ところが今年は、純然たるカントリー&ウェスタンのみ、クリスマスソングなど一曲もなく、ド派手なネクタイが締めたヤツが一人、浮き上がっている感じでした(笑)
それでも去年に続いて、飛び入りタイムにはゴードン・ライトフットの名曲「アーリー・モーニング・レイン」をやらせてもらいました。ライトフットは今年の5月1日、84歳で亡くなったので、天上の彼に捧げたいとも思ったんです。
しかし緊張していたせいか、はたまた初めて持ったエレキ・アコギのせいか、ナットのあたりにピックが挟まっていることに気づかず、チョット調弦がおかしいなぁなんて思いながら、1番が終ったところでようやく気づくという大チョンボ―をやらかしたのでした(笑)
北原白秋『明治大正詩史概観』<改造文庫>(改造社 1933年)
このたび高階秀爾さんが日本学賞を受賞されました。改めておめでとうございます!! 日本学賞は、『万葉集』研究の権威にして元号「令和」の発案者とされる中西進さんが、日本学研究を発展深化させるべく立ち上げた一般社団法人・日本学基金が選考授与する賞だそうです。授与式のあと、高階さんの受賞記念講演がありました。いつもながらにきわめて示唆的であり、ワクワクしながら拝聴いたしました。
高階さんは、北原白秋の『明治大正詩史概観』<岩波文庫>と中西さんの『万葉集 全訳注』<講談社文庫>を手に取りながら、お話を進められました。
難しいバンジョーの爪さばきもパーフェクトだったし、カントリー・ヨーデルもヨー出るのに――これは柿沼幸雄君の秀逸なるダジャレ――、チョット惜しいなぁと思いましたが、みずから潔く決めたことに感を深くしました。
そして病気を三重苦と明るく笑い飛ばしなら、子供のときから大好きだったカントリー&ウェスタンを傘寿まで続けてきた木村君に、「人生の達人」という真率なるオマージュを捧げたいと思わずにはいられませんでした。
去年は「赤鼻のトナカイ」から始まって、「きよしこの夜」に終わるクリスマス・ライブという感じでした。そこで僕は、今回ド派手なクリスマス柄のネクタイを締めて出かけたんです。 ウケ狙いもあったかな( ´艸`)
去年の今ごろ、日比谷高校同窓生の木村泰輔君が結成しているカントリー&ウェスタンのトリオ、テネシー・ベアーズのライブを東銀座のライブハウスMR.OLDIESに聴きに行きました。すぐ「饒舌館長ブログ」にアップしたように思います。今年も招待がきたので、日比谷の仲間と出かけました。
木村君は50年以上このトリオで演奏し、歌ってきましたが、これを機にテネシー・ベアーズを卒業することに決めたとのこと――最後に彼の挨拶と感謝の辞がありました。重いバンジョーがこたえるようになったことと、病気を3つもやったことから、卒業を決断したそうです。
黄山谷「黄幾復に寄す」
僕は北海・徳平鎮 君は南海・広州に……
雁に手紙を頼んだが それは出来ぬと断られ
かつて桃李の春風に 吹かれて酒を酌み交わし
灯下に聴いてる夜の雨 今や別れて十年が……
家は四方の壁だけで 他になんにもないけれど
今さら世渡り勉強し 出世せんとは思わない
きっと君なお本の虫 髪の毛白く 瘴気しょうき立つ
谷のカズラにぶら下がる 猿の鳴き声聞くならん
「五馬図巻」の終りには黄山谷の跋文が付いています。僕は黄山谷の書が大好きです。一緒に出ていた「伏波神祠詩巻」(永青文庫蔵)のような、力強く、ノビノビとして、個性的な黄山谷の字はたまりません。
これに較べると、当然のことながら跋文の字は緊張して書いているような感じがしましたが、さすが黄山谷だと思わせるものでした。その翻刻は、板倉聖哲さんが編集した『李公麟 五馬図』(羽鳥書店 2019年)を参照していただくことにして、ここでは忘れがたき黄山谷の七言律詩「黄幾復に寄す」を、またまた戯訳で紹介し、責をふさぐことにしましょう。
11月9日、國華清話会の秋季特別鑑賞会が行なわれました。午前中の繭山龍泉堂「青瓷昇華」展に続いて、午後は根津美術館をお訪ねし、キューレーションを行なった板倉聖哲さんの講演を聴いたあと、「北宋書画精華」を拝見いたしました。会員の皆さんと一緒でしたが、さすがの饒舌館長も黙してただ眺めるばかりでした。
ヤジ「結構しゃべってたじゃないか!!」
そうだったかもしれません。最後5番目の馬「満川花」は、清の乾隆皇帝が題賛において指摘して以来、李公麟の筆ではなく、補筆といわれてきたそうですが、板倉さんも背中の描線が単調で、うまくないというお話でした。そこで僕は、天下の名画の前で「板倉さん、それじゃ~貴兄が描いてみせたらいいんじゃないの!?」なんて、チャチャを入れたのでした(笑)
李公麟は西域から北宋皇帝に献じられた「汗血馬」を凝視し、写生し、浄写したのでしょう。しかし僕は、かの兵馬俑や、唐三彩や、章懐太子墓壁画の馬を思い出さずにはいられませんでした。「五馬図巻」が描かれたのは1090年ごろだそうですが、それよりずっと早く、馬の造形は完成の域に達していました。
そしてバージョンアップが重ねられてきました。このような馬の造形における、中国の長くすぐれた歴史を無視することはできないでしょう。李公麟といえども、その子孫の一人なんだと思います。それを知ることによって、李公麟の天才ぶりも、「五馬図巻」の素晴らしさも、いよいよ際立つことになるんじゃ~ないでしょうか。
そのひとつ、北宋を代表する画家・李公麟の幻の真作「五馬図巻」(現・東京国立博物館蔵)が2018年、約80年ぶりに姿を現しました。これを好機として、日本に伝存する北宋時代の書画の優品を一堂に集める展覧会を開催します。アメリカ・ニューヨークのメトロポリタン美術館から、李公麟の白描画の基準作といえる「孝経図巻」も特別出品されます。北宋の書画芸術の真髄に迫る日本で初めての展覧会です。
「僕の一点」は、もちろん李公麟マボロシの真作「五馬図巻」ですね。言葉を失います。鳥肌が立ちます。目頭が熱くなってきます。李公麟――またの名を李龍眠――が天から与えられた画才に、ただ首を垂れるのみです。
一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。 日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して 100 周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮...