とくに1994年、「光琳と能」なる拙文を書いたとき、もっとも重要な光琳作品として「夢中富士図」を取り上げました。もちろん実見はしていませんでしたが、小さな図版だけは知られていたんです。
田中一松編『光琳』(日本経済新聞社 1959年)に挿図として載り、山根有三先生が「光琳年譜について 余禄そのⅠ」のなかで考察されていたからです。その後、小林太市郎先生がかの有名な評伝「光琳と乾山」(『世界の人間像』7 1962年)において、挿図とともに小林流解釈を発表されました。
とくに1994年、「光琳と能」なる拙文を書いたとき、もっとも重要な光琳作品として「夢中富士図」を取り上げました。もちろん実見はしていませんでしたが、小さな図版だけは知られていたんです。
田中一松編『光琳』(日本経済新聞社 1959年)に挿図として載り、山根有三先生が「光琳年譜について 余禄そのⅠ」のなかで考察されていたからです。その後、小林太市郎先生がかの有名な評伝「光琳と乾山」(『世界の人間像』7 1962年)において、挿図とともに小林流解釈を発表されました。
本邦初の辞典がここに誕生したんです。しかも日本語のあとに、すぐれた英訳がついているから便利です。便利なだけじゃ~ありません。日本語と英語における視覚文化へのアプローチが意外に異なっていることが浮彫りになり、おのずとわが国視覚文化の特質といった問題へ導かれることになります。この質...
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