とくに1994年、「光琳と能」なる拙文を書いたとき、もっとも重要な光琳作品として「夢中富士図」を取り上げました。もちろん実見はしていませんでしたが、小さな図版だけは知られていたんです。
田中一松編『光琳』(日本経済新聞社 1959年)に挿図として載り、山根有三先生が「光琳年譜について 余禄そのⅠ」のなかで考察されていたからです。その後、小林太市郎先生がかの有名な評伝「光琳と乾山」(『世界の人間像』7 1962年)において、挿図とともに小林流解釈を発表されました。
とくに1994年、「光琳と能」なる拙文を書いたとき、もっとも重要な光琳作品として「夢中富士図」を取り上げました。もちろん実見はしていませんでしたが、小さな図版だけは知られていたんです。
田中一松編『光琳』(日本経済新聞社 1959年)に挿図として載り、山根有三先生が「光琳年譜について 余禄そのⅠ」のなかで考察されていたからです。その後、小林太市郎先生がかの有名な評伝「光琳と乾山」(『世界の人間像』7 1962年)において、挿図とともに小林流解釈を発表されました。
最後に、山種美術館「桜 さくら SAKURA 2025 美術館でお花見!」展のチラシに刷られたコピーを紹介することにしましょう。そこにある「はらはらと散っていく儚 はかな さ」は、新渡戸稲造にならって言えば薔薇に欠けている美しさです。 暖かな陽光がさし始める春。草花が芽...
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