薩都刺「遊西湖 六首」3
黒いたてがみ栗毛駒 落花の泥濘ぬかるみ踏んでゆく
如月きさらぎみぎわの高殿に 降ってた春雨やがて止み
その雨集めて満々と 市中流れる川――夜明け
呉国の妓女がほとんどの 小舟にゃ乗っているそうな
薩都刺「遊西湖 六首」3
黒いたてがみ栗毛駒 落花の泥濘ぬかるみ踏んでゆく
如月きさらぎみぎわの高殿に 降ってた春雨やがて止み
その雨集めて満々と 市中流れる川――夜明け
呉国の妓女がほとんどの 小舟にゃ乗っているそうな
薩都刺「遊西湖 六首」2
プレーボーイは泥酔し 家に帰るの忘れるし
湖 巡った遊覧を 醒めても覚えておりません
夜は涼しく水面すいめんに 映るともし火ほの暗く
越の美人の低唱に 昇りはじめる三日月みっかづき
それでは「余杭幽勝図屏風」に書かれた薩都刺の七言絶句「西湖に遊ぶ 六首」すべてを、マイ戯訳で紹介することにしましょう。
薩都刺「遊西湖 六首」1
湧金門ゆうきんもんを潜くぐりぬけ 乗るは西湖の遊覧船
風雅を楽しむ遊客は 昔のことを思い出す
花売り娘は十八歳 水夫かこに頼んで寄せる舟
俺は船からにこやかに ポンと投げたは買花銭ばいかせん
薩都刺「酔歌行」4
時は過ぎ行き賢人も 愚者もともども死んでゆく
歌を歌おう君がため どうぞ手拍子 打ってくれ!!
理想を遂げる・のちに名を 残すことなどどうでもいい
まずは空けようこの一壷いっこ 後ろにゃ大樽 控えてる
薩都刺「酔歌行」3
はじめて知った!! 聡明が 身を滅ぼしちゃう原因だ
魯鈍のままで天性の 純朴 守ればよかったに
百年続く決まりなど 怖おそるにたらずいささかも
ただ一日の型だけの 礼儀が人を殺すのだ
薩都刺「酔歌行」2
豪華な朱塗りのお屋敷の 二十歳はたちを迎えた御曹司おんぞうし
飲んで霜降り食ってるが 古典の一字も読めません
それに引きかえこの俺は 学問するから多事多難
一家の糧かてをかせぐため 無数の憂いの巣となった
もう少し薩都刺の詩を知りたいなぁと思ったら、前野直彬先生の『中国古典文学大系19 宋・元・明・清詩集』に25首も載っていました。その「酔歌行」はいわゆる擬古楽府ですが、薩都刺が科挙に合格する前の不遇時代に詠まれた詩だそうです。
薩都刺「酔歌行」1
草ボウボウの金谷園きんこくえん お腹 空すかしていた韓信かんしん
詩人ばかりが貧乏と 決まっちゃいないさ昔から
ラッキー!! 今朝は酒がある ともかく貴兄と乾杯だ
明日もあるかは分からない 天の運命さだめにお任せだ
薩都刺「客中九日」
俺は南方ゆく行商 重陽節がやって来りゃ
あの懐かしき故郷ふるさとと まったく違わぬ菊の花
隣にゃ酒屋があるけれど 菊酒 買う銭ぜに毫ごうもなし
一人「登高とうこう」吟ずれば 腸 断つ思いが胸に満つ
原詩には「一度の孤吟」とあるだけですが、きっと杜甫の「登高」だったと思います。薩都刺の出身はよく分からないようですが、吉川幸次郎先生は回教徒部族の出身だという説を紹介しています。もっとも、じつは漢人だったのに、時世に適応するためわざと外国人風の名を名乗ったという陰口も、『至正直記』という本には書かれているそうです。薩都刺先生も生きていくのが大変だったんだなぁと、チョッと同情したくなります(笑)
「僕の一点」は、ほぼ1世紀ぶりに展示されることになった「余杭幽勝図屏風」(個人蔵)ですね。これまた真にすぐれた美術の素晴らしさを、言葉で表現することは不可能であるというブールクハルトの名言を思い出させてくれる傑作です。
この屏風の左隻には、漢詩が三首、大雅の筆によって書かれています。しかし大雅自詠の詩ではありません。薩都刺さつとら(薩天錫)の七言絶句「西湖に遊ぶ六首」から、大雅が選んで書いたんです。
薩都刺は元代の有名な文人にして詩人ですが、僕は吉川幸次郎先生の『元明詩概説』<中国詩人選集第2集>によって5首に親しむだけでした。そのなかの一首は、薩都刺も酒仙詩人だったことを教えてくれます。いや、単に祝いの菊酒が買えないという意味なのかな(笑)
幼い頃から神童としてその名を知られた大雅は、当時中国より新たに紹介された文人文化に深い憧れを抱き、かの地の絵画を典範とした作品を数多く描きました。一方で自然の光の中で描くことで培った抜群の色彩感覚と大らかな筆致、そして彼がこよなく愛した旅で得た経験によって、本場中国とは異なる、日本人の感性に合致した独自の文人画を創り上げたのです。
本展では、大雅が描いた作品の中から、山水画を中心とする代表作をピックアップして展示いたします。特に大雅が憧れた瀟湘八景、西湖といった中国の名勝と、自身がその足で訪れた日本の名所とを比較しながら、そのたぐいまれなる画業の変遷を追います。
出光美術館「生誕300年記念 池大雅――陽光の山水」<3月24日まで>
去年は1723年に生まれた日本文人画の雄・池大雅の生誕300年という節目の年でした。それをことほいで刊行した『國華』1530号<池大雅特輯>については、すでにアップしたところです。これに続いて、待ちに待った出光美術館の「生誕300年記念 池大雅――陽光の山水」がいよいよ開幕となりました。何しろ、長年にわたって池大雅を研究してきた出光佐千子館長が、満を持して放つ大・大雅展――僕が言うところの研究展覧会です。
しかしご覧になる方は、大雅が生み出した陽光の山水を、大雅と同じような虚心坦懐のうちに楽しんでほしいなぁと願っています。いや、これは出光館長の願いでもあるんです。みずから執筆したカタログ巻頭論文のタイトルが、「体験する風景――陽光の画家・池大雅の楽しみ方」となっているんですから!! そのカタログから「ごあいさつ」の一部を紹介しておきましょう。
しかし一歩会場に入ったら、そんなことにとらわれる必要は毛頭ありません。一瞬で心惹かれた作品だけを、自分の眼で見つめ、自分の心で感じればいいんです。そもそも光悦芸術と法華信仰の関係なんて、実証することは不可能なんです。寅さんなら、「それを言っちゃ~おしまいよ」と言うかもしれませんが(笑)
僕が訪れた日は、割とゆっくり拝見することができました。しかし、もっと多くの美術ファンに見てほしいなぁと思わずにはいられませんでした。いま「琳派」は大変人気がありますから、内容はそのままにして「琳派と本阿弥光悦」とタイトルだけを変えれば、もっとキャッチーになったでしょう。それじゃ~羊頭狗肉じゃないかと非難されるなら、テニオハを変えて「琳派の本阿弥光悦」とか「琳派は本阿弥光悦!!」はどうでしょうか? けっして嘘じゃ~ないんですから(笑)
「本阿弥光悦の大宇宙」は絶対おススメの特別展です!! 畏友・松嶋雅人さんを中心に、東京国立博物館のキューレーターが総力を結集して作り上げた特別展です。しかも音声ガイドのナビゲーターは天下の中谷美紀さん、いや、僕の大好きな中谷美紀さんなんです。いかに東京国立博物館が力を傾けて準備したかを物語っています。
とくに今回は、光悦が篤く信仰した法華宗と法華町衆社会にも照明が当てられています。その重要性を主張し、文章にも書いてきた饒舌館長として、こんなうれしいことはありません。
あるいは明後日、18日(日)のNHK総合テレビ「日曜美術館」を見ていただくのもおススメです。原一雄プロデューサーのみごとな演出によって、本阿弥光悦の人間と芸術がはっきりとした焦点を結ぶはずです。イメージと音声で、光悦の天才振りを知ることができるでしょう。つまり心と頭で、光悦の素晴らしさに触れることができるはずです。
今回はとくに光悦の書が重点的に取り上げられると思います。もしカットされなければ僕も登場するはずですから、その饒舌に耳を傾けてください。あぁ成る程と、よく腑に落ちることでしょう。
ヤジ「結局、オマエが出る番組の宣伝をしているんじゃないか!!」
「僕の一点」には、改めて本阿弥光悦と俵屋宗達のコラボ傑作「鶴金銀泥下絵三十六歌仙和歌巻」(京都国立博物館蔵)を取り上げることにしましょう。今回は全巻一挙公開!! ただ黙って覗きケースに沿い静かに歩を進めましょう。それが最高の鑑賞法です。心で感じてください。余計なことを考えることは一切不要です。
しかし、それじゃ~何となく心もとないと思う方は、帰宅してから河野元昭編『光悦 琳派の創始者』(宮帯出版社 2015年)を、これまた静かにひもといてください。そして僕の「光悦私論」に目を通してください。とくに「金銀泥下絵和歌巻」の章を読んでください。今度は頭でその素晴らしさを理解することができるでしょう。
ヤジ「結局、オマエの本を宣伝しているんじゃないか!!」
東京国立博物館「本阿弥光悦の大宇宙 始めようか、天才観測。」<3月10日まで>
日本のレオナルド・ダ・ヴィンチとたたえられる本阿弥光悦の大展覧会です。もっとも「レオナルド・ダ・ヴィンチ」を持ち出すと、すぐツッコミを入れる方がいらっしゃりそうですから、今風に天才的アート・ディレクターと言い換えることにしましょう。しかし「天才的」にも即ツッコミが入るかな(笑)
琳派展では最初に必ず登場しますが、光悦にだけスポットライトを当てた展覧会は、2013年秋、五島美術館で開かれた特別展「光悦――桃山の古典――」以来のことでしょう。このときは僕も講演をやらせてもらいましたが、10年前はまだ「口演」なんて自称していませんでした(笑)
古田さんはこの「厚木六勝」を調査するにあたり、ハーバード大学のユキオ・リピットさん、メリッサ・マコーミックさんの協力を得たと、感謝の辞を捧げています。これも僕にとって大変うれしいことでした。リピットさんは僕が東大で教えていたときの留学生、マコーミックさんは彼のベターハーフだからです。
かくして「游相日記」と「厚木六勝」を加えてしゃべった「渡辺崋山ベストテン 饒舌館長口演す」も無事終了です。提唱した感情移入アインフュールングによる崋山鑑賞法に対して、僕もハッとするようなすばらしい質問が最後に出たところをみると、皆さん興味をもって聴いてくださったんじゃないかな? 新キャッチコピー「口演もゆかりの土地で!!」が実証されたような気分になり、帰宅してやった「ハイランドパーク」が殊のほかうまかったこと!!(笑)
もちろん崋山もソク快諾、3人で出かけると「雨降晴雪」「仮屋喚渡」「相河清流」「菅廟驟雨」「熊林暁烏」「桐堤賞月」を「写真」したのでした。そして翌日、崋山は鐘助の求めに応じ、これを浄写して贈ったのです。
この浄写本は戦前まで伝えられてきたことが確認されるのですが、その後行方不明になってしまいました。ところが畏友・古田亮さんが、ハーバード大学美術館に収蔵されていることを発見し、2017年『國華』1457号に発表してくれたんです。最初に古田さんからこの大発見を聞いたとき、「ホンマかいな」と驚いたものでした。古田さんが指摘するとおり、崋山における真景図と文学的趣向を考える上で、きわめて重要な連作なのです。
かくして早川村に近い小園村の百姓・清蔵と結ばれ、5人の子どもを授かって幸せに暮らしているお銀さまと、安堵と涙の対面を果たし、役目を無事終えた崋山でした。その夜は崋山が泊まっていた万年屋に、手習いの師匠・斎藤鐘助と医者の唐沢蘭斎が呼ばれてやってくると、長唄や三味線がうまいこの地の商人も加わって、飲めや歌えで大いに盛り上がったのでした。
翌日はこの鐘助と蘭斎の案内で、厚木六勝を見て回ることになりました。鐘助は瀟湘八景からでもヒントを得たのでしょう、早く「厚木六勝」を選んでいたので、実際にそこへ行って絶景を描いてほしいいと崋山に懇望したのです。
このカタログが「游相日記」の完全複製になっているんです。口演では「これがたったの310円!! こんなお買い得商品はほかにありませんよ!!」と、宣伝にこれ努めたことでした(笑)
「游相日記」の内容は、この令和版複製にお任せすることにしましょう。これにもテキストは翻刻されていますが、それだけではチョッとむずかしいので、ぜひ芳賀徹先生の『渡辺崋山 優しい旅びと』(朝日選書296)を併せ見ていただきたいと思います。
かつて先生から献呈の辞とともに頂戴した、この名著を今回もひもときました。そして「忘れえぬ人々――『游相日記』」の章を再読すれば、崋山・お銀さま再会のシーンに、またまた涙滂沱ぼうだたりとなってしまいました。けっして後期高齢者になり、涙腺がゆるくなったせいじゃ~ありません。
12
そのとき崋山が書き残した絵入り旅行記が「游相日記」です。この日記の原本は、関東大震災のさい烏有に帰してしまいましたが、ラッキーなことにその5年ほど前、稀書複製会によりファクシミリ版が作られ頒布されていました。今やこれも貴重書で、僕も持っていませんが、先の『崋山全集』にテキストだけは翻刻されているので、もっぱらこれを使ってきました。
ところが今回、あつぎ郷土博物館に口演でお邪魔すると、ショップで「游相日記」の令和版複製が売られているじゃ~ありませんか。『令和2年度特別展示図録 優しい旅びと――『厚木六勝』と『游相日記』――』というカタログがそれです。
この三宅友信のお母さんが、11代藩主康友の側室であったお銀さまでした。お銀さまは友信を生んで1年ほど経つと、故郷である厚木の早川村に帰っていきました。それから4半世紀ほどが経ち、友信は実母を探し出し、近くに住まわせて親孝行なるものをしてみたいと思い立ったのです。そして崋山に実母探索を命じたのです。
ちょうど友信の側室・お磯の方との間に、*太郎しんたろうという長男が生まれたので、それが契機になったのではないかと芳賀先生は推定されています。当時崋山が、三宅家の家譜を編纂するよう藩主から命じられていたので、それとの関係を疑う説もあるようです。なお、*は「個」から「古」を取っちゃったような珍しい字で、「信」の古字だそうです。
詳細は本書をお読みいただくとして、摂津麻田藩が財政的に困窮し、伊予宇和島藩から養子を迎えるに際し、持参金を当てにしていたことを教えてくれます。当てにしているなんてものじゃ~ありません。一銭でも多く取ろうとして、懸命になっているんです。摂津麻田藩の窮状に対する同情を通り越して、まるでドタバタ喜劇を見ているようなおもしろさです。
おそらく田原藩も同じだったのでしょうが、麻田藩の場合には、本当に男子の跡継ぎがいなかったんです。持参金付き養子は珍しくなかったのでしょうが、田原藩においては持参金だけが目的だったように感じられてなりません。崋山が強硬に反対し、友信擁立派の先頭に立ったのは、やはりあまりにもミエミエだったからでもありましょう。
さすがの芳賀徹先生も、「このような持参金めあての縁組をするというのはしばしばあったことなのかどうか、私は詳らかにしないが……」とお書きになっています。もちろん僕が詳らかにするはずもありません。
そこで大森映子さんの『お家相続 大名家の苦闘』(角川選書368)には言及されているだろうと思ってページを繰ると、やはりありました。「第3章 養子をめぐる大名家の諸相」のなかの「養子洗濯の駆け引き――攝津麻田藩と伊予宇和島藩」です。
本書は幕府に対する無届けや年齢詐称、当主や嫡子の入れ替えなど、じつに愉快なお家相続の実態を教えてくれます。しかし僕が一番興味深く感じたのは、幕府がその実情をよく知りながら、まったく黙認していたという事実でした。
しかし、多額の持参金こそ田原藩を今の窮状から救ってくれるのだ、それ以外の途はありえないとする現実主義が勝利を収めることになります。とはいえ、友信をずっと指導していた崋山には、彼のすぐれた才能と真率なる人柄が、よく分かっていたことでしょう。そうだとすれば、友信擁立は単に大義名分や東洋の仁義だけでなく、彼に対する人間的信頼に基づいていたことになります。
つまり友信と崋山は、現実主義の前に一敗地にまみれたわけです。佐藤昌介『渡辺崋山』(人物叢書)によれば、敗者となった友信は城内藤田丸に、崋山は藩校成章館に事実上軟禁されました。そのため崋山は一時自暴自棄におちいって、連日飲酒にふけったそうです。
「崋山先生、ヤケ酒は一番体に悪いんですよ!!」
なぜそんなことをしたのでしょうか? 酒井家が用意してくれる持参金が目当てだったんです。もともと貧乏藩だったところに、幕府から一ツ橋門番を命じられ、田原藩の財政は破綻したのも同然でした。「貧すれば鈍す」というヤツです。
重臣たちの危機感も分からないではありませんが、これに猛然と異をとなえ、東洋における正しい家系継承を主張し、三宅家の血を受け継ぐ友信を推したのが崋山でした。もちろん崋山一人ではありませんでしたが、友信擁立派の先頭に立ったのが崋山でした。崋山には藩主一家に対する絶大な恩義がありました。
13代康明には子どもがありませんでしたから、お母さんが異なるとはいえ、康明の弟であり三宅家の正しい血筋を引く友信――当時22歳になっていた友信が、康明のあとを襲うのが正しく、継嗣の道にかなうことでした。そもそも三宅家は南朝の忠臣・児島高徳を祖とし、由緒正しき伝統を誇る家柄だったのです。それがここで絶えてしまうことを崋山は悲しく思ったのです。
ところが田原藩の重臣たちは、姫路藩15万石酒井雅楽頭忠実うたのかみただみつの六男である稲若(実宣みつのぶ)に白羽の矢を立てました。彼を養子として迎え入れ、田原藩を継がせることにしたんです。
『崋山先生略伝』は崋山の伝記を調べるとき、もっとも重要な資料の一つですが、友信の師・崋山に対する尊敬の念に触れて目頭があつくなります。今回改めて『崋山全集』(崋山叢書出版会 1941年)を書架から引っ張り出し、付録として収められる『崋山先生略伝』を読みましたが、一点の曇りなき師弟関係にむしろ羨望を覚えたのでした。
先の11代康友のあと、康友の子の康和が12代、その弟の康明が13代を受け継ぎますが、文政10年(1827)7月、康明が弱冠28歳で急になくなってしまいます。病のためだったそうです。
天保2年(1831)9月20日、39歳の崋山は、弟子の高木梧庵をつれて厚木へ4泊5日の旅に出ました。それはお銀さまを探す旅でした。お銀さまというのは、三宅友信の本当のお母さんです。友信は崋山が尊敬して止まなかった主人であり、また学問を教えた弟子でした。崋山が仕えた田原藩藩主三宅家の第11代は三宅康友でしたが、その側室お銀さまとの間にに生まれたのが友信でした。
友信は崋山より13歳若年でしたが、崋山にとっては主君にも等しい人であり、学問のみならず、広く生き方を教えた愛弟子でもあったんです。主従と師弟がクロスするような関係にあったわけですが、両者の肝胆相照らすような関係は、崋山の言動からも、明治に入って友信が著わした『崋山先生略伝』からもよく分かります。
一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。 日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して 100 周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮...