ついでながら李白「月下の独酌」にちなみ、『雲萍雑志』の著者とされてきた柳沢淇園の詩から、二日酔いが詠み込まれた一首を、入矢義高先生の『日本文人詩選』(中公文庫)からマイ戯訳で……。
西域由来のザクロの実 洛陽名物 有[あり]の実を
描いて贈らんハナムケに 旅路の無事を祈りつつ……
酸いと甘いのメタファーが この絵のなかに隠れてる
喉をうるおし二日酔い 醒ましてほしい君だけが
西域由来のザクロの実 洛陽名物 有[あり]の実を
描いて贈らんハナムケに 旅路の無事を祈りつつ……
酸いと甘いのメタファーが この絵のなかに隠れてる
喉をうるおし二日酔い 醒ましてほしい君だけが
李白「月下の独酌」
酒壷 抱えて花の下 独り友なく飲んでたが
名月のぼり盃[はい]挙げりゃ 自分の影と三人だ
だが月 酒を飲むでなし 影 俺のまま動くだけ
「月さん 影さん 付き合えよ!! こんな楽しみ春だけだ」
歌えば月はユラユラと…… 踊れば影はフラフラと……
醒めてるうちは楽しいが 酔えばおたがいサヨウナラ
「飲み友達だ いつまでも!! 銀河のかなたでまた会おう!!」
いいなぁ!! 実にいいなぁ!! 李白1000首のベストワンは、何と言ってもこれでしょう。だからこそ、『中国詩人撰集』<李白>上・下の上巻劈頭に据えられているんです。マイ戯訳もケッコウうまくいってるかな(笑) 6句目は字面のままに訳しましたが、李白の真意を思いやれば、「微醺のうちは楽しいが 酩酊すればサヨナラだ」ということになるかな?
岩波文庫版『雲萍雑志』の表紙にはチャンと「柳沢淇園著」となっているのに、偽書とか仮託だなんて羊頭狗肉じゃないか――などといったら、森先生に対して失礼かな(笑)
それはともかく、僕は「影法師問答の文」に関する岡戸さんのお話を、荘子胡蝶の夢や、江戸川柳「荘子のは夢が花野をかけ廻り」を思い浮かべながら聞いていました。あるいは老荘に惹かれていた李白の「月下の独酌」を反芻しながら、耳を傾けていました。
つまり「影法師問答の文」には、老荘的観念が強く働いているように思われたのです。『雲萍雑志』の本来の著者は、老荘思想や道教趣味の持ち主であったかもしれません。そこで「月下の独酌」を、またまたマイ戯訳で……。
○飲酒の十徳 礼を正し、労をいとい、憂いをわすれ、鬱をひらき、気をめぐらし、病をさけ、毒を解[げ]し、人と親しみ、縁をむすび、人寿を延[の]ぶ。
『雲萍雑志』は古くから柳沢淇園の著作ということになっており、森銑三先生の校訂を経て岩波文庫に収められています。しかし先生の解説を読むと、淇園の著作ではなく、江戸後期の雑学者・山崎美成が、筆者不詳の随筆に柳沢淇園の名を冠して出版した偽書、あるいは仮託の書であった可能性が高いとのことです。
これはインスタグラムの誕生を予言した言葉としてときどき引用されますが、岡戸さんの発表と関係づければ、もっと深い意味を読み取ることもできるように感じられたからです。つまり、現代ではあらゆるものの「真」つまり本質が求められている――しかしそれは写真と同じで、いくら求めてみても本質の幻影にすぎないのだ……。
蘇東坡「湖上に飲めば初め晴れ後雨ふる」
水面[みなも]の光キラキラと…… 天気がよければ素晴らしく
ぼおっと翳[かげ]る山の峰 雨降りゃこれまた得も言えず
もしも西湖を絶世の 美人の西施にたとえれば
バッチリメイクと薄化粧 どっちもいいのとよく似てる
谷文晁の「影絵 文晁夫妻像」に蘇東坡の文章が引用されていることも紹介されました。ところでコーヒー・ブレークのあとは、慶應義塾大学・遠山公一さんの「イタリア・ルネサンスにおける陰影」と題する発表で、そのコメンテーターは小佐野重利さんでした。小佐野さんからは、喬仲常筆「後赤壁賦図巻」(米国・ネルソン&アトキンス美術館蔵)の第1段に、地面に映った蘇東坡一行の影を描いたシーンがあるという報告がありました。
これらを聞いて僕は、大好きな蘇東坡の詩が光と影の魅力に富んでいることをとても興味深く感じました。その代表的一首は、かの西湖の美しさをたたえた「湖上に飲めば初め晴れ後雨ふる」でしょう。
これはマイ暗唱漢詩ですので、またまた音吐朗々とやろうと思いましたが、時間が押していたので止めることにしました(笑) でもチョット残念だったので、戯訳だけをここにアップしようと思います。蘇東坡先生が光と影だけじゃなく、酒と色にもなっちゃっているところが愉快です(笑)
しかし岡戸さんの発表を聞いているうちに、いろいろな妄想(!?)が湧いてきたので、急遽それを中心にコメントすることにしました。たとえば、手影(指でキツネの形などを作り障子や壁に映して遊ぶ遊戯)は近代になって西洋から入ってきたものですが、それが日本でも子どもの遊びとして大変流行したそうです。
これに対して僕は、渡辺京二さんの『逝きし世の面影』が伝えるような一つの「文明」、つまり子供天国とたたえられるような子どもをいつくしむ社会が、流行の背景があったのではないかとコメントしたのです。手影がたくさん教科書に採用されたことは否定できないとしても……。
A 近衛家煕『槐記』(享保14年<1729>4月13日条)
宗達ガ画ハ影坊子ヲウツシ得タルモノナリト云、尤モノコトナリト仰セラル
B 菊岡沾涼『近世世事談』(享保18年<1733>)
光琳絵 此流はしやうじにうつるかげを見て、書いだせしものなり
C 富田景周『燕台風雅』(寛政3年<1791>)
田原屋宗達、字伊年、金沢に匏系すること四、五年なるべし。其の子宗説<説一に雪に作る>亦来寓す。公、宗説に命じて金城竹殿に画かしむ。相伝う、此の時生竹を伐り取り、之れを燭前に立て、夜、其の竹影に倣い、之れを写すと云う。
いつもながら、刺激に富む発表でしたが、とくに静嘉堂文庫美術館の英一蝶筆「朝暾曳馬図」が取り上げられていたので、大変うれしくなりました。この一蝶の傑作も、この間「江戸のエナジー」展に出陳されました。出陳されたどころじゃ~ありません。企画した吉田恵理さんは、円山応挙の「見立て江口の君図」とともに、この企画展のメインイメージに選び、これをもってイントロダクションを構成したんです。
岡戸さんの発表に対してコメントを加えるのが僕の役割でしたが、チョット荷が重かったので、許された20分で勝手に私見を述べようと思い、画像と簡単な資料を用意して臨みました。
たとえば、おそらく岡戸さんは取り上げないだろうと予想し、次のような俵屋宗達や尾形光琳など琳派の「影法師」を資料に盛り込みました。
ストイキツァ『影の歴史』は、岡田温司さんの翻訳が出ているそうですが、僕が持っているのは英語のペーパーバックです。したがって持っているだけで、ほとんど読んじゃ~いないんです(笑)
続いて早稲田大学の岡戸敏幸さんが「19世紀日本の『影法師』――遊戯・写真・追慕――」と題して発表を行ないました。先日「饒舌館長」に「追悼 大久保一久さん」をアップしたとき、大久保一丘の「真人図」に関するすぐれた論文を発表している研究者として紹介しましたが、むしろ岡戸さんのライフワークは、「影の日本美術史」だといってもよいでしょう。上掲の写真は、岡戸さんが企画したサントリー美術館特別展「影絵の十九世紀」(1995年)のカタログーー今や古典的名カタログの表紙です。
今年の東京美術講演会は、コロナ禍のため入場制限をかけざるを得ませんでしたが、たくさんの方々にリモートでご参加いただきました。総合テーマは「影の美術史」と、早くも一昨年の初めに決まっていました。本当は去年このテーマで開催することになっていたのですが、コロナ禍のため、1年延期することになったからです。
まず総合司会の高階秀爾さんが、キーノートスピーチを行ないました。西洋美術史では、影――シャドーがきわめて重要な研究テーマになっており、ストイキツァの『影の歴史』、バクサンドールの『影と光』、ゴンブリッジの『影』といった名著があることを紹介されました。
10月28日、赤坂の鹿島KIビルで、今年の鹿島美術財団東京美術講演会が開かれました。改めて説明するまでもありませんが、鹿島美術財団は1982年創立され、美術の研究助成、出版助成、国際交流助成、美術講演会などを通して、美術の振興と日本文化の発揚を目指す公益財団法人です。
学術部門を主導する高階秀爾さんと、運営部門を総括する専務理事・高橋司さん(上掲写真)のもと、来年の40周年をめざして、エネルギッシュな活動を日々続けています。去年は長年にわたる文化的貢献が高く評価され、メセナアワード2020メセナ大賞を受賞するという栄誉を忝くいたしました。実をいうと、饒舌館長もお手伝いをさせてもらっているんです。ほんのチョットだけですが( ´艸`)
もっとも、ウィキペディアのお陰で、先日お亡くなりになった瀬戸内寂聴さんの小説『女優』が、嵯峨美智子をモデルにしたものであることを、はじめて知りました。嵯峨美智子は世の常識にとらわれない、破天荒ともいうべき女優でしたから、寂聴さんはみずからを重ね合わせつつ筆を進めたのかもしれません。
しかし、あえて宗理の美的特質を挙げるならば、かつて安田剛蔵先生が著書『画狂 北斎』(有光書房 1971年)で指摘した「白痴美」ということになるでしょう。『広辞苑』に「整ってはいるが、表情に乏しい女の、一種の美しさ」とあるその「白痴美」です。先生は次のように述べています。
女の顔の描写は一見北斎宗理を想わせるが、熟視すると同一でない。北斎宗理描く女の顔はいつでも新鮮澄明で、すがすがしく、姿態は変化に富み健康的かつ活動的であるのに対し、この宗理描く一連の女の姿態は一定化していて、且つ何となく病的である。……この宗理の描く美人の表情は白痴美と評すべきであろう。
菱川宗理と真顔は親しかったらしく、ほかにも真顔の賛をもつ宗理画が報告されていますが、本図のバージョンに、柳亭種彦[りゅうていたねひこ]の詩賛を有する「美人愛狗図」(静嘉堂文庫美術館蔵)があります。これは明らかに『源氏物語』に登場する女三の宮の見立て絵になっています。この間「江戸のエナジー」展で見ていただいた方も少なくないことでしょう。
菱川宗理の美人画様式は北斎宗理ときわめてよく似ており、筆力も非常にすぐれていて、ほとんど区別がつかない場合があります。事実、かの楢崎宗重先生も、戦前出された名著『北斎論』では、この「娘に猿図」を葛飾北斎の作品とされているのです。
菱川宗理の事跡については、かつて追悼の辞を捧げた永田生慈先生が「宗理考」(『國華』1062号)において明らかにしていますが、それによると文政元年(1818)ごろ没したようです。
「娘に猿図」には狂歌師・鹿都部真顔[しかつべのまがお]が「振袖をなぶるは何か見しきゝし人にいはざるやうにたしなめ」という狂歌賛を加えています。仏教における重要な三つ要素を三匹の猿に託して教えた伝教大師の見ざる・聞かざる・言わざるをもじって、娘の秘めた恋をからかっているようです。
これにならって有名な画題「猿猴捉月」ならぬ「猿猴捉裾」から解釈することもおもしろいでしょう。水に映る月影と女性の美しさは所詮はかないものだという寓意であるというのが、饒舌館長の独断と偏見です( ´艸`)
葛飾北斎の弟子として活躍した浮世絵師・菱川宗理の彩管になるこの「娘に猿図」は、肉筆浮世絵の蒐集に情熱を傾けた氏家武雄氏のコレクションを代表する優品として、古くから高く評価されてきました。間もなく出る『國華』1513号に、饒舌館長が改めてこれを紹介することになりました。
葛飾北斎は一時期、初代俵屋宗理の跡を継いで「宗理」を名乗り、いわゆる宗理型美人に健筆を揮います。たとえば寛政9年(1797)に出版された狂歌絵本『柳の絲』は、かの「冨嶽三十六景」<神奈川沖浪裏>のプロトタイプを示す「江嶋春望」を含むことでよく知られますが、この落款も「北斎宗理画」となっています。しかし北斎は、寛政10年(1798)冬のころこの号を門人の宗二に譲ってしまいます。これすなわち菱川宗理です。
いずれにせよ、ティツィアーノやコローの場合には、多かれ少なかれ、写実的描写と深く結びついていましたが、東洋の指墨や指頭画においては、むしろ写実から――東洋画論の言葉を使えば「形似」から距離を置くことが目指されていたように思います。じつに興味深いことじゃ~ありませんか!!
ブッチャケをいえば、このような美術史的伝統や意義なんかはどうでもよく、単にコローが大好きなんです。あの「銀灰色」とたたえられる色調のうちに生み出される風景画――本当の自然のように見えながら、実はきわめてイリュージョニスティックなコローの風景画に対して、どのようなオマージュを捧げればよいのでしょうか。
コローはフランス・バルビゾン派の画家ですから、フランス人が大好きであることは言うもでもありません。しかし、それ以上にアメリカ人が愛して止まないそうですね。だからこそ、高階秀爾さんから教えてもらったあのジョークが生まれたのでしょう。
「コローの真筆は3000点ある。そのうちの5000点がアメリカにある‼」
キューピットの足の陰影や、そのキューピットが手を置く壷のグラデーションなどを、右手の人差し指で巧みにつけていました。ときどき薬指や小指も使っていました。もちろん基本的な描写は画筆で行なうのですが、指を使わなければ、とてもうまくコピーできないといった調子でやっていました。
そして一段落すると、鏡を持ち出して自分のコピーを映し、出来具合を確かめているんです。この鏡に映して確認するというのも、伝統的なやり方なのでしょうか?
鏡はともかく、洋画指頭技法の伝統が、いまだに生きているんだと、とても興味深く感じられるとともに、また妙に感心したものでした。もっともその時は、まだティツィアーノだけで、コローのことを知りませんでしたが……。
円山応挙や伊藤若冲から田窪恭二さんの障壁画まで、よくぞこれだけパリまで運んだものだと驚くような展覧会でしたが、チョット空き時間ができたので、やはりルーブル美術館へ出かけました。
そこでとてもおもしろい光景に出くわしたんです。スキンヘッドの若いアーティストが、大きなイーゼルを立てて、 あまり有名とはいえないイタリア・バロックの画家、ピエトロ・ベレッティーニの「ヤコブとレイバンの契り」という作品を模写していました。
大きな縦長画面の空の部分はカットして、人物の場面だけを原寸大で横長キャンバスに、しかもポリクロームの原画をモノクロームで、つまりグリザイユでコピーしていました。後ろで見ていると、この画家は盛んに指を使ってぼかしを入れているんです。
この事実を大変おもしろく感じた僕は、20年近く前「大雅指墨試論」なる拙文を書いたとき、註にこれを引用したのでした。大雅の指頭画とはまったく無関係でしたが……(笑)
その後コローもこれを使っていたことを知ったのですが、今回「魚を運ぶ釣り人」を見て、やはり本当だったんだと確信することができたんです。僕が目視で確認しただけですので、あるいは間違っているかもしれませんが、今や光学的調査を施せば、簡単に判明することでしょう。
さらに愉快なのは、ティツィアーノやコローの伝統が、いまも生きていることなんです。2008年秋、パリのギメ美術館で「讃岐金比羅宮障壁画展」が開かれ、ほんのわずかお手伝いした僕にも招待状が来ました。
東洋画には、指墨とか指頭画とかいって、指や手のひらや爪に墨をつけて描く技法があります。今回コローも相似た技法を使っていたことを確認することができて、とてもうれしくなったんです。もっとも、ルネッサンス・ヴェネツィア派最大の画家ヴェチェルリオ・ティツィアーノが指頭技法を用いていたことは、辻茂先生の世界美術全集8『ティツィアーノ』(集英社 1978年)を読んで知っていました。
ティツィアーノに学んだパルマ・イル・ジョーヴァネが、師の技法を伝えているそうです。それによれば、ティツィアーノは最終的な仕上げの段階に達すると、指でハイライトから中間色へぼかすことや、人物を生き生きとさせるため、指で少しアクセントをつけることを行なっていたんです。その段階では、筆よりも指で描かれることの方が多かったというのです。
もちろん、玄関に合うからといって「僕の一点」に選んだわけじゃ~ありません。理由はその表現技法にあります。釣り人の背中にちょっとホワイトが加えられているのですが、それが夕日の反射を的確に現わしていて、とても効果的なポイントになっています。
しかしそのホワイトをよく見ると、筆触がほとんど感じられないのです。僕は「これだっ!!」と思いました。というのは、2012年秋、江戸東京博物館で見た特別展「維新の洋画家 川村清雄」のカタログ解説を思い出したからです。それによると、川村清雄はパリ留学時代に、晩年のコローをアトリエに訪ねたことがありました。そのときコローが、木の葉の描写に筆を使わず、親指に絵の具をつけて描いていたことや、アイボリーブラックを好んで使っていたことを語っているそうです。
「魚を運ぶ釣り人」に見られる背中のホワイトは、コローが最後に指先で加えたものに違いないと思ったんです。
僕も発表するよう招聘を受け、はじめて訪れるイスラエルという国に期待をふくらませ、本場であのイスラエル・ワインが味わえるんだとワクワクしていたのですが、折悪しく騒乱が起こり、無期延期となってしまいました。
「僕の一点」は、フランス・バルビゾン派を代表する画家カミーユ・コローの「魚を運ぶ釣り人」ですね。東洋でいえば「寒江独釣図」といった感じの絵で、たそがれ時の雰囲気がとてもよく表現されています。小ぶりな画面で、これなら我が家の玄関にもピッタリです。今回メイン・イメージに使われているクロード・モネの「睡蓮」も素晴らしいのですが、我が家の玄関にはチョット大きすぎます。
ヤジ「オマエの玄関に合うかどうかなんて、誰も訊いていない!!」
三菱一号館美術館「印象派・光の系譜――モネ・ルノワール・ゴッホ・ゴーガン――」<2022年1月16日まで>
先日、三菱創業150年記念展「三菱の至宝」をつつがなく終えた三菱一号館美術館で、特別展「印象派・光の系譜――モネ・ルノワール・ゴッホ・ゴーガン――」が開かれています。イスラエルのエルサレムにあるイスラエル博物館が所蔵する、インプレッショニスムの<饒舌館長おススメ展>です。
さすが神が支配する国イスラエルだと感じさせるコレクションです。神が集めたのではないかと思わせるほどクオリティーが高く、しかも見ていると何となく敬虔なる気持ちになってくる絵が多いから不思議です。
残念ながら、イスラエルには行ったことがありません。5、6年前でしょうか、アメリカの有名な日本絵画コレクターであるカート・ギターさんのコレクション展が、このイスラエル博物館で開かれることになり、それに併せて国際シンポジウムが計画されました。
多くの匠[たくみ]や農民が ともに残留したために
今に至るも日本の 器物工芸みな精巧
唐の時代にゃ貢物 持ってしばしば遣ってきた
地位ある人はほとんどが 詩も文章も巧みなり
徐福が日本へ行ったのは 焚書坑儒がやられる前
だから本土にゃない『書経』 百篇そろって遺るはず
こちらじゃ所持さえ厳禁で 伝えることも許されず
ゆえに蝌蚪文字[かともじ]読める人 一人もおらず中国に
孔子が編んだ聖典を 持っているのは異民族
♪海は広いな 大きいな♪ その港にも近づけぬ
それを思うと胸痛み 涙こぼれる ひとりでに
錆びちゃう刀ーーそんなもん 比べられるか!! 聖典と
西のえびすの昆吾国[こんごこく] はるかに遠く行けやせぬ
玉さえ切れるその名刀 見た人はゼロ 噂だけ
ところが最近日本の すごい宝刀現れた
越の商人[あきんど]買ったのは あおうなばらの東の地
香りよき木でできた鞘[さや] それに鮫皮[さめがわ]貼ってある
黄金[こがね]の真鍮 銀白の 銅のこしらえ見事なり
大金払った好事家の 大コレクションに加わった
これを差してりゃ凶運も 妖怪さえも逃げていく
大きな島国 土地は肥え 風俗すぐれていると聞く
秦の徐福は人たらし 日本へたくさん連れってた
仙薬探して全国を…… やがて子供も老人に……
おもしろいことに、新法党の王安石も、これに反対する旧法党の蘇東坡も、ともに欧陽脩のお弟子さんでした。
欧陽脩はさすが文人士大夫、中国では失われてしまった孔子の『書経』が日本には伝わっているにちがいないと、羨望のまなざしを向けています。日本刀はそのマクラとして引き合いに出されるだけですが、当時、中国でも日本刀がとても高く評価されていたことが分かります。
もっとも、日本刀がすぐれているのは、中国から渡った人々が作り始めたからだというところ、「欧陽脩よ お前もか!?」という感じで、ちょっと微笑を誘いますが……。
しかし、完成された日本刀は、そのような高度な技術や複雑な工程を微塵も感じされることなく、あくまで端整であり、清純であり、そして簡潔なのです。だからこそ、日本刀は日本文化のシンボリックな存在として、燦然たる光輝を放ち続けてきました。そして日本文化再評価という世界的潮流の中で、これからますます光り輝くことになるでしょう。
ここで中国・北宋の欧陽脩(1007~1072)の「日本刀の歌」を、岩波版『中国名詩選』から、例のごとく僕の戯訳で紹介することにしましょう。
欧陽脩は唐宋八大家の一人、仁宗・英宗・神宗の三代に仕えた政治家であり、また学者にして詩人でした。かつて書いた拙文「田能村竹田の勝利」では、竹田が王安石の新法に反対した蘇東坡を尊敬し、みずからをなぞらえようとしていたのではないかという仮説を提出しました。
一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。 日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して 100 周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮...