2024年12月31日火曜日

サントリー美術館「儒教のかたち」8

しかるに忠孝という語の如きは、日本民族がシナ語を用いる以前にいかなる語で表わしていたかが殆ど発見しがたい。 孝を人名としては、「よし」「たか」と訓むが、それは「善」「高」という意味の言葉であって、親に対する特別語ではない。忠も「ただ」と訓むのは「正」の意味で「まめやか」という義に訓するのは、親切の意味でこれも君に対する特別の言葉ではない。一般の善行正義というようなほかに、特別な家族的なならびに君臣関係の言葉としての忠孝ということが、すでに古代にその言葉がなかったとすれば、その思想があったか否やが大なる疑問とするに足るではないか。これは単に、目前に知れ易き例を挙げたのであるが、すべての文化的現象が、いずれもかかる関係にあるのではないかという疑いを発し得る。忠孝という語は、日本民族がシナ語を用いる以前に如何なる語で表わしていたかが、ほとんど発見しがたい。

 

2024年12月30日月曜日

サントリー美術館「儒教のかたち」7

 

 たとえばここに忠孝という事がある。忠孝という名目はもちろんシナより輸入した語であるが、忠孝という事実は元来日本国民が十分に具えていて、自分が所有せるものにシナから輸入した名目を応用したものということに解釈しようとする傾きがある。しかしながらこれを根本より考えてみると、すでに国民がもっておった徳行の事実があり、しかしてまた他方に固有の国語がある以上、なにかその事実に相当した名目がなければならぬはずである。 ここに数を算えるにも日本人は今日ではシナより輸入した文字なり、音なりで一、二、三、四というごとき語を使用するが、しかし現にその輸入語のほかに固有の国語である一つ二つ三つ四つというものをもっている。(略)

2024年12月29日日曜日

サントリー美術館「儒教のかたち」6

これは渡辺京二先生の『逝きし世の面影』が伝えるような、幕末明治期における自由にして溌剌とした子供たちとごく自然な人間的親子関係――彼らがいう「子供天国」の基底を考える際、とても重要なヒントになるように思われました。

その前提となるのが、「忠孝思想を強く押し出すことも儒教の特色とされる。人間関係の基本を家族関係と君臣関係と見、前者の間では親に対する孝、後者の間では君に対する忠を要求するのである」という指摘でしょう。

これを読んで僕は、先の小田野直武と同じく秋田に出た内藤湖南の『日本文化史研究』<講談社学術文庫>(1976年 初版1924年)にみる忠孝論を思い出しました。湖南先生にはチョッと反論したい気持ちもわいてきますが……。

 

2024年12月28日土曜日

サントリー美術館「儒教のかたち」5

このシンポジウムは2年後、高階秀爾監修『江戸のなかの近代 秋田蘭画と《解体新書》』(筑摩書房 1996年)という一書にまとめられましたが、以上3つが僕の儒学体験ということになります。体験というにはお恥ずかしいような体験ですが……。

 この「儒教のかたち こころの鑑」展カタログ巻頭には、早稲田大学名誉教授の土田健次郎さんが「儒教とは何か」を寄稿、とても分りやすく解き明かしています。そのなかで僕がもっとも興味深く感じたのは、「中国では子の親への一方的献身が強調されるが、日本では同時に親の子への慈愛も要求する傾向があるとも言われる」という一節でした。これが日本儒教における性格の一つだというのです。

 

2024年12月27日金曜日

サントリー美術館「儒教のかたち」4

 

いまは亡き高階秀爾先生がコーディネートされたシンポジウム「日本近代のあけぼの」が、秋田県角館町で開かれたのは平成6年(1994)秋のことでした。この年は角館出身の洋風画家・小田野直武が挿絵を担当した『解体新書』が刊行されてからちょうど220年の節目にあたっており、町を挙げての記念事業が行なわれました。その一つとして本シンポジウムが企画されたのです。

僕は「江戸絵画と客観主義」という口頭発表を行なったのですが、そのなかに「画論と朱子学」という一項を立てたんです。かくして、儒学の一体系である朱子学を勉強しなければならないというハメに陥りました。しかし難解でよく分らず、けっきょく武内義雄先生の『儒教の精神』<岩波新書>を頼ることにしたんです( ´艸`) 


2024年12月26日木曜日

サントリー美術館「儒教のかたち」3

 僕にとっての儒教は、高校時代の漢文から始まったような気がします。いま清田清先生の『新講 漢文解釈』(金子書房 1956年)を、書架から引っ張り出してきたところです。「文法篇」に続く「応用篇」の最初はもちろん『論語』で、「学而時習之」以下、14項目も立てられています。本書は漢文の副読本であり、また受験参考書でもあったのですが、その後現在に至るまで、65年間もお世話になるとは夢にも思いませんでした() 

少し真面目に『論語』を読み、儒教的勧戒図について調べたのは、研究室の紀要に「探幽と名古屋城寛永度造営御殿」上・中・下なる拙文を書いたときで、もう42歳になっていました。不惑を越えたのに惑いつつ書いた「馬のションベン」みたいな随論でしたが、この「儒教のかたち こころの鑑」展カタログを開くと、図版解説の参考文献として挙がっているじゃ~ありませんか。老いの身にもうれしくないはずはありません。

 

2024年12月25日水曜日

サントリー美術館「儒教のかたち」2

中世になると、宋から新たに朱子学 (南宋の朱熹しゅきが確立させた新しい儒教思想)が日本へ伝わり、禅僧たちがそれを熱心に学んだことから、儒教は禅宗寺院でも重要視されました。そして近世以降、文治政治を旨とする江戸幕府は、儒教を積極的に奨励し、その拠点として湯島聖堂を整備します。 江戸時代を通じ日本各地で、身分を問わず武家から民衆、子どもに至るまで、その教育に儒教が採用され、広く浸透していったのです。

例えば、理想の君主像を表し為政者の空間を飾った、大画面の「帝鑑図」や「二十四孝図」が制作された一方で、庶民が手にした浮世絵や身の回りの工芸品の文様にも同じ思想が息づいています。それらの作品には、 当時の人々が求めた心の理想、すなわち鑑かがみとなる思想が示されており、現代の私たちにとっても新鮮な気づきをもたらしてくれます。本展が、『論語』にある「温故知新」(ふるきを温たずねて新しきを知る)のように、日本美術の名品に宿る豊かなメッセージに思いを馳せる機会となれば幸いです。

 

2024年12月24日火曜日

サントリー美術館「儒教のかたち」1

 

サントリー美術館「儒教のかたち こころの鑑 日本美術に見る儒教」2025年1月6日迄                           

 サントリー美術館で特別展「儒教のかたち こころの鑑 日本美術に見る儒教」が開催中です。先日はゆっくり鑑賞できましたが、この「饒舌館長ブログ」がアップされるとそうもいかなくなるかな( ´艸`) 先ずは狩野探幽の優品「桐鳳凰図屏風」(サントリー美術館蔵)が表紙を飾るカタログから、「ごあいさつ」を掲げて展覧会の趣旨を知ることにしましょう。

儒教は、紀元前6世紀の中国で孔子が唱えた教説と、その後継者たちの解釈を指す思想です。孔子が唱えた思想とは、五常 (仁・義・礼・智・信)による道徳観を修得・実践して聖人に近づくことが目標であり、徳をもって世を治める人間像を理想としています。このような思想は、仏教よりも早く4世紀には日本へ伝来したといわれ、古代の宮廷で、為政者のあるべき姿を学ぶための学問として享受されました。

2024年12月23日月曜日

東京国立博物館「はにわ」13

 本展のプロローグには「リアルな造形とはかけ離れており、世界的にも珍しい。その『ゆるさ』を象徴するのが東京国立博物館の代表的な所蔵品の一つである『埴輪 踊る人々』だ」とあります。そのとおり!! 現代の埴輪人気が「ゆるキャラ」ブームと密接な関係があるように、「リアルな造形」じゃ~ないんです。同じころの中国は北魏時代、その北魏仏が見せるリアリズムと比べると、とくに埴輪のゆるキャラ性(!?)が際立つことになります。

これこそ日本的美意識の原点なのではないでしょうか。岡倉天心は東京美術学校講義録『日本美術史』において、日本美術の特質を7つ挙げていますが、その一つは「仏教の哲理により唯心論に傾き、写生を離れて実物以外に美の存在を認む」というものでした。

さすが天心先生です。確かに埴輪は、「写生を離れた実物以外の美」を象徴しているといって過言ではありません。しかし天心先生、おかしいじゃ~ありませんか。「仏教の哲理により」とおっしゃいますが、埴輪は仏教が伝来するずっと前に生まれ、そして作られているんですよ!!


2024年12月22日日曜日

東京国立博物館「はにわ」12

君王の霊魂の一部が、残された人々の生活を見守り、幸福へといざなってくれるとなれば、埴輪は君王のためばかりではなく、自分たちのためでもあったのです。しかも分霊のなかに、災いをなすものがあるとされていたというのです。依代を作り、そこに悪霊やもののけが乗り移ってくれることを祈念したとすれば、それは君王のためというより、ほとんど自分たちのためであったといっても不可ないでしょう。

このようにして埴輪には、君王の霊魂が乗り移る依代と、その君王の黄泉国における生活の担保という、重層的「作られた意味」があったという私見に立ち至ったのです。これはあくまで本居宣長の死生観にのっとったものですが、30余年を費やして大著『古事記伝』を完成させた宣長、そして何より僕が尊敬して止まない宣長ですから、ゼッタイ間違いないと思います。

  ヤジ「12回まで付き合ってきたが、ヤッパリ独断と偏見だな!!

 

2024年12月21日土曜日

東京国立博物館「はにわ」11

 

 人は死後黄泉国へ行くが、この世に残る分霊わけみたまもあるというのがポイントです。しかも偉業をなした人の霊魂は、とくにいつまでもこの世に残るというのです。ここに「埴輪が作られた意味」に対する重要な示唆が宿っているように思います。

宣長死生観にしたがえば、黄泉国での生活がこれまでどおり何不足なく、つつがなく送れるように、現世と同じ物や動物や人物を造形化しようとするのは、当然だったのではないでしょうか。それは現世で用いた物、世話になった人物の代用だったのです。先に、殉死代用説の「代用」に注目してみたいといったのはこのためなのです。

また分霊がこの世を浮遊しているとすれば、依代を作って差し上げようとする心理も、素直に理解されるのではないでしょうか。しかも古墳に埋葬される人間は、この世で功業を成し遂げた指導者――君王だったのです。


2024年12月20日金曜日

東京国立博物館「はにわ」10

本居宣長の基本的死後観である黄泉国よみのくに説は、たいへん有名である。すなわち「世の人は、貴きも賎しきも善も悪きもみな悉く死すれば必ずかの予美の国にゆかざることを得ず」と言う。このように、死ねば皆汚れた暗いイメージをもつ黄泉国へ行く他ないから、死ぬほど恐ろしいことはない、という主張である。……宣長は『古事記伝』の中で、死ねば皆御魂は黄泉国へ行くが、この世に残る御霊(分け霊みたま)もあると述べている。この世ですぐれた功業をなした人間の霊魂は神と同様に、この世にいつまでも残る。また、一般の人々の霊魂もほどほどに留まるという。……要点をまとめたい。①死後の霊魂は黄泉国へ行く。しかし霊魂の一部は、②この世に留まり現世の生活を見守り、この世の人間の幸福を助け、災いをなすものもある。③先祖の御魂祭りの意義を積極的に認めている。

 

2024年12月19日木曜日

東京国立博物館「はにわ」9

古代人の死生観を考えようとするとき、非常に示唆的な一冊があります。それは 安蘇谷正彦という研究者の『神道の生死観 神道思想と<死>の問題』(ぺりかん社 1989年)です。安蘇谷氏は江戸時代における代表的な6人の神道家を取り上げ、一人ずつその死生観――氏は生死観と呼んでいますが――を詳細に分析しています。

直接古代人の死生観を探ろうとするのではなく、江戸時代の神道家をとおして考察しようとするのです。これは素晴らしい方法だと思います。現代人が直接探求しようとすれば、どうしても現代的解釈に陥ってしまいます。江戸時代のすぐれた神道家をとおして、古代の死生観を考えようとするのは、理にかなったメソッドではないでしょうか。

もちろん彼らも江戸時代的観念の影響を受けるわけですが、若干とはいえ古代に近く、しかも真摯に死生の問題を考えた神道家ばかりです。そのなかで僕の腑にもっともよく落ちたのは、やはり本居宣長の死生観でした。安蘇谷氏は次のように結論を下しています。

2024年12月18日水曜日

東京国立博物館「はにわ」8

というわけで、「埴輪が作られた意味」は不明というか、定説がないということになります。しかし主要な二つの意味が、重層的に組み合わされていたというのが私見です。とくに埴輪群像の場合ですが……。先の諸説から引っ張ってくれば、霊魂依代説と霊界用具説を重ね合わせたような考え方です。依代用具説とでもいったらよいでしょうか。

古代人の死生観を考えた場合、これが一番よく馴染むように思われるからです。それでは、古墳時代人の死生観とは一体どんな観念だったのでしょうか。「それは分らない」というのが正解だと思います。もの言わぬ遺品から、想像しなければならないのです。後世編集された『日本書紀』や『古事記』があるのみ、一次文字資料は皆無なのです。そこでこれまた、さまざまな古代死生観が考え出されることになりました。

 

2024年12月17日火曜日

東京国立博物館「はにわ」7

とはいえ、殉死と無関係であったとしても、埴輪には何かの代用という性格があったと読み替えれば、この説話を無下に捨て去ることはできないように思いますが、いかがでしょうか。

この垂仁天皇殉死代用説が否定されるとともに、たくさんの「埴輪が作られた意味」が考え出されました。さまざまな付帯条件には目をつむり、僕が勝手につけた名称も交えて列挙すれば、柴垣模倣説(玉垣説)、土留め説、仮面説、呪術説、葬列表現説、霊界用具説、霊魂依代よりしろ説、殯もがり(殯祭ひんさい)、誄しのびごと(誄辞るいじ)、王権継承儀礼説、芸能説、マツリゴト再現説(被葬者回想説)ということになります。

詳しく知りたい方は、増田精一『埴輪の古代史』(新潮社 1976年)や白石太一郎「埴輪の世界」(講談社版『日本美術全集』1 1994年)、和田晴吾『古墳と埴輪』(岩波書店 2024年)がおススメです。

 

2024年12月16日月曜日

東京国立博物館「はにわ」6

天皇は、これをたいそう喜ばれ、野見宿禰に詔して、「おまえの適切な処置はまったく私の気持にかなった」と仰せられた。そこで、その土物を、はじめて日葉酢媛命の墓に立てた。そしてこの土物を名づけて埴輪はにわという。あるいは立物たてものとも名づけた。そこで命を下して、「いまより以後、陵墓にはかならずこの土物を立てて、人をば損そこなってはならない」と仰せられた。

  僕の口演だと、ここで「ジンムスイゼイアンネイイトクコウショウコウアンコウレイコウゲンカイカスジンスイニン……」とやるところですが()、この垂仁天皇殉死代用説は早くに否定され、いま支持する考古学者はいないようです。埴輪の発展をかえりみると、人物埴輪が登場するのは古墳時代の後期に過ぎないのに、『日本書紀』では最初に人物埴輪が作られたように書かれているからです。こんな重要なことが、『古事記』ではまったく無視されているからです。

  *途中で根津美術館に寄り道をしましたが、また東京国立博物館に戻ろうと思います。




 

2024年12月15日日曜日

根津美術館「百草蒔絵薬箪笥と飯塚桃葉」10

 

若冲水墨画の傑作「野菜涅槃図」(京都国立美術館蔵)に奇妙な野菜が描かれています。毛むくじゃらのジャガイモみたいな野菜ですが、これが「百草蒔絵薬箪笥と飯塚桃葉」展に出陳中の「写生画帖 菜蔬」(高松松平家歴史資料)に描かれていたんです。

「黄独」と題されていましたが、脇に「かしう」と書かれていました。『広辞苑』やネットで調べると、「かしうかしゅう」は漢字で何首烏、ツルドクダミの漢名でその塊根を強壮薬や緩下剤とするそうです。「何首烏」の漢名が「黄独」だそうですが、この写生画帖には「唐土産する所の黄独頗る此れに類す」とありますから、まったく同じではないようです。

若冲が「野菜涅槃図」に描いたのは何首烏なのか、黄独なのか分かりませんが、別に何首烏藷かしゅういもなるオイモがあるようです。「野菜涅槃図」なら漢方の何首烏や黄独ではなく、オイモの何首烏藷の方なのかな?

2024年12月14日土曜日

根津美術館「百草蒔絵薬箪笥と飯塚桃葉」9

 

安永4年(1775)の刊行ですから、「貝類標本」が本当に蒹葭堂旧蔵であったとすれば、この年以前に今の形が出来上がっていたのではないでしょうか。「奇貝図譜」といいながら、考証だけで挿図が一つもないことが不思議でしたが、木村探元と木村蒹葭堂の木村つながりであったことも不思議でした()

僕は逗子海岸で適当な貝殻を拾ってくると、箸置きとして愛用しているのですが、写真はそのベストスリーです。ところが蒹葭堂旧蔵「貝類標本」のなかに、このベストスリーをしのぐとてもいい貝殻が一つあったんです。我がコレクションに加えたいなぁと思ったことは、言うまでもありません()

2024年12月13日金曜日

根津美術館「百草蒔絵薬箪笥と飯塚桃葉」8

 

科学を科学のままとせず、すぐに文学化してしまう我らが趣向に、とても興味を掻き立てられたことを思い出します。そういえば蒹葭堂旧蔵「貝類標本」も、科学の美術化だったといえるかな?

もう一つ思い出すのは、武田薬品の杏雨書屋で木村探元関係資料を調査したとき、ついでに見せてもらった木村蒹葭堂著『奇貝図譜』ですね。後題箋には「奇貝図譜」とありましたが、見返しには「南伎散能当万なぎさのたま」とありました。あとで『国書総目録』をみると「貝よせの記」で立項してあり、読みやすく「奈伎左なぎさの玉」とも書かれること、また複製本があることも分りました。

2024年12月12日木曜日

根津美術館「百草蒔絵薬箪笥と飯塚桃葉」7

 

ここで思い出したのは、これまた半世紀近くまえ京都四条河原町の丸福商店で見た「源氏貝」です。蒹葭堂旧蔵本と同じような貝の標本ですが、その趣向がじつにおもしろいんです。箱を区画して本物の貝を入れ、それを覆う紙も同じように罫線で区切り、そこに貝の名と『源氏物語』の帖名を書き込んであるんです。例えば細長いタケノコガイを笛に見立て、これを「横笛」の帖にあてるというように……。誰ですか、こじ付けじゃないかなんて言ってるのは?

ほかに「歌仙貝」もあって、これには歌仙が詠んだ歌まで書いてありました。このほかにも同じ趣向のものがあったように記憶していますが、丸福の方は明治時代に作られたものだろうとおっしゃっていました。

2024年12月11日水曜日

根津美術館「百草蒔絵薬箪笥と飯塚桃葉」6

 

 もう半世紀近くも前のことですが、『若冲/蕭白』<日本美術絵画全集>の図版解説を書いたことがあります。編集チーフの辻惟雄さんから回してもらったのですが、忘れることができない仕事の一つです。もちろん「貝甲図」も辻さんがリストアップされていましたから、若冲は貝殻のコレクションを持っていたのかもしれないなどと書いたんです。

しかしその後、この蒹葭堂旧蔵「貝類標本」を図版で見る機会があり、若冲はこのような標本に触れていたのかなと思いましたが、今回じっくりながめているうち、そうにちがいないと確信するようになったんです。もちろんあくまでこの種の標本ですが……。

もしそうなら、奇想幻想空想の画家若冲も、やはり江戸中期本草学や博物学、広く実証主義的精神の落し子ということになりますね。いや、鬼子かな()

2024年12月10日火曜日

根津美術館「百草蒔絵薬箪笥と飯塚桃葉」5

この「百草蒔絵薬箪笥と飯塚桃葉」展は、伊藤若冲を考える際にもおもしろいヒントを与えてくれる特別展でした。たとえば木村蒹葭堂旧蔵の「貝類標本」(大阪市立自然博物館蔵)です。美しい朱漆の小箪笥――その引き出しに作られた小さな区画に、394種もの貝殻が整然と並べられたさまは、標本箱なんかじゃありません。これ自体りっぱな美術品です。

 朱漆の蓋をみると、黒漆で波文を描き、本物の貝殻を貼り付けてあります。波文はみごとな「青海波せいがいは塗り」になっています。元禄ごろ江戸で活躍した塗師ぬし・青海勘七が考案したという技法です。その構成は国宝「動植綵絵」(皇居三の丸尚蔵館蔵)の「貝甲図」そっくり、このような標本工芸(!?)が若冲に霊感を与えた可能性も考えられそうです。 

2024年12月9日月曜日

根津美術館「百草蒔絵薬箪笥と飯塚桃葉」4

 

薬箪笥の蓋裏に蒔絵された百種の草花や虫が、本草マニア・頼恭に対する重喜のソンタク(!?)だったことは確かでしょう。しかし薬箪笥そのものには、義父・至央の夭折という重喜の悲しい思い出があったのではないでしょうか。

これだけの妙薬が揃っていれば、義父も助かっていたにちがいない――そんな無念が重喜に薬箪笥を思いつかせたのではないでしょうか。しかも明和8年は、義父の17回忌だったんです。厳密にいえば前年ですが……。そうだとすれば、「百草蒔絵薬箪笥」には重層的意味が込められていたことになります。その中心には、秋田から出た蜂須賀重喜がいたことになります。

 ヤジ「今回は郷土愛に駆られた独断と偏見みたいだな!!


2024年12月8日日曜日

根津美術館「百草蒔絵薬箪笥と飯塚桃葉」3

しかし秋田県人の僕としては、チョッと口惜しい――というのは、主役の座を下ろされちゃった感じの蜂須賀重喜しげよしが、もともと秋田の人間だったからです。重喜は秋田新田藩2代・佐竹義道の4男で、佐竹義居よしすえと名乗っていました。ところが徳島藩9代藩主・蜂須賀至央よしひさの末子養子(急養子)として迎えられ、10代を継ぐことになったのです。

なぜ末子養子になったのか? それは至央が宝暦4年(1754)数え年18歳で急逝、その後継者も相次いで早世してしまったためでした。松平頼恭よりたかへの還暦祝いであることは確かだとしても、巨額だったにちがいない制作費を負担したのはあくまで重喜しげよしだったのです。

重喜は明和6年に幕命により隠居していますが、家督を譲った長男・治昭はまだ12歳でしたから、実権は重喜の手にあったように思います。事実、のちに重喜はまた幕府から奢侈贅沢をとがめられているんです。この薬箪笥の制作なども含まれているのかな()

 

2024年12月7日土曜日

根津美術館「百草蒔絵薬箪笥と飯塚桃葉」2

その結果、蜂須賀家と政治的に重要な関係に結ばれていた讃岐高松藩主・松平家への贈答用として制作された可能性に到達したのです。とくに制作された明和8年は、蘭癖大名として有名で、蜂須賀家の危機を救ってくれた高松藩5代藩主・松平頼恭よりたかの還暦に当たっていました。

実際は薬箪笥が完成する4ヶ月前に、頼恭は幽明界を異にしてしまいます。それゆえにこそ、薬箪笥は蜂須賀家に留め置かれたのでしょうが、頼恭の還暦祝いであったことはほぼ実証されたといってよいでしょう。詳細を知りたい方は、『國華』1546号の永田論文か、カタログをご覧ください。元國華編輯委員としては、もちろん前者をおススメしますが()、今やその要旨だけは「國華 note」でネット検索をかければ、簡単に読むことができます。

 

2024年12月6日金曜日

根津美術館「百草蒔絵薬箪笥と飯塚桃葉」1

 

根津美術館「重要文化財指定記念特別展 百草蒔絵薬箪笥と飯塚桃葉」<128日まで>

 阿波徳島藩主・蜂須賀家伝来「百草蒔絵薬箪笥」は、徳島藩お抱え蒔絵師・飯塚桃葉とうようが明和8(1771)に制作した絶品です。このたび重要文化財に指定されたので、それをことほぐ特別展ですが、単なる記念展じゃありません。僕が言うところの研究展覧会です。

蒔絵の超絶技巧を駆使した絶品ですが、いささかも超絶技巧と感じさせることなく、きわめてシンプルに見せているところがすごい!! 複雑極まりなきものをシンプルに見せる――これも日本美術の特質であるシンプリシティーの一面なのだと、感を深くしながら堪能したことでした。

 従来、この薬箪笥は阿波徳島藩10代藩主・蜂須賀重喜はちすかしげよしがみずから用いるために、召し抱えていた蒔絵師・飯塚桃葉に命じて作らせたものと考えられてきました。しかし本特別展のキューレーションを行なった永田智世さんは、当時の蜂須賀家や博物図譜の動向を詳細に調べたのです。

 

2024年12月5日木曜日

東京国立博物館「はにわ」5


  (垂仁天皇の)皇后の日葉酢媛命ひばすにめのみことが、薨こうじられた。葬りまつるまでに日数があった。天皇は、群卿に詔しょうして、「亡きひとに殉死する方法は、前に良いことではないということを知った。いま、今度の葬礼には、どのようにしたらよかろうか」と仰せられた。

そのとき、野見宿禰のみのすくねが進み出て、「そもそも、君王の陵墓に、生きた人を埋めるのは、まことに良いことではありません。けっして後世に伝えることはできません。願わくは、いま適当な処置を協議して奏上いたしたいと存じます」と申し上げた。

そこで野見宿禰は、使者を遣わして、出雲国の土部はじべ百人を召し出し、みずから土部たちを使って、埴はにつち(赤くて粘る土)を取り、人や馬および種々の物の形を造って、天皇に献上して、「いまより以後、この土物はにをもって生きている人にかえて、陵墓に立てて、後世の法といたしたい」と申し上げた。


2024年12月4日水曜日

東京国立博物館「はにわ」4

 

そのなかには、すでに考古学界で否定された説もありますが、多くは提起されたままになっており、したがって定説と呼ぶべきものは存在しないようにみえます。つまり「埴輪が作られた意味」はまだ分かっていないのです。

かつて埴輪は痛ましい殉死を廃止するため、その身代わりに作られたと考えられてきました。これを殉死代用説と呼ぶことにしましょう。その根拠は『日本書紀』垂仁すいにん天皇3276日の条にありました。本来なら岩波版『日本古典文学体系』を掲げるところですが、頭注を読んだって、意味の半分くらいしか分かりません()  仕方がないので(!?)井上光貞編『日本の名著』(中央公論社)の現代語訳を引くことにしましょう。


2024年12月3日火曜日

東京国立博物館「はにわ」3

 

 この「ごあいさつ」にある「埴輪が作られた意味」、つまり埴輪誕生論にもっとも強い興味を掻き立てられるのは、僕一人じゃ~ないでしょう。

埴輪が円筒埴輪から形象埴輪へと発展したこと、その円筒埴輪は弥生時代後期の祭祀用壷瓶などを載せる器台――特殊器台から生まれたこと、円筒埴輪と形象埴輪を集合させて群像を作り、前方後円墳をはじめとする古墳を飾ったことなどは、発掘や調査をとおして、考古学という学問が明らかにしてきました。ほぼ定説が確定しているといってもよいでしょう。

しかし「埴輪が作られた意味」については、さすがの考古学もお手上げだったのです。いや、考古学者は頭をしぼって懸命に考えてきました。その結果、ざっと数えただけでも、10以上の「埴輪が作られた意味」が提起されることになりました。

2024年12月2日月曜日

東京国立博物館「はにわ」2

 埴輪が初めて国宝に指定されてから、今年でちょうど50年になります。 このたび、 東京国立博物館・九州国立博物館では、その国宝指定50周年と、 九州国立博物館開館20周年を記念した特別展「はにわ」を開催いたします。

今から1750年ほど前、日本では、前方後円墳をはじめとする大きな墓 「古墳」が盛んに造られました。 古墳の外側に立て並べられた素焼きの土製品は「埴輪」と呼ばれ、王をとりまく人々や当時の生活の様子を今に伝えています。

 本展では、初期の円筒埴輪から、素朴な表現の人物や愛らしい動物、 精巧な武具、家、船を模した埴輪など、 九州から東北まで約50か所から集結した120件余りの選りすぐりの至宝をご紹介いたします。 なかでも、埴輪の最高傑作といえる国宝 「埴輪 挂甲の武人」と、同一工房で製作されたと考えられている兄弟埴輪4体の合計5体が、史上初めて一堂に会します。 多彩な埴輪のかたちや魅力とともに、埴輪が作られた意味や古墳時代の人々に思いをはせながらご覧いただければ幸いです。 

2024年12月1日日曜日

東京国立博物館「はにわ」1

 

東京国立博物館「挂甲の武人国宝指定50周年記念 特別展 はにわ」<128日まで>

 はじめて僕が埴輪にまともな(?)興味を抱いたのは、7年ほど前、群馬県高崎市の保渡田八幡塚古墳で復元群像を見たときでした。それまで東京国立博物館の平常陳列などで、一体、二体とは見ていたわけですが、本来置かれていた前方後円墳という大きな人工構造物と一緒に見たことが、新たな関心を掻き立てたのでしょう。

10月からNHK文化センター青山教室で講座「魅惑の日本美術展 これこそベスト6だ!!」を始めました。これに東京国立博物館の「挂甲の武人国宝指定50周年記念 特別展 はにわ」を選んだのは、ひとえに個人的な興味からでした。聴講者の皆さん、お許しください。まずは国宝の挂甲武人――といっても、あどけない少年みたいな顔が表紙を飾る立派なカタログから、「ごあいさつ」を掲げて本特別展の趣旨を知ることにしましょう。

『漢詩花ごよみ』春9

  款冬花(蕗の薹 ふきのとう )――中唐・張籍「賈島に逢う」 遊楽原の青龍寺 たまたま見つけたフキノトウ   寺 出て漢詩を口ずさみ 歩めば沈む夕日かげ   都大路を一面に 白く染めたり名残り雪   馬蹄 ばてい パカパカここを去り どっかの飲み屋に繰り込もう ...