2017年6月30日金曜日

静嘉堂「曜変天目」6


これはみな、虹をすばらしい吉祥、美しい気象と考えていたことの証拠となるでしょう。僕の経験でいえば、上海には虹橋国際空港があって、何回か利用したことがあります。もし縁起の悪いものとのみ考えられていたら、国際空港に「虹橋」などという名前をつけることは絶対にないでしょう。

しかし、聞一多が指摘するような虹をよくないものとする思想が同時にあった事実、しかもそれがかなり強かった事実を見逃すわけにはいきません。

しかしわが国において、虹を不吉視することはなく、むしろその美しさを素直にたたえてきました。山本健吉の『基本季語五〇〇選』によると、虹を詠んだ古歌は非常に少ないそうですが、そこに引かれた三首は、みな虹をすばらしい気象としているように思われます。 

村雲のたえまの空に虹たちて時雨すぎぬるをちの山のは 藤原定家

虹のたつ麓の杉は雲に消えて峯より晴るる夕立の雨   前太宰大弐俊兼

虹の立つ峯より雨は晴れそめて麓の松をのぼるしらくも 藤原親行

2017年6月29日木曜日

静嘉堂「曜変天目」5


もっとも虹蜺は龍の一種と考えられ、おめでたいものやよいもののシンボルと見なされることもあったようです。それを端的に示すのは、古代中国の五帝の一人で、尭の没後帝位に就き、徳をもって善政を行なった理想的帝王である舜の誕生にまつわる逸話です。

舜は瞽瞍[こそう]というアホな男と、その妻である握登「あくと」の間に生まれた子供ですが、あるとき握登は虹を見て孕み、舜を生んだというのです。また中国には、虹旗という虹を描いた皇帝の旗があったそうです。

漢詩に虹を詠んだものは少ないようですが、白楽天に「河亭の晴望」という五言律詩があり、『白氏文集(白氏長慶集)』巻54に載っています。僕の戯訳で紹介しましょう。 

 風向きが変わって雲が吹き飛ぶと かすみも消えて水面[みなも]あらわる

 雨も晴れ橋の形の虹が出りゃ 櫓を漕ぐごとく雁鳴き渡る

 蘇州よく治まるもわれ辞職せり 古里遠く返信も来ず

 明日重陽九月九日節句だが 菊酒注いでくれる友なし

2017年6月28日水曜日

静嘉堂「曜変天目」4


それだけではありません。中国には虹をよくないものと見なす思想があったのです。聞一多の『中国神話』(東洋文庫497)をひもとくと、「虹と美人」という項があります。

それによると、漢代以来、虹は陰陽二気の交接の象徴、邪淫のシンボルと考えられていたそうです。現在でいえば、エッチとか不倫ということになります!?

しかも漢代の『京房易伝』という本には、「妻 夫をしのげば則ち之れを見る。陰 陽に勝るの表れなり」とあるそうです。「メンドリ歌えば家滅ぶ」「メンドリ勧めてオンドリ時を作る」と似たような男尊女卑の思想ですが、それが美しい虹と結びつけられている点に興味つきないものがあります。

さらに虹は陰奔なる美人、つまりセクシーな妖婦や毒婦にたとえられ、漢儒たちは虹蜺異災論をとなえるときにその根拠としたのでした。ちなみに「虹」は雄のニジ、「蜺」は雌のニジです。聞一多はこのような思想が、『詩経』にまでさかのぼることを指摘しています。

またある百科事典によれば、古代中国では虹を不吉な現象とし、決して指差してはならぬとしていたそうです。そもそも虹も蜺も虫偏であるのは、気味の悪いものと見なされていたことを暗示しています。

本来「虫」は蛇のマムシを指す漢字だったと、『諸橋大漢和辞典』には書いてあります。また「虹」に「乱す」「乱れる」という意味があるのも興味深く感じられます。

2017年6月27日火曜日

静嘉堂「曜変天目」3


古く「窰変」「容変」と書かれるのは、現在の「窯変」のこと、また「曜」は日の光であり、また日月星辰の総称ですから、斑紋の美しさを称賛して、「窯」を同音の「曜」に変えたのでしょう。また「耀変」と書かれる場合もありますが、これも同じです。つまり「曜変天目」は「窯変天目」、それは人知の及ばざるところであり、しかもこんな窯変は天文学的確率でしか起こらなかったのだと思います。

しかし、中国の皇帝がこれを「無上の美」と感じたとしたら、東夷の国日本に輸出などするでしょうか。当然みずからの宝庫に収めたことでしょう。ここには美意識の違いがあったに違いありません。陶磁器にも完璧な美を求める中国において、こんな窯変が起こったら、それは疵物だったのです。

先の杭州曜変が出土したところの近くに、皇帝の迎賓館があったことをもって、中国でも高位貴顕の間で珍重されていたという見解もあるようですが、ちょっと疑問のように思われます。それなら、皇帝のコレクションに、つまり北京や台北の故宮博物院に収蔵されていて当然でしょう。

 

2017年6月26日月曜日

静嘉堂「曜変天目」2


黒釉の表面に多くの円い斑文が浮かび、その周囲がきらめいて星紋となり、華麗な虹彩を放つ曜変天目は、この静嘉堂文庫美術館所蔵を含めて3碗のみ、古くから稀観の神品としてたたえられ、日本だけに伝えられてきました。とくに僕が魅了されるのは、もちろん虹のごとき光彩です。古い文献に「虹彩」と書かれることがあるのもそれゆえでしょう。

先の「茶の湯の美、煎茶の美」展のとき、東洋陶磁美術館・小林仁さんに「唐物天目についての新知見」と題して、講演をしていただきました。そのスライドのなかに、まさしく虹のように写った数枚があり、それまで考えてきたことが実証されたようで、とてもうれしく感じたものでした。

2009年、西湖で有名な杭州の工事現場から、割れた状態で曜変天目が発見されましたが、原産地の中国でもこの一点だけなのです。なぜなのでしょうか。次のように僕は考えています。

2017年6月25日日曜日

静嘉堂「曜変天目」1


静嘉堂文庫美術館「曜変天目」

 現在、静嘉堂文庫美術館で開催している「かおりを飾る 珠玉の香合・香炉展」については、すでに7回に分けてアップし、「僕の一点」も紹介いたしました。その時ちょっと書きましたように、いま人気沸騰の我らが「曜変天目」――固有名詞で呼べば「稲葉天目」も香合や香炉と一緒に陳列されています。

皆さんからのリクエストがたくさん寄せられたからであって、決して客寄せパンダという意味じゃありません。若干その気味もあるかな( ´艸`)。

 僕の関心は、世界に3碗しかない曜変天目のすべてが、なぜ日本にあるのか?という点に集中しています。曜変天目の「日本限定現象」です。陶磁器としての歴史や組成、あるいはお茶文化における位置については、それぞれの専門家にお任せするしか、ほかに途はありません。絵画史専攻の僕が、口を挟む余地などまったく残されていないのです。

しかし「日本限定現象」については、ちょっとした私見があったので、それを旧「K11111のブログ」にご披露したわけなのですが、その後、新しい情報がいくつか寄せられました。それをご紹介しようというのが、今回の目的です。

しかしその前に、私見なるものを旧ブログから再録することをお許しいただきたいと存じます。「饒舌館長」から、新たにマイブログのファン?になられた方も少なくないでしょうし、これのあとに新情報をお読みいただくと、さらにおもしろいように感じられるからです。もっとも、すでに旧ブログを読んでご記憶にある方は、ここをすっ飛ばしていただいて結構です。

2017年6月24日土曜日

静嘉堂文庫美術館「珠玉の香合・香炉展」7


 酒井家は幕藩体制のなかにあって、政治的権力をふるっただけじゃありませんでした。代々酒井家には、文雅を愛するDNAが流れていました。例えば、抱一のお祖父さんにあたる忠恭も、お父さんの忠仰も、学問や芸術を愛して止みませんでした。その典型こそ宗雅で、諸芸にすぐれた才能を発揮しましたが、とくに茶道では、尾花庵宗雅と号する茶人として名をなしました。

かつて「抱一の伝記」と題する拙文を書いた時、宗雅のことも調べてみました。その際お世話になったのは、粟田添星の『茶人 酒井宗雅』という本と、根津美術館編集の『姫路酒井家の兄弟 宗雅と抱一』という立派なカタログでした。

お香をやらない僕がこの香合を使うとすれば、上等な天然塩を入れて食卓に置いておきたいなぁ!! 蓋を取った時、緑釉とお塩の白さがハッとするようなコントラストを演出してくれることでしょう。もっともすぐに湿気ちゃうかな? 

 香炉の「僕の一点」は、「俵に猫香炉」です。18世紀から19世紀にかけて作られた備前焼で、猫の目から煙が出るように穴を開けているところがミソです。これが背中や頭だったらおもしろくありません。猫ファンの僕が選ぶのですから、そのネコが実にうまく作られていることは当然ですが、先日アップした虎吉社長に何となく似ているところが、「僕の一点」になったポイントかも!? 

2017年6月23日金曜日

静嘉堂文庫美術館「珠玉の香合・香炉展」6


 香合からの「僕の一点」は、「交趾四方魚文香合」です。交趾[こうち]というのは、現在のベトナム北部の古名ですが、また中国でベトナム人居住地域を漠然と交趾と呼んだそうです。しかし交趾焼きという焼物は、ベトナムで作られたものではなく、交趾と日本を往来する貿易船で運ばれて来た焼物という意味です。実際は中国の南部、とくに福建の漳州窯で多く焼かれたと推定されています。

この香合はちょっと大振りで、全体にかかる緑釉が深みをたたえ、実に美しいのです。むしろ魚文なんてない方がいいと言いたいくらいです。

さて、このような型物香合の番付が「形物香合相撲」と題されて、安政2年(1855)に出版されているのですが、この番付自体ほとんど遺っておらず、とても貴重なものとなっています。それが静嘉堂文庫美術館には2枚もあるんです!! この2枚の番付も今回展示することにしましたので、陳列されている香合が、当時、どのように評価されていたかを知ることができます。ご自分の評価や好みと比べてみるのもおもしろいことでしょう。実を言うと、「僕の一点」はこの番付に載っていないフンドシカツギのような香合なんです!! 

美しい緑釉のほかに、この香合が僕を引きつけたもう一つの理由は、酒井忠以(号・宗雅)の遺愛品であった点にあります。これは二重の箱に収められているのですが、その外側の箱――これを外箱といいます――の蓋を見ると、裏側に宗雅の朱文瓢印が捺されているのです。宗雅はかの酒井抱一のお兄さんです。

2017年6月22日木曜日

静嘉堂文庫美術館「珠玉の香合・香炉展」5


香合は小さいという点に最大の特徴があります。もちろん、可愛らしさや馴染みやすさも香合の素晴らしさですが、それも小さいという特徴に収斂していく性格のように思われます。それは日本美術のとても重要な特質の一つです。『枕草子』にある清少納言のあまりにも有名な一句、「何もかにも小さきものはみな美しき」がすぐに思い起こされることでしょう。

イー・オリョンの『縮み志向の日本文化』に香合が登場していたかどうか、ちょっと記憶が定かじゃないのですが、もし出てきてないようでしたら、教えてあげたいですね。そして愉快なのは、その日本で愛された香合のうちに、たくさんの外国出来が含まれているという事実です。

あるいは、チェンバレンの「日本の美術は小さいものにおいて偉大だが、大きなものにおいて矮小である」という、ちょっと皮肉を込めたコメントでしょうか。だれでも知っている「山椒は小粒でもピリリと辛い」という、小さいものに対するオマージュも悪くありませんね。ともかくも、香合は日本美術における山椒のようなものです!?

2017年6月20日火曜日

静嘉堂文庫美術館「珠玉の香合・香炉展」4


この仏教と結びついたお香が古代の日本へ入ってきました。それは平安時代後期、王朝文化全盛のころに遊戯化され、僕的にいえばヒューマニズム化されました。室町時代に入ると、茶道、華道、能謡曲とともに香道が成立しましたが、もうこれは日本独自の文化であると誇ってもよいほど、ジャパナイズされた芸道となっていました。

やがて桃山時代になると、千利休により侘び茶が完成され、茶室に炉を切り、湯を沸かして茶を立てるという――お茶人には怒られそうですが――お座敷天ぷらのようなお茶が風靡します。その際生まれたのが炭手前で、そのとき用いられるお道具が炭道具ですが、当然のことながら香炉は脇役に追いやられ、香合の地位がアップすることになります。炭道具の中で、華やかにして可愛い香合は人々から深く愛され、やがて香合には特別のステータスが与えられるようになります。

だからこそ、炭手前を省略する大寄せの茶会などでは、その象徴として香合のみを床や書院に飾ることが行われるようになったのでしょう。日本人の美意識を考える際、とても興味深く感じられる現象です。あんなちっぽけなアイテムが、あれほどまでに愛おしまれ、炭道具すべてのシンボルとして機能しているからです。

2017年6月19日月曜日

静嘉堂文庫美術館「珠玉の香合・香炉展」3


これを認めた上での話ですが、仏教と結びつく前に、インドでは日常生活のなかでお香が使われていたにちがいありません。そもそも、白檀をはじめとする香木は、インドにたくさん自生していたのです。

現在は植樹して育てているようですが、古くから自然に生えていたのでしょう。これを利用しないはずはありません。しかも、インドの気候は高温で、地域によってはさらに多湿です。当然、汗をたくさんかくはずですし、悪臭も発生しやすいでしょう。

お釈迦さん誕生以前におけるインドのトイレは文字通りカワヤだったかもしれませんが、排泄物の悪臭を防ぐために、お香ほど効果的なものはほかにないでしょう。

彼らは香木を燃やして、肉の燻製を作っていたのではないかとさえ、僕は想像しているのです。このような日常生活におけるお香が、仏教に取り入れられたのであって、その逆であるはずはありません。ところで以前、『國華』社の近くにあったお洒落な和風飲み屋の「くはら」さんが僕は大好きでしたが、それは必ずトイレでお香が焚かれているからでした!? 

2017年6月17日土曜日

静嘉堂文庫美術館「珠玉の香合・香炉展」2


お香は仏教と深く結びついていました。仏教において、お香は不浄を払い、心身を清めるアイテムだったからです。我が国でも、「焼香」「香華を手向ける」「抹香臭い」といえば、その行為や状況だけでなく、お葬式やほとけ様、あるいはお寺を、つまり仏教に関係することを、みんな思い浮かべるにちがいありません。

私見によれば、荼毘――火葬も焚香と無関係ではありません。お釈迦さんを荼毘に付すとき、白檀を燃やしたからです。おそらく、その他の木に白檀を混ぜて燃したのだろうと思いますが、白檀という最高の香木を燃したのです。香を焚いて火葬にしたといっても過言ではありません。

その後、白檀を使った仏像が生まれました。これを檀像と呼ぶのですが、白檀という香木が仏教と深く結びついていた結果にほかなりません。もちろん、白檀がほとんど白色に近くて美しく、硬いので細かい彫刻が可能であり、また強い芳香のために虫に食われないという、材質としてのすぐれたメリットがあったからです。

しかし、白檀をもって荼毘に付されたというお釈迦さんの記憶を、白檀自体がもっていたのではないでしょうか。そのお釈迦さんを継ぐお弟子さんたちが、白檀をもって心身を清めたという歴史が忘却されることは、決してなかったのです。だからこそ、ヒノキやカヤを用いた檀像様彫刻が生まれることにもなったのでしょう。

静嘉堂文庫美術館「珠玉の香合・香炉展」1


静嘉堂文庫美術館「かおりの飾る 珠玉の香合・香炉展」<813日まで>(617日)

 いよいよ今日から「かおりを飾る 珠玉の香合・香炉展」が始まります。静嘉堂文庫美術館所蔵の香合・香炉のコレクションから珠玉の100点ほどを選んで、その素晴らしい世界を堪能していただこうという企画展です。目玉は、重要文化財に指定されている野々村仁清作「色絵法螺貝香炉」と、中国陶磁の至宝とたたえられる南宋官窯の「青磁香炉」です。

しかしこれ以上の人気を集めそうなのが、かの「曜変天目」――いわゆる「稲葉天目」です。すでにこの「饒舌館長」にもアップしましたが、「開運!何でも鑑定団」に第4の曜変天目が登場していらい、曜変ブームと呼んでもよいような現象が生まれています。

先日、すごい入館者数を記録して終了した東京国立博物館の特別展「茶の湯」にも、請われて前期のみお貸出ししましたが、一番の注目を集めた作品だったとお聞きしました。返却してもらったあと、しばらくお蔵でお休みいただきましたが、いよいよ本家の静嘉堂文庫美術館で見ていただく日がやってきました。「美術品は所蔵館で、地酒はその土地で」というのが僕の哲学です!? 

東京国立博物館の展示は台が高く、曜変がよく見えなかったとか、照明が弱く輝きが感じられなかったというツイートが少なくなかったと聞きましたので、わが館では台をぐっと低くしました。昨日、最終点検をしたときに、やや暗いように思ったので、館長の独断と偏見で、目いっぱいルックスを上げるよう指示しました。今回は「曜変天目」の魅力を、十二分に楽しんでいただけるものと確信しております。
 
もっとも、東博では人だかりのためよく見えなかったというツイートもあったようですが、こればかりはわが館でも対処のしようがありません。どうぞ、できるだけ早めにお出かけくださいませ!!

2017年6月16日金曜日

中村賞5




授賞式は、薬師寺食堂の大障壁画を完成させたばかりの日本美術院代表理事・田渕俊夫さんをお迎えして、にぎにぎしく行なわれました。僕は指名されるまま、選考経過を読み上げました。続いて開かれた懇親会では、田渕さんの薬師寺食堂大障壁画のお話をうかがうとともに、二人の受章者と楽しく歓談することができ、実に充実した一日となりました。


聞くと王培さんは天津出身とのことです。あの1989年、天津へ初めての一人旅を試み、百恵ファンとして百恵飯店に泊まろうとしたものの外国人のため許されなかったことや、狗不理包子<クオプーリパオズ>の本店で食べた包子がとても美味しかったこと、周恩来記念館で見た青年期の写真がすごくイケメンだったことなど、しゃべり始めたら「饒舌館長」は止まりませんでした。なぜなら、乾杯のビールのお陰で、僕のブロークン・チャイニーズがひとりでになめらかになっちゃったからです!?

*この「饒舌館長」では、幽明界を異にされた方のみ「先生」などの敬称を用い、お元気な方はみな「さん」とお呼びすることにしています。よろしくご理解のほどお願い申し上げます。
 

 

 

2017年6月15日木曜日

中村賞4


王培さんは中国出身の画家で、少数民族のミャオ族や、チベットの風俗を主要モチーフに制作を続けてきました。とくに子供の愛くるしい一瞬の表情や、自然の中で育った少女の初々しさをとらえた作品は、見るものの心に深く染み渡ります。ミャオ族はとても美的感覚にすぐれた民族で、僕も長い間、彼らが作ったお財布を愛用してきました。

並木さんは平安仏画において頂点を極めた切り金という技法を用いながら、伝統的な日本画の枠を飛び出した斬新な画風に個性を発揮しています。しかし、もともと日本絵画は工芸的性格を内包していましたから、伝統回帰というベクトルもうかがわれるでしょう。

「中村賞」は、日本の伝統的画法を受け継ぎつつ、豊かな将来性を示す次世代の画家を顕彰支援することを目的としています。これにもっともふさわしい作家として、名誉ある第6回「中村賞」を受賞することになった王培さん、並木秀俊さんを心からお祝い申し上げるとともに、更なる研鑚を胸底より念じたいと思います。

2017年6月14日水曜日

中村賞3


3回の選考委員会を経て、慎重かつ厳密な審議を重ねた結果、第6回「中村賞」の受賞者として、王培さんと、並木秀俊さんの両氏が選ばれ、満場一致をもって決定するところとなりました。いよいよ今日はその授賞式、六本木の国際文化会館で、午後2時から開かれました。

ちなみにこの場所は、静嘉堂文庫を父弥之助とともに作り上げた三菱第4代社長・岩崎小弥太の鳥居坂本邸のあったところです。この邸宅は大江新太郎の設計になる昭和の和風名建築でしたが、昭和205月の空襲で烏有に帰してしまいました。現在は京都の天才造園家「植治」こと7代目小川治兵衛の手になる緑美しき庭のみが、当時の面影を伝えています。

もっとも、その跡に建てられた国際文化会館は、前川國男・坂倉準三・吉村順三のコラボから生まれた、戦後を代表する洋風モダン建築です。最近は結婚式場としても人気があるようです。生まれ変わってまた結婚するときは、是非ここで式を挙げたいなぁ!?

 

2017年6月13日火曜日

中村賞2


僕は近世絵画史を山根有三先生に学びましたが、古代絵画史は秋山光和先生に教えてもらいました。秋山先生は青邨画伯のお嬢さんである日出子さんと結ばれました。7年ほど前、日出子さんは中村眞彦・まり子さんご夫妻とともに、財団法人・前田青邨顕彰中村奨学会を設立されました。中村まり子さんは、秋山先生ご夫妻のお嬢さん、つまり青邨画伯のお孫さんにあたります。

前田青邨顕彰中村奨学会の目的は、日本美術の発展に寄与することですが、中心となる事業に、すぐれた日本画家の育成を目指す「中村賞」があります。秋山先生ご夫妻からお声をかけていただき、僕も「中村賞」の選考に微力を傾けてきました。本来は財団の運営にももっと参加しなければならない立場なのですが、こちらは中村さんご夫妻に任せっぱなしで、恥ずかしいかぎりです。

今年、その「中村賞」が第6回を迎えました。選考にあたっては、まず選考委員会が構成され、僕もそこに加えてもらいました。これまで通り、選考対象者は日本美術院に所属し、同人、招待、初入選を除いた前途有望な作家とし、春と秋の年2回開催される院展に入選展示される作品を審査対象とすることになりました。

2017年6月12日月曜日

中村賞1


6回「中村賞」(611日)

前田青邨画伯は尊敬して止まない、そして何よりも大好きな近代画家です。かつて文化庁長官をつとめた作家、今日出海は画伯を評して、「平凡なる非凡」と言いましたが、この賛辞は、このところ名曲「東京オリンピック音頭」をふたたび耳にすることが多くなった三波春夫にこそふさわしいかもしれません!? 

僕はむしろ反対に、「意識されたしたたかさ」を画伯に感じます。「したたか」を漢字で書くと、「健か」あるいは「強か」となりますが、画伯の場合は「健か」がふさわしいように思います。「健か」と「強か」が入り混じったような感じだといってもよいでしょう。

『広辞苑』に「したたか」を求めると、第二義として「しっかりしているさま」が挙げられ、『源氏物語』「末摘花」の「御歌も、……ことわり聞えてしたたかにこそあれ」という一節が引用されています。あるいは、この感じに近いかもしれません。

画伯は「健か」かつ「強か」であり、しっかりしている――しかしそれは意識されたものであるというのが私見です。そして重要なのは、その「意識されたしたたかさ」が、画伯が大変つよい影響を受けた大先輩、横山大観にも看取されるという点です。かつて僕はあるエッセーに書いたところですが、今もこの青邨観はあまり変わっていないのです。

2017年6月11日日曜日

木村重圭・岡川聰さんと3


 

これまた岡川さんから求められるままに、このところ「聚美季題」というタイトルのもとに美術エッセーを連載させてもらっています。今回は、3月から5月にかけ、東京芸術大学大学美術館で開かれた特別展「雪村 奇想の誕生」に引っ掛けて、雪村私論と相成りました。この展覧会は、我が静嘉堂文庫美術館が所蔵する名品「白鷺図」が錦上花を添え、成功裏に幕を閉じたことでした。

今は亡き赤澤英二先生は雪村研究のリードオフマンで、その業績は『雪村研究』にまとめられています。その中にはあえて書かれなかったのだろうと思うのですが、先生から直接お聞きした実に興味深い「雪村四印叭々鳥説」があるので、その紹介を中心に書き進めました。ご興味のある方は、来月上旬発刊予定の『聚美』24号を是非お買い求めください!! 

この号の特集は「イセコレクション 世界を魅了した中国陶磁」です。僕も日頃お世話になっている伊勢彦信さんは、世界的に著名な中国陶磁コレクター、知らなかったらモグリですよ!! そのコレクションから選ばれた逸品が、すべて公開される特集とのこと、僕もワクワクしながら待っているところなのです。

ところで、その「雪村四印叭々鳥説」は赤澤先生からどこで聞いたのかって? もちろん飲み会の席ですよ!?

 

2017年6月10日土曜日

木村重圭・岡川聰さんと2


 岡川聰さんは、僕も書かせてもらったことがある美術雑誌『古美術』の編集長だった頃からのお付き合いです。7年ほど前でしょうか、何十年ぶりかで『國華』社に現われ、『古美術』のような美術雑誌をまた始めたいとおっしゃるので、失礼だけど今やったってロクなことにはならない――3号雑誌で終わるに決まっているから、やめた方が身のためですよと、老婆心ながら申し上げたものでした。

しかし岡川さんは、ふたたび湧き起ってきた編集者スピリットに突き動かされるごとく、『聚美』という美術雑誌を出し始めました。僕は求められるまま、創刊号に「応挙私論」を寄稿しましたが、内心いつまでもつかなぁなんて思っていました。ところが、僕の予想は大外れ、「愁眉」を開く結果となりました。間もなく24号が発刊されるところなのです。ひとえに岡川さんの執念と努力と人柄の賜物です。

 

2017年6月9日金曜日

木村重圭・岡川聰さんと1


木村重圭・岡川聰さんと(66日)

 木村重圭さん、岡川聰さんと夕方5時前、二子玉川駅でランデヴー――ちょっと古いかな? 信号を渡って柳小路へ迷い込み、このところ時々お邪魔している「ゆうき」さんへ……。まだ「準備中」でしたが、「よろしく」といいつつ席に着けば、ソク乾杯です。

 木村さんは僕と同じ近世絵画の研究者ですが、僕の空想的美術史と違って、きわめて厳格な実証性が木村美術史学最大の特徴です。その方法論に従って、木村さんは関西系絵師の伝記と作品に関するガッチリとした研究を次々に発表してきましたし、現在も発表を続けています。

琳派ファンの僕の立場からいえば、大阪琳派とも称すべき中村芳中の画業や伝記について教えてもらったことが、一番うれしいことでした。木村さんは総合的な『中村芳中画集』を著わし、また美術雑誌『MUSEUM』に芳中の没年や江戸下向に関する論文を発表して、この画家の全貌を明らかにするとともに、芳中は文政2年(1819)に没したことを初めて教えてくれたのです。

木村さんと僕の学風?は大いに異なるのですが、何となく気が合って、半世紀にわたり親しくさせてもらってきました。あるいは、木村さんの美しい手紙に象徴されるような文人趣味と、文人生活に対する僕の憧れとが、かすかながらも共鳴するのかもしれません。

最初に会ったのが、いつ、どこだったか記憶が定かじゃないのですが、とくに親しくなったのは、1999年と翌年の夏休み、鹿島美術財団の助成によるボストン美術館所蔵日本美術悉皆調査を一緒に行なった時でした。

京都美術工芸大学勤務時代、木村さんと岡川さんは園部まで無聊を慰めに来てくれました。その熱い友情に胸が一杯になり、いつものようにはイッパイ飲めませんでした!?

2017年6月8日木曜日

国華「田能村竹田の勝利」とエルヴィス・プレスリー9


その下には、「プレスリーが歌い語る『今夜は一人かい?』に答えてドディーが歌うバラードの佳調 イエス、アイム・ロンサム トゥナイト トゥー・ヤング 唄)ドディー・スティーブンス ビクター・ワールド・グループ ドット・レコード 定価 ¥350 発売元 日本ビクター株式会社」とあります。「プレスリーが歌い語る」とあるのは、プレスリーのとても長いナレーションが入っているからです。

現在価格¥4800はちょっと高いと思いましたが、帯のほかに歌詞カードもついているからでしょう。残り2日で入札0でしたが……。

僕が高木君と授業を抜け出し、日比谷へプレスリーの「GIブルース」を見に行ったのは、高校2年生の時でしたが、そのころ巷では”Are You Lonesome Tonight?”が流行っていました。この映画の中でも使われていたような気がします。

ドディーのアンサーソングが流行ったのは、そのすぐあとでした。いや、少しあとだったかもしれません。いずれにせよ、すべては高校時代の懐かしい思い出です!! 「田能村竹田の勝利」から、まったく関係のない話になってしまいましたが!?

 

2017年6月7日水曜日

国華「田能村竹田の勝利」とエルヴィス・プレスリー8


 以上を書き終わったあと、試みにヤフー・オークションで「ドディー・スティーブンス」を検索してみました。そうしたらあったのです! しかもこのアンサーソングのドーナツ盤が!! ジャケットは今や懐かしいジュークボックスの前で、男の子が「どれをかけようかなぁ」といった風情で選曲に迷えば、脇に立っている女の子が、イントロの流れ出す一瞬を心にときめきを感じながら待っているというシーンです。

もちろん、男の子も女の子もアメリカ人です。その真ん中が白抜きになっていて、「イエス、アイム・ロンサム トゥナイト 唄)ドディー・スティーブンス」と、曲名と歌手名が印刷されています。その右側に帯がついていて、そこにドディーのポートレートがアップされています。

2017年6月6日火曜日

国華「田能村竹田の勝利」とエルヴィス・プレスリー7


 雲にかくれる山中に すぐに草庵建てるべし
 残りの人生ぬすみつつ しばし辺りを逍遥せん
 丘に立つ松 月の影 半ば開いた窓暗く
 いわおの桂 風の中 あたり一面よい香り
 白い襖に書く詩には 古き篆書がよく似合い
 布の袋で漢方を 煮出すにゃ今の処方よし
 陶淵明の詩集読み 何度感動したことか
 僕より先に隠れ家の 荒れたるさまを嘆いてる(以上第二首)

2017年6月5日月曜日

国華「田能村竹田の勝利」とエルヴィス・プレスリー6




 さて、竹田が享和3年(1803)岡藩藩士と思われる蕉叟に贈った「雲山草堂図巻」は、彼の思想と芸術を考える上で、きわめて重要な作品です。これも吉澤先生から教えていただいたことでした。残念ながら、いまその所在を知ることはできないのですが……。その巻末に竹田が書き残した七言律詩二首も実に印象深いので、学術誌である『國華』にもかかわらず、お馴染みの戯訳を註として載っけちゃいました。結構うまくいったんじゃないかなぁなんていうウヌボレもあるので、ちょっとバージョンアップしつつ、ここに再録することにしましょう。
 君はもともとアホみたい 僕は似ている狂人に
 帽子など脱ぎ向かい合い ムシロの床に座るべし
 藤蔓[ふじづる]枯れてみんな折れ 月に向かって猿が鳴き
 老いた柏は枝まばら 鶴はおそれる氷霜を
 友には必ず上等な 筆と紙とを用意せよ
 高価な衣装をみずからが まとおうなんて思わずに
 ものぐさだから世の中に 役立つことなど絶えてなし
 雲にかくれる山中に すぐに草庵建てるべし(以上第一首)

2017年6月4日日曜日

国華「田能村竹田の勝利」とエルヴィス・プレスリー5




第八、文武両道は車の両輪であるのに、最近は武事ばかりが重視され、文事は軽んじられて、武事に携わるものばかりが出世している。文事とは孝悌忠信の道を理解することであり、これがなくして仕官するものは結局立身出世ばかりを考えるようになる。また国主と農民は自分たちの利益ばかりを追い求めているが、そうならないためにも文事学問が必要なのである。

第九、長年由学館に勤めていた伊藤鏡河と古田含章が、この度の騒動に際し、軍事部門に移動させられたが、これでは由学館がますます衰微してしまう。両名に欠点がないわけではないだろうが、私欲のない人間であるから、上役の目ばかりを気にしているものとは比較にならない。よく本心を聞いて用いれば、これほど役に立つものはいない。

2017年6月3日土曜日

国華「田能村竹田の勝利」とエルヴィス・プレスリー4




その中から、やはり竹田のために「饒舌館長」で是非紹介しておきたいなぁと思うのは、いわゆる第二建言書の9か条ある箇条書きのうち、省略してしまった第6条以下の内容です。それは次のとおりです。

第六、この度の大変事に際し、怪しげな祈念祈祷に頼ったりしているが、古くから神祠は木原八幡宮、御祈念所は願成就院と決まっているのだから、これだけで充分である。こんなことよりも、優秀な伊藤作内左衛門や古田左膳を召しだして、今回および今後の政策について相談した方がよほど効果的である。それは由学館設立の精神にも適う。

第七、このたび阿蘇の仙行坊にご家紋入りの幕を寄進したが、ここは問題多き寺院であって、肥後の人たちに批判されるのも悔しいことである。また一向宗なども邪教であり、信者は宗旨を重んじて年貢公役を二の次にしている。仏教を批判するわけではないが、このような邪道が盛んになるのは、聖道が衰微しているからであり、そのために今回の騒動も勃発したのである。

 


 

2017年6月2日金曜日

国華「田能村竹田の勝利」とエルヴィス・プレスリー3


ポピュラーソングにアンサーソングというのがあるでしょう。たとえば、エルヴィス・プレスリーの”Are You Lonesome Tonight ?”に対して、ドディー・スティーブンスが “Yes, I’m Lonesome Tonight”と応じたような歌です。プレスリーのオリジナルの方は――といってもこれ自体カバー曲のようですが、ともかくもプレスリーの方は名曲中の名曲になっています。

これに対して、ドディーのアンサーソングは取るに足らないラブソングの一つですが、日本ではかなりヒットしたことを覚えています。きっとアメリカでも、よく売れたのでしょう。何といっても、元歌が天下のプレスリーなのですから……。しかし所詮キワモノの域を脱していません。吉澤先生の名論文に対して、僕のアンサーエッセーもまったく同じです!?

しかしながら、竹田の生き方こそ、人間の理想的生き方だというオマージュの気持ちを是非書き残しておきたかったのです。『國華』論文の規定枚数を大幅に越えてしまったので、ずいぶんカットしたり、圧縮したりしました。



 

2017年6月1日木曜日

スコッチウィスキー「ベンネヴィス」


スコッチウィスキー「ベンネヴィス」(531日)

 夕方から、鳥居坂の国際文化会館でイギリスのイーストアングリア大学とセンズベリー日本芸術研究所のレセプションがありました。イーストアングリア大学は、ここで「傑作とは何か?」という国際シンポジウムが行われたとき、招かれて与謝蕪村に関する発表を行ない、それが「与謝蕪村の微光感覚」という拙論に結びついたという思い出の大学です。

センズベリー日本芸術研究所は、サバティカルイヤーとなった2003年、3か月間を女房子供と過ごしたという、これまた思い出の研究所です。その二つともお世話になったニコル・ルマニエル・クーリッジさんにはお会いできませんでしたが、懐かしいサイモン・ケイナーさんや内田ひろみさんに再会することができ、もう10年以上前の楽しかったことが、昨日のことのようによみがえってきたことでした。

ワインやビールとともに、ベンネヴィス社のスコッチが供されました。「ベン」はゲール語で山ですから、「ネヴィス山」ですが、僕の持っている『なるほど世界地図帳』では、「ベンネヴィス山」となっています。まぁ、「ニューディール政策」のようなものでしょう。この山はイギリスの最高峰で、1343メートルあるそうです。センズベリー日本芸術研究所に滞在していたとき、スコットランドのスカイ島に旅行し、「タリスカー」という銘スコッチに出会ったことについては、すでにアップした通りです。

スカイ島からの帰りにフォートウィリアムというところを通りましたが、その駅舎から仰いだのがベンネヴィス山でした。今日ふるまわれたのは「ネヴィス・デュー」というブレンディッドでした。先日紹介した土屋守さんが、10年物のシングルモルトにはトロピカルフルーツのような豊かなアロマがあると書いていますが、「ネヴィス・デュー」にも十分感じられて、日本美術史3Kで堪能したことでした!?

 

国華「田能村竹田の勝利」とエルヴィス・プレスリー2


しかし、封建社会というシステムの側からではなく、竹田の心理的内面にまで分け入ってみれば、まったく反対の結論にも導かれるのではないでしょうか。竹田に軽蔑唾棄された俗物や、遁走された岡藩こそ、実は敗者だったのです。

長年思ってきたこんな見方から、このたび『國華』1459号に、「田能村竹田の勝利」と題する拙文を寄稿しました。もちろん、恐れ多くも、吉澤先生に対する反論などではありません。

先生は「田能村竹田の敗北」を、「このような日本の芸術家がたどらなければならなかった悲しい運命の一つの型を、わたくしたちは、いわば渡辺崋山とは対蹠的に、竹田に見ることができるのではないだろうか」という疑問形で結んでいます。これに答えた僕のアンサーエッセーが、「田能村竹田の勝利」なのです。

 

出光美術館「トプカプ・出光競演展」2

  一方、出光美術館も中国・明時代を中心に、皇帝・宮廷用に焼かれた官窯作品や江戸時代に海外へ輸出された陶磁器を有しており、中にはトプカプ宮殿博物館の作品の類品も知られています。  日本とトルコ共和国が外交関係を樹立して 100 周年を迎えた本年、両国の友好を記念し、トプカプ宮...