天保2年(1831)9月20日、39歳の崋山は、弟子の高木梧庵をつれて厚木へ4泊5日の旅に出ました。それはお銀さまを探す旅でした。お銀さまというのは、三宅友信の本当のお母さんです。友信は崋山が尊敬して止まなかった主人であり、また学問を教えた弟子でした。崋山が仕えた田原藩藩主三宅家の第11代は三宅康友でしたが、その側室お銀さまとの間にに生まれたのが友信でした。
友信は崋山より13歳若年でしたが、崋山にとっては主君にも等しい人であり、学問のみならず、広く生き方を教えた愛弟子でもあったんです。主従と師弟がクロスするような関係にあったわけですが、両者の肝胆相照らすような関係は、崋山の言動からも、明治に入って友信が著わした『崋山先生略伝』からもよく分かります。
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