しかし浜松図の原点は、『万葉集』巻1に選ばれる山上憶良の絶唱であるというのが私見です。「山上臣憶良やまのうへのおみおくらの大唐にありし時に、本郷くにを憶ひて作れる歌」という詞書きをもつ「いざ子ども早く日本やまとへ大伴の御津みつの浜松待ち恋ひぬらむ」がそれですね。中西進さんは「さあみんな、早く大和へ帰ろう。大伴の御津の浜の松も、その名のごとく待ち恋うているだろう」と現代語に訳しています。
大伴の御津とは、難波の御津ともいい、大伴の地にあった港で、難波宮のあった上町台地の一角ですが、位置は未詳だそうです。
何と気宇壮大なる一首でしょうか。この大らかな気分が、中世絵巻の画中画や、僕が大好きな里見家旧蔵伝土佐光重筆六曲一双屏風(京都国立博物館蔵)に代表される浜松図屏風に、通奏低音のように流れています。波の向こうの大地には山上憶良が立ち、遠く日本の浜松を思いやっているんです。
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