「僕の一点」は、あまりにも有名な晶子の第一歌集『みだれ髪』の初版本です。晶子は明治11年(1878)、堺県堺区――現在の大阪府堺市で菓子商「駿河屋」を営む鳳宗七夫妻の子に生まれました。この「与謝野寛・晶子と富士山、静岡の文学」展を予見したような屋号じゃ~ありませんか(笑)
生地にある堺市博物館では、晶子関係の資料をたくさんコレクションしています。『みだれ髪』初版本はそのうちの1点、藤島武二による装丁美術の傑作ですから、図版ではお馴染みですが、オリジナルを見たのは初めてのような気がします。
「僕の一点」は、あまりにも有名な晶子の第一歌集『みだれ髪』の初版本です。晶子は明治11年(1878)、堺県堺区――現在の大阪府堺市で菓子商「駿河屋」を営む鳳宗七夫妻の子に生まれました。この「与謝野寛・晶子と富士山、静岡の文学」展を予見したような屋号じゃ~ありませんか(笑)
生地にある堺市博物館では、晶子関係の資料をたくさんコレクションしています。『みだれ髪』初版本はそのうちの1点、藤島武二による装丁美術の傑作ですから、図版ではお馴染みですが、オリジナルを見たのは初めてのような気がします。
文学的志向を同じくする与謝野夫妻は、終生互いの人生や文学活動に深い影響を与え続け、国の内外を問わず連れ立って多くのたびに出向いています。温泉を愛した二人は、熱海や伊東、一碧湖など伊豆に足しげく通い、山梨県も含めた富士山の周辺にも出かけ、富士山や静岡に関わる多くの短歌や文学作品を残しています。
2022年は晶子の没後80年にあたることにちなみ、世界遺産センター初の文学展示として、自筆資料や歌集、関連資料のパネル解説などにより、与謝野夫妻の文学や静岡での旅、富士山に対する思いなどを紹介します。
静岡県富士山世界遺産センター「与謝野晶子没後80年 与謝野寛・晶子と富士山、静岡の文学」<9月4日まで>
2年前、静岡県富士山世界遺産センターで「谷文晁×富士山 山を愛した時代の寵児」という特別展が開かれました。求められるままカタログ・エッセーを寄稿し、口演を行なったことは、そのときアップしたように思います。
その静岡県富士山世界遺産センターで、特別展「与謝野晶子没後80年 与謝野寛・晶子と富士山、静岡の文学」が開催されています。もちろん饒舌館長も晶子の大ファン、担当した田代一葉さんの解説を聞きながら、心ゆくまで堪能したことでした。「鑑賞ガイド」の一節を引用しておきましょう。
翌朝、泊まっていた東急インのスリッパを借り(笑)、タクシーを呼んで城東病院に向かったことが、昨日のことのように思い出されます。続いて開催された米国クラーク・コレクション国際シンポジウムに参加はできたものの、ドクターストップのせいで、ナパヴァレー・ワインの絶品を一滴も飲めなかったことが痛恨の極みでした。
今回、あのときのような激痛は免れましたが、毎日1錠のフェブキソスタットを倍にし、夏休みの後半はオールフリーで我慢したことでした。しかしアルコール・プリン体・糖質を全部抜いちゃうと、ビールもこんなに不味くなるものなんですね。いや、ビールじゃ~なくなるんです(笑)
河野水軍がウソか本当か分かりませんが、そんなことはどうでもよく、是非参加して、天下の名湯・道後温泉に一度浸かってみたかったんです。
しかし常任委員会のあと、飲み会で愛媛の銘酒「梅錦」をガンガンやったのが――つまり「美術品は所蔵館で、地酒はその土地で」を実践したのが悪かったらしく、その夜中、激痛に見舞われました。
「梅錦」は愛媛の川之江、現在は四国中央市という名前になっている土地の銘酒です。もちろん今や全国区ですが、やはり「川之江の梅錦」の方が、「四国中央市の梅錦」よりゼッタイ酔いなぁ(笑)
暑いのでビール、〆は冷酒といった調子で戯訳遊びをやっていたら、シシ食った報いで痛風が再発してしまいました。一回目は忘れもしない1999年初夏のことでした。この年は美術史学会の全国大会が、愛媛大学で行なわれました。このごろは会費を払うだけの幽霊会員ですが、そのころは必ず全国大会に参加していました。そもそも常任委員でしたから、参加せざるを得なかったんです。
というよりも、愛媛の松山は我が河野家発祥の地です。有名な河野水軍――ありていに言えば海賊なのですが――この水軍が祖先であると、よくオジイチャンから聞かされていました。
だれも真似することができない天下の傑作戯訳ですが、ここでオメオメと引き下がったんじゃ~饒舌館長の名折れです( ´艸`) 足元にも及ばないことはよく分かっていますが、天上の井伏鱒二先生、拙訳アップをお許しください。
晩唐・于武陵「酒を勧む」
ガンガンやろうぜ老朋友ラオポンヨウ 金で作った小ジョッキ
こぼれる程にそそいだが 遠慮なんかはするじゃない
花が開けば風が吹き 雨降ることもしばしばだ
人間だっておんなじで サヨナラだけが人生だ
ヤジ「結局最後は井伏鱒二になっちゃってるじゃないか!!」
かつて「桃山美濃陶試論」 (『美術史論叢』17 2001年 ) なる 拙文を書いたとき俎上にのせた作品ですが、そのときは 『世界陶磁全集』の 図版をみながら 考えた だけでした。 しかし 実際に 会場で みると 、 図版に倍する素晴らしさだったので 「僕の一点」に選んだので...