2022年11月30日水曜日

出光美術館・門司「松尾芭蕉と元禄の美」1

出光美術館・門司「松尾芭蕉と元禄の美」<1218日まで>

すでにお知らせしたように、1118日から出光美術館・門司で「松尾芭蕉と元禄の美」が始まりました。いまだ疫病やまず、今回はオープニング・セレモニーに替えて招待会となりました。9時半過ぎから企画した学芸員・田中伝さんのギャラリー・トークが行なわれ、来賓の方々と一緒に拝聴しながら堪能しました。

僕はこの間アップした下川裕治さんの『「おくのほそ道」をたどる旅 路線バスと徒歩で行く1612キロ』<平凡社新書>を思い出しながら、芭蕉の優品や芭蕉フォロアーの作品を観賞したことでした。

2022年11月29日火曜日

三宜楼3

 

案内役は上野真弓さん、饒舌館長のくだらない質問にも、とても親切に答えてくださいました。とくに10日ほどまえ、小野さんが収録した小りんさんのインタビューは貴重なオーラルヒストリー、予定の時間を気にしながらも聞き入ってしまいました。

小りんさんは今年米寿を迎えたもと芸子さん、三宜楼を愛して止まなかった出光創立者・出光佐三店主の思い出を、昔とまったく同じ玉を転がすような声で語ってくださっているのです。佐三店主のあだ名が「ベティさん」だったとは!! もっとも、「昔とまったく同じ」などといえば、すぐにツッコミが入りそうですが……()


2022年11月28日月曜日

三宜楼2

 

それを知った地元の有志たちが「三宜楼を保存する会」を結成、募金と署名活動を開始しました。そしてついに三宜楼は「保存する会」の所有するところとなり、北九州市に寄贈されたあと、保存修復工事を経て、2014年一般公開される運びとなりました。

木造3階建て、九州最大の料亭建築だそうです。現在1階の一部は三宜楼展示室になっています。2階は百畳間とも呼ばれ、能舞台をそなえた大広間、3階には高浜虚子が俳句を詠んだという俳句の間があります。

その堅牢無比なる造作と、豪華ながらも過美を避けた建築意匠、そして近代洋風建築には求めがたい木材のエネルギーとぬくもり――僕はよくぞ遺してくれたといった感慨にふけりながら、重厚な光を発する厚板の廊下を、みんなと一緒に進んでいきました。「三宜楼を保存する会」の皆さんが経験したにちがいない苦労をしのびながら……。

2022年11月27日日曜日

三宜楼1

 

 1118日から出光美術館・門司で「松尾芭蕉と元禄の美」<1218日まで>が始まりました。それに合わせて、館長の出光佐千子さんや、御存知!!河合正朝さんたちと一緒に門司へと飛びました。まずオープニング前日に、三宜楼さんきろうを見学しました。

三宜楼は門司の清滝にある高級料亭です。いや、高級料亭でした。開業は明治半ば、現在の建物は昭和6年(1931)に建てられたもので、かつては門司港の繁栄とともに栄華を誇りました。しかし星霜移り人は去り、17年ほどまえ解体して取り壊し、売却する危機にさらされました。

2022年11月26日土曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」28

 



小山富士夫先生が昭和212月に「正倉院三彩」を脱稿されたのは、『座右宝』創刊号に間に合わせるためだったのでしょう。ご本の方が手元にないので、これまた隔靴掻痒の感を免れないのですが……。

明日1127日朝9時、NHK「日曜美術館」で静嘉堂@丸の内オープン記念展「響きあう名宝――窯変・琳派のかがやき――」が放映されます。展示されている唐三彩の優品「三彩鴨形容器」も登場しますから、ぜひご覧ください❣❣❣ 饒舌館長も一緒に登場するかな()

すばらしい唐三彩展へお招きいただいた繭山龍泉堂の川島公之さんと、小山富士夫先生のご著書『正倉院三彩』をご教示いただいた岡戸敏幸さんに改めてお礼申し上げつつ、1ヶ月近く続いた「繭山龍泉堂『唐三彩』」シリーズを閉じることにしましょう。


2022年11月25日金曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」27

 

かつて読んだことがあるはずなのに、恥ずかしながらまったく記憶から抜け落ちていたんです。それにしても、小山著書岡戸情報⇔『座右宝』創刊号小山論文という不思議なシンクロニシティでした!!

岡戸さんから贈られた文章と比べてみると、小山先生はまずこの論文を『座右宝』創刊号に発表し、続けてご本にまとめられたように思われました。『座右宝』創刊号はA563ページの小さな雑誌で、論文「正倉院三彩」には図版も挿図もないので、先生も意に満たなかったでしょうし、読者も隔靴掻痒の感を免れなかったでしょう。小さな雑誌といっても、当時としては大変な雑誌だったにちがいありませんが……。



2022年11月24日木曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」26

 

僕が『座右宝』創刊号を持っているのは、徳川義恭氏の「宗達・光悦試論」が載っているからでした。一般的な光悦→宗達観を、宗達→光悦観へ逆転を試みる画期的論文で、実をいうと拙論「乾山と光琳――兄弟逆転試論――」(出光美術館『乾山の芸術と光琳』2007)はこれをパクッたものなんです()

「繭山龍泉堂『唐三彩』」を「饒舌館長」にエントリーしている間に、この徳川論文を改めて読む必要が生じました。そこで『座右宝』創刊号を書架から引っ張りでしてくると、小山富士夫先生の「正倉院三彩」という論文が10ページにわたり載っているではありませんか!! 


2022年11月23日水曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」25

 

 僕の書架には『座右宝』創刊号(194641日発行)が収まっています。『座右宝』は座右宝刊行会が出版した美術文芸雑誌です。創刊号の奥付をみると、「編輯兼発行者 後藤真太郎」とありますから、この方が起こした出版社なのでしょう。

座右宝刊行会といえば、僕もずいぶんお世話になってきました。すでにアップしたことがある集英社版『日本美術絵画全集』の編集も座右宝刊行会で、たとえば僕が担当した第17巻『尾形光琳』の奥付をみると、「編集者 座右宝刊行会 後藤茂樹」となっています。当時出された大きな美術全集の編集は、多くが座右宝刊行会によって進められたといっても過言じゃ~ありません。つまりそのころは、出版社というより編集企画会社といった感じだったかな?

2022年11月22日火曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」24

 

何もかにもがたがたと音を立てて崩れ落ちているような気がし、明日を想えば更に暗澹たる今日このごろではあるが、正倉院三彩をながめていると、なにか若々しい希望がわいてくるような気がし、澎湃たる奈良時代のいぶきを身近にかんじるようである。何としても日本ももう一度立ち直らねばならないが、じっとながめていると、文化再建の鬱勃たる力が、緑色の小さな鉢から滾々と湧いてくるような気がする。……どこを見ても悲凄な気がたちこめ、日に日に険悪となってゆく世路に行きなやみながらも、たまたま見る正倉院三彩の美しさにうたれ、とりとめもない筆をとった次第である。


2022年11月21日月曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」23

 

「快」が主観的であることと、「美」はどの程度の差があるものでしょうか。むしろ「美」も「快」と同じく主観的であると言い切ってしまった方がよいのではないでしょうか。

ヤジ「そんなことを言い出したら、人文科学と称して美術史なんかやってるオマエが墓穴を掘ることになるんだぞ!!

それはともかく、小山先生は奈良三彩のことを正倉院三彩と呼んでいらっしゃいますが、ここにも小山美学が映っているように思われます。最後に先生の文章から、現代の仮名遣いに改めつつ一節を引いておきましょう。

2022年11月20日日曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」22

 

しかし、美が有する偉大な力を物語るなどといえば、いかにも月並みで、先生に対して礼を失することになると思います。むしろ三彩の「再発見」が、その時代や先生の情感と深く結び合わされている点に、美が絶対的あるいは客観的存在ではなく、あくまで主観的な眼差しや心情から誕生することを教えていただいたのでした。

『広辞苑』に「美」を求めると、個人的利害関心から一応解放され、より普遍的・必然的・客観的・社会的である――とあります。同じく内的快感をひきおこす「快」に対しての話だとしても、「客観的」はチョットどうでしょうか。

2022年11月19日土曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」21

 

その小山先生が昭和21年(19462月にお書きになって、翌年座右宝刊行会から出版されたのが『正倉院三彩』です。岡戸さんはこれをある古本屋さんで見つけ、「美術史学徒として美しいものと生きていく力と喜びと希望を伝える」と深く心を動かされ、講義の資料としたのでした。

脱稿は昭和212月――あのカタストロフとその後の騒擾を考えれば、にわかには信じられないことではないでしょうか。ほとんど奇跡のように感じられます。小山先生は焼け残った『正倉院御物図録』を何気なく開いて、正倉院三彩の美しさに今さらのようにうたれたのです。そしてこの珠玉のごとき一書をものされたのです。

2022年11月18日金曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」20

 

 この饒舌館長「繭山龍泉堂『唐三彩』」を読んで、畏友・岡戸敏幸さんが小山富士夫先生のとてもいい文章を送ってくれました。去年アップした鹿島美術財団美術講演会「影の美術史」で講師をお願いした岡戸さんです。

小山富士夫先生――出光美術館理事長・出光昭介さんから思い出話をお聞きするたびに、一度お会いしておきたかった日本人だったという気持ちがいや増すのです。小山先生は昭和50年(1975)白玉楼中の人となられたわけですから、お会いしようと思えばお会いすることがかなった日本人なんです。


2022年11月17日木曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」19

 

また唐三彩の出現が、唐代の厚葬愛好によってもたらされたという説は、考古出土状況と合致しないこと、青銅盒子などの仏具と供出した唐三彩枕形器は仏教に関連した什器であった可能性が高いことなど、教えられることばかりでした。

謝さんにはこれまでも大変お世話になってきました。台湾大学で講演や外部評価委員をさせてもらったことなど、改めてお礼申し上げたいと存じます。今回は奥様と一緒に静嘉堂@丸の内を訪ねてくださったのに、僕の都合がつかず、大変失礼してしまいました。「下次、我請客!!」 

 なお「饒舌館長」では、幽明界を異にされた方のみ「先生」とお呼びし、お元気な方はすべて「さん」とすることにしています。謝さん、お許しくださいませ。

2022年11月16日水曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」18

埴輪は円筒埴輪と形象埴輪に大別され、形象埴輪には家形埴輪、器材埴輪、動物埴輪、人物埴輪などがあります。この形象埴輪と唐三彩に共通するモチーフが少なくないのも、両者の用途に共鳴するような性格があったからだと思います。これまた独断と偏見、妄想と暴走かな() 

 繭山龍泉堂「唐三彩」カタログには、国立台湾大学・芸術史研究所の謝明良さんが「唐三彩雑感」という論文を寄稿されています。謝さんの博士論文は唐三彩、この分野最高の研究者です。唐三彩器皿類について、すべてが明器だったわけではなく、人々が使用するための什器であった可能性も考えられるという謝さんの指摘はとても興味深く感じられました。 

2022年11月15日火曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」17

 

一方、埴輪の用途はよく判っておらず、さまざまな見解があります。死者を葬った区域を聖域として区画したという区画説、死者を守護し鎮魂したという呪術説、生前と同じように死後も生活に不便がないように制作したという霊界用具説、本葬のまえ棺に遺体を納めて仮に祭る殯もがり・あらきのさい用いたという殯説などです。定説と呼べるものはないようですが、埴輪が人の死や葬儀と密接に関係していたことは疑いありません。

明らかに唐三彩と通い合う性格が認められるでしょう。直接的影響関係はないと思いますが、我が国と中国の人が権力者や高位貴顕の死去にさいして同じようなことを考えたという事実が、とてもおもしろく感じられます。

2022年11月14日月曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」16

 

だからこそ、近代に入って不定形釉を最大の美質とする唐三彩に出会ったとき、日本人はただちに、そして鋭敏に反応することができたのではないでしょうか。それこそが日本に多くのすぐれた唐三彩が集まり、現在へ伝えられてきた理由だと思うのです――やはり独断と偏見、妄想と暴走かな()

繭山龍泉堂唐三彩展の会場をめぐりながら、僕は我が古墳時代の埴輪を思い出していました。最初にあげた文献にもあるように、おもに唐三彩は明器めいきであったと考えられています。明器とは中国で死者と一緒に埋める副葬品をいいます。ただし明器の目的は、時代により少しずつ変化したようですが……。

2022年11月13日日曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」15

 

不定形釉を含めて、不定形の装飾や見所がある焼き物をあげてみましょう。それは古代の自然釉に始まり、中世の瀬戸、常滑、信楽、丹波に及びます。近世に入れば、火襷の備前、中世から続く丹波、信楽に、かの伊賀が錦上花を添えます。さらに黄瀬戸のタンバン、志野の火色や鼠志野の釉ムラ、織部の緑釉、長次郎の白濁釉やカセ膚、光悦の釉切れなど、枚挙に遑なきほどです。

このような不定形装飾の焼き物に、人工を超えた自然の美を見出し、それによって美意識を研ぎ澄ましてきたのが日本人でした。ここに三島の雨漏り手などを加えてもよいでしょう。

2022年11月12日土曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」14

 

先にあげた静嘉堂文庫美術館が所蔵する唐三彩ベストスリーを見ていただければ、不定形釉のオンパレード、改めて説明する必要はまったくないでしょう。

もちろん、繭山龍泉堂唐三彩展から拾えば、「三彩印花飛鳥蓮葉文三足盤」のように、文様を形押ししたのちに、はみ出さないよう丁寧に釉薬を塗った作品もあります。しかしこのような作品は少なく、同じ形押しでも「三彩印花宝相華文洗」になると、印花の周りは褐釉と藍釉の乱舞――不定形釉のアラベスクといった感じになっています。

しかし不定形釉は、中国陶磁において大変珍しいのではないでしょうか。あることはありますが、稀有であるといっても過言ではありません。しかし日本の焼き物はちがいます。


2022年11月11日金曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」13

実際はこれらがいつ収集されたかはっきりしないようですが、欧米との時間差などほとんどなかったのでしょう。たとえあったとしても、茶陶に馴染んでいたはずの日本人が、唐三彩に強く惹かれた事実を否定することにはなりません。

 それは三彩の釉に理由があったというのが独断と偏見です。三彩の釉はとても自由で、垂れていたり、二色が混じったりしています。文様に釉がけする場合でも、それにとらわれたりせず、かなり大胆に、少し意地の悪い言い方をすると大雑把にやっています。一言でいえば、釉が不定形なのです。これを不定形釉と呼んだらいかがでしょうか。 

2022年11月10日木曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」12

例えば静嘉堂文庫美術館には、重要文化財の「三彩貼花文万年壷」が収蔵されていますが、佐藤雅彦先生は『世界陶磁全集11 隋・唐』の解説で、「唐三彩に多い万年壷の中でも、筆頭に位する名品として評価が高い」と述べられています。それなら重要文化財じゃ~なく、国宝がふさわしいのではないでしょうか() 

 このほかにも静嘉堂文庫美術館には多くのすぐれた唐三彩が伝えられています。先にあげた「三彩鴨形容器」や、かつて前田青邨筆「唐獅子図屏風」「唐獅子図衝立」を紹介したとき、一緒にアップした「三彩獅子」がそれです。東京国立博物館に寄贈された横河民輔コレクションや永青文庫にも名品が少なくありません。 

2022年11月9日水曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」11

 

 

 この解説にあるように、唐三彩を含む出土文物をアートと見なす鑑賞法は、確かに欧米で起こったものでしょう。陶磁を中心に中国の文物を茶道具として使い、そして愛でる茶道文化が確立していた日本が、鑑賞陶器という新しいジャンルにおいて出遅れた可能性は充分に考えられます。

しかし唐三彩に限っていえば、その時間差はほとんどなかったのではないでしょうか。たとえあったとしても、すぐに追いつき、茶道文化で培われた審美眼を発揮して、すぐれたコレクションを作り始めたように思われてなりません。それは日本に唐三彩の優品がたくさん伝えられている事実によって、容易に証明されるでしょう。

2022年11月8日火曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」10

 

唐三彩が世界に広く知られるようになった契機は、20世紀初頭に中国大陸で進められた鉄道敷設工事であった。河南省の洛陽と開封(汴州べんしゅう)を結ぶ「汴洛鉄道」敷設に伴って、洛陽郊外に広がる幾つもの古代の墳墓がとり崩され、さまざまな時代の文物とともに唐三彩も出土した。これら古代の出土文物は少しずつ市場に流通し、欧米を中心に美術品としての評価を得ていった。静嘉堂の唐三彩コレクションも、こうした時流のなかで大正から昭和初期にかけて形成されたものである。


2022年11月7日月曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」9

 

文末に「繭山龍泉堂」とあるだけですが、川島さんの文章であることは疑いありません。先の『新潮世界美術辞典』と比べていただくと、この間における唐三彩研究の進展がよく分かると思います。

 この「ごあいさつ」にあるように、唐三彩が世に現われるようになったのは、20世紀に入ってからのことでした。いま開催中の静嘉堂@丸の内開館記念展「響きあう名宝――曜変・琳派の耀き――」の後期には、「三彩鴨形容器」が出陳されることになっています。そのカタログ解説には、次のように書かれています。


2022年11月6日日曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」8

 

た器種においても、多種多様な作品を出陳いたします。中でも梅瓶、燭台建築明器類などは極めて珍しい作例と云えるでしょう。その他の作品も、同様の作例の中で美的に秀抜なものを選びました。本展に出品される作品殆どは、1910 代から前期までに市場に出たと推察されるものです。これは本展を催すにあたってとくに拘った点でもあります。唐三彩のイメージはその発見より百年以上の時を経て、だいぶ固定化し形骸化してるようにも思われます。個々の鑑賞者が感受性の扉を開き、自己の中に瑞々しい感動と新たな可能性を見出す契機となれば幸いです。 


2022年11月5日土曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」7

 

唐三彩は仏教と密接に関わってい可能性が指摘されており、これは仏教を重んじた武則天によるそ擁立と三彩の流行が、時を同じくしていることからも らかかと思われます。従って、初唐、高宗の治世下で武照(武則天)が皇后となっ 655 教及び唐三彩隆盛の起点とみることが可能ではないでしょうか。本展には、そういった初唐後半のものと推定される作品に加え北朝から隋、そして初唐前半に至るまでの作品も出されております。これにより北斉から盛唐に至る彩及び鉛釉の推移を把握する一助なればと思っております。


2022年11月4日金曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」6

 

北斉から隋にかけての鉛釉の流行を基盤として、初唐、そして盛唐期に全盛期を迎えるととなる三彩は、北朝文化の終着点とも云えます。白という色を尊ん北朝の人々は、隋おいて白磁を完成させ、隋から初唐にかけての白磁隆盛を生み出します。その裏側で鉛釉陶器も漢以来の興隆をみせることとなります。一般に三彩は武則天の治世より盛んになったと云われてますが、斉の時点で完成しているとも云え、そこから盛、武周の最盛期までには、百年以上の時が横たわっております。


2022年11月3日木曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」5

 

この繭山龍泉堂で開催された「唐三彩」展は、本当に素晴らしい展示でした。68点すべて魂を奪われるような造形と色感、しかも露出展示まであり、川島公之さんのお話を聞きながら贅沢な時間を過ごしたことでした。

川島さんは繭山龍泉堂の社長さんであるとともに、有名な中国陶磁研究者です。すでにアップしたことがあると思いますが、2018年冬ハノイで開かれた伊勢文化財団+ベトナム工業美術大学主催「日越外交関係樹立45周年記念シンポジウム 現代アートの中の伝統との出会い」のとき一緒させていただきました。大変お世話になるとともに、真摯な人柄にも深く心を動かされたのでした。

その川島さんが編集されたカタログ『唐三彩』の「ごあいさつ」も、ぜひ全文引用させていただきたいと存じます。

2022年11月2日水曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」4

 

もっとも印象に残っているのは、呉春の「柳陰帰漁図屏風」ですね。京橋のお店で拝見した瞬間、呉春池田時代、新出の傑作だと直感、ぜひ『國華』に紹介したいと思いましたが、呉春についての知識と鑑識はゼロでした。

そこで逸翁美術館の岡田利兵衛先生をお訪ねして、所蔵品を拝見するとともに、たくさんのことを教えていただき、ようやく『國華』999号(1977年)に紹介できたことが、いまは懐かしく思い出されるのです。その後「柳陰帰漁図屏風」は静岡県立美術館に収まり、同館を代表する円山四条派作品となっています。

2022年11月1日火曜日

繭山龍泉堂「唐三彩」3

 

 この唐三彩ばかりを集めた特別展が、繭山龍泉堂で開かれていました。「開かれていました」と過去形になっているのは、もう終っちゃったからです。期間はわずかに10日間、サントリー美術館の「美をつくし」展をアップしているうちに、最終日を過ぎてしまいました。申し訳ございません!! 

繭山龍泉堂といっても、美術業界以外の方にはピンと来ないかもしれませんが、日本を代表するアート・ディーラーです。1905年、繭山松太郎氏が単身北京に渡って古美術の仕事を始めたのが最初で、2代目の順吉氏から現在に至るまで、僕もずいぶんお世話になってきました。

ブータン博士花見会4

  とくによく知られているのは「太白」里帰りの物語です。日本では絶滅していた幻のサクラ「太白」の穂木 ほぎ ――接木するための小枝を、イングラムは失敗を何度も重ねながら、ついにわが国へ送り届けてくれたのです。 しかし戦後、ふたたび「染井吉野植栽バブル」が起こりました。全国の自...