2021年4月30日金曜日

サントリー美術館「ミネアポリス美術館 日本絵画の名品」1

 

サントリー美術館「ミネアポリス美術館 日本絵画の名品」<6月27日まで>

 ミネアポリス美術館は、すぐれた日本美術コレクションで有名なアメリカの美術館です。とくに最近、メアリー・バーク・コレクションのほぼ半分と、エリザベス&ウィラード・クラーク・コレクションを加えて、充実の度を増しました。日本美術はじつに9500点に及び、そのうち1400点が日本絵画だそうです。

とはいいながら、恥ずかしいことに、僕はお訪ねしたことがないんです。ミネアポリスはアメリカ・ミネソタ州の最大都市だそうですが、僕らの世代がミネソタと聞けば、まず思い出すのは暁テル子の名曲「ミネソタの卵売り」ですね()

♪わたしはミネソタの卵売り 町中で一番の人気者 卵に黄身と白身がなけりゃ お代はいらない コ、コ、コ、コ、コケッコ~♪

2021年4月29日木曜日

府中市美術館「与謝蕪村」8

  君笑い「その十倍だ 大杯で 罰酒飲まざるべからず」という

  おもむろに懐中から出す宝物――呂尚と王莽[おうもう]時代の刀銭

  斉国の大刀――周でただ一種 鎌[かま]の形で取手に環[]あり

  「斉」の字が半分残って読み取れて 裏にゃ 真ん丸 鋳出されている

  次に見た金錯刀にゃ~「一刀の平[あたい]は五千」と刻まれている

  精銅は虫に食われず腐食せず 環も刀身もじつに優美だ

  君がため盃[さかずき]挙げて飲み干して 馬で帰れば月皓々と……

その解説によると、劉原甫は梅尭臣の親友で、しばしば詩の唱和をしています。この詩でも、ご馳走になりながら「酌してくれる美人はおらず」なんて詠んでいるのですから、とても親しかったのでしょう。劉原甫は役人としても相当な地位にのぼり、北方のキタイ(契丹)に使いしたこともありました。また学者としても一流で、その豊かな学識は、さしもの欧陽脩をしてしばしば感服せしめたほどだそうです。

梅尭臣の詩にある「大刀」と「金錯刀」は有名な古銭らしく、上記選集の口絵に写真が載っていますが、「古代中国のお金って、こんなだったんだ」と思わせる変な形をしています。これじゃ~使いにくくって仕方ありません()

 

2021年4月28日水曜日

府中市美術館「与謝蕪村」7

劉原甫は、かつて紹介したことがある北宋のネコ詩人・梅尭臣と親しく、中国詩人選集第2集『梅尭臣』には、「劉原甫の家に飲む、原甫 二つの古銭を懐にして酒を飲む、其の一は斉の大刀、長さ五寸半、其の一は王莽の時の金錯刀、長さ二寸半なり」という五言詩が採られています。またまたマイ戯訳で紹介することにしましょう。

 原甫君お酒を俺に勧めるが 酌してくれる美人はおらず

  「いにしえの器物を披露したいけど 先ずその時代 予想してみて!!

  我思う――孔子の履[くつ]はその昔 武庫の火災で烏有に帰した

  陶侃[とうかん]の梭[]は赤龍となり空へ 嵐を突いて飛び去ったはず

  軒轅[けんえん]の鏡はこの世にないゆえに 多くの妖怪 跋扈[ばっこ]している

  豊城で見つかった剣 延平の 水底深く沈んだとも聞く

  「二百年ほど前のもの? それならば きっと書幅か絵画じゃないか?」


2021年4月27日火曜日

府中市美術館「与謝蕪村」6

目立ちすぎる金砂子はあとから蒔いたのかもしれません。もともと襖絵だったものを屏風に改装したのかなと思い、引き手跡を隠すため蒔いた可能性を考えながらよく見ましたが、目視だけでは確認できませんでした。右隻右上に、劉原甫の七言絶句が書かれています。またまたマイ戯訳で紹介しましょう。

 生い茂ってる春の草 その名前など知らないが

 水辺の原に美しく 咲き乱れてる花たちよ!!

 花の絨毯 踏んづける ことなど車馬はやらぬから……

 いっぽう城門内に入りゃ 草一本さえ生えてない

 出典は蕪村が愛用した漢詩アンソロジー『聯珠詩格』にちがいないと思い、マイ弘化版で調べると巻之下に載っていました。劉原甫は中国・北宋の詩人、愛用する『中国学芸大事典』には「劉敞」で出ています。 

2021年4月26日月曜日

府中市美術館「与謝蕪村」5

 


この作品を宮津で最初に見たのは、もう半世紀も前のことでした。辻惟雄さんを中心に、今は亡きジェームズ・ケーヒル先生を案内しつつ、宮津から出雲へ旅行したときのことです。その後、『国文学 解釈と鑑賞』662号に拙文「蕪村の俳画――若描きを中心に」を書く機会があり、その旅行を思い出しながら本屏風を取り上げました。

やがてこのなかの何人かが屏風を抜け出し、掛幅や扇面の俳画における主人公に成長している点は、とくに興味深く感じられます。

今回は「僕の一点」をもう一つ選びたいと思います。それは「春野行楽図屏風」(個人蔵)ですね。画面のぐっと下の方に、徒歩で、あるいは馬に乗って道を行く人々を描いた屏風で、はじめて見る傑作です。饒舌館長いうところの「行路の画家蕪村」を象徴する作品として、すごく興味を引いたのでした。

2021年4月25日日曜日

府中市美術館「与謝蕪村」4

 

 金子さんは蕪村の「ぎこちなさ」を俳画にも認めるのですが、とくにその朴訥な文字を「ぎこちないフォント」と呼んでいるのが愉快です。そして「蕪村の俳画は、美術史の上で、もっと注目されてよいのではないだろうか」という提言を行なっていますが、「異議なし!!」と叫びたい気持ちになります。本家の中国文人画には絶対にない、日本文人画だけの個性は、俳画にこそ見いだせるというのが私見なんです!!

  ヤジ「当り前じゃないか、中国には俳句がないんだから!! 何をエラッソウに!!

 というわけで、「僕の一点」は俳画調の「田楽茶屋図屏風」ですね。宮津のある個人が所蔵する逸品です。おそらく葵祭でしょう、それを楽しむ人々の様子を軽妙に描いて、蕪村俳画の原点を示す作品となっています。この絵を見る楽しさは、金子さんがカタログにこれまた軽妙な文章でつづるところです。 

2021年4月24日土曜日

府中市美術館「与謝蕪村」3

 

下手だったとされる時代の作品にも、蕪村がその後も持ち続けた、あるこだわりが感じられます。それが、本書で注目する「ぎこちなさ」です。決して、下手だという意味ではありません。京に定住するより前から、流暢に描くことや、誰の目にも立派だったり美しかったりするものを避け、あえて拙く見えるように描いています。そして、今日多くの人に高く評価される晩年の作品の中にも、それは生き続けています。朴訥さから生まれる力強さや、頼りなさから生まれる揺らめきが、蕪村の絵の魅力の根幹を成しているようです。「ぎこちなさ」、あるいは「頼りなさ」に注目しながら作品を眺めてみれば、「ヘタウマ」のイラストを日々楽しんでいる私たちには、蕪村の絵が、もっともっと面白く感じられるかもしれません。

2021年4月23日金曜日

府中市美術館「与謝蕪村」2

たとえ初め観覧者が「?」と思ったとしても、ギャラリーを巡るうちに、「なるほどなぁ」と腑に落ちてきて、満たされた幸福感とともに美術館を後にすることになります。それは金子マジックと呼ばれるのがふさわしいでしょう。そんな金子マジックが自由に発揮できる府中の文化的成熟度も、じつに素晴らしいことではありませんか!! それをトップから、また市民から許容してもらえるのも、人柄の賜物であるように感じられます。 

 今回の与謝蕪村展も、そんな金子マジックがズバリ的中した、おススメの展覧会です。金子さんは、この蕪村展に合わせ、東京美術から出版したカタログ・ブックの「まえがき」に、つぎのように書いています。

 

2021年4月22日木曜日

府中市美術館「与謝蕪村」1

 

府中市美術館「与謝蕪村 『ぎこちない』を芸術にした画家」<59日まで>

 金子信久さんはきわめて意欲的な展覧会を連発して、府中市美術館にこのキューレーターありとして知られ、業界人はひとしなみに尊敬のまなざしで仰ぎ見ています。「私はこう考え、こう見たててこの展覧会を企画したので、見る人もそれにそって見てもらえたらうれしいなぁ!!」といったスタンスで、展覧会を構成している感じかな?

評価の決まった有名な画家やコレクション、国宝・重文などの指定品を並べてことたれりとする退嬰的態度を、金子さんはもっとも忌み嫌っているようです。

もちろんその考えが的を外している場合は、独善的展覧会となるわけですが、さすが長い間キューレーターとして第一線に立ち、直感を練磨してきた金子さんですから、キモを外すようなヘマはやるはずもありません。

2021年4月21日水曜日

国立能楽堂「能楽と日本美術」5

やがて桜葉の神(後シテ)が現われ、神威を示しつつエレガントに舞うのですが、その様をうかがうべく「ノリ地」を引けば……

月も照り添ふ花の袖 月も照り添う花の袖 雪を廻らす神神楽の 手の舞ひ足踏み拍子を揃へ 声すみわたる雲の梯[かけはし] 花に戯れ枝に結ぼほれ 挿頭[かざし]も花の糸桜

つまり「右近」では、夜桜の心象がとても強いのですが、「桜車蒔絵小鼓胴」から僕が最初に直感したのは、まさに夜桜だったのです。バックの黒漆地が夜を暗示させるなどといえば、またまた牽強付会の説だと眉をしかめられるかな()

この3点をもとに、持論である日本美術工芸中核論を披瀝していたら、またまた時間オーバーになってしまいました()

 

2021年4月20日火曜日

国立能楽堂「能楽と日本美術」4

この歌を現代語に意訳すれば、「きみのカンバセが簾を通してほのかに見えなかったわけではなく、かといって、ちゃんと見えたわけでもありませんが、その瞬間からきみが好きになって、恋しくてたまらず、ぼんやりと物思いにふけっているうちに、わけもなく今日一日が過ぎてしまうことでしょう」となるかな? 

じつにロマンティックな相聞歌ですね。あるいは、チラッと見ただけで、一目ぼれしてしまった面食い男・業平の本領躍如たる一首で、こんなことで恋に落ちるとあとで後悔しますよという、反面歌ともいえるかな()

さて、女は紅梅殿、老松、一夜松など近くの名所を教えたあと、自分は桜葉の神であると告げ、月の夜、神楽を待つようにといって花の陰に姿を消します――つまりこれが中入りで、続いてアイが登場して中入り場となります。

 

2021年4月19日月曜日

国立能楽堂「能楽と日本美術」3

しかし工芸の優品もたくさん出品することになったので、漆工から3点を番外としてリストアップすることにしましたが、そのうちの1点がこの小鼓胴なんです。この桜に車という主題は、「熊野・松風に米の飯」といわれるほど人口に膾炙する三番目物「熊野」に取材するものではないかといわれてきたそうです。しかし、世阿弥原作といわれる脇能物「右近」のイメージに近いというのが私見です。

鹿島の神職が、北野天満宮の南にある右近の馬場へ桜見物にやってきます。そこへ花見車に乗った女(前シテ)が侍女を連れて現われ、女と神職は、「見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなくけふや眺め暮らさん」という『伊勢物語』に出る業平の歌をめぐって言葉を交わすうちに、心が通じ合います。

 

2021年4月18日日曜日

国立能楽堂「能楽と日本美術」2

カタログ論文は、「能謡曲と日本の絵」と題して描き始めましたが、出来上がってみると、水尾比呂志さんいうところの随論――それもただ長いだけの随論になっていました() 4月13日に行なった口演もそれをなぞるような内容になってしまいましたが、聴講者アンケートの評価はけっして悪くなかったと思います。口演の最後に、「アンケートには非常によかった、とても興味深かったと、必ず書いておいてくださいね」と念を押したので()

 「僕の一点」は、伝折居弥助作「桜車蒔絵小鼓胴」ですね。黒漆地に桜と源氏車を平蒔絵で施した江戸時代中期の優品です。どこの所蔵かって? もちろん静嘉堂文庫美術館ですよ() 口演は絵画中心の話にまとめたので、いつもの「マイベストテン」は絵画ばかりを選びました。 

2021年4月17日土曜日

国立能楽堂「能楽と日本美術」1

 

国立能楽堂資料展示室「日本人と自然 能楽と日本美術」<627日まで>

 2021年度国立能楽堂特別展「日本人と自然 能楽と日本美術」が始まりました。実は去年予定されていた特別展でしたが、コロナ緊急事態宣言が出されたため、延期することになってしまいました。今回のはそのリベンジ展というわけですが、内容はさらに磨きをかけられ、面目を一新しての再登場です。カタログも内容・版型ともぐっと立派なものにバージョンアップされています。

僕はゲストキューレーターを依頼され、喜んで引き受けましたが、実際に企画した国立能楽堂の高尾曜さんの尽力で、とても魅力的なおススメ展覧会に仕上がっています。カタログ論文執筆と口演も引き受けたので、2015年の京都国立博物館特別展「琳派 京を彩る」にまさるとも劣らず、僕の心に深く刻まれる展覧会となりました。


2021年4月16日金曜日

三谷幸喜さんと銭湯12

 

ここまで書いてきて思い出すのは、外国留学から帰国したある東大女子学生のおみやげ話です。留学生試験をみごと突破した彼女は、憧れの西欧美術を研究するため、ドイツの名門大学に入りました。すぐに親しくなった友だち――もちろん同性の友だち――とアパートをシェア・レントして生活を始めました。

ある朝そのウォーター・クロゼットで、彼女が洗顔したあと歯を磨いていると、ルームメイトが「お早う」と言いながら入ってきて、脇で排泄行為を始めたというのです。「私にはとても恥ずかしくてできないわ」と、恥ずかしそうに彼女は話していました。

佐原先生や彼女や僕の経験から導き出される結論は、トイレ羞恥心にも国によって差異があること、言ってみれば国民性があるという事実です。つまりトイレ羞恥心も、本能的なものでも生得的なものでもなく、社会によって学習させられる感情なのです。だからこそ、社会ごとの相違が生れるのでしょう。佐原先生が指摘するように、強いトイレ羞恥心は日本文化なのです(!?)


2021年4月15日木曜日

三谷幸喜さんと銭湯11

 

僭越ながら、さすが佐原先生だと感を深くします。ソ連の空港やドイツの炭鉱は知りませんが、中国のニーハオ・トイレは何度も経験しました。中国人専用ホテルともいうべき招待所のトイレは、基本的にすべてニーハオです。さすがに今は少しずつ改善されているようですが……。

アメリカの二、三流のデパートでは扉を開けっ放しにしてやっていると書かれていますが、僕の経験では、ニューヨークのYMCAがそうでしたね。開けっ放しにするかどうかはともかく、その扉なるものの下の方が、450センチも空いていて、閉めたとしても落ち着いてやっていられないんです。主要部は隠れるとしても、下ろしたズボンは丸見えですから、恥ずかしくって仕方ありません。美術館や大学のトイレにもよくありますよね。


2021年4月14日水曜日

遠藤湖舟・日々是美的4

 

中国では主虹を「虹」、副虹を「蜺」と書き、前者をオス、後者をメスとしますが、これなども聞一多が教えてくれる中国の虹に対する観念をよく示しています。自然現象に対する心的形象も、我が国は中国からたくさん取り入れましたが、日本人にとって虹はあくまで美しく、しかもはかなく、したがってさらに美しく感じられるものであり、セクシーなものとか、官能的なものとする思想とは無縁だったように思います。

かの曜変天目の「光彩」を、古くは「虹彩」と書きました。この虹彩華やかなる曜変天目が、わが国だけに伝わったもっとも大きな理由は、この「虹」に対する観念の違いによるのではないかという私見については、以前「饒舌館長」にアップしたことがあります。中国陶磁の専門家はみなさん眉にツバをしていますが(笑)

 


2021年4月13日火曜日

遠藤湖舟・日々是美的3

 

この記事を書いていた日の『朝日新聞』夕刊に、「5分間の奇跡 ダブルレインボー」と題して、山本一朗さんという方の第37回「日本の自然」写真コンテストの入選作が掲載されていました。これは奈良の里山にかかったダブルレインボーだそうですが、「朝虹」を拝見した日のシンクロニシティでした。

ダブルレインボーとは、はっきりと見える主虹の外側に、薄く副虹がかかった虹のことです。たいてい虹をよく見ると二重になっているものですが、とくに副虹が美しくかかったものをダブルレインボーというようです。

虹はもっとも美しい自然現象の一つでしょう。しかし中国では、虹を非常にセクシーなものとか、官能的なものとみる思想がありました。聞一多の『中国神話』<東洋文庫497>を読んでいてそれを知ったとき、とても不思議な気がしました。日本にはそんな観念がほとんどないからで、虹を詠んだ和歌をみるとよくわかります。

2021年4月12日月曜日

静嘉堂文庫美術館「旅立ちの美術」2

 

というわけで、今回の展覧会が現在の岡本最後となりますが、「蛍の光」をうたうことは止め、むしろ新ギャラリーへのスタートを記念する「旅立ちの美術 Departure in Arts」として企画し準備いたしました。

旅立ちといえば別れと新しい出会い――これらと呼応する名品傑作のオンパレードです!! これまでの歴史になかった斬新なる表紙で飾られるカタログもおススメ、静嘉堂の名品と歴史がコンパクトにまとめられています。饒舌館長の巻頭エッセー「日本中国絵画史の出会い旅立ち別れの情」が錦上花を添えています() 

悪乗りした饒舌館長は、424日(土)11時から、「出会い旅立ち別れの情――日中絵画の流れから――」なる講演もやるそうです。今回は岡本最後ですので、チョット真面目に「講演」と銘打っていますが、やはりいつもの「口演」となっちゃうかな()

2021年4月11日日曜日

静嘉堂文庫美術館「旅立ちの美術」1

 

静嘉堂文庫美術館「旅立ちの美術 Departure in Arts」<66日まで>

 静嘉堂文庫美術館「旅立ちの美術」展のオープン初日を迎えました。10時の開館前からたくさんの美術ファンが行列をつくってお待ちくださいました。ディレクターとしてこんなうれしいことはありません。

すでに「饒舌館長」にもアップしましたが、静嘉堂文庫美術館は来年202210月、丸の内・明治生命館に新しいギャラリーを開設いたします。昭和の建築としては最初に重要文化財に指定されたのが、建築家・岡田信一郎の傑作とたたえられる明治生命館です。

その1階ホワイエを、最新技術を駆使して面目を一新させ、「曜変天目」や「関屋澪標図屏風」にもっともふさわしい空間をご用意いたします。面積も現在の5割ほど広くなるでしょう。期してお待ちいただきたいと存じます。

2021年4月10日土曜日

遠藤湖舟・日々是美的2

「僕の一点」は、やはり「朝虹」ですね。見たこともない不思議な光景です。青空なのに、虹の内側だけがピンクに染まっているんです。これは虹が朝日を受けたときに時たま起こる自然現象で、現像処理を加えたものではないそうです。しかし僕には、大空に君臨するがごとくにかかった虹が、大きな腕[かいな]で抱え込んだ空間を、みずからの美しさで染め上げようとしているように感じられたのでした。

しかも幸運の象徴といわれるダブルレインボーになっているんです。13日までに玉川高島屋へ足を運び、この「朝虹」を拝めば、きっとグッドデーとともにグッドラックにめぐまれることでしょう。

 

2021年4月9日金曜日

遠藤湖舟・日々是美的1

 

玉川高島屋本館5階アートサロン「遠藤湖舟  日々是美的ーGood Days―」<4月13日まで>

 3年ほど前、写真家・遠藤湖舟さんの個展「<たまがわ>の美。写真空間by遠藤湖舟」を見て、深く心を動かされた僕は、すぐ「饒舌館長」で紹介させてもらいつつ、オマージュを捧げました。写真家としてのチョット変わった略歴は、それをご覧くださいね。

今回の「日々是美的―Good Days―」もすごくいい!! 湖舟さんの明晰なカメラレンズが新しいモチーフを発見し、自然の一瞬を美しい典型に昇華させることを可能ならしめ、富士山のような古典的主題に肉薄して、これまでになかった相貌を現出せしめています。

そして「美は細部に宿る」という湖舟美学が、通奏低音のようにすべての作品に流れています。それはギャラリーへ一歩足を踏み入れた瞬間に、どこからともなく聞こえてくる妙なる通奏低音だといってもよいでしょう。

2021年4月8日木曜日

三谷幸喜さんと銭湯10

 

 その伝統的な要素として、植物的な食体系、柱立ちの建物、卜甲・卜骨、お箸などを挙げたあと、あまり注目されていないものとして、居眠り、肩こりに言及します。そして最後にトイレ羞恥心を指摘し、つぎのように述べています。

トイレに入っているのが恥ずかしいと思うのが日本文化。私の勤め先で、大きい方に入って、終って出ようと思うと人が入ってくる気配がする。恥ずかしくて出られない。これは私だけではないでしょう。ところが中国に行ったらば、トイレの扉がない。扉があっても開けっ放しで平気でいる。これはアメリカの二、三流のデパートでもそうだし、ソ連の空港でもそうだし、ドイツの炭鉱でもそうですね。へだてのない共同便所は、ギリシャ・ローマ以来です。だから、トイレの恥ずかしさも我々の獲得した文化なのです。

2021年4月7日水曜日

三谷幸喜さんと銭湯9


 ところがあるとき、埴原和郎編『日本人新起源論』<角川選書202>を読む機会がありました。この本は1989年7月1011日の2日間にわたって、京都大学楽友会館で開催された一般公開セミナー「民族の形成――日本人の場合」の全記録だそうです。

これを読んでいて、俺は異常じゃ~なかったんだ!! 正真正銘の日本人だったからなんだ!! ということが分かってとてもうれしくなり、それからは堂々と個室の出はいりができるようになったんです(!?) 

 僕を勇気づけてくれた研究発表とは、佐原真先生の「考古学から見た日本民族」でした。佐原先生は日本文化の要素を、外来的な要素、伝統的な要素、そして固有に発達した独自的要素の3つに分類します。 

2021年4月6日火曜日

三谷幸喜さんと銭湯8

 

もしそうだとすれば、羞恥心とは学習するものではなく、太古以来DNAのごとく人間に埋め込まれた感情、あるいは本能的なものということになります。この羞恥心自体は生得的なものだという説を認めるとしても、その後の学習によって、民族や国によって差異が生れることはとてもおもしろく感じられます。

小さいときから僕は、二大行為のうちの一つである排泄行為がとても恥ずかしかった。とくに家以外のトイレで、個室に入るのが死ぬほど恥ずかしかったのです。これをトイレ羞恥心と呼ぶならば、こんなにトイレ羞恥心が強い俺はチョットおかしいんじゃないかと思うほどでした。トイレ羞恥心は今でこそずい分と薄れましたが、長い間ずっと強く残っていました。

2021年4月5日月曜日

三谷幸喜さんと銭湯7

しかしこんなことをクダクダしく述べる必要など、毛頭ないのかもしれません。羞恥心が学習によって形成される感情であるということは、人間と動物を比べてみればすぐ分かることだからです。あの二つの行為を、人間はとても恥ずかしく思うのに、犬やネコにとっては恥ずかしくも何ともないんですから……。

 もっとも、人間がそれを恥ずかしく思うのは、その行為中まったく無防備になるため敵に襲われやすく、襲われないよう隠れて行なううちに、恥ずかしいことと思うようになったのだという仮説を読んだことがあります。確かに、よく腑に落ちる解釈です。チョット反論が難しい理由付けです。 

2021年4月4日日曜日

三谷幸喜さんと銭湯6

 

こんなにも三谷さんの体験にこだわったのは、渡辺京二さんの名著『逝きし世の面影』が伝えてくれる幕末明治の日本におけるあの「裸天国」を考える際、とても参考になるように感じられたからです。

『逝きし世の面影』を読むと、日本人は天真爛漫であり、欧米人は社会的規範によって雁字搦めになっていたという結論を導き出したくなりますが、それはやはり間違いでしょう。裸に対する天真爛漫ともいうべき態度や、あるいは恥ずかしいという感情を、日本人も欧米人も、親や家族や社会から学習していたにちがいありません。

2021年4月3日土曜日

三谷幸喜さんと銭湯5

 

つまり、銭湯で裸を見られるのは恥ずかしいことではないという、あとから学習したことは、数十年の間にすっかり忘れ去られて、その前に学んだ人前で裸になるのは恥ずかしいことだという感情に支配されることになるのでしょう。

たとえ赤ん坊のときから銭湯だったとしても、数十年間行かないうちに、銭湯では裸が当たり前だという感情が薄れ、裸は恥ずかしいものだという感情がその部分を侵食していくのではないでしょうか。しかも銭湯に一度も行かない数十年の間、裸は恥ずかしいものだという感情を毎日毎日学習し続けるわけです。

2021年4月2日金曜日

三谷幸喜さんと銭湯4

 

そうではないでしょう。羞恥心は学習される感情だからだと思います。人に裸を見られることは恥ずかしいことだということを、現代人は幼児のときから学習します。やがて銭湯に行くようになると、裸は当たり前田のクラッカー――またまた出てしまいましたが――で、恥ずかしいことではないということを学びます。

しかし後から学んだことは忘れられやすいものです。昔のことはよく覚えているのに、最近のことはほとんど忘れているという僕の経験からいっても、これは確かです。「オマエの経験がナンボのもんじゃ」というヤジが飛んできそうですが、多くの人が経験している真理ではないでしょうか。

2021年4月1日木曜日

静嘉堂文庫美術館「春のフルート四重コンサート」4

 


今日、クァチュオール・アコルデの素晴らしい演奏を聴きながら、それを改めて確信したことを述べた後、このような美しい音楽、諧調豊かな演奏にしばしのあいだ身をゆだねれば、おのずと免疫力も高まって、コロナになんか罹らなくなるにちがいと言って〆にもっていきました。我ながらうまい〆だったかな() 

アンドルー・ワイル博士も、同じようなことを名著『癒す心、治る力 自然的治癒とは何か』に書いていたように思いますが……。

もちろん、来年10月新たにオープンする明治生命館新ギャラリーのことも披露しました。明治生命館のホワイエをお借りするわけですから、少なくともオフィスアワーにミュージック・コンサートを開くことはむずかしいかもしれません。しかしクァチュオール・アコルデの皆さんには、ぜひそこで再演をお願いしたいと思わせる今日の演奏会でした。

そして最後に、チャッカリ「饒舌館長」なるブログの宣伝までやっちゃった饒舌館長でした()

渡辺浩『日本思想史と現在』8

  渡辺浩さんの『日本思想史と現在』というタイトルはチョッと取つきにくいかもしれませんが、読み始めればそんなことはありません。先にあげた「国号考」の目から鱗、「 John Mountpaddy 先生はどこに」のユーモア、丸山真男先生のギョッとするような言葉「学問は野暮なものです」...