2019年1月31日木曜日

静嘉堂文庫美術館「お雛さま展」1


静嘉堂文庫美術館「桐村喜世美氏所蔵品受贈記念 岩崎家のお雛さまと御所人形」<324日まで>

 いよいよ静嘉堂文庫美術館で「桐村喜世美氏所蔵品受贈記念 岩崎家のお雛さまと御所人形」展が始まりました。お雛さまと御所人形に代表される日本人形は、もっともすぐれた日本美のエッセンスです。少なくともその一つ、近代日本人形の最高傑作が皆さまのご来駕をお待ちしています。

お人形――それは私たちの姿を小さく形作った造形物です。そのオリジンは信仰や宗教に求められ、神聖にしておかすべからざる祈りの対象を、人間の形態に移し替えた象徴的造形です。それは「ひとがた」とか「かたしろ」とか呼ばれ、おまじないや身代わりなどにも使われました。

『広辞苑』に「人形」を求めれば、「紙・土・木などで人の形を模して作ったもの。古くは『ひとがた』といい宗教的な行事に用いられたが……」とあります。

2019年1月30日水曜日

不倫文化論8


先日、ある編集者の方と飲んでいて、談たまたま磯田光一氏に及んだところ、お二人に交流があったことを知り、思い出話をお聞きすることができました。「吉四六」をやりながら、荷風論で盛り上がったことは言うまでもありません。

荷風論といえば、以前、泉屋博古館東京分館の野地耕一郎さんともこれで盛り上がり、いつか二人で、「永井荷風と江戸美術」みたいな展覧会をやってみたいなぁと意気投合したことがありました。もっとも、キョウビこんな展覧会が当たるとは思えませんが……。

 ところで、中国だったら「一盗二婢」じゃなく、「一偸二婢」と書くような気もしますが、どなたか出典をご存じの方がいらっしゃったら、是非ご教示くださいませ。よろしくお願い申し上げます。

ヤジ「そんな出典を知って、オマエどうするつもりなんだ!!

2019年1月29日火曜日

不倫文化論7


我が国の出世魚や、雨や雪の多彩な表現をあげるまでもなく、同一物にたくさんの表現があるというのは、それが豊かであり、それに対する思い入れが強いことの証拠です。やはり不倫という分野でも、中国の方に一日の長があるんです(!?)

先に『摘録 断腸亭日乗』の編者として磯田光一氏の名前をあげました。56歳でお亡くなりになりましたが、傑出した文芸評論家にしてイギリス文学者でした。『摘録 断腸亭日乗』の編者に選ばれたのは、第1回サントリー学芸賞を受けた評論『永井荷風』(講談社文芸文庫)が早く発表されていたからにちがいありません。これしか拝読しておりませんが、三島由紀夫を論じたデビュー作品『殉教の美学』の方がよく知られているかもしれませんね。


2019年1月28日月曜日

不倫文化論6


それに、この方面でも中国は先進文化の国でした。ご興味のある方は、辻惟雄さんの求めに応じて書いた拙文「春画――中国から日本へ」をご笑覧くださいませ。引用文献もあげてありますから、さらにご自身で深く研究することもできます(!?) その直後に出版され、これが読めていたらもう少しマシな文章になったのにと思わざるを得なかった、張競さんの『恋の中国文明史』(ちくまライブラリー)も絶対オススメですよ。 

それは現在まで生きているようです。今の中国には二種の愛人があって、それを「小三[シャオサン]」と「二奶[アールナイ]」と厳密に区別して呼ぶそうです。中国のちょっと悪いポン友が教えてくれました。日本語ではただ「愛人」というだけで、こんな区別など存在しないのです。

2019年1月27日日曜日

不倫文化論5


 さて、「一盗二婢三妓四妾五妻」という熟語が『断腸亭日乗』にあることは、ネットのお陰で確かめることができました。もっとも、これは岩波版『荷風全集』が採用した『断腸亭日乗』原本にあるのであって、荷風が生前公刊した中央公論社版『荷風全集』などでは、「一盗二婢三妓四妾」と、「五妻」がカットされているそうです。

また、「下女正江」が「家政婦まさ江」に改められていることも、岩波版の脚注が教えてくれますが、これらは公刊に際し、世間を憚った荷風がみずから手を加えたものにちがいありません。

それはともかく、「古人の言」とあって、荷風以前に古くから言われてきた俗諺であることが明らかなわけですが、残念なことに、その出典を知ることができません。漢字を10字並べただけですから、中国由来の熟語みたいに思われます。

 

2019年1月26日土曜日

不倫文化論4


さらに、西洋では人間の精神生活にかかわるものを文化と呼ぶという定義にしたがえば、人間の精神生活と深くかかわる不倫は、ズバリ文化であることを『広辞苑』が定義づけてくれていることになります。

 僕のおしゃべりトークでは、よく「酒は文化です。『広辞苑』に、人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果とありますから、酒が文化であることはおのずから明らかです。実をいうと、僕はお酒が大嫌いです。しかし、文化のもっとも重要な一側面である美術を研究するものとして、飲まざるを得ないのです」――と言って笑いをとります。

たとえ爆笑はとれなくても、いつも聞いている方は、「またやってるわ」とせせら笑ってくれます(!?)

それはともかく、この論法にしたがえば、文化である不倫も行わなければならないということになりますが、僕は厳格な「三無主義者」なので不可能です。三無主義とは、三つのものを絶対に持たないという主義です。それはクルマとスマホと愛人です――これも「またやってるわ」かな?

2019年1月25日金曜日

不倫文化論3


たとえば、不倫温泉旅行を考えてみれば、それは確かに人間が自然に手を加えて形成する物心両面の成果です。そんなの牽強付会のコジツケじゃないかと言われるなら、不倫小説はどうでしょうか。

夏目漱石から渡辺淳一に至る不倫小説の歴史が文化であることは自明であり、不倫小説の基底に不倫そのものが存在したことも、これまた自明であるといってよいでしょう。近くにお住まいだった女性初の芥川賞作家・中里恒子先生の『時雨の記』こそ、これを証明する傑作中の傑作です。つまり、不倫は文化なのです。少なくとも、文化を生み出す一要素であることは疑いありません。

しかしこんなことを証明しようとするより、『広辞苑』が「道徳」を挙げている事実を指摘した方がよっぽど早いでしょう。この「道徳」には、明らかに「悪徳」も含まれているはずです。

2019年1月24日木曜日

不倫文化論2


『広辞苑』に「文化」を求めてみると、第一義は「文徳で民を教化すること」とあります。これじゃ不倫とまったく反対です。第二義は、「世の中が開けて生活が便利になること」とありますが、不倫によって生活が便利になるとは思えません。むしろ、不便になるんじゃーないでしょうか?

石田純一がいう「文化」とは、残る第三義の「(culture) 人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住をはじめ技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容とを含む。西洋では人間の精神的生活にかかわるものを文化と呼び、文明と区別する」にちがいありません。

もっとも『日本国語大辞典』には、「自然に対して、学問・芸術・道徳・宗教など、人間の精神の働きによってつくり出され、人間生活を高めていく上の新しい価値を生み出してゆくもの」とあります。しかし僕は、人間生活を高めるどころか、低めていく文化も存在すると考えるので、これは採用しません。やはり新村出先生の方が正しいと思います(!?)

2019年1月23日水曜日

不倫文化論1


 先に「謹賀新年」と題して、王安石の七言絶句「元旦」から今年の「饒舌館長」を始めたところ、この北宋を代表する士大夫詩人には誠に失礼なことながら、永井荷風『断腸亭日乗』の「一盗二婢三妓四妾五妻」まで行っちゃいました。さらに続けて書きたいと思いましたが、いくら何でも「謹賀新年」じゃー「八日の七草粥(!?)」になっちゃいます。

翻って考えてみますと、「四妾」までは現代いうところの「不倫」ですので、「不倫文化論」という新しいタイトルにしましたが、ブッチャケを言えば「謹賀新年」の続編です。本編をまだ読んでいない方は、是非ザッと目を通してから、この私論へお進みくださいね。よろしくお願い申し上げます。

さて、俳優・石田純一は「不倫は文化だ」という名言を吐きました。ものすごいバッシングを受けたようですが、一面の真理は突いているように思います。



2019年1月22日火曜日

山種美術館「皇室ゆかりの美術」5


これとは別に、同じく青邨の彩管になる「獅子図」も、静嘉堂文庫美術館には伝えられています。これは献上屏風制作の翌年、小弥太の依頼により、その鳥居坂本邸玄関広間の衝立として描かれた作品ですが、現在は保存のため額装に改められています。

衝立という間仕切りの性格上、表に雌雄の親獅子、裏に仔獅子を集めて構図を変えており、それは献上屏風とは異なった画趣を生み出す結果にもなっていますが、献上の名誉と想い出を残さずにはいられなかった小弥太の希望にしたがったことは疑いありません。

なお、すでに指摘されるように、献上屏風の仔獅子は小弥太が所蔵していた唐俑「三彩獅子」をモデルにしたものですが、ここにも青邨と小弥太の強いきずながうかがわれます。事実、小弥太は青邨から絵の手ほどきを受け、それを生涯の楽しみにしたのでした。

2019年1月21日月曜日

山種美術館「皇室ゆかりの美術」4


青邨は、本来のいい意味で「したたか」だったのです。漢字で書けば「強か」ではなく、「健か」の方がふさわしいでしょう。青邨はそれを奥に秘め、決して表面に出すことをしませんでした。だからこそ、青邨を誰よりも早く見出し、高く評価した横山大観のような、おもしろいエピソードはあまり多くないということになるのです。

しかし青邨は、近代現代に生きる画家として、したたかであるべきだとと自覚していましたから、自覚的健かさといってもよいでしょう。たとえ、今日出海先生が中央公論社版『日本の名画』15<前田青邨>に寄せた、随筆のタイトルである「平凡な非凡人」という青邨観を認めるとしても、その「非凡」のなかに、「自覚的健かさ」を含めたい誘惑に駆られます。

実をいうと、静嘉堂文庫美術館にはこの屏風の下絵が遺されています。いわゆる小下絵[こじたえ]ですが、「献上屏風下図 昭和十年四月吉日」と記入され、落款印章に加えて拡大のための升目罫線も引かれています。構図も完成画とまったく同じといってもよいほどですから、最終段階の小下絵とみてよいでしょう。


2019年1月20日日曜日

山種美術館「皇室ゆかりの美術」3


今回僕は青邨屏風の前に立って、その強烈な迫力に圧倒されましたが、それは「永徳なにするものぞ!」という自負、矜持、あるいは気概が生み出したエネルギーと表裏一体をなしているように感じられたのです。青邨が動物園に出かけてライオンを写生したことは事実だとしても、そのようなリアリズム志向だけで、この屏風の力動感を生み出せるものでしょうか。

青邨は優美なやまと絵の画風をもって、構築的な漢画様式の永徳に挑戦し、すぐるとも劣らぬ二次元世界を創り出すことができた満足感のうちに、「青邨」朱文円印を捺し終わったんだと思います。

僕がこのように考えるのにはわけがあります。日本画家では珍しい自画像――「白頭」と題する傑作を遺している青邨には、強い自我意識があったというのが、僕の青邨観だからです。

2019年1月19日土曜日

サントリー美術館「扇の国、日本」4


これを見て、僕はすぐ伊藤若冲の「動植綵絵」を思い出しました。『諸橋大漢和辞典』に「綵」を求めると、①あやぎぬ。模様のあるきぬ。②あや。いろどり。もやう。とありますが、「綵画」や「綵絵」には当然②の「いろどり」がふさわしいことになります。

「綵画」や「綵絵」という熟語は見当たりませんが、「熟語は采・彩を併せ見よ」とあるので、「彩」を見ると、「彩画 彩色画」「彩絵 いろどり。もやう。ゑ」と出てきます。このようにみてくると、「動植綵絵」は若冲がその美しいいろどりを何よりも誇ろうとしたシリーズということになります。

それはともかく、「綵画」という『諸橋大漢和辞典』にもなかった熟語が、『善隣国宝記』にあることを初めて知ってうれしくなり、足取りも軽く、サントリー美術館を後にしたことでした。 


山種美術館「皇室ゆかりの美術」2


「僕の一点」は、前田青邨の「唐獅子」六曲一双屏風(宮内庁三の丸尚蔵館)です。昭和天皇即位礼をことほぎ、青邨に加えて鏑木清方、橋本関雪、川端龍子、堂本印象という当時を代表する5人の日本画家が屏風絵を献上しました。依頼したのは、静嘉堂文庫を確立発展させた三菱社長・岩崎小弥太でした。

青邨は華麗な色彩、シンプルにして明快なフォルム、おおらかな垂らし込み技法という琳派画風によりながら、一見して昭和の青邨だと直感できる個性的大画面を生み出しています。これはすでに指摘されるところです。しかし僕は、青邨がこの屏風を構想したとき、かの狩野永徳に対する対抗意識があったにちがいないと思います。

唐獅子図の最高傑作ともいうべき永徳屏風は御物でしたから、実際に青邨は見せてもらったのではないでしょうか。それは霊感源などという生易しいものではなく、ライバル意識を掻き立てたにちがいありません。たとえ実際に見なかったとしても、青邨が永徳屏風を知っていたことは、改めて指摘するまでもありません。

2019年1月18日金曜日

山種美術館「皇室ゆかりの美術」1


山種美術館「皇室ゆかりの美術――宮殿を彩った日本画家――」<120日まで>

 名残惜しくも平成に別れを告げ、新しい天皇と元号とともに、新しい時代が始まろうとしています。この時にあたって、皇室ゆかりの美術をテーマとする特別展が山種美術館で開かれています。中心となるのは、昭和43年(1968)完成の皇居新宮殿を飾った日本画家によるゆかりの優品です。

当時、その新宮殿画を実際に拝見する機会にめぐまれた山﨑種二氏は、拝命した東山魁夷をはじめとする6人の画家に、相似た趣向の作品を揮毫してほしいむね依頼しました。山﨑氏が深く心を動かされたことは言うまでもありませんが、それを一人でも多くの国民に見てもらいたいという願いが、氏の胸中で日増しに強まっていったのです。これに宸翰など皇室ゆかりの美術作品を加えて構成されたのが、絶対オススメの本特別展です。

謹賀新年18


満々たる暮潮は月光を浴びてきらきらと輝き、橋下の石垣、または繋れたる運送舩の舷を打つ水の音亦趣あり。電車通りをよこぎり、三の橋をわたり、越前堀波止場の捨石に腰をかけてしばらく月を看る。空はよく晴れわたりたれど、水の上は青くかすみて、遠からぬ石川島の火影もおぼろ気なり。河岸づたいに新高橋をわたり、稲荷橋の欄干によりかかりて、深川へ通う猪牙舟の、ゆききしげかりし昔の情景など思い回すほどに、折好く乗合自働車の来りて停るを見たれば、それに乗りて銀座にいたり、夕餉を不二あいす店に食し、七時頃家にかえる。郵便取りにと台所に至り見るに、下女正江風邪ひきたりとてガーゼの寝衣に赤き細帯しどけなく床の中に寝ていたり。古人の言に一盗二婢三妓四妾五妻とかいうことあり。好色の極意げに誠なるが如し。阿々。

サントリー美術館「扇の国、日本」3


当然のことながら、萩は扇面の外まで伸びていて、源豊宗先生が宗達の金銀泥下絵について指摘された「トリミング方式」を思い出させてくれます。

扇面の上に萩が乗っているので、色紙や扇面の形に自然の植物を切り取るというトリミング方式とは逆かもしれませんが、自然の植物がそのまま模様になるという点で、ちょっと似ているように思われたのでした。

 「僕の一点」をもう一つ加えれば、瑞渓周鳳編『善隣国宝記』ですね。文明4年(1472103日、室町幕府将軍・足利義政が朝鮮国に贈った贈答品目録のページが展示されていましたが、そのなかに「綵画扇貮伯把」とあるのです。「綵画」の扇子200本を贈ったわけですが、この綵画とは着色画の意味にちがいありません。

2019年1月17日木曜日

サントリー美術館「扇の国、日本」2


 中国には、ここにある「団扇」のほか、長い柄のついた「翳」[さしば]なども早くよりありましたから、これらがヒントになった可能性は否定できません。しかし扇の完成された美しいフォルムを見ると、「ごあいさつ」にあるように、オリジナルつまり日本独自の発明品だと誇りたい気持ちになります。李御寧さんが指摘するように、それは<縮み>志向かもしれませんが、同時に末広がりでもあるんです。

 「僕の一点」は、南北朝時代の「萩薄扇面双雀文鏡」(大阪美術博物館<田万コレクション>蔵)です。ちょっと萩や薄には見えないのですが、題箋にしたがって萩と薄にしておきましょう。

僕が興味深く感じたのは、そこにデザインされた扇面と萩です。扇面の上に折枝花[せっしか]風に萩が描かれているのですが、萩は本当の萩であるとともに、扇面の模様ともなっています。折枝花というのは、全株の花卉に対して、折り取られた枝と花を描く中国画の画題です。



謹賀新年17


十二月七日 よく晴れて今日も暖なり。晡下(午後4時過ぎ)大石病院に徃き、日常の消化剤を求め、再び街路に出ずるに、短き日は早くも暮れ果て、十日過の月空に浮びたり。土州橋を渡り、箱崎町に立並びたる倉庫の間のさびしき道を歩み、高尾稲荷の祠前に出ず。いと狭き境内に、何やら青き色したる自然石の碑あり。あたり暗くして碑文は読み難し。御手洗の柱に木札を打付け「高尾櫛は大阪屋酒店にて一枚金弐拾銭にて御配布致します」とかきたり。石の鳥居前の小径は、直に新堀の河岸通なる豊海橋のほとりに通ずるなり。豊海橋鉄骨の間より、斜に永代橋と佐賀町辺の燈火を見渡す景色、今宵は明月の光を得て、白昼に見るよりも稍画趣あり。

2019年1月16日水曜日

サントリー美術館「扇の国、日本」1


サントリー美術館「扇の国、日本」<120日まで>

 クーラーがどんなに発達しても、夏になるとお扇子を持つ日本人は少なくないでしょう。梅雨があけたころ贈られると、描かれた絵を開いて見るだけで、あまり扇子を使わない僕でも、ちょっと涼しくなったような気分になります。この扇子に焦点を絞ったオススメの特別展が、サントリー美術館で開催中です。カタログの「ごあいさつ」から、一部を紹介しておきましょう。

「扇」は、日本で生まれ発展したものです。その起源は詳らかではありませんが、早く十世紀末には中国や朝鮮半島に特産品としてもたらされています。中国の文献には、それまで一般的だった団扇[うちわ]と区別して、折り畳む意味の「摺」の文字をあてた「摺扇」[しゅうせん]「摺畳扇」[しゅうじょうせん]や、「倭扇」[わせん]などと登場しており、扇が日本のオリジナルであったことを物語っています。

謹賀新年16


 ちょっと横道にそれてしまいましたが、早速僕はトイレに入って、昭和1012月のところを見てみました。しかし、どこにもありません。昭和9年も、昭和11年もチェックしてみました。これまた影も形もありません。やっぱり、ネット情報って当てにならないんです。しかし次の瞬間、ハタと気がつきました。

僕が愛読しているのは岩波文庫版、つまり『摘録 断腸亭日乗』なんです。磯田光一氏が岩波版『荷風全集』から取捨選択を行なって、上下2冊にまとめた摘み食い本なんです。 

『荷風全集』は「江戸芸術論」が収まる第10巻しか持っていません。すぐアマゾンで『荷風全集』の「断腸亭日乗」を注文、封を切るのももどかしく開き見れば、バッチリ第23巻にありました。ネット情報ってすごく当てになるんです!! 

ヤジ「さっきは当てにならないと言ってたじゃないか!!」――君子は豹変するんです(!?)

2019年1月15日火曜日

謹賀新年15


とかくして飯くい終れば午後二時となり、室内を掃除して顔洗う時はいつか三時を過ぎ、煙草など呑みいるうち、日は傾きて忽ち暗くなるなり。これ去年十二月以後の生活。唯生きているというのみなり。正月三ヶ日は金兵衛の店も休みなれば、今日は配給の餅をやきて夕飯の代りとなせり。夜七時頃、菅原明朗・永井智子相携えて来り話す。浅草海苔を貰う。

 これに続いて、「町の噂」が箇条書きになっていますが、3つ目のエノケンや古川ロッパに関する一節などは、「面白うてやがて悲しき鵜飼かな」といった感慨にとらわれます。

浅草公園の道化役者・清水金一、公園内の飲食店にて殴打せられ一時舞台を休みし由。なおまた、エノケン・緑波などいう道化役者の見物を笑わせる芝居は、不真面目なれば芸風を改むべき由、その筋より命令ありしという。

2019年1月14日月曜日

謹賀新年14


それは家のトイレに備え付けておき、毎朝、適当な年からその日の記事を読むことにしているからです。その日がないときは、その月から適当な一日を読むんです。この元旦には、僕が生まれた昭和18年(1943)元旦の記事を改めて読みました。一部を読みやすくしながら、引用してみましょう。

正月一日。炭を惜しむがため正午になるを待ち、起き出で台所にてコンロにて火をおこす。焚き付けは割り箸の古きもの、または庭木の枯れ枝を用ゆ。暖かき日に庭を歩み、枯れ枝を拾い集むる事も、仙人めきて興味なきに非ず。コンロに炭火のおこるを待ち、米一合とぎてかしぐなり。惣菜は芋もしくは大根蕪のたぐいのみなり。時には町にて買いし菜漬・沢庵漬を食うこともあり。されど水にて洗うがいかにも辛[つら]し。

2019年1月13日日曜日

謹賀新年13


 王安石のお妾さんや妓女の話から、すぐに思い出されるのは、「一盗二婢三妓四妾五妻」という、「一富士二鷹三ナスビ」みたいな俗諺ですね。女性の方々、どうぞしばらくの間「饒舌館長」へアクセスしないようにして下さい(!?) かつてどこかで読んだか見たかして暗記しているのですが、どこだったか思い出せません。どう見ても中国風なので、『大漢和辞典』を引いてみましたが、さすが諸橋轍次博士、こんな下ネタ風熟語はカットしちゃっています。

仕方がないので、ネットで検索をかけたところ、永井荷風『断腸亭日乗』の昭和10年(1935127日の条がヒットしました。「おかしいなぁ」――『断腸亭日乗』は愛読書なのに、読んだ記憶がありません。どうして『濹東綺譚』ならぬあの荷風日記が愛読書なのかって?

2019年1月12日土曜日

謹賀新年12


 「車と舟」というのは、文意からいって妓女のことにちがいありませんが、よく分かりません。まさかフロイトの先取りじゃないと思いますが……。それはともかく、お酒の点では好悪を異にする僕ですが、バッチリ一致するのは風呂嫌いです。

王安石の顔がどす黒かったので、弟子が心配して医者に相談すると、医者は、「あれは垢汚れです。心配はいりません」といって澡豆[さいかち]を与え、これで顔を洗わせるようにと教えてくれました。弟子がそのこと伝えると、王安石は、「天がわしに黒を授けてくださった以上、澡豆ごときがわしをどうしようぞ」といって、平然としていたそうです。これまた三浦國雄さんが教えてくれるところです。

さて、僕も風呂嫌いで通っていますが、それは家やホテルに据え付けられているユニットバスの話で、温泉や銭湯は大好きなんです!!

2019年1月11日金曜日

謹賀新年11


また、こんな話もある。蘇州で知事をしていた友人の劉攽[りゅうはん]に招待され、州の役所に出かけたときのことである。庭にずらりと居並ぶきれいどころを見た安石は顔色を変え、席に着こうとしない。あわてた劉攽が妓女たちを引き取らせ、「車と舟は焼きました」と言ったので、やっと安石は機嫌を直したというのである。友人の心尽くしも安石には通じなかったわけである。

なお、この劉攽は長安の妓女と浮き名を流したこともあった。当時の士大夫としては、むしろそのほうが普通なのだった。

2019年1月10日木曜日

謹賀新年10


   「おまえはいったいだれかね」

   「奥様からだんな様のお世話をするようにとおおせつかりました」

   「夫はどうしたの」

「私の夫は軍の責任者としてお上のお米を輸送しておりましたが、船が沈みまして、家の財産を全部投げ売って償いましたがまだ足りず、私を売ったお金で弁償した次第でございます」

  安石は顔を曇らせて訊いた。

   「奥様はおまえを手に入れるためにいくら払ったのか」

   「九十万銭でございます」

安石はその夫を呼んでもとのように夫婦にならせ、支払ったお金はそのまま取らせてやったという。

2019年1月9日水曜日

謹賀新年9


 「飲む」がこんな王安石ですから、「買う」方も石部金吉だったようで、これまた『王安石 濁流に立つ』におもしろいエピソードが紹介されています。これもそのままに引いておくことにしましょう。

宋代においても、士大夫の艶聞には事欠かない。……しかし、王安石には浮いたうわさなどまったくない。これは有名な逸話なのだが、彼が知制誥(内閣の辞令起草官)になってまだまもないころ、夫人が安石のために一妾を買った。子供もちゃんと授かっているのに、夫人がなにゆえそんな挙に出たのか分からない。知制誥にまで出世したから世間並みに男の勲章を、ということなのだろうか。それはともかく、安石は連れて来られた女をまじまじと見つめながらこう尋ねた。

2019年1月8日火曜日

謹賀新年8


 先に、「王安石は下戸だったらしく、『中国詩人選集』に将進酒のような詩は一首もありません」とアップしました。そのあとで、「田能村竹田の勝利」を書いたときに読んだ三浦國雄さんの『王安石 濁流に立つ』(中国の人と思想7 集英社 1985)に、王安石が下戸であったことを証するエピソードがあったような気がして、もう一度読んでみたところ、やはりありました。その一節を引用しておくことにしましょう。

三十代半ばになり、地方官から京師に呼び戻され、群牧司判官(軍馬をつかさどる役所の属官)を拝命したときのことである。ある日、群牧司の役所の庭に牡丹がみごとに咲いたので、長官の包拯[ほうじょう]が主宰して花見の宴が張られた。同僚となった司馬光も招かれた。司馬光はがんらい酒を好まなかったが、長官から勧められると無理して飲み干した。ところが同じく下戸であった安石は頑として拒み通し、お開きになるまでついに盃を手にしなかった。ちなみにこの包拯、すなわち包公はのちに民衆のあいだで名裁判官として人気を博し、彼を主人公にした『龍図公案』はわが国の大岡裁きの種本である。

2019年1月7日月曜日

謹賀新年7


最後に、五言律詩「新花」を挙げておきましょう。これは王安石の絶筆とされているそうで、元祐元年(1086)夏46日(旧暦)66歳で亡くなった王安石が、その年の春に作ったものであろうと、清水茂さんは推定しています。

ところで王安石の詩文集として、流布本『臨川先生文集』のほかに『王文公文集』がありますが、少なくとも『中国詩人選集』が編まれた段階では、宮内庁所蔵本しか知られていなかった稀覯本のようです。

それにはこの詩が「新花」と「絶筆」という異なるタイトルで、重複して収められているとのことですが、杜撰というよりも、この詩の重要性と内容によるところだったのではないでしょうか。重層的で、老いの哀しみとも、老人への応援歌とも聞こえますが、我々はぜったい後者でいきたいですね!!

 年とりゃ楽しみ減じたり まして病[やまい]の床にありゃ

 水を汲み来て活ける花――流れる香りに慰[なぐさ]もる

 だがその香りはしばしの間[かん] 俺も長くはないだろう

 新しい花 老いた俺 忘れてしまえ 二つとも!! 

2019年1月6日日曜日

謹賀新年6


後期高齢者であることを忘れて、僕が選ぶ№1は、「元旦」と同じく七言絶句の「夜直」です。夜直は宮中で宿直すること、王安石が都の汴京(現在の開封)にいたときの詩ですが、いつの作かは分からないそうです。

僕が東京国立文化財研究所につとめていたころ、セコムだったか、アルソックだったか、ともかくも警備会社が入るまで宿直がありました。大晦日に当たったときは、紅白歌合戦を見ながら独り酒、元旦に当たったときはヤケ酒(!?)――今では懐かしい思い出です。しかし、さすが王安石はすごい! 僕と違ってお酒なんか一滴も飲まず、こんな素晴らしい詩を吟じてしまうんです!! 「オマエと天下の王安石を比べたりするな!!!

 金の炉に香 燃え尽くも 時報の太鼓にゃ余韻あり

 波打つ微風 闇に乗り 吹くたび春寒つのりたり

 だが春の気配なまめいて 眠ることさえ出来ぬ俺

 傾く月に花の影 欄干[おばしま]までもせり上がる

2019年1月5日土曜日

謹賀新年5


これは王安石が遼の使者を見送るため、国境まで行ったとき、出発にあたってその文淑に与えた詩とされますが、なお疑いも残るそうです。いずれにせよ、後期高齢者の僕にとって、もっとも心に沁みる詩でした。

 若いときでも別れとは 気軽なものじゃないけれど

 老いてはたまに出会っても いつまた会えると胸痛む

 料理は厨[くりや]の有り合わせ それを肴に語り合う

 照らす灯火[ともしび]ほの暗く 思い出話に花が咲く

 何たることぞ! 鄞[ぎん]県で 別れて暮らした三年間

 なのに今度は何万里 砂漠遥かな旅路とは!

 「次にふたたび会えるのは いつの日かしら」と訊かれれば

 「雁が南へ飛ぶころにゃ きっと手紙も出せるよ」と……

2019年1月4日金曜日

謹賀新年4


また蘇東坡の方も、黄州への遠地追放を解かれて汝州へ転任する途中、南京に隠棲していた王安石を訪ねて、楽しく語り合ったそうです。すごくいい話ですね。解説者の清水茂さんも、「これらの詩人たちは、文学者としては、友人となり得る大らかな人たちであった」とたたえています。

今年のお正月は9連休、一杯機嫌で戯訳をつけながら、王安石と遊ぶことにしたというわけです。王安石は下戸だったらしく、『中国詩人選集』に将進酒のような詩は一首もありません。しかも謹厳実直を絵に描いたような王安石ですから、ほろ酔い戯訳など、天上から一喝されてしまいそうですが……。

その中からここに紹介するのは、「長安君に示す」という七言律詩です。長安君とは王安石の妹である文淑のことです。張圭という人の妻となり、長安県君という称号を朝廷からもらったからだそうです。

2019年1月3日木曜日

謹賀新年3


その蘇東坡と対立したのが、新法党の盟主・王安石ですが、そのときは執筆に追われて、『中国詩人選集』をじっくり味わうこともなく書き終えてしまいました。それなら脱稿後、ゆっくり読めばよかったじゃないかと叱られそうですが、そこはやはり怠惰な人間、書き終わったら忘れるともなく忘れてしまいました。

これに限らず、執筆中は「書き終わったら、もう少しちゃんと勉強しよう」と思いながら、原稿が手から離れると、ホッとしてもうやる気が失せているというのは、毎度お馴染みだといってよいでしょう。

ところで、王安石と蘇東坡は政治上のライバルでしたが、詩人としてはおたがいに資質を評価していました。王安石は、15歳も若い蘇東坡の詩と同じ韻字を使って6首も詠んだそうです。

2019年1月2日水曜日

謹賀新年2


 渡部さんのお陰で、そーだ、今年のお正月は王安石を楽しもうということになり、またまた『中国詩人選集』二集を引っ張り出してきて、初詣など行かず心静かに過すことにしました。もちろんお屠蘇や、頂戴した「王舎城」「呉春」「立山」「百年の孤独」「北一」「魔王」「真澄」「宮城峡」をやりながらです。すべて銘酒、順番などつけがたく、銘柄はアイウエオ順です(!?) 

かつて『國華』に投稿し、最近出した『文人画 往還する美』にも収録した拙文「田能村竹田の勝利」については、すでにアップしましたね。そのなかで、竹田は尊敬する蘇東坡に、みずからをなぞらえようとしたのではないかという私見というか、仮説というか、ともかくも思いつきを提出しました。

当時の経世済民政策論争において、旧法党に属して「万言の書」を提出した蘇東坡と、一揆を起こした農民の側に立って「建言書」を出した竹田の姿が、ダブルイメージのごとく、重なってみえたからです。

2019年1月1日火曜日

嵯峨嵐山文華館「胸キュン!嵐山」6

 周恩来のいう「姣妍」を「艶かしい」と訳したのですが、つまり美しいという意味でしょう。彼は雨中の嵐山を、日本人と同じように美しいと感じたのです。しかしそれだけではなく、真理探究の過程におけるよく似た瞬間を想起している点が、はじめて見た時にとても興味深く感じられたのです。


「姣妍」という審美が、真理という認識との関係においてとらえられています。それはやはり、中国人である周恩来に、自然を真のシンボルとしてみるという伝統的な中国の自然観が、そなわっていたからなのではないでしょうか。


このような私見が認められるか否かは別にして、嵯峨嵐山文華館の隣に建つ詩碑を、そのリニューアルオープン記念おしゃべりトークで、我ながらうまく使ってイントロに仕立てたなぁ――初めよければすべてよしだと独り言ちながら、満員の「のぞみ」で祝杯をあげつつ帰宅したことでした() 

謹賀新年1


明けましておめでとうございます。今年も「饒舌館長」をよろしくお願い申し上げます。

  旧年過ぎゆき新年を 爆竹聞きつつ迎えたり

  お屠蘇に舞い込む早春の 暖かい風吹き初めて……

  すべての家にキラキラと 輝く朝日差し込めば

  古いお札[ふだ]を新しい お札にみんな張り替える

 これは北宋の政治家にして詩人である王安石の「元旦」という七言絶句です。「詩跡の狩人」とたたえられる渡部英喜さんの『漢詩歳時記』(新潮選書)から採りました。王安石はとくに絶句を得意としたそうですが、確かにお正月のモチーフをたくさん散りばめながら、華やいだ雰囲気をよく感じさせてくれます。もとの詩を読み下せば次のとおりですが、今年も漢詩はすべて戯訳でいくことをお許しくださいね。

爆竹の声中一歳除き 春風暖を送って屠蘇に入る

 千門万戸曈曈たる日 総て新桃を把って旧符に換う

岩波ホール「山の郵便配達」2

  名古屋大学につとめていたころ、名古屋シネマテークで勅使河原宏の「アントニオ・ガウディ」がかかり、見に行こうと思っているうちに終っちゃったことがありました。そのころ映画への関心が薄れ、チョット忙しかったこともあるのかな?  そんな思い出はともかく、名古屋シネマテークが閉館に...