2023年3月31日金曜日

出光美術館「江戸絵画の華 第2部」8

円山応挙中年期の花鳥画は銭舜挙に倣っている。山水人物画は唐寅を学んで描写力を高めている。土井氏が所蔵する「前赤壁遊図」も唐寅に由来する。いわゆる「入室操戈にゅうしつそうか」――奥義に達してそれを自由に使いこなすというものであろうか。観終わってこれを箱に書いたところである。

 正木先生は「前赤壁」としていますが、やはり「後赤壁」の可能性が高いかな? 当時この「赤壁図」を所蔵していたK氏は、大変真摯な古美術商の方で、この作品についてもよく研究されていました。そして箱書きにある「土井氏」とは古河藩主と推定されること、『故宮書画簡輯 唐寅』(台北故宮博物院発行 1980年)にやや似た唐寅の扇面画が載っていることを教えてくださいました。


 

2023年3月30日木曜日

出光美術館「江戸絵画の華 第2部」7

 

 僕がこの応挙筆「赤壁図」をはじめて見て感を深くしたのは、昭和60年(1985524日のこと、そのときの調査カードを引っ張り出してきて、このブログを書いているところです。

この作品は款記から、安永5年(1776)応挙44歳のときの作であることがわかります。この年は応挙の創造意欲がとくに高揚し、「藤花図屏風」(根津美術館蔵)や「雨竹風竹図屏風」(円光寺蔵)のような傑作屏風が制作されたのでした。その高揚感は長い横幅の「赤壁図」からもよく感じられるのではないでしょうか。東京美術学校校長であった正木直彦が、昭和9年(1934)冬に漢文で箱書きを認めています。現代文に直してみれば……。



2023年3月29日水曜日

出光美術館「江戸絵画の華 第2部」6

 

銅雀台は魏の曹操(武帝)が都の鄴ぎょうに建てた楼台です。曹操ご自慢の豪華絢爛たる楼台だったそうです。『唐詩選』に劉庭琦という詩人の七言絶句「銅雀台」が選ばれています。これもマイ戯訳で……。

 銅雀台も宮殿も 灰燼に帰し……夢のあと

  魏国の武帝の陵墓だけ 漳水しょうすい河畔に遺ってる

  いま西の方かたながめれば はかなさに胸ふさがれる

  いわんや昔 台上で 歌舞を演じた宮女らは……


2023年3月28日火曜日

出光美術館「江戸絵画の華 第2部」5

 

結句は「銅雀春深うして二喬を鎖とざさん」というのですが、チョット補わないと意味がとれません。岩波文庫『中国名詩選』によると、二喬というのは呉の喬玄が授かった二人の娘で、ともに絶世の美女であったそうです。

ですから、もしも魏の曹操(武帝)が呉の周瑜や喬玄を打ちやぶっていたら、その美人姉妹は曹操の愛妾にされていただろう――というわけです。実際は曹操が周瑜に大敗を喫してしまったので、のちに姉(大喬)は孫策に嫁し、妹(小喬)は周瑜に嫁したそうです。これを補おうとして戯訳を考えていたら、起承転結結みたいになっちゃいました。愛妾は現代っぽく「愛人」にしてみましたが……()

2023年3月27日月曜日

出光美術館「江戸絵画の華 第2部」4

杜牧「赤壁」

埋もれていた戟ほこ砂の中 掘り出されたが錆びてない

  みずから洗って研いでみりゃ 三国時代の遺物なり

  呉の周瑜しゅうゆのため運よくも あの東風ひがしかぜ吹かずんば

  魏の曹操は喬公の 美人姉妹を春深き

  銅雀台どうじゃくだいに閉じ込めて 我が愛人にしちゃったろう

 

2023年3月26日日曜日

出光美術館「江戸絵画の華 第2部」3

つまり、蘇東坡は他の記述から推定して、その地が古戦場の赤壁ではないことを知っていました。しかし人間の運命を考える舞台として古戦場の赤壁に思いを馳せ、英雄たちの繰り広げたドラマを脳裏に浮かべながらこの賦を詠んだのだろうというのです。

蘇東坡の「赤壁賦」は古来もっとも有名な賦――事物を叙述した韻文ですが、僕が一番好きな詩は、晩唐の詩人・杜牧の七言絶句「赤壁」ですね。「ジャージーチェンシャーティェウェイシャオ……」と暗唱できるので、お馴染み口演ネタの一つなんです() ここでこれまたお馴染みの戯訳を……。

 

2023年3月25日土曜日

出光美術館「江戸絵画の華 第2部」2

言うまでもなく蘇東坡の「赤壁賦」を主題としたものです。蘇東坡が元豊5年(1082)、流されていた黄州(現湖北省黄岡県)にあって、自然と人間のあり方について考えた前後2編の「赤壁賦」のうちの「後赤壁賦」です。一般的に赤壁といえば、『三国志演義』に出るところ、後漢の末、魏の曹操が呉の孫権と蜀の劉備の連合軍と戦って敗れた赤壁の戦で有名な古戦場です。現在の湖北省嘉魚県にあるそうです。

一方蘇東坡が遊んだ赤壁は、黄州の郊外、長江左岸にある赤鼻磯です。これについては、小川環樹・山本和義選訳『蘇東坡詩選』(岩波文庫)の解説が興味深く感じられます。

 

2023年3月24日金曜日

出光美術館「江戸絵画の華 第2部」1

出光美術館「江戸絵画の華 第2部 京都画壇と江戸琳派」<326日まで>

 すでにアップした出光美術館「江戸絵画の華」展の第2部「京都画壇と江戸琳派」も間もなく終ろうとしています。エツコ&ジョウ・プライスご夫妻が情熱を傾けて蒐集した江戸絵画から、円山派と江戸琳派を中心に傑作優品が厳選され、私たちの眼と心を楽しませてくれます。

先に「僕の一点」として円山応挙の「懸崖飛泉図屏風」を紹介しましたが、今回の「僕の一点」もそれに続けて応挙作品――会場で「懸崖飛泉図屏風」の隣に並んでいる「赤壁図」です。屏風が我が国のやさしい風景だとすれば、「赤壁図」は中国の厳しい自然にチャレンジした応挙の傑作だと思います。

2023年3月23日木曜日

サントリー美術館「木米」11

ところで藤岡作太郎の『近世絵画史』も、実は楽之軒が書いたものだと聞いたことがあります。しかし藤岡作太郎があの輪切り論ともいうべき斬新な構想を立て、それにしたがって楽之軒が執筆したというのが、マイ妄想と暴走ですね()

サントリー美術館「没後190年 木米」展のカタログには、畏友・成澤勝嗣さんが「『木米尺牘』と脇本楽之軒」というすごくいい随想を寄せています。

脇本楽之軒――饒舌館長がもっとも尊敬する美術史研究者の一人ですね。『日本美術随想』(新潮社 1966年)も名著だと思います。その楽之軒先生は明治16年(1883)未ひつじ年のお生まれ、饒舌館長も同じ未年であることを誇りにし、日本美術史未系譜説を声高に唱えているんです。

 ヤジ「単なる12分の1の確率を誇ったり威張ったりしてどうするんだ!!

  

2023年3月22日水曜日

サントリー美術館「木米」10

 

この6口は煎茶碗ですが、饒舌酒仙館長にとってはもちろん猪口ですね。月曜から土曜まで、毎日異なる猪口で異なる銘酒を堪能し、日曜は休肝日とすれば最高じゃ~ありませんか。いや、日曜も気に入った一碗を選んで飲んじゃうことになるかな()

木米といえば、古典的にして基本的なモノグラフに、脇本楽之軒らくしけんの『平安名陶伝』(洛陶会 1921年)があります。改めて家蔵本をみると「非売品」とありますから、かの『近世絵画史』の著者・藤岡作太郎と姻戚関係に結ばれていた松風嘉定しょうふうかじょうが主宰する洛陶会の配り物だったのでしょう。秋田に生まれた内藤湖南が題箋をしたためていることも、同郷人としてぜひ書き加えておきたいと思います。



2023年3月21日火曜日

サントリー美術館「木米」9


 「僕の一点」は「煎茶碗」6口(個人蔵)ですね。一碗一碗違う釉調と文様の磁器煎茶碗6口で、ワンセットになっています。5口は木米製ですが、1口は兄弟弟子ともいうべき永楽保全が補ったものです。木米の手になるのは、金襴手花鳥文碗、瑠璃釉金彩唐草文碗、染付松竹梅文碗、黄釉龍文碗、紫釉雲鶴文碗です。

これに保全が柿釉素文碗を補ったことが、彼の箱書きによって分かります。保全が文様を加えず素文にしたのは、木米に対する謙譲の気持からだったでしょう。

木米碗の文様は、木米の古陶磁図録『磁器叢』に近似するものが見出されるそうです。もっとも『磁器叢』は永井幾麻という日本画家による写本しか伝わらないようですが……。

 

2023年3月20日月曜日

サントリー美術館「木米」8

 

 文政6年(1823511日、木米ははじめて田能村竹田の来訪を受けました。そのときの様子は、竹田の『竹田荘師友画録』によってよく知られています。竹田は「木米喫茶図」を描き、賛と七言絶句を加えて木米に贈りました。もちろんその詩も、戯訳とともに紹介しました。

  箏琶粉黛競繁華  流れる管弦 紅べにおしろい 競い合ってる繁華街

  中有軽烟繞舎斜  そのなか茶を煮る薄煙 斜めに巡る家があり

  鴨河水即家園水  鴨川 流れる水がソク 自分の庭の水なりき

  煎出榕亭老子茶  榕亭 製した老子茶を 煎じて勧めてくれました


2023年3月19日日曜日

サントリー美術館「木米」7

もっとも篠崎小竹による木米墓誌銘が105字であることと、寒食の由来となった春秋時代の介子推かいしすいを結びつけたところに、新味があるといえばあるかな() その傍証として――というよりすごくいい詩なので、盛唐の詩人・孟雲卿もううんけいが詠んだ七言絶句「寒食」を戯訳とともに掲げました。それをバージョンアップして再録させてもらうことにしましょう。

  二月江南花満枝  仲春二月 江南じゃ 満開だろう花はみな

  他郷寒食遠堪悲  寒食節を他郷にて 迎えりゃ哀しみいや増せり

  貧居往往無煙火  貧乏暮らしで煮炊きする 火は時になく明朝も

  不独明朝為子推  寒食なのは由来する 子推を弔うためじゃない

 

2023年3月18日土曜日

サントリー美術館「木米」6

お二人が共同で執筆した「没後190年 木米という文人について――木米の前半生の再検討――」も、これまでの定説や通説を打ち破る刺激的論文です。これからの木米芸術と木米伝の研究は、すべからくここに発することになるでしょう。

 このカタログには、饒舌館長も求められるまま「識字陶工木米と竹田・山陽・雲華・小竹」というエッセーを寄稿しました。あくまで「文人」という観点から木米を見直そうとする、本展の趣旨に沿って書いたのですが、結局木米と金蘭の友との関係をただおさらいするような結果になってしまいました。

 

2023年3月17日金曜日

サントリー美術館「木米」5

 

一方、木米がとりわけ五十代後半から精力的に描いた絵画は、清らかで自由奔放な作風が魅力的です。その多くは友人への贈り物とした山水画であり、交友関係や木米自身の人柄を想像しながら鑑賞すると、より一層味わい深く感じられます。

 この特別展はサントリー美術館の久保佐知恵さんと安河内幸絵が企画したものです。木米鑑賞研究史上、いや、日本文人画鑑賞研究史上、きわめて重要な位置を占める展覧会に仕上げられています。よくこれだけの優れた作品と貴重な資料を集めたものだと、感を深くしない人はいないでしょう。


2023年3月16日木曜日

サントリー美術館「木米」4

江戸時代後期の京都を代表する陶工にして画家である文人・木米もくべいは、京都祇園の茶屋「木屋きや」に生まれ、俗称を「八十八やそはち」といいます。木屋あるいは氏の「青木」の「木」と、八十八を縮めた「米」にちなんで「木米」と名乗りました。また、中年耳を聾したことに由来する「聾米ろうべい」のほか、「龍米」「九々鱗」「青来せいらい」「百六山人」「古器観」などの号があります。

木米は、三十代で中国の陶磁専門書『陶説』に出会い、これを翻刻しつつ本格的に陶業に打ち込みました。その作品は、優れた煎茶器から茶陶まで、多岐にわたります。熱心な古陶磁研究を土台に広い視野をもち、古今東西の古陶磁の美を、因習を超えて結びつけ新しい美を開いていく創造性が木米のやきものにはあらわれています。

 

2023年3月15日水曜日

サントリー美術館「木米」3

その後徐々に日本美術に対する興味と関心が高まり、円山応挙に関する拙い卒論を提出して大学院に進みました。そこで吉澤忠先生の文人画、いや、南画の講義を、小林忠さんと一緒に東京藝術大学まで聴きに出掛けたんです。今は許されないモグリというヤツですが、その年1年間、吉澤先生が講義してくださったのは何と木米だったんです!! こうして僕は木米の素晴らしさとおもしろさに、はじめて眼を見開かされたのでした。

 能書きはともかく、サントリー美術館で開催中の特別展「没後190年 木米」のカタログ――高岡健太郎さんの表紙がとても素敵なカタログから、「ご挨拶」の一部を紹介することにしましょう。

 

2023年3月14日火曜日

サントリー美術館「木米」2

浅野長武館長の「まえがき」を読むと、「当今、作家の側においても、一般鑑賞者の側においても、文人画に対する関心の薄いことは、おおいがたい事実であるといえよう」と書き出されています。確かに当時文人画に対する関心は薄かったのでしょうが、それでも今に比べればまだまだ高かったのではないでしょうか。天下の東京国立博物館で、しかも秋季特別展としてこんな大規模文人画展が開かれたのですから……。

当時僕は大学3年、つまり美術史専門課程の1年生でした。この展覧会はゼミの一環として、山根有三先生に引率されて見に行きました。しかしまだ西洋美術史を専攻しようと思っていたせいでしょうか、米澤嘉圃先生の解説も上の空で聞いていたように思います。

 

2023年3月13日月曜日

サントリー美術館「木米」1

サントリー美術館「没後190年 木米」<326日まで>

 木米もくべい――現代の私たちに得もいえぬほど美しい作品を、たくさん遺してくれた江戸時代後期の文人アーティストです。はじめて僕が木米の絵画作品に触れたのは、昭和40年(1965)秋、東京国立博物館で開催された「日本の文人画展」でした。池大雅、与謝蕪村、浦上玉堂、木米、田能村竹田の5人にしぼって、日本文人画の素晴らしさを知ってもらおうとする特別展でした。ここでは「青木木米」と呼ばれていましたが……。

そのときのカタログ――定価200円のカラー図版が一つもない、『日本の文人画展目録』と題されたカタログを書架から引っ張り出してきてながめているところです。

 

2023年3月12日日曜日

『美術商・林忠正の軌跡』19

 


木々康子さんと高頭麻子さんの編著書『美術商・林忠正の軌跡 1853-1906』は、公益財団法人・鹿島美術財団の助成によって出版された書籍です。現在なかなか出版がむずかしいこのような本の助産婦役をつとめる鹿島美術財団に対して、心から感謝の辞を捧げたいと思います。

饒舌館長もチョット財団のお手伝いをさせてもらっているのですが、これを誇りに感じないではいられません。

あまりに高価になってしまう本も、鹿島美術財団の出版助成を受ければリーゾナブルな値段に設定することができるのです。この『美術商・林忠正の軌跡』もそのお陰で8800円です!! 内容とボリュームを考えれば絶対に安い!! とくに拙著『江戸絵画 京と江戸の美』に比べれば……()


2023年3月11日土曜日

『美術商・林忠正の軌跡』18

ブリンクマンは我が国文化における詩歌のすぐれた意義を明らかにし、美術とのきわめて密接な関係を、早くも1889年の段階でつぎのごとく指摘しているんです。饒舌館長口演で何度紹介し、配布資料に何度引用したことでしょうか。

日本人にあって、その心のすがたをもっともよくうかがわせてくれるのは、詩歌、この国民がうたいつづけてきた古い詩歌である。これらの詩歌だけによっても、この国民の感情の深さ、理想へのあこがれ、美しいものに触れるたびに身のおののきを感じる喜び、といったものが明らかになってくる。この日本の古い詩歌という宝ものは、芸術家たちに霊感を与えて、そのもっとも天才的な幾多の作品を生み出させてきた。とりわけ、腕のいい職人たちの手をみちびき、装飾のためのモチーフの無尽の鉱脈となってきた。

 

2023年3月10日金曜日

『美術商・林忠正の軌跡』17

 

 ブリンクマンは日本の工芸を感性だけではなく、理性でも鑑賞しようとしたようです。ブリンクマンはハンブルク工芸博物館の初代館長です。この博物館を僕が最初にお訪ねしたのは――最初といってもその後は行っていないので、最初にして最後というべきかもしれませんが()――1982年夏の在欧日本絵画一人調査旅行のときでした。しかしそのときはブリンクマンのことなど知りませんでした。

ブリンクマンのことを知るようになったのは、サミュエル・ビング編<芳賀徹監修>『芸術の日本』(美術公論社 1981年)で、とても示唆的な論文「日本美術における詩歌の伝統」に逢着したときでした。


2023年3月9日木曜日

『美術商・林忠正の軌跡』16

 

貴方の美しいお国の工芸品は、私にとって目を喜ばせるのみならず、精神的文化の美しい精華であり、私はそれを、貴国の言葉を話さない者としてできる限り自分のものとしようと努めております。私は、日本美術を見て学ぶ私のやり方が、大方の日本美術愛好者ジャポニザンと比べて一歩先んじているとさえ思っています。大方の人々は日本の工芸品を感覚だけで愛しているように見えますが、一方私は同時にこの芸術の絶妙なる魂を楽しむように心掛けているのです。


2023年3月8日水曜日

『美術商・林忠正の軌跡』15

監修者の小林忠さんから求められて『秘蔵日本美術大観3 大英博物館Ⅲ』(講談社)に寄稿した「ジャポニスムの起因と原動力」は、そんな独断と偏見を活字にしたものでした。発表したあと、ますます自信が深まったので、拙文集『江戸絵画 京と江戸の美』(思文閣出版 2022年)にも収録してしまいましたが、ジャポニスム専門家は眉に唾しているんじゃないかな()

「第Ⅲ部 新発見の林忠正宛て書簡を読む」では、⑮ユストゥス・ブリンクマンを最初に読みました。1895412日林宛書簡において、ブリンクマンはつぎのように述べています。

 

2023年3月7日火曜日

『美術商・林忠正の軌跡』14

1988年、国立西洋美術館で特別展「ジャポニスム展――19世紀西洋美術への日本の影響――」が開催されました。それまでいくつか開かれていたジャポニスム展をはるかに凌駕する、刺激的展覧会でした。しかし会場をめぐっているうちに、ジャポニスムといったって、つまるところ異国趣味じゃないかというような感覚にとらわれ始めたんです。

しかし印象派の画家たちは浮世絵の本質をよく理解しており、単なる異国趣味ではなかったというのが、本特別展のコンセプトでした。もちろんそれを全面的に否定することはできませんが、ジャポニスムとはつまりエキゾチシズムだという僕の直感は、だんだんと確信に変わっていきました。

 

2023年3月6日月曜日

三菱一号館美術館「芳幾・芳年」5

「器用貧乏」とは、なまじ器用なために、あれこれと気が多く、また都合よく使われて大成しないこと(『広辞苑』)です。しかし芳幾は「東京日日新聞」(のちの毎日新聞)の創立に携わり、その新聞錦絵で大成功をおさめ、一世を風靡しました。少し扇情的であったとしても、大成したといってよいでしょう。『広辞苑』に定義されるような意味での器用貧乏ではあり得ません。

しかし晩年は文字通り「貧乏」だったわけで、それも元をたどれば芳幾の器用さに原因があったのではないでしょうか。やはり国芳先生の心配は、現実となって現われたといえるように思います。

ヤジ「オマエは何が何でも芳幾を器用貧乏の浮世絵師にしたいようだな!!

 

2023年3月5日日曜日

三菱一号館美術館「芳幾・芳年」4

芳幾は器用に任せて筆を走らせば、画に覇気なく熱血なし。芳年は覇気に富めども不器用なり。芳幾にして芳年の半分覇気あらんか、今の浮世絵師中その右に出る者なからんと。

さすが国芳先生、弟子をよく見ていたものだと感心せずにはいられませんが、「器用貧乏」に終りそうな芳幾を心配し、エールを送ったのではないでしょうか。しかし悲しいかな、国芳先生の予感は的中してしまったようです。加藤さんによると、芳幾の晩年は困窮を極める不遇の最後でした。「落合芳幾の画業と起業」を寄稿した野口玲一さんも、「これ(国芳追善書画会)以降没するまでの晩年は振るわなかったようで、あまり良い話は残されていない」と述べています。

 

2023年3月4日土曜日

三菱一号館美術館「芳幾・芳年」3


 

人生半ばの30代で明治維新を迎えた芳幾と芳年は、最後の浮世絵師と呼ばれる世代です。江戸時代に隆盛を誇った浮世絵は、近代になると写真や石版画といった新技術、新聞や雑誌といったメディアの登場によって、衰退の道をたどることになります。そのような激動の時代にあらがうべく、彼らがどのように闘ったのか――。本展では、貴重な個人コレクションを中心に、二人の画業を振り返ります。

 カタログには練馬区立美術館の加藤陽介さんが「芳幾と芳年――兄弟弟子のゆくえ」を寄稿、二人の時代性と個性をわかり易く解説しています。加藤さんによると、二人の師匠である歌川国芳は、つぎのような比較を行なったそうです。

2023年3月3日金曜日

三菱一号館美術館「芳幾・芳年」2

坂本佳子さんがデザインしたいかにも芳幾・芳年展らしいカタログから、主催者の「ごあいさつ」を紹介しておきましょう。

落合芳幾と月岡芳年は、江戸後期を代表する浮世絵師・歌川国芳の門下でともに腕を磨き、慶応23年には、幕末の風潮を反映した残酷な血みどろ絵を共作しています。

良きライバルとして当時は人気を二分した二人ですが、芳幾はその後、発起人として関わった「東京日日新聞」(毎日新聞の前身)の新聞錦絵を描くようになります。一方の芳年は、国芳から継承した武者絵を展開し、歴史的主題の浮世絵を開拓しました。

 

2023年3月2日木曜日

三菱一号館美術館「芳幾・芳年」1

三菱一号館美術館「芳幾・芳年――国芳門下の2大ライバル」<4月9日まで>

 やはり辻惟雄さんの『奇想の系譜』によるところなのでしょうか、いまや絶大な人気を誇る歌川国芳に学び、双璧とたたえられる落合芳幾と月岡芳年の特別展が、三菱一号館美術館で始まりました。言うまでもなく芳年の方が有名ですが、展覧会名が芳幾・芳年となっているのは、芳幾が6年ほど早く生まれているからなのでしょう。

これにちなんで、33日(金)午後630分から「静嘉堂の河野館長×三菱一号館美術館の野口学芸員 33日の『桃の節句』にあま酒トーク」がオンライン配信されます。三菱一号館美術館ホームページのURLからどうぞ。参加費無料‼ 申込不要です!! あま酒トークであり、うま酒トークじゃないのがチョット残念ですが……()


2023年3月1日水曜日

『美術商・林忠正の軌跡』13

 そうなんです。燎原の火のようにヨーロッパに広がったジャポニスムでしたが、1900年のパリ万博を一つの契機として、終焉の時を迎えたのでした。そして前衛的芸術家の関心は、アフリカ彫刻へと急旋回していくのです。

しかしあれほどヨーロッパ人の心を鷲づかみにしたジャポニスムの炎が、どうしてこうも簡単に消えてしまったのでしょうか。長いあいだ疑問でした。ブームやバブルとはそういうものだ――と言ってしまえばそれまでですが、美術は人間の精神と分かち難く結ばれているはずです。マンションやチューリップの球根、またポケモンカードとはわけがちがうはずです()

 

出光美術館「復刻 開館記念展」2

本年は、皆様をこの展示室へお迎えする最後の 1 年となります。その幕開けを告げる本展は、 58 年前の開館記念展の出品作品と展示構成を意識しながら企画したものです。……開館記念展の会場を飾ったのは、仙厓( 1750 - 1837 )の書画、古唐津、中国の陶磁や青銅器、オリエントの...