2018年8月31日金曜日

サントリー美術館「琉球」7


ご尊名は「摩阿」と申し上げます。普通ネコといえば、「チャン」をつけるか、呼び捨てにするものですが、彼女にはとてもおそれ多くて、できるもんじゃありません。「摩阿姫」とお呼びすることにしましょう。ところで「摩阿姫」といえば、戦国時代歴史ファンには、ピンとくるかもしれませんね。そうなんです!! のちには豊臣秀吉の側室となって、「加賀殿」と呼ばれることになる御方なんです。

上江洲家には、5匹のネコがいらっしゃるそうです。一番古参の茶トラがちょっと歌舞伎役者にも似ているので、「又左衛門利家」――通称「またざ」――と命名したことが機縁となって、2番目を正室の「松」、3番目を側室の「千代」、そして4番目をその三女「摩阿」と名づけたのでした。5番目は聞き漏らしましたが、もし姫ならもちろん四女の「豪」でしょうね。


2018年8月30日木曜日

サントリー美術館「琉球」6


先日、國華清話会・浦添市美術館特別鑑賞会についてアップしましたね。そのとき首里城オプショナル・ツアーで大変お世話になり、とても興味深いお話をしていただいたのが、沖縄美ら島財団・総合研究センターの上江洲安亨[うえずやすゆき]さんでした。

さて、いま『國華』では沖縄美術特輯号を企画しており、早く上江洲さんには宗季筆「神猫図」の解説をお願いして快諾をいただいておりました。ところが過日、上江洲さんから送られてきた資料写真のなかに、「神猫」ならぬ「真猫」の一枚があったのです。「神猫図」から抜け出てきたのかと、一瞬、目をうたがってしまいました。

「僕の一点」に宗季の「神猫図」を選んだネコ好き館長としては、是非ともこの「真猫」を紹介し、「饒舌館長」ファンを驚かせてみたいものだと思いました。そこで上江洲さんにはご無理をいって、この栄誉ある機会を頂戴したというわけなんです。



2018年8月29日水曜日

夏もやはり李賀6


原詩を七五調の日本語に言いかえればそれで立派な翻訳だとする考え方もあるようだが、凝縮的で無数の引用から成る原詩のニュアンスは、それでは決してつかめない。それは、日本語の詩なのかも知れないが、原詩とは無縁である。いや、七五調が詩なら、歌謡曲や浪曲も詩ではないか。日本は世界一の詩人国になるであろう。

 さすが漢学者の荒井さんだと感を深くします。しかし僭越ながら僕は、歌謡曲や浪曲も立派な詩であり、そこに詩歌の国である日本が象徴されていると思っています。七五調あるいは五七調のすぐれた庶民的伝統は、『万葉集』の防人の歌から、毎週楽しみにしている「朝日歌壇」や「朝日俳壇」まで、脈々と受け継がれているのではないでしょうか。

この庶民性こそ、詩歌の国日本のもっともすぐれた特徴じゃないでしょうか。『古今和歌集』序の精神は、確実にDNAとして僕らの血のなかに残っているんです。サラ川の傑作「この俺に温ったかいのは便座だけ」に至るまで(!?)


2018年8月28日火曜日

サントリー美術館「琉球」5


事実、中村公一さんの名著『中国の花ことば 中国人と花のシンボリズム』(岩崎美術社 1988年)には、菊に猫と蝶々を配した切り絵の「寿居耄耊図」が紹介されています。これから蝶々を取り去れば、「神猫図」と同じ組合せになるではありませんか。

この切り絵に蝶々が登場するのは、「蝶」の音が「ディエ」であり、長寿を意味するもう一つの難しい漢字「耊」の音も同じだからです。しかし蝶々がいなくても、猫+菊だけで、充分長寿のシンボルとして機能するのではないでしょうか。もちろんこれは、宗季が考え出したというより、中国に猫+菊という組み合せがすでにあったにちがいありません。

宗季は親しかった老婦人の長寿を祝って、この「神猫図」を描き贈ったのではないでしょうか。あえて老婦人といったのは、背景の菊が大輪ではなく小菊なので、女性にふさわしいように感じられたからです。

内田洸さんの解説によると、この作品にはバージョンもあるようですが、おめでたく、またおもしろい図柄であるために人気があって、同じような作品を求める人が後を絶たなかったにちがいありません。こんな解釈を「饒舌館長」に麗々しくアップすると、いかにも後期高齢者みたいなコジツケだと笑われちゃうかな(!?)  

2018年8月27日月曜日

夏もやはり李賀5


 いつのころからか僕は、井伏鱒二の真似をして、漢詩の戯訳を楽しむようになりました。とはいっても、

このさかずきを受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ

などという名戯訳は、真似しようと思って真似できるものじゃありません。しかし、漢詩を伝統的な読み下しにしてみたって、現代人にとって意味をとることは、ほとんど不可能に近いといってよいでしょう。

そこで僕なりに戯訳を試みるわけですが、荒井さんは七五調戯訳に対して、批判的見解を表明しています。先の『中国詩人選集』付録に寄せた「中国の旧詩の翻訳」のなかで、荒井さんは漢詩翻訳の難しさを嘆きながら、次のように述べています。

2018年8月26日日曜日

サントリー美術館「琉球」4


 先の「花鳥図」が中国花鳥画の影響を色濃く残しているのに対し、「神猫図」には宗季の個性がより一層はっきりと表明されているように思います。事実、年記を調べると、「神猫図」は「花鳥図」より10年も遅れて描かれた作品なんです。その10年のあいだに、宗季はかつて就学した孫億などの影響を脱して、自己様式を完成させていたのではないでしょうか。

もっとも、僕にとってさらに興味深いのは、ここに中国絵画からの主題的影響があると思われる点です。中国において猫は、長寿のシンボルでした。「猫」と長寿を意味する「耄」の発音がともに「マオ」で、通音しているからです。「耄」はちょっと難しい漢字ですが、「耄碌[もうろく]」の「耄」いえば分かりやすいですね。中国では特に70歳を指すともいわれているようです。

この神猫のうしろを見ると、小菊が描かれています。中国では、古くから延命長寿を約束してくれる薬効が菊にあると信じられていたために、菊も長寿の象徴として愛されてきました。猫に菊を添える「神猫図」が、長寿をことほぐ絵であったことはまちがいありません。

2018年8月25日土曜日

夏もやはり李賀4


       六月

生絹[きずし]で縫ったスカートは

薄霜[うすじも]みたいにひらめいて

斑竹[はんちく]で編む敷物は 秋の玉なり清々し

赤い鏡は炎のよう 東に向かい蓋を開け

コロナ光冠 車輪のよう 上昇しつつ旋回す

龍にまたがる太陽神 鞭[むち]をしならせやって来る

2018年8月24日金曜日

サントリー美術館「琉球」3


 饒舌館長であるとともにネコ好き館長でもある「僕の一点」は、山口宗季(1672~1743)が描いた「神猫図」(那覇市歴史博物館蔵)です。唐名を呉師虔ともいった山口宗季は、琉球のもっともすぐれた画家の一人です。貝摺奉行所の絵師となった宗季は、1703年、31歳のとき中国福州へ留学、4年間滞在して孫億などに画を学び、帰国すると絵師主取に任命されて活躍しました。

和名は普通「山口宗季」とされていますが、最後に任じられた地頭職が勝連間切神谷のため、「神谷宗季」とも呼ばれたことを、このたび初めて知りました。ところで宗季といえば、大和文華館が所蔵する優品「花鳥図」が、すぐに思い出されます。林進さんが『大和文華』に寄稿したすぐれた論文「宗季お花鳥図――近世写生画の魁――」とともに……。

2018年8月23日木曜日

『いちばんやさしい美術鑑賞』3


たとえば、わが静嘉堂文庫美術館の目玉ともいうべき「曜変天目」が、第12章に「観られない作品ほど観たい」として取り上げられています。最後にタケさんは、「勝手なイメージを抱いてみる」と題して次のように述べていますが、これは工芸美術最高の鑑賞法であるとともに、<用の美>の本質を鋭く突いているのではないでしょうか。

価値観は常に変化するものであるということを、この小さな茶碗が教えてくれます。そしてこれを至上の国宝としてただ観るだけではもったいないので、脳内に様々なものを盛りつけてみてはどうでしょう。自分は炊き立ての白米が曜変天目にとても似合うような気がしてなりません。願いがひとつだけ叶うなら、静嘉堂文庫美術館の曜変天目でお腹いっぱいご飯を食べてみたいです。もちろん、おかずなんて必要ありません!

2018年8月22日水曜日

夏もやはり李賀3


  五月

彫刻施す宝玉を 玉のすだれの重石[おもし]にし

開けっ放しの入り口に 垂らす薄絹――風の道

化粧のために井戸の水 汲み上げられる清らかに

仲むつまじき鴛鴦[おしどり]が 扇の模様に織られてる

白い衣裳は雪のごと 皇宮に舞う涼しげに

雨は甘露か 乾ききる 緑の葉っぱを洗ってる

肌シースルーの長い袖 舞う手の動きそのままに……

  真珠の粒か 吹き出せる 美人の汗は芳[かんば]しき

  

2018年8月21日火曜日

サントリー美術館「琉球」2


「生活の中の美」をテーマとしてきたサントリー美術館では、紅型や琉球漆器がコレクションの重要な一ジャンルを形成してきました。これを中心に、160件もの作品を集めた大琉球展です。その趣旨を知るために、カタログの「ごあいさつ」から一部を引用しておくことにしましょう。

本展覧会では、鮮やかな紅型に代表される染織や、中国・日本から刺激を受けて描かれた琉球の絵画、きらびやかな漆芸作品を中心に、琉球王国の美をご紹介します。現在に守り伝えられた優品が集う貴重な機会であり、なかでも首里王府を治めた尚家に継承された「国宝 琉球王国尚家関係資料」は必見です。……東アジアの美を結び、新たに独自の美としてひらいた琉球の美術は、文化の多様性や新鮮な魅力に満ちており、本展が時代を超えて受け継がれてきた琉球王国の耀きをご覧いただく機会となれば幸いです。

2018年8月20日月曜日

『いちばんやさしい美術鑑賞』2 


これらが機縁となって、静嘉堂文庫美術館で仕事をするようになってからは、必ずブロガー内覧会のコーディネーターにお願いすることになりました。現在開催中である企画展「明治150年記念 明治からの贈り物」に際しても快諾を得て、担当キューレーター長谷川祥子さんを加えた3人のトークショーから始めました。このブロガー内覧会が大いに盛り上がったことは、先日すでにアップしたとおりです。

そのタケさんが満を持し、はじめて世に問うた新書が、この『いちばんやさしい美術鑑賞』です。ちくま新書№1349、本体価格920です。

1年に300以上の展覧会を見に行くタケさんが、「何を見たらいいのか分かりません」といった美術ビギナーのために、西洋美術と東洋美術あわせて15点の作品や作家に焦点をしぼって、体験的美術鑑賞法を伝授してくれるんです。美術史研究者が書斎の窓から教えを垂れるような、机上の空論じゃありません。しかも超簡単入門でありながら、美術のキモが語られているところがすごいんです。

2018年8月19日日曜日

夏もやはり李賀2


四月

[あかつき]すずし 夕暮れも…… 車の幌[ほろ]のような木々

すべての山は濃い緑 雲を破ってそびえ立つ

かすかに香る迎梅雨[げいばいう] 青い雲煙立ち込めて

かたまり咲く花 分厚い葉 紫陽花[あじさい]満開 町の門

黄金堤の水静か 緑の波紋が揺れている

春は過ぎ行き風重く 驚き舞い散る花もなし

落ちた紅花[べにばな]枯れた萼[がく] 乱れ散り敷くひそやかに 


2018年8月18日土曜日

サントリー美術館「琉球」1


サントリー美術館「琉球 美の宝庫」<92日まで>

琉球国は南海の勝地にして
三韓の秀を鍾[あつ]め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯[しんし]となして
此の二つの中間に在りて湧出する蓬莱島なり
舟楫[しゅうしゅう]を以て万国の津梁[しんりょう]となし
異産至宝は十方刹に充満し、地霊人物は遠く和夏の仁風を扇[あお]ぐ

 先日、浦添美術館で行なわれた國華清話会特別鑑賞会のレポートを、「うらしま」での写真とともに「饒舌館長」にアップしたところですが、続いてサントリー美術館で始まったオススメの特別展「琉球 美の宝庫」を紹介することにしましょう。

 冒頭に掲げたのは、琉球に捧げられたオマージュです。この特別展のカタログを開くと、はじめに「万国津梁の鐘より」として引用されています。「万国津梁の鐘」は、1458年、尚泰久王が鋳造した大きな釣鐘です。現在は重要文化財の指定を受けて、沖縄県立博物館に展示されており、先日の国華清話会のときに拝見してきました。この大釣鐘に鋳出された銘文は、琉球の地理と風土を美しく、そして力強く謳いあげて、読むものの心を強く動かします。


2018年8月17日金曜日

『いちばんやさしい美術鑑賞』1


青い日記帳『いちばんやさしい美術鑑賞』出版記念会<於muromachi café hachi>(811日)

 中村剛士さん――通称タケさんとそのブログ「青い日記帳」を知らない美術業界人はモグリです。カリスマブロガーと呼ばれてきましたが、先日タケさんを大きくフィーチャーした『朝日新聞』の記事では、インフルエンサーという新しい称号が捧げられていましたね。

僕がはじめてタケさんにお会いしたのは、2007年秋、今は佐野市立となっている葛生町立吉澤記念美術館で、再発見にもほんのちょこっとだけ関係した伊藤若冲の傑作「菜蟲譜」について、トークをやらせてもらったときでした。

それ以来、「青い日記帳」は本当によくアクセスさせてもらってきましたし、僕のことが取り上げられたときは、心底びっくりしてしまいました。僕が秋田県立近代美術館ホームページでブログを始めたのも、「青い日記帳」を知ったからにほかなりません。

2018年8月16日木曜日

夏もやはり李賀1


 すでにお知らせしたところですが、拙文集『琳派 響きあう美』に続いて、『文人画 往還する美』を、同じく思文閣出版から出してもらえることになりました。ようやく取れた一週間の夏休みを、その校正にあてようと思いましたが、先月以来の猛暑、酷暑、炎暑、烈暑、劇暑がまだ続いています。やる気など、起こるもんじゃありません。

ついつい昼からビールを一杯、当然眠くなるのでソク昼寝、目が醒めても物憂く、ボーッと雑草しげるタビのひたいほどの庭をながめたりしています。

仕方がないので『中国詩人選集』の前に立てば、やはり手が伸びるのは、荒井健さんが校注をほどこす『李賀』です。夏にちなんで、代表作の一つである「河南府試 十二月楽辞 并びに閏月 十三首」のうち、夏の四月、五月、六月に、お馴染みの戯訳をつけて消夏の遊びとすることにしました。

もちろんこの四月、五月、六月というのは陰暦の話ですが……。もっとも荒井さんは五月をカットしていらっしゃるので、隣にあった『中国文学歳時記 夏』(同朋舎 1989年)から引っ張ってきました。

2018年8月15日水曜日

適塾ダヴィンチプロジェクト3


最後に「美術品が取り持つ文化交流 『蒐集する』という文化財保全」と題して総合討議が行なわれました。そこで登壇されたイセ文化財団の伊勢彦信さんのお話は、さすが実体験に裏づけられており、コレクションという美的行為の醍醐味に思わず引き込まれてしまいました。

「磁州窯掻落し牡丹文梅瓶」も男彦信乾坤一擲の作品だそうですが、そのスライドが映し出されたとき、お世話になった国華清話会の金沢特別鑑賞会を、僕は懐かしく思い出しました。床を飾るジョルジュ・ブラックの絶品が不思議に調和するあのお茶会とともに……。

新大阪駅近くのレストランで行われた打ち上げで痛飲、さらに聚美社の岡川聰さんと「のぞみ」のなかで二次会をやりながら、帰途についたことでした。


2018年8月14日火曜日

適塾ダヴィンチプロジェクト2


会場は200人も入れる大阪大学中之島センター・佐治敬三メモリアルホール――サントリー美術館のお手伝いをしている僕ですが、はじめて存在を知った空間です。ペルージャ大学のレティツィア・モニコさん、大阪市立東洋陶磁美術館の出川哲朗さん、台湾・故宮博物院の岩素芬さんと陳東和さんの発表は、これまた初めて教えられることばかりでした。

とくに出川さんの発表では、最近また中国で曜変天目が出土したという新知見を得て驚きました。そのあと、一昨年静嘉堂でお話しいただいた小林仁さんからも、この新発見について詳しくうかがう機会を得ました。お二人には、改めて曜変天目日本限定現象に関し、僕の「曜変H説」を開陳したのですが、やはり眉にツバをつけていらっしゃるような感じでした() 

2018年8月13日月曜日

適塾ダヴィンチプロジェクト1


適塾ダヴィンチプロジェクト・シンポジウム2018<アートの『これから』を語る>(85日)

 大阪大学総合学術博物館の伊藤謙さんがファシリテーターとして企画した国際シンポジウムです。なぜか僕にもお呼びがかかり、与えられたお題が「日本美術の今と未来――日本文化をどう伝え発信するべきか――」という難問です。「行雲流水」を人生哲学?とする僕にとって――ぶっちゃけていえば、定見というものがなく日和見の僕にとって、とても答えられるものじゃありません。

仕方がないので、僕も参加したワシントン・ナショナル・ギャラリー「色彩王国 伊藤若冲<動植綵絵>」+CASVA国際シンポジウム「江戸の画家」(2012年)と「琳派400年記念祭」(2015年)、それと現在わが静嘉堂文庫美術館で開催中の「明治150年記念 明治からの贈り物」のアラアラを紹介して責をふさぐことにしました。その座長をつとめて下さったのは、京都外国語大学のシルヴィオ・ヴィタさんです。

2018年8月12日日曜日

大原美術館美術講座13


I椹木野衣「絵画における『近代の超克』と『戦後レジームからの脱却』
――成田亨と戦争画」(『戦争思想2015』河出書房新社 2015

日本の栄えある戦争を描くのに、なぜ鬼畜米英の技法である油絵なのか。ふつうに考えれば、明治期の国粋主義から発した日本画家たちの仕事ではないか、と。ところが事態はまったく逆だったのだ。実は、戦争画を描くにあたっては、日本画家は油絵画家よりも格段に劣るものと見なされていた。明治期に政府お抱えの外国人教師であったアーネスト・フェノロサの好みで、狩野派に近代絵画の画材や技法を取り入れることで改良され、その弟子にあたる岡倉天心によって確立された「日本画」では、本当の意味での「戦争画」は描けない――そう、軍部によって判断されたからだ。このことは、歴史的に言っても美術史に留まらない、たいへん大きな意味がある。

2018年8月11日土曜日

大原美術館美術講座12


H椹木野衣×会田誠『戦争画とニッポン』(講談社 2015

会田 だから、日本人の戦争画はやっぱりやさしい。当時の美術雑誌をぱらぱらと見ていても、画家たちが現地でささっと描いたような、ちょいとしたスケッチのほうが、生き生きとしているような気もしますし。日本人は文学でも重厚な長編よりエッセイ的なもののほうが得意だったりするので、戦争画も、ふと詠む俳句のように「墜落した飛行機の残骸は哀れをさそうなあ」みたいな淡彩画のほうが、得意な感じもするのです。だから日本の戦争画を見る面白さのひとつは、もしかしたら世界でも一番、戦争画に向いていない民族がやろうとした、ということかもしれません。戦争画を見せるとアジアの人を傷つけるという理由で、タブー視されているけれども、むしろちゃんと見せたらいいと思うのです。もしかしたら、「ここまでむいていなかったか」「そりゃ戦争に負けるわ」と言われるかもしれません。それは日本の兵士に残虐行為がなかった、などという話とはまた別ですが。当時の従軍画家たちが全体としてどんなメンタルの持ち主だったかということですが、それは現在でもあまり恥ずべきメンタルではなかったと思うのです。

2018年8月10日金曜日

大原美術館美術講座11


G高階秀爾「大観と富士」(『日本人にとって美しさとは何か』河出書房 2015

かつて大観にとって、富士はつねに祖国日本の象徴であった。代表的な例は、《日出処日本》と題された大作である。この作品は、昭和十五年(1940)、紀元二千六百年奉祝展の機会に描かれ、天皇陛下に献上されたもので、現在は宮内庁三の丸尚蔵館にある。画面右手に赤く輝く太陽があり、左の方でその日の出を迎える富士の気品に満ちた威容がある。清々しい雰囲気の名作と言ってよいだろう。だがその「日本」は、戦争によって消滅した、と大観は感じた。昭和二十一年(1946)、つまり敗戦の翌年正月の日本美術院での挨拶の草稿と思われる文章に「日本なき太平洋」という言葉が見える。

三千年の歴史は壊滅し、日本なき太平洋に対し私共は只々感慨無量であります。只独り東亜の芸術、力あり手こそ新しき日本建設の先駆となる事、此こそ再び世界に闊歩するのを堅く信じる者であります。

ここには、いったんは亡んだと思われた祖国を再び甦らせるには、「芸術」の力によるほかはないという信念、そしてさらに、自ら芸術による日本再建の任を担おうとする大観の強い決意がうかがわれる。


2018年8月9日木曜日

大原美術館美術講座10


E池田忍「『平治物語絵巻』に見る理想の武士像」(『美術史』138 1995

私は、以上のように、この絵巻における武士の描かれ方を分析することによって、その注文主が、公家、すなわち天皇を含む上位の男性貴族であると推測するに至った。ここに描かれた武士達は、貴族達の武士観を反映しており、彼らのまなざしに捉えられた武士の姿なのである。

F丹尾安典・河田明久『イメージのなかの戦争 日清・日露から冷戦まで』
<岩波近代日本の美術1>(岩波書店 1996

仏像を“彫刻”と名付けて分類したときに、われわれはそこから宗教的な次元をきりはなして美的な次元にのみ埋没しがちになるが、仏像はこの両次元が統合された、あるいは、未分化な状態のままにあるときに本来的なイメージの力を存分に発揮する。戦争美術とて事情は同じであろう。戦争と美術とがいまだ分断されぬままの状態のうちにこそ、戦争美術の実相はひらけている。そして、戦争美術はそういう状態のままに、いまも生きつづけている。

2018年8月8日水曜日

大原美術館美術講座9


D田中日佐夫『日本の戦争画 その系譜と特質』(ぺりかん社 1985

こういう作品群を生んだのは、たしかに時代相の反映であったと思う。しかし、私はそれでも、合戦に明け暮れた時代としては戦争画が少ないように思うのである。たとえば、あの自己顕示欲に満ちた織田信長や豊臣秀吉が、自分の居城を、自分がいままで戦い抜いてきた合戦のさまを描いた絵や、重要な会談の場面を描いた絵(もちろん私の脳裏にはベラスケスの「ブレダの開城」などがあるのだが)でもっと飾ってもよかったのではないかと思うのである。ところが安土城天主閣などにはそのような絵は一枚も描かれていなかったようである。どうも不思議に思えてしかたがない。このへんにわが国特有の、現実の儀礼や現実の戦争を描くことを拒否していた古代人から流れていたであろう心情の存在を、いまだに強く感じるのである。

2018年8月7日火曜日

大原美術館美術講座8


C勅使河原純『菱田春草とその時代』(六芸書房 1982

そこへ提出されたのが、春草の「寡婦と孤児」であったのだ。少なからず世を憚る、戦争批判の臭いをもったこの作品に対して、岡倉校長は躊躇なく優等第一席の評価を下した。いわゆる戦争画、それも血の流れている場面などを特に喜んだといわれる一般の趣味とは、およそ対照的な態度である。岡倉は決して戦争画を認めず、弟子達にも描くことを許さなかった。この点で彼の立場は一貫し、生涯決して揺れることはなかった。

2018年8月6日月曜日

大原美術館美術講座7


B辻惟雄「メトロポリタン美術館蔵『保元・平治物語図屏風』について」
                      (日本屏風絵集成5 講談社 1979
保元元年(1156)七月と、元治元年(1159)十二月の再度にわたり、京を舞台に、華々しく、そしてあっけなく展開終結した保元・平治の乱は、歴史上では中世の幕開けを告げる意義を持つものであった。事件の顛末は潤色されて為朝や悪源太といった英雄像をつくり出し、さらに義経・頼朝の後日譚などをそえ、保元・平治物語として人びとに愛誦されるようになる。この屏風の画題内容は、合戦を主題としながらも、全体として物語の一部始終を、片双を保元絵に、片双を平治絵に分けてくわしくたどったものであり、そのいみでは「合戦絵」と呼ぶよりむしろ「物語絵」とした方がふさわしい。



2018年8月5日日曜日

大原美術館美術講座6


参考資料

A宮次男『合戦絵』<日本の美術146>(至文堂 1978

かかる点からいって、本絵巻(「蒙古襲来絵巻」)には鎌倉武士の合戦絵に対する態度がはっきり表わされており、前期の戦記絵巻とは異なった、武家の美意識に基づく作品とみなすことができるのである。換言すれば、「平治物語絵巻」を頂点とする戦記絵巻が公家社会の所産として、浪漫的で文学性豊かな表現をもっていたのに対し「蒙古襲来絵巻」は武家的絵画として、現実的で記録性を重んじた造形ということができるのである。そして、この性格がいわば車の両輪となって、日本の合戦絵は展開していくのである。

2018年8月4日土曜日

大原美術館美術講座5


マイベストテン

    平治物語絵巻(ボストン美術館・静嘉堂文庫美術館・東京国立博物館蔵)

    蒙古襲来絵巻(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)

    伝土佐光信「保元平治合戦図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)

    伝土佐光吉「関が原合戦図屏風<津軽屏風>」(大阪歴史博物館蔵)

    俵屋宗達「扇面貼交屏風<保元平治絵押絵貼屏風>」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)

    伝八郎兵衛(久左衛門)「大坂夏の陣図屏風<黒田屏風>」(大阪城天守閣蔵)

    狩野探幽「一ノ谷合戦・二度之懸図屏風」(静岡県立美術館蔵)

    海北友雪「一ノ谷合戦図屏風」(埼玉県立博物館蔵)

    歌川国芳「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」

  松本楓湖「蒙古襲来・碧蹄館図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵)

2018年8月3日金曜日

大原美術館美術講座4


キーワード

 戦争画

 合戦絵

  平安時代末より制作される

  「後三年合戦絵巻」(後白河院が制作を命じる 吉田経房『吉記』)

  「平将門合戦絵巻」(将軍実朝京へ注文する『吾妻鏡』 幼少将軍教育啓蒙?)

  後崇光院『看聞御記』における室町初期天皇公家合戦絵鑑賞の事例

  鎌倉中期以降の合戦絵が遺る

 画面形式 合戦絵巻 合戦屏風 武者絵 出陣 対峙 合戦 戦時戦後生活

 凱旋 敗戦 記録画 戦勝記念 武功顕彰 教育啓蒙 戦意高揚 反戦画

2018年8月2日木曜日

大原美術館美術講座3


会田さんの「戦争画RETURNS」シリーズを象徴する「紐育空爆之図」は、秋田県立近代美術館で開催した特別展「ネオテニー・ジャパン」のときに、とても強い印象を与えられた傑作です。また、その後コンテンポラリー・アートを語るときには、必ず会田エロティシズムのみごとな視覚化である「群娘図」に指を折っていたので、ワクワクしながらそのナイーブな肉声に聞き入りました。

マイトークはともかく、配布資料――とくにその参考資料はきっとお役に立つと思いますので、以下にアップすることにしましょう。ただし、マイブログ「饒舌館長」から引用した<五島美術館「光彩の巧み 瑠璃・玻璃・七宝」>印象記は、すでにみなさんご存知のところですのでカットいたしました。

ところで、僕の独断偏見は、①わが国の合戦絵は合戦絵じゃなく物語絵である。②屏風・絵巻という大画面・長尺画面がその基底を支えている。③作戦記録画やコンテンポラリー・アートにまで、日本美のDNAは生きている――というものでしたが、それはともかく、銘酒「荒走り」を心ゆくまで堪能した歓迎会を含めて、じつに楽しい2日間となったのでした()

*お元気な方はすべて「さん」とお呼びするのが「饒舌館長」ですので、失礼の段、どうぞお許しくださいませ。



2018年8月1日水曜日

大原美術館美術講座2


しかしこれは、饒舌館長としてまたまた独断と偏見を開陳し、静嘉堂文庫美術館および企画展「明治150年記念 明治からの贈り物」を宣伝するグッドチャンスだと思い、いつものごとく即断即決、お引き受けすることにしました。はじめ「なぜ、描かれたのか? 戦いの表象――平治物語絵巻から日本現代アートまで」というタイトルを考えました。

考えましたが、ちょっと僭越だと思い返し、鎌倉時代の「平治物語絵巻」から、明治時代の松本楓湖筆「蒙古襲来・碧蹄館図屏風」まで、マイベストテンを選んでしゃべることにしました。両者とも、静嘉堂文庫美術館コレクションとなっているところがミソです() 

三浦さんの「西洋の戦争表象とその広がり――19世紀フランス絵画から藤田嗣治の戦争画へ」、会田さんの「雑感・戦争と美術」、高階さんの「記録と記憶――イメージの力」が、刺激に満ちた発表であったことは、改めていうもでもありません。

岩波ホール「山の郵便配達」2

  名古屋大学につとめていたころ、名古屋シネマテークで勅使河原宏の「アントニオ・ガウディ」がかかり、見に行こうと思っているうちに終っちゃったことがありました。そのころ映画への関心が薄れ、チョット忙しかったこともあるのかな?  そんな思い出はともかく、名古屋シネマテークが閉館に...