2018年10月31日水曜日

静岡県立美術館「幕末狩野派展」2


かくいう僕も、これはいいなぁ!!と心から思ったのは、20年ほど前、鹿島美術財団の助成を受けて、ボストン美術館日本美術悉皆調査を行なったときでした。江戸狩野を担当することになった僕は、これを専門とする河合正朝さんや榊原悟さん、安村敏信さんたちと、キューレーターのアン・モースさんがお蔵から出してくる江戸狩野作品の調査を始めました。

フェノロサやビゲローが蒐集した江戸狩野の作品数はハンパじゃありません。僕たちは最低145点と決めて、取りかかったのです。

それはおおむね探幽三兄弟から始まり、徐々に時代をおりてきましたが、幕末狩野派、とくに木挽町狩野派では、魅入られる作品が少なくなかったのです。


2018年10月30日火曜日

静嘉堂文庫美術館「アイヌ文化に親しみましょう」4


第二部は「アイヌ民族伝統文化の紹介」で、アイヌ文化継承者である居壁太さんと星野工さんが、トンコリやムックリでアイヌ音楽を演奏し、ウポポを歌い、また古式舞踊を披露してくれました。これまたとても印象深いものでした。終了後、館長室で歓談の一時をもちましたが、中学卒業後、東京に出てきて働き始めた星野さんのお話をお聞きしながら、その大変な苦労をしのぶとともに、身の置き所がない思いにかられました。

2020年には、国立アイヌ民族博物館が白老ポロト湖畔にオープンすることが決まっています。明治政府のアイヌ政策に失望し、一切の官職と位階を1年で返上してしまった松浦武四郎も、これを知ったらどんなに喜ぶことでしょうか。武四郎の美しい精神をそのままに活かした博物館になってほしいと、心から願わずにいられません。

これまで僕は、アイヌ文化について、あまりにも無知でした。本も一、二冊読んだ程度です。ただその中で記憶に残っているのは、アイヌ民族がまとう衣裳の模様があれほど素晴らしいのに、アイヌ語には「意匠」や「デザイン」にあたる言葉が存在しないという、非常に興味深い指摘です。

ただしこれまた、どんな本に書いてあったのか、今やまったく思い出せません。またまた75年使ったコノピューターが、フリーズを起こしちゃっています(!?)

2018年10月29日月曜日

静嘉堂文庫美術館「アイヌ文化に親しみましょう」3


「ウィキペディア」によると、先のエピソードは、野坂恵子さんの「恩師 伊福部先生のこと」(『現代音楽』20064月号 95㌻)に書かれているそうです。いつか読んで、紹介することにしましょう。

今日のコンサートで最も心に残ったのは、「サハリン島の先住民三つの揺籃歌」でした。キーリン族の「ブールー ブールー」、ギリヤーク族の「プップン ルー」、オロッコ族の「ウムプリ ヤーヤー」の3曲で、伊福部氏が苦労して採譜されたそうです。もちろん詩は伝承詩で、藤本明日香さんが、それぞれの言葉で歌われたので、びっくりしてしまいました。

僕らの世代にとって、アイヌ音楽といえば、もっぱら伊藤久男の「イヨマンテの夜」ですが、ずいぶん違う感じだなぁと思いながら聞いていました。もっとも、「イヨマンテの夜」が祭り歌のイメージであるのに対し、今回歌われたのは揺籃歌、つまり子守唄だったせいかもしれませんが……。

2018年10月28日日曜日

静嘉堂文庫美術館「アイヌ文化に親しみましょう」2


僕が小学生のとき、突然のごとく親爺が映画「ゴジラ」に連れて行ってくれたことがあります。山登りが好きで、映画にはまったく興味のない親爺でしたが、どこかで評判を聞いたか、映画評でも読んだのでしょう。もちろんそのモノクロ画面に、僕もすごくハラハラドキドキしましたが、その音楽が伊福部昭という作曲家の作品であることを知ったのは、ずっと後になってのことでした。

今日この印象記をエントリーするにあたり、もう少し伊福部氏のことを知りたいと思って「ウィキペディア」を検索したところ、静嘉堂文庫ともちょっと関係があることが分かって、とてもうれしくなってしまいました。

伊福部氏の仕事部屋には、諸橋轍次先生の揮毫になる「無為」という額がかかっていて、必ずそれを仰いでから、仕事に取りかかったというのです。いうまでもなく諸橋先生は、静嘉堂文庫の第2代文庫長にして、最近デジタル化されて話題を集めた大修館版『大漢和辞典』の編著者です。

2018年10月27日土曜日

静岡県立美術館「幕末狩野派展」1


静岡県立美術館「幕末狩野派展」<1028日まで>(1026日)

日本美術史、とくに日本絵画史をなりわいとする専門家はいうまでもなく、広く日本美術を愛する方々にぜひ見ていただきたい、いや、ぜったい見なければならない特別展です。

といっても残りはあと一日、もう静岡まで出かけることが無理な方は、担当キューレーター野田麻美さんがほとんど独力で編集した力作カタログだけでも、ぜひお求めくださいね!! 静岡県立美術館に電話をすれば、送ってもらうことができるんじゃないでしょうか?

 現在「幕末狩野派」といえば、多くの方がすぐに思い出すのは、狩野(逸見)一信ですね。その大作である大本山増上寺所蔵の「五百羅漢図」でしょう。これはこれですばらしい。しかしその対極に、もっと美術の歴史に寄り添い、かつキャラをちょっとしのばせながら、優美でソフィストケートされた幕末狩野派の絵画世界があったことは、意外に知られていません。

静嘉堂文庫美術館「アイヌ文化に親しみましょう」1


静嘉堂文庫美術館
 「静嘉堂コンサート“アイヌ文化に親しみましょう”松浦武四郎が見た北海道の源流・アイヌ文化を音楽と物語で辿る」(106日)

 松浦武四郎展にちなんで企画した静嘉堂ミュージックコンサートです。第一部のMusica Hokkaidoによる「伊福部昭歌曲集」は、北海道に生まれ北海道を愛した作曲家――というよりも、一般的には映画「ゴジラ」の音楽で有名な伊福部昭氏の歌曲を集めて、僕らを最北の北海道からさらにサハリンへといざなってくれました。

ソプラノ・藤本明日香さん、バリトン・根岸一郎さん、ピアノ・小部晴枝さんらによるMusica Hokkaidoは、北海道で生まれた文化を多くの方々に知ってもらう目的で、2010年に結成されました。アイヌ音楽と伊福部昭作品の紹介を二本の柱として、活動を続けています。また、アイヌ文化と比較してもらえるように、ヨーロッパの中心部における先住民であるケルト人の文化や音楽も、併せて広く伝えるようにしているそうです。

2018年10月26日金曜日

三井記念美術館「仏像の姿」3


清水さんの開会の辞に続いて、朝日新聞社文化事業部の谷口俊二さんの挨拶がありました。最後を〆た籔内さんのお話は、仏像の模刻にはいかなる意味があるのかを語って興味深いものでした。また学生を一人ひとり紹介するなかに、彼らに対する先生としての愛情がおのずとにじみ出ていて、深く心を動かされました。

拝聴しながら僕は、籔内さんにお願いして造っていただいた秋田県立近代美術館の「秋田犬」を思い出していました。それは乗って遊べることもあり、子供たちにもっとも人気の高い野外彫刻でした。

それはともかく、僕はただ前に座っているだけ、挨拶をやる機会がなかったので、饒舌館長としてはちょっとストレスがたまってしまいました。國華事務局長の山口万里子さんにそれを言うと、彼女曰く、「河野さんが挨拶なんかやったら、みんなの方にストレスがたまっていたわよ!!


2018年10月25日木曜日

三井記念美術館「仏像の姿」2


かつて僕も本尊を拝んだことがありますが、もうこの時代になると、光背仏のような副次的仏像の方に、魅力を感じることが多いように思います。

キャプションの<見どころ>には、「フラメンコダンサーのように軽やか」なんて書いてありました。ちょっとこれまでの仏像展にはないキャプションですが、こんな風に自由に、捉われずに見てくださいという清水さんからのメッセージなのでしょう。

「仏師がアーティストになる瞬間」というキャッチコピーを見てすぐ思い出したのは、「職人がやがて芸術家になるのであって、職人ではない芸術家など存在しない」という言葉です。これは名言だと心に残っているのですが、誰の言葉であったか、どこに書いてあったか、もう思い出せません――コノピューターももう終りです(!?)

この特別展は、國華社も後援をさせてもらいました。そのため、パリで開かれている日仏友好プロジェクト「ジャポニスム 2018」に招待された主幹・小林忠さんの名代として、オープニング・セレモニーに列席することができたのです。ちょっと役不足でしたが、身に余る光栄でした。

2018年10月24日水曜日

三井記念美術館「仏像の姿」1


三井記念美術館「仏像の姿~微笑む・飾る・踊る~」<1125日まで>(914日)

 館長の清水真澄さんは、カタログの「ごあいさつ」に、「展覧会場で観客それぞれの人が、自分の感性で、仏師の工夫や技術、独創性すなわち『仏師がアーティストになる瞬間』を見つける、体験型の展覧会といえるかもしれません」と書いています。「いえるかもしれません」じゃなく、「いえます!!」。とても楽しい仏像展です。このごろ僕が主張している感情移入――エンパシーによる鑑賞も、きっとおもしろいにちがいありません。

東京藝術大学文化財保存学・籔内佐斗司研究室の大学院生たちによる、天平・弘仁貞観以来のすぐれた仏像の模刻や復元も見逃せませんよ。

「僕の一点」は、最初に登場する「迦陵頻伽立像」(個人蔵)です。鎌倉・覚園寺の本尊「薬師三尊像」の光背を飾っていた迦陵頻伽のうちの一体と推定されています。この三尊像は、鎌倉地方を中心に活躍した仏師・朝祐による1422年の制作と考えられています。異説もあるようですが、室町時代の仏像であることは間違いありません。


2018年10月23日火曜日

静嘉堂文庫美術館「川喜田半泥子私論」7


翌日はお馴染みの河野トーク、演題は「福田豊四郎 北国の抒情」、この郷愁の画家について持論を吐露していたら、絶筆の「紅蓮の座・池心座主」にたどりつく前に、タイムアップとなってしまいました。

この日の午前中はフリーだったので、前から訪ねてみたいと思っていた石水美術館への案内を毛利さんに頼みました。愛して止まない川喜田半泥子の美術館です。「僕の一点」は「かまつ()けば窯の中まで秋の風」という自賛をもつ「千歳山真景図」。

千歳山とはこの美術館が建つ小山、昭和8年、半泥子は小山冨士夫の指導を得てここに窯を築き、二年後、完全なる成功に漕ぎつけました。真景図とはいっても、松の木だけを淡彩で描いた作品です。尾形乾山に傾倒し、『乾山考』まで著わした半泥子が、その兄光琳の「松図」(川端康成記念館蔵)を見る機会に恵まれ、インスピレーションを得た作品だと直感したことでした。


2018年10月22日月曜日

静嘉堂文庫美術館「川喜田半泥子私論」6


 僕がはじめて石水美術館をお訪ねしたのは4年前、そのときのことは、秋田県立近代美術館HPブログ「おしゃべり館長」に、「 三重県立美術館『生誕110年記念 福田豊四郎 描いても想っても尽きないふるさと』/石水美術館『川喜田半泥子の書と絵画』」と題してアップしました。「川喜田半泥子私論」をやることになって、懐かしさのあまり、その配布資料に「参考資料」として引用しましたが、ここに改めて再録することをおゆるしください。

なお、僕がいう「秋田三大画家」の一人、福田豊四郎については、機会をみて「饒舌館長」にアップすることにしましょう。もう一人の平福百穂については、『聚美』最新号に寄稿しましたので、ご笑覧いただければ幸甚に存じますが……。

我らが福田豊四郎の特別展です。しかも西日本では最初の豊四郎展です。しかもしかも68点の出品作が、すべて秋田県立近代美術館の所蔵なのです。僕はとても誇らしい気持ちで開場式に臨み、名大時代の教え子でもある毛利伊知郎館長と、担当した道田美貴さんたちに感謝の挨拶をしました。


2018年10月21日日曜日

静嘉堂文庫美術館「川喜田半泥子私論」5


しかしこんなことは、半泥子の素晴らしさとはまったく無関係です。無関係どころか、こんなゴタクを並べれば並べるほど、半泥子の素晴らしさから遠ざかっていくような感じがします。

というわけで、しゃべっているうちにちょっと恥ずかしくなり、持っていった僕の『乾山考』を会場に回して、手にとって見ていただき、罪滅ぼしとすることにしました。僕の所蔵は65部限定のうち第29号です。かつて山根有三先生から、『琳派絵画全集』光琳派Ⅰに「乾山の伝記と作品」を寄稿するようご下命を受けましたが、半泥子の『乾山考』が手元になければ、とても書けるものじゃーありません。

大枚をはたいて買った記憶があるので、今はどうなっているかなぁと思って「アマゾン」と「日本の古本屋」で検索してみましたが、どっちもヒットしません。いまやプライスレスにして幻の稀覯本になっているのかな? いや、なっててほしいなぁ(!?)

2018年10月20日土曜日

静嘉堂文庫美術館「川喜田半泥子私論」4


今回のおしゃべりトークでは、「マイベストテン」として、①「粉引茶碗」銘「雪の曙」千歳山窯(石水美術館蔵) ②「黒茶碗」銘「美保の夜」千歳山窯(石水美術館蔵) ③「片身替茶碗」銘「寝物語」千歳山窯(石水美術館蔵) ④「伊賀水指」銘「欲袋」千歳山窯(石水美術館蔵)<昭和15年> ⑤「赤絵紅葉水指」広永窯(石水美術館蔵) ⑥「竹茶杓」銘「乾山」(石水美術館蔵)<昭和16年> ⑦「ぐい呑」10口(石水美術館蔵) ⑧「春の旅絵巻」4巻(石水美術館蔵)<大正13年> ⑨尾形乾山「染付阿蘭陀写草花文角向付」(石水美術館蔵)<江戸時代> ⑩「千歳山真景図」(個人蔵)をあげつつ、改めて半泥子への真率なるオマージュを捧げたことでした。

もっとも体裁を整えるために、半泥子の美的特質は直感主義、素材主義、文人趣味にあり、その思想的背景として、禅と老荘思想があったという独断と偏見をまたまた開陳しました。

2018年10月19日金曜日

静嘉堂文庫美術館「川喜田半泥子私論」3


 ここに登場する「宮氏」というのは、僕が東京国立文化財研究所時代たいへんお世話になった絵巻研究の大家・宮次男先生のお父上だと思われます。また「乾山考」というのは、半泥子がみずからの千歳文庫から出版した、乾山研究の基本的文献である『乾山考』を指しています。

 半泥子は、僕が大好きな陶芸作家の一人です。もっとも、「陶芸作家」などというと、「しろうと」であることを誇りにしていた半泥子に怒られてしまうかもしれませんが……。すでに4年ほど前、半泥子に対するオマージュを、マイブログ「おしゃべり館長」にアップしたことがありますし、最近では「饒舌館長」に、半泥子のエッセー集『随筆 泥仏堂日録』を紹介しました。半泥子の人となりについては、これをご参照くださいね。

2018年10月18日木曜日

静嘉堂文庫美術館「川喜田半泥子私論」2


ところが縁は不思議なもので、14代久太夫の孫にあたる半泥子と、弥之助の子供である小弥太は、明治40年(1907)明治生命の株主総会ではじめて顔を合わせることになります。それ以来、両者は親しく交流するようになったようです。それを示す「半泥子日記」昭和20年(1945528日の条を紹介してみましょう。

五月廿八日 快晴 岩崎小弥太男来遊之為、朝より皆掛りて掃除す。正午来着。老松下に社員等廿二名と弁当されて後、田舎家で宮氏手前にて茶、余一人相伴。床三藐院天神画賛、花京鹿子小さし、いつもの天平水ツギ、古銅茶器桃山時代、桐蒔絵なつめ、茶杓半泥子、茶盌雨月井戸わきか、かへ井戸大ぶり、薬かん錫、菓子わらび餅。後古事記庵を見て笑わる。〇所望により余の茶盌井戸一つ呈す。乾山考は約束す。後より一時半過出発、津に向はる。三時に田舎家にて更に余等茶よばれる。

2018年10月17日水曜日

静嘉堂文庫美術館「川喜田半泥子私論」1


静嘉堂文庫美術館<松浦武四郎展おしゃべりトーク>「川喜田半泥子私論」(1014日)

 今回の「松浦武四郎展」では、川喜田半泥子のすばらしいお茶碗を、7碗も石水博物館からお借りすることができました。川喜田家は伊勢の豪商にして、14代久太夫は武四郎と無二の親友であり、またパトロンでもありました。その孫にあたる半泥子の作品が一緒に出陳されれば、泉下の武四郎もどんなにうれしいことでしょうか。そのように考えて、僕たちは「松浦武四郎展」に半泥子の作品を加えることにしたのです。

石水博物館は半泥子が基礎を開いた博物館で、「石水」は祖父にあたる14代の号、川喜田家や半泥子ゆかりの文化財がたくさん伝えられてきています。

武四郎の古物コレクター仲間に、現在は五島美術館が所有する「隆能源氏」(国宝源氏)をもっていた柏木貨一郎がいましたが、もともと貨一郎は大工の棟梁でした。貨一郎は岩崎弥之助の依頼を受けて、広大な深川別邸をみごと完成させたのですが、このような関係から、武四郎が蒐集した古物を中心とするコレクションが、静嘉堂文庫美術館に伝えられることになったと推定されています。

2018年10月16日火曜日

田原市博物館「渡辺崋山の神髄」2


館長の鈴木利昌さんから、崋山先生の祥月命日にふたたび講演を頼まれた僕は、「饒舌館長、渡辺崋山の眼差しを語る」と題して、例のごとくおしゃべりトークを試みました。自然への眼差し、社会への眼差し、自身への眼差しの三つに分けて、崋山における<真>への眼差しをしゃべったのです。

配布資料には、去年「饒舌館長」にアップした「田能村竹田の勝利とエルヴィス・プレスリー」の一部を引用しました。吉澤忠先生がかの名論「田能村竹田の敗北」のなかで、「このような日本の芸術家がたどらなければならなかった悲しい運命の一つの型を、わたくしたちは、いわば渡辺崋山とは対蹠的に、竹田に見ることができるのではないだろうか」と、崋山の名前をあげているからです。

わざわざ駆けつけてくれた豊橋市美術博物館館長の毛利伊知郎さんは、帰りの渥美鉄道田原線のなかで、「たいへん興味深いお話でした」と褒めてくれました。どうしてかって? 毛利さんは、僕の名古屋大学時代の教え子だからです(!?)


2018年10月15日月曜日

田原市博物館「渡辺崋山の神髄」1


田原市博物館「田原市博物館開館25周年記念 渡辺崋山の神髄」<1021日まで>(1011日)

 渡辺崋山、いや、渡辺崋山先生ゆかりの地にある田原市博物館では、これまで崋山先生やその弟子・椿椿山の作品を人物画、山水画、花鳥画という三大テーマに分けて、大規模な特別展を開催し、そのたびに話題を集めてきました。

とくに2013年の「渡辺崋山・椿椿山が描く花・鳥・動物の美」では、僕にも講演のお呼びがかかり、しばらくぶりで崋山の筆になる花鳥画の名品を堪能し、<メタファーの画家>崋山についてしゃべったことでした。

今回の「渡辺崋山の神髄」は、その集大成ともいうべく、併せて開館25周年をことほぐ特別展です。立派なカタログには、名誉館長であるドナルド・キーンさんも祝辞を寄せていらっしゃいます。会場を巡れば、わが静嘉堂文庫美術館が誇る崋山の名品「芸妓(校書)図」や「海錯図」、「月下鳴機図」が錦上花を添えています。こんなうれしいことはありません。

2018年10月14日日曜日

出光美術館「仙厓礼讃」7


一方、真言密教や禅は、このような見方を否定し、有形なるものは無形もしくは空虚(シューニャ)である――すなわち両者は同一であると考えるのだ。

 しかし、このような問題を対話形式で論じた『点眼薬』という随筆のなかで、仙厓は禅を真言密教よりも高く評価し、禅はより一層直接的、即応的であり、いわゆる言語遊戯に陥ることなく、ズバリ核心を突いてくると述べている。

この点において禅は、知識などという初期的段階で右往左往している<眼>にとって、もっとも効果的な点眼薬となるのである。その程度の<眼>が、マハーシュバラ(御仏)によって開眼された<眼>に昇華するのである。それは絶対的真理の秘密を、直裁的に見抜く神の<眼>である。

この段階への開眼つまり頓悟は、何であれ言葉による教えを超越し、突然にやってくるのだが、それは本質的に真言密教から欠けているものなのである。

*カタログの「仙厓略年譜」によると、『点眼薬』は仙厓の著作で、文化14年(18177月、68歳のとき、その跋が書かれています。


2018年10月13日土曜日

出光美術館「仙厓礼讃」6


 この三つの形態あるいは形について、上記とは異なるもう一つの解釈がある。それはより一層長い歴史をもつ解釈である。仙厓は禅とともに、仏教的マントラ派ともいうべき真言密教に関心を寄せていた。仙厓は肉体的存在(ルーパカーヤ)そのものを、絶対的真理(ダルマカーヤ)とみなす真言密教を好ましく感じていた。

真言密教においては、生物的、言語的(あるいは理性的)、そして観念的(あるいは精神的)という三つの要素を象徴する△によって人間の肉体を、つまり肉体的存在をあらわすのである。

□は土と水、火、空気という四つの要素からなる客観的な世界をあらわす。絶対的真理であるダルマカーヤは、○であらわされるが、それは定形というものをもっていない。一般的に我々は、有形(ルーパカーヤ)対無形(アルーパ)、客観対主観、物質対精神というように、二項対立的にものの存在を把握する。またその両者は相たがいに矛盾し、排他的であると考えがちである。

2018年10月12日金曜日

出光美術館「仙厓礼讃」5


したがって我々は、この世界には初めから目に見え、具体的なものが存在したかのように考えるようになる。あたかも、形がなく、捉えどころがないにもかかわらず、目に見え、認識できる銀河みたいに……。

これこそいま我々があらゆるものとともに生きている宇宙の本質であるが、それは無限であり多種多様なのだ。このようにして、やがて時間こそが具体的で目に見えるもの(の根源である)と認識されはじめる。○は△にになり、やがて□になり、遂には限りなく変化に富み、また変化し続ける形となる。

同じような考え方によって、創造に関するキリスト教的言説が、多くの人びとにとっての歴史的真実となる。しかし禅は、このようにみてきたがごとき言説に、絶対反対の立場をとるのである。

2018年10月11日木曜日

出光美術館「仙厓礼讃」4


仙厓「○△□」

 「○△□」は宇宙を表現した仙厓の絵画作品である。○はすべての存在の根本をなす無限をあらわしている。しかし無限そのものに形はない。感覚と理性をもった我々人間にとっては、具体的な形が必要である。この要請にしたがって△が生まれる。△はすべての形の基本だからである。

それから最初に□が生まれる。□は△が二つ合わさった形だからである。その合体が無限に続く結果、遂にはきわめておおくのものが誕生する。中国の哲学者はこれを「万物」と呼んだが、すなわち宇宙のことである。

 言葉によってものごとを考えようとする我々につきまとう問題は、言葉を現実だと思い込み、時間という存在がなければ、言葉など何の意味ももたないということを、忘れてしまう点にある。実際は、言葉こそ時間であり、時間こそ言葉なのだ。


2018年10月10日水曜日

出光美術館「仙厓礼讃」3


冗談はともかく、八波浩一さんのカタログ巻頭論文「老いて、なお楽し――第二の人生を謳歌した禅僧・仙厓の隠居生活」を、高齢者はもちろん、若い方々にも是非お読みいただきたいなぁと思います。

「僕の一点」は、やはり「○△□」ですね。以前「前方後円墳」について独断と偏見をアップしたとき、泉武夫さんの説を中心に紹介したことがあります。そのとき、前方後円墳が実は○と△と□でできているという説があることを紹介しましたが、仙厓の「○△□」を一つのユニバースとみる鈴木大拙の解釈こそ、その前方後円墳○△□説に、思想的な補強を加えてくれることになるでしょう。

八波さんから、Daisetz Suzuki “Sengai, The Zen Master” Faber & Faberのコピーをいただいたので、さっそく僕なりに訳してみました。拙いものですが、改めて前方後円墳問題を考えてみたいと思いますので、それに先立ってこれを紹介することにしましょう。


2018年10月9日火曜日

出光美術館「仙厓礼讃」2


毎年のように行なわれた名所旧跡・寺社仏閣への旅行や参詣、地元博多の祭りや催し物見物。あるいは珍奇石や古器物の蒐集、さらには茶をたしなみ、書画や作詩・詠歌・句作などにいそしむ毎日を送りました。特に、友人・知人や地元の人々との心温まる交流を大事にしたようです。数えの八十八歳、隠棲後二十五年の長きにわたって仙厓の人生を振り返ると、“老後の達人”ともいうべき姿が浮かんできます。

 いいなぁ! 実にいいなぁ!! 本当にうらやましいなぁ!!! 何かを蒐集するという趣味もなく、お茶の心得もなく、もちろん詩歌を詠むという才もない僕には、真似をしようと思ってもむずかしそうですが、老後を豊かに過そうとする仙厓さんの精神だけは学ぶことができそうです。ところで仙厓さん、お茶は大好きだったようですが、オチャケの方はどうだったのかな()

2018年10月8日月曜日

出光美術館「仙厓礼讃」1


出光美術館「仙厓礼讃」<1028日まで>

 出光美術館の世界に冠たる仙厓コレクションについては、改めて紹介するまでもありませんね。これまで開催された何回かの特別展のたびに、僕たちはその魅力に引き込まれてきましたが、今回の「仙厓礼讃」展は、後期高齢者になった僕にとって、とくに心に沁みるプロジェクトです。

担当キューレーター八波浩一さんが「老後の達人」と名づけたように、すばらしいご隠居生活を送った仙厓さんに照明をあてて、この企画を組み立てているからです。充実したカタログから、「ごあいさつ」の一部を引いておくことにしましょう。

ユーモア溢れる「禅画」で知られる禅僧・仙厓(17501837)。現在伝わっている作品のほとんどは、住持職を引退し、寺の境内の一隅にあった虚白院という隠居所で過した四半世紀の間に制作されています。しかも、隠棲は還暦を優に超えてからのことでした。実は住持職を引退した後の仙厓は、“ご隠居さん”として悠々自適な生活を謳歌した第二の人生があったのです。


2018年10月7日日曜日

『君たちはどう生きるか』9


若き諸君の夢と希望を打ち砕くような一言だが、自分では如何ともし難いという点で、人生は賭けだと同じようなニュアンスを持っている。ただ、「できるのはその先頭に立つことだけだ」と続けるところが、いかにもドラッガー先生らしい。

人生は賭けだから、駄目だったら次の勝負に出ればいい。僕は美術館や博物館に就職した学生に対してだが、「最低3年、できたら5年」と言ってきた。それだけつとめて、自分に合っていると思ったら続ければよいし、馴染めなかったら次の道を探せばいい。オファーがかかって最初の職を一年半で辞めてしまった僕だから、大きなことは言えないのだが、この時は両方の職場の先輩どうしで話し合ってもらって、ただその結論に従っただけだった。これも他人任せという点で、やはり賭けそのものだった。

就活で悩む諸君に、勧めたいと思う人生論の本などほとんどない。世評の定まった名著はあるが、むしろ就職が決まったあとで読む方がいい。もし一冊挙げるとすれば、人生は賭けだからではないが、色川武大氏の『うらおもて人生録』(新潮文庫)だ。とくに「九勝六敗を狙え――の章」を読めば、きっと元気が出てくる。うまくいくことを祈っている。

2018年10月6日土曜日

『君たちはどう生きるか』8


しかしこんな話をしても、今の厳しい就活を戦っている諸君には、何を寝ぼけたことをと笑われるだけかもしれない。聞くところでは、20枚も30枚も履歴書を書くのが普通だという。しかも期限付きだったり、非正規雇用だったりする。余裕のない社会になってしまった、いや、このような社会にしてしまったのは、僕らの世代の責任だと思うと申し訳なくて、人生は賭けと同じだなどと言えなくなってしまう。

その代わりというのも変だが、岩崎夏海さんの『もしドラ』で有名なピーター・ドラッガー氏の言葉、「世の流れを変えることはできない」を贈りたい。彼は一世を風靡したアメリカの経済学者だが、日本を深く愛してその美術品を収集したコレクターとしても名高い。

現在、長野県信濃美術館でその特別展が開かれていて、質の高さに改めて注目が集まっているが、40年前、ロスアンジェルスの私邸で調査させてもらった時のことを懐かしく思い出す。

2018年10月5日金曜日

『君たちはどう生きるか』7


そもそも天才とは天賦の才に恵まれたものなのか、あるいは社会が作り上げるものなのか、二つの説があって決着など付いていない。いずれにせよ、人生は賭けだと割り切れば、どんな場合もくよくよ悩まないで済む。くよくよ悩まなければ、必ずよりよい結論が出る。もちろん、いま諸君が直面している就活においてもそうだ。

僕も就活をやったことがある。何となく大学に入ったように、何となく大学院にでも進もうと考えていたのだが、大学四年生の初夏、親父が急に仕事を辞めてきたので、こりゃいかんと思い、新入社員募集中であった渋谷のJ社を訪ねたら内定がもらえた。

僕も愛用していた製品を作っている会社だったし、ここで一生お世話になろうと思っていたら、親父もすぐ次の仕事を始める機会に恵まれたので、やはり大学院に行くことにしたに過ぎない。

2018年10月4日木曜日

『君たちはどう生きるか』6


人生は賭けだ。「一か八かやってみろ」という意味ではない。人生は賭けと同じで、思い通りにはならないからである。勝とうと念じてやっても負けることが多い。自分の考えで行動していうようでいながら、結局はウマ、サイコロ、ルーレットという他人任せだ。それが言いすぎなら、他人によるところが少なくない。人生と賭けの違いを見つける方が難しい。

 こんなことを言うと、きっと顰蹙を買うだろう。人生がギャンブルと同じだなんて、この素晴らしい文明を創り上げてきた崇高なる人間を馬鹿にしている。多くの戦いに勝ち抜き、栄耀栄華をきわめた英雄はたくさんいる。不屈の精神で他人の嘲笑や妨害をはねのけ、偉大な仕事を成し遂げた努力の天才の名だって、十人や二十人すぐに挙げられると……。

このような反論を、全面的に否定することはできないだろう。しかし、ギャンブルだって人間だけが創造し得た高度な文化の一つである。武勲に輝く英雄も、最後は自分の思う通りにならなかったものがほとんどだ。努力の天才だって、つねに運不運にみまわれていたし、まったく独力などということはあり得ない上、その仕事を認めてくれたのは社会なのだ。

2018年10月3日水曜日

筆の里工房「筆が奏でる琳派の美」4


「僕の一点」は、会場劈頭を飾る酒井抱一筆・亀田鵬斎書「退鋒老毛君瘞塚拓本」(筆の里工房蔵)です。文化10年(1813)建てられた碑で、桜餅で名高い長命寺にあるそうです。かつて拙文「抱一の伝記」「抱一の有年記作品」をまとめたとき、抱一関係の石碑も結構調べて言及したのですが、この碑のことはまったく知りませんでした。拓本で見るだけでも、書画そろった素晴らしい碑のようです。

この碑を再発見したのは、筆の里工房の特別研究員をもつとめる村田隆志さんです。その村田さんがこのカタログに詳しい解説を寄せていますので、すべてはそれにゆずることにしましょう。ご興味のある方はぜひご参照くださいね。

きわめて充実した特別展と開会式を堪能して、奥平さんと広島駅に向かいました。しかし心残りだったのは、直前に発症した盲腸炎――いまは虫垂炎というそうですが、そのドクター・ストップのために、安芸の銘酒をただの一滴も飲めないことでした() 

2018年10月2日火曜日

筆の里工房「筆が奏でる琳派の美」3


王朝美術の近世的復興という琳派の特質は、<筆>に注目することによって、もっともよく理解することができる――という私見を、スライドを交えながらしゃべりました。もっとも後で、某氏からは「いつもの調子でコジツケ気味だったなぁ」と冷やかされましたが……。

休憩をはさんで、コーディネーター・島尾さんのもと、中野さんと奥平さんの記念対談がありました。奥平さんの発表は、僕もまったく知らなかった新知見に満ちるものでした。また、中野さんの「平成の風神雷神図屏風」制作秘話も大変興味深いものでしたが、とくに垂らし込みの実演は、僕の長年にわたる技法的疑問を一気に氷解させてくれました。もちろん、氷解したといっても、中野さんがアイロンを使ったためじゃーありません(⁉) 

2018年10月1日月曜日

静嘉堂文庫美術館「松浦武四郎展」6


僕は相似た人生を送った文人画家・田能村竹田をたたえて、かつて「田能村竹田の勝利」という拙文を『國華』に寄稿したことがあります。まったく同じ意味で、松浦武四郎も人生における真の勝利者であったんだと思います。

午後3時からは恒例のブロガー内覧会、カリスマ・ブロガーのタケさんこと中村剛士さんと担当ライブラリアンの成澤麻子さん、それに僕も加えてもらって、1時間ほどトークショーを行ないました。そのときは思いつくままの饒舌トークとなってしまいましたが、改めてまとめてみれば、ほぼ上記のようなことになるでしょう。

この準備のために、今回何冊か武四郎関係の本を読みましたが、やはりうまいなぁと感じ入ったのは、『司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅』2(中央公論新社)に収められる「武四郎と馬小屋」という一文でした。文末には、いま天下の話題となっている雑誌に載ったものであることが注記されています――<『新潮45+』19827月号>と……() 


岩波ホール「山の郵便配達」2

  名古屋大学につとめていたころ、名古屋シネマテークで勅使河原宏の「アントニオ・ガウディ」がかかり、見に行こうと思っているうちに終っちゃったことがありました。そのころ映画への関心が薄れ、チョット忙しかったこともあるのかな?  そんな思い出はともかく、名古屋シネマテークが閉館に...