2019年10月31日木曜日

石水博物館「川喜田半泥子の秋」9


かつて石水博物館で「寝物語」を英語に翻訳してもらったところ「ピロートーク」と訳され、ちょっとおかしいけれども、ほかによい訳もないようなので、それを使い続けていると龍泉寺さんは笑っていました。

僕は「ピロートーク」と聞いて、すぐロック・ハドソンとドリス・デイのラブコメディ「ピロートーク」(邦題「夜を楽しく」)を思い出しました。映画の内容もなかなか洒落たものでしたが、人をハッピーにさせる歌声がすばらしいドリスの主題歌「ピロートーク」は、日本でもすごいヒットとなりました。

僕と同じ年代の方は、曲を聞けば必ず思い出すはずです。懐かしさのあまり、僕は龍泉寺さんに青春の思い出を熱く語ったのですが、若い彼女にはまったく通じないようでした(笑)

2019年10月30日水曜日

石水博物館「川喜田半泥子の秋」8



この「金殿玉楼」の章には、半泥子がつけたユーモラスな銘の話が集められているのですが、その一つに「片身替茶碗 銘 寝物語」があります。僕もマイベストテンに選んだ傑作です。美濃塩川の土と千歳山の土で成形した二つの茶碗をそれぞれ真っ二つに切り分け、別々の二つをくっつけ一碗にして焼いた茶碗です。美濃塩川の黄色い土と千歳山の赤い土――白釉がかかって黒っぽくなっています――が、ちょうど慶長小袖の片身替りみたいな強い視覚的効果を生み出しています。

半泥子は『随筆 泥仏堂日録』のなかで、単味の土を灘の生一本にたとえて推奨し、合せ土は安物のカクテルだと難じています。「寝物語」は二種の土を用いているといいながら、あくまで単味の土であり、合せ土じゃ~ありません。これこそ、半泥子の素材主義をよく示しているではありませんか。

2019年10月29日火曜日

石水博物館「川喜田半泥子の秋」7


もちろん僕も拝読していましたから、はじめてお会いしたのに、もうずっと前から存じ上げているような不思議な気分でした。桐田さんからコピーしてもらった千早耿一郎著『おれはろくろのまわるまま――評伝・川喜田半泥子』の一節を、引用しておきましょう。

国学者で茶道の著書もいくつか書いている松山吟松庵(18701942)を、はじめて千葉県房州の保田吉浜に半泥子が訪ねたのは、1937年(昭和12)のこと。その吟松庵が二年後の1939年に病床にいたとき、半泥子は見舞いの手紙を送り、自作の茶碗を贈ることを約した。その手紙を見て、吟松庵は「茶盌早く見たし」と言ってきた。そこで半泥子は、その茶碗に「磯鰈」[いそがれい]の銘をつけて送った。むろん「急がれ」の洒落である。

2019年10月28日月曜日

石水博物館「川喜田半泥子の秋」6


架蔵する『乾山考』は第29冊で、昭和1877日、半泥子が松山吟松なる人の霊前に捧げる旨の献辞があります。この吟松とはいかなる人かと思って、ネットで検索してみましたが、松山吟松庵と名前は出てくるものの、詳しいことはまったくわかりません。

今回の口演でも、皆さんにこの名著を手に取っていただこうと思い、架蔵本を持参したのですが、これを示しながら学芸員の桐田貴史さんに訊ねたところ、たちどころに氷解したのです。桐田さんは最近『朝日新聞』の「私の<イチオシ>コレクション」に、半泥子の「伊賀水指 銘 慾袋」について、すばらしい紹介文を書いた石水博物館のフレッシュマン・キューレーターです。

ちなみに、前回アップした表紙が紺色の架蔵『乾山考』は、最初65部限定で出版された初版本です。今日アップした柿色表紙の『乾山考』は、希望者が多かったため、その後半泥子が135部刷り増した再版本です。つまり『乾山考』は計200部印刷されたわけです。この事実を龍泉寺さんから初めて教えてもらいましたが、僕のが初版本であることを知って、ますますうれしくなったことでした( ´艸`)

2019年10月27日日曜日

石水博物館「川喜田半泥子の秋」5


今回とくにうれしかったのは、架蔵する半泥子の名著『乾山考』について、新しい情報が得られたことでした。半泥子は尊敬してやまない尾形乾山について、最初の本格的研究書とたたえられるべき『乾山考』を、昭和18年、千歳山文庫から出版しました。

40年ほど前、山根有三先生から編集中の『琳派絵画全集』光琳派Ⅱに、乾山の伝記と作品について論文を書くよう求められた僕は、さっそく『乾山考』を探して購入しました。これなくして、乾山に関することなど、書けるものじゃ~ありません。

しかし、最高の内容にして、65部の限定非売品ですから、ものすごく高かった。正確な数字は忘れてしまいまいましたが……。いまはもっと高くなっているにちがいないと、先日、アマゾンと日本の古本屋で検索してみましたが、まったくヒットしません。いまやプライスレスの稀覯本になっているようです。いや、なっているにちがいありません()

2019年10月26日土曜日

石水博物館「川喜田半泥子の秋」4


  「川喜田半泥子の秋」と常設展に出る代表作「雪の曙」を堪能したあと、三重県立美術館へ……。その立派な講堂で<「其飯・川喜田半泥子 その芸術と美と妙と」静嘉堂長“口演”す>と題する饒舌館長トークとは相成りました。

いつものように、キーワード、マイベストテン、参考資料からなる配布資料をつくり、参考資料には「饒舌館長」からも引用しました。『川喜田半泥子 無茶の芸』(二玄社 2007年)の著者でもある学芸員の龍泉寺由佳さんが、素晴らしいパワーポイントを用意してくれました。

それにしたがって、半泥子芸術における重要なポイントとして、直感主義、素材主義、文人趣味の3つをあげることができるという持論を展開しました。しかし、半泥子の名品をたくさん拝見した直後ゆえでしょうか、感動が言葉に高まらず、何だかまとまりの悪い口演となってしまいました。

誰ですか?「今回だけじゃない。いつもそうじゃないか」なんて言っているのは!!

2019年10月25日金曜日

石水博物館「川喜田半泥子の秋」3


長石釉で焼成した楽焼だそうですが、ちょっとワラをかけて焼いたらしく、そこが黒くこげて、得もいえぬ効果を見せています。すぐに僕はあまりにも有名な本阿弥光悦の「不二山」を思い出したのですが、光悦を尊敬して止まなかった半泥子のことですから、この「不二山」を知っていたことは、改めて指摘するまでもないでしょう。

もちろん、直接的影響を受けているわけじゃ~ありません。あの不二山効果が、みごとに半泥子化されているのです。事実、半泥子は著書『随筆 泥仏堂日録』のなかで、次のように謙遜しながら、しかし実際は自負矜持とともに、自分の芸術観を披瀝しています。

私には、夫れ等の古陶器を模すだけの腕前もなく、又、生来のツムジマガリから、そういうことが嫌いなものですから、只モウ自分の気まかせで、嘗て見た陶器は勿論のこと、其他の自然物から受けた印象で、イイと思った色や、形や、作意気の潜在意識で、作り上げたまでのものばかりです。

2019年10月24日木曜日

石水博物館「川喜田半泥子の秋」2


石水博物館の創設者・川喜田半泥子(1878.11.61963.10.25)は、秋に生まれ、秋にこの世を去りました。趣味の陶芸家として知られる半泥子は、自作の工芸作品に自ら銘を付けていますが、中でも秋に因んだものが最も多く見られます。また彼が描く俳画も秋の情景を題材としたものが多く、初秋から晩秋へと移りゆく季節を捉え、日常を活写しています。本展では、半泥子も愛でた自邸千歳山荘の木々の色づきとともに、「秋」をテーマとする半泥子の作品の数々を亜楽しみいただきます。

 確かに、5年前はじめて石水博物館を訪れ、「僕の一点」に選んだ俳画作品「千歳山真景図」も、「窯つけばかまの中まで秋の風」という自賛をともなう秋の一幅でした。今回の「僕の一点」は「志野茶碗 銘 おらが秋」――その銘は、「捨て石に踞して雲みるおらが秋」から採られているとのことです。

2019年10月23日水曜日

石水博物館「川喜田半泥子の秋」1



石水博物館「川喜田半泥子の秋」<128日まで>(1019日)

 川喜田半泥子は僕がもっとも愛する陶芸家の一人です。半泥子が静嘉堂コレクションを作り上げた岩崎小弥太と交流をもっていたことや、川喜田家が北海道の命名者である松浦武四郎のパトロンであったことも、静嘉堂をあずかる饒舌館長としては、特筆大書したいところです。静嘉堂には岩崎弥之助が蒐集した武四郎の一大資料があり、去年、その企画展を開催したことは、皆さんのご記憶にあることと存じます。

そのそき、半泥子が立ち上げた石水博物館から、7碗も半泥子の優品をお借りして、錦上花を添えることができたことも、この上なくうれしいことでした。すでに「饒舌館長」にアップしたとおりですが、その石水博物館で、いま「川喜田半泥子の秋」と題するとても魅力的な展覧会が開かれています。津駅からタクシーで15分ほどの垂水という所にある美しい美術館です。チラシの内容紹介を、そのまま引用しておきましょう。

2019年10月22日火曜日

静嘉堂のギンモクセイ3


残念なことに、多くのオマージュが寄せられた「入門 墨の美術」展は、先日終わっちゃいました。112日(土)からは「名物裂と古渡り更紗」展が始まります。キャッチコピーは、「静嘉堂で初の染織展! 国宝『曜変天目』も仕覆とともに出品!」――前評判も上々のようです。

なお、『名物裂と古渡り更紗』にちなむ僕のおしゃべりトークは11月17日(日)、タイトルは「饒舌館長口演す――絵画の表装ベストテン」です。
 ヤジ「ドサクサに紛れて自分の宣伝なんかやるな!!
ともかくもそれまでの間、静嘉堂文庫美術館は休館なんです。

しかし時々、我がギンモクセイは返り咲きをすることがありますので、来月その機会に恵まれたら、すぐ「饒舌館長」でお知らせすることにしましょう。もしダメだったら、来年を期待してお待ちくださいね。木の下道を上れば大噴水の奥、美術館と文庫のあいだに、世田谷区の保存樹木にも指定されているギンモクセイの名木が堂々と根をおろしています!!

2019年10月21日月曜日

静嘉堂のギンモクセイ2


ギンモクセイの香りはもっと可憐で、自己主張することなく、しっとりと落ち着いた感じがします。それはキンモクセイの花がちょっと毒々しいオレンジ色なのに対し、ギンモクセイの花が、清々しい白ややさしい薄黄色なのとよく似た関係にあります。

僕が愛用する麓次郎氏の『四季の花事典』(八坂書房 1985年)によると、ギンモクセイもキンモクセイも中国から渡来したそうです。もっとも、いつやって来たかはよく分からないそうですが……。

両方を知っている日本人の多くは、ギンモクセイの方を愛するのではないでしょうか。日本人の美意識に、やさしく寄り添ってくれるような感じがします。しかし、キンモクセイに比べると、ギンモクセイに出会うチャンスはあまり多くないようですね。


2019年10月20日日曜日

追悼 池内紀先生5


それから2年続けて、夏休みにアーウィン・フォン・ベルツ博士コレクションの調査におもむきました。そして1991年には3ヶ月間、非常勤講師として滞在することにもなった町が、ハイデルベルクなんです。

池内先生がこの本を出されたのは、その10年ほど後ですが、ときどき書庫から引っ張り出して「ハイデルベルク」のページを開けば、その時々の出来事が昨日のことのように思い出されるのです。

そのほか、ベルリン、ハンブルク、ドレスデン、ケルン、フランクフルト、ミュンヘン、カールスルーエ、バーデン・バーデンなど、思い出の町はたくさん出てきますが、何といってもハイデルベルクですね。僕にとって、ハイデルベルクこそ第二の故郷なんです!!

ヤジ「オマエの第二の故郷って、何だかたくさんあるみたいだな!?

2019年10月19日土曜日

追悼 池内紀先生4


部屋をとり、シャワーをあびて、着替えをする。それから散歩に出る。ほんの少しだが偵察に出る兵士の心もちだ。ひと巡りしてもとの広場にもどってくる。とたんにその町と、なにやら縁ができたぐあいだ。あらためてまわりを見廻すと、噴水の水盤に顔が刻んである。頬をふくらませた幼な子と並び、智恵深い老人がいて、その口からも澄んだ水があふれ、白銀色の線を描いている。そんなふうにして町から町へ巡っていった。

 実をいうと、これを「僕の一点」に選ばせてもらったのは、愛するハイデルベルクが登場するからなんです。はじめてこの町を訪れたのは1982年でした。

2019年10月18日金曜日

追悼 池内紀先生3


事実、池内先生着任後、ドイツ文学研究室はかつての活気を取り戻したのでした。先生がお辞めになるとき、最後の教授会で「10年という柴田先生とのお約束を今年度で果しましたので……」と挨拶されましたから、ヘッドハンティング説はきっと本当だったんでしょう。

編集にたずさわった本を含めて、先生のご著書はいったいどのくらいあるものでしょうか。拝読したのはほんの数冊ですが、「僕の一点」は『ドイツ 町から町へ』(2002 中公新書)ですね。内容の紹介にかえて、「まえがき」の最後の一節を引用しておきましょう。ここにも池内先生における旅行のあり方、つまり生き方が、はっきりと語られているように思われます。


2019年10月17日木曜日

追悼 池内紀先生2


しかしここでは、僕の個人的思い出をアップすることにしましょう。文学部の教授会は、席が決められているわけではありませんが、おのずと指定席みたいなものができ上がってきて、池内先生と僕は向かい合って座るようになりました。教授会のあいだ中、先生はいつも校正をされていました。

あるときはカフカ、あるときはモーツァルト、あるときは山下清です。近世絵画史のことしか書いたことがない僕は、やはり世の中には天から才能を与えられたオールマイティ人間がいるんだと、驚きながら仰ぎ見ていました。

うわさでは、そのころ人気がなくなってしまったドイツ文学研究室を建て直すため、主任の柴田翔さんが、活躍を続ける池内先生を、都立大学からヘッドハンティングしてきたんだということになっていました。

2019年10月16日水曜日

静嘉堂のギンモクセイ1


 静嘉堂のギンモクセイがいま満開のときを迎えています。いや、満開というのは桜にこそふさわしく、ギンモクセイにはちょっと合わない言葉のように感じられます。見ごろというのもピッタリこないし、旬というと魚を思い出しちゃうし、盛りというとネコみたいだし(笑)どうもいい表現が思い浮かばないので、「静嘉堂のギンモクセイがいま最高です!!」とでもいっておきましょう。

何といってもその香りです。樹形も気高く堂々としていますし、叢生する小さな薄黄色の花も楚々としていて心惹かれますが、あたり一体を包み込むような芳香にこそ、ギンモクセイの命があります。しかし芳香といっても、キンモクセイのような強烈さはありません。安い香水のような押し付けがましさがありません。

いまの子供はキンモクセイの匂いを模した芳香剤のせいで、本当のキンモクセイをトイレの木なんていうそうですが、いい得て妙です。

追悼 池内紀先生1


 830日、池内紀先生が亡くなられました。78歳でした。先生とはほとんど一緒に東大で教え始めることになりましたが、僕よりも10年ほど早く、定年前にお辞めになり、あとは筆一本をたよりに、誰もがあこがれて止まない一人の自由人として生きられました。

先生と親しかった評論家の川本三郎さんが『朝日新聞』に寄せた「池内紀さんを悼む」は、思いのこもる本当にすばらしい追悼文でした。しかも池内先生を次のように位置づけている点に、感を深くしました。

権力や権威とはほど遠い。学界や文壇とも距離を置き、自分の知的好奇心のおもむくまま仕事をされた。趣味が確固たる思想になった。その点で澁澤龍彦、種村季弘ら自由な知識人の系譜を受け継いでいた。

2019年10月15日火曜日

玉川高島屋本館「<たまがわ>の、美。写真空間by遠藤湖舟」3



「僕の一点」は、昇る朝日をとらえて、幻想的神々しさを定着させることに成功した「朝陽」ですね。遠藤さんはみずから短い詩をわきに添えていますが、それは俳諧の連歌における匂い付けのようでもあり、作品の魅力をさらに高める薬味となっています。

ある朝、南からベルベットのマントを着たダンスの名手がやって来て、太陽を誘い、ゆるやかに踊り始めた。

キャプションを読むこともなく、会場を一巡して、直感的にこれを「僕の一点」に選んでいました。微妙なモノクロームのグラデーションが、かつて『國華』に紹介した谷文晁筆「山水図」の美しい皴とちょっと似ていて興味深いのですが、それは後から気づいたことでした。

また「朝陽」に戻ってキャプションを見ると、「ロサンジェルス・カウンティ美術館収蔵」と書かれているじゃ~ありませんか。やはり眼の高い美術関係者は僕だけじゃ~なく、アメリカにもちゃんといるんです(笑) こういうのを、この頃よく問題になる「上から目線」というのかな?

2019年10月14日月曜日

玉川高島屋本館「<たまがわ>の、美。写真空間by遠藤湖舟」2


遠藤さんは静嘉堂文庫美術館からほど近いところにスタジオを構え、多くの作品を多摩川で撮影、作品へと昇華させています。小林忠さんからもお名前は聞いていましたが、今日はじめて実際の作品を拝見する機会に恵まれ、会場にいらっしゃったご本人とも、親しくお話することができました。

理工学部で学び、科学者を目指したこともあるという遠藤さんらしく、天体、人間、昆虫など、すべてのモチーフが科学者の眼によってとらえられていますが、それがそのままアートへとメタモルフォーゼを遂げています。

その変身の秘密を言葉で説明することはちょっとむずかしいのですが、「美は細部に宿る」という湖舟美学がそれを解き明かしてくれそうです。他の写真家には求めることができない独自のフォト世界が、そこに出現するのです。

2019年10月13日日曜日

玉川高島屋本館「<たまがわ>の、美。写真空間by遠藤湖舟」1


玉川高島屋本館「<たまがわ>の、美。写真空間by遠藤湖舟」<1014日まで>

 遠藤湖舟さんは、1954年長野県に生まれた写真家です。1977年、早稲田大学理工学部を卒業したあと、しばらくして写真家としての活動を開始しました。2006年、個展を開いて、アーティストとして本格的デビューを果たすとともに、写真を中心として幅広いアート表現にチャレンジしています。

一昨年、広島県三次市の奥田元宋・小由女美術館で開かれた個展は、NHK日曜美術館アートシーンでも取り上げられたそうですが、残念ながら僕は見逃しています。奥田小由女さんといえば、いま日展の理事長をつとめられていますが、僕は「日展ニュース」に「饒舌館長日展私論」を寄稿したばかりです。

元宋画伯と奥様にして人形作家である小由女さんの個人美術館――有名な柳澤孝彦の設計だそうです――があることを初めて知り、今度お訪ねしようと思ったことでした。


東京ステーションギャラリー「岸田劉生展」12


國華創刊百三十年とともに、朝日新聞創刊百四十年を記念する特別展「名作誕生」を寿ぎ、その出品作を中心に、継承と創造の日本美術史を追いかけてきた。継承といっても、さまざまなレベルがあるように感じられたが、しかし創造はただ一つなのだ。西洋の技法を使って、「切通しの写生」という個性美を創造してくれた岸田劉生が、「私の日本画について」というエッセーのなかで、継承と創造――劉生によれば古法と個性について語った一節を引用しながら、筆を擱くことにしよう。

古法に則[のつと]り古法の中に東洋画としての美術的要素の真諦[しんたい]を見出す事は、個性を殺す事でもなくまた自然を軽んずる事でもなく、生命を失う事でもない。個性も自然も生命も凡[すべ]て、芸術上にあっては第二の事で、第一の問題は「美」である。

 ところで、東京ステーションギャラリー展のゲスト・キューレーターは京都市立美術館の山田諭さんであり、その彼が「岸田劉生の道」という栄えある記念講演を行なっています。それは僕にとって、とてもうれしいことでした。40年ほど前、僕が名古屋大学で教えていたとき、山田さんは学生の一人だったんです!!


2019年10月12日土曜日

東京ステーションギャラリー「岸田劉生展」11


画面右側を占める九段坂の構図は、これを反転させれば「切通しの写生」と瓜二つとなる。近世初期風俗画を含めて、浮世絵に強い興味をもっていた劉生が、インパクトに富む「くだんうしがふち」の構図から影響を受けた可能性は、充分に考えられてよい。あるいは写実に傾いていた劉生が、洋風画ともいうべき「くだんうしがふち」に心を動かされた可能性も。

もちろん、劉生がこれを直接参考にしたなどと断言することは憚られる。しかし、かつて見た北斎版画が、胸底にほんのわずか沈殿していて、まったく無意識のうちにそれがよみがえってくるといった記憶の回路まで、否定することはできないであろう。もしそうだとすれば、ここには無意識の継承があり、それが新しい創造を生んだのだといってもよい。それはジクムント・フロイトがいうスーパーエゴのようなもので、これまた実証不能なのだが、このような見方も現代の我々が美術を楽しむ途の一つである。

2019年10月11日金曜日

東京ステーションギャラリー「岸田劉生展」10


四十代終りころ、北斎は横中判の洋風風景画を五点ほど発表するのだが、題名のほか、落款も「ほくさゐゑがく」と平仮名で入れている。それらを横書きにして、あたかも欧文のように見せている。北斎は早くから浮絵に関心を示していたが、その透視図法に陰影法を加えて、洋風的雰囲気をさらに強めている。もくもくと湧き上がる雲、横に伸びる人間の影、周囲を囲むタイル風装飾など、みな洋風を強調する仕掛けである。北斎が洋風画家・司馬江漢に入門したという憶説がうまれたのも、なるほどと思われる。

そのうちの一点が「くだんうしがふち」で、田安御門の前から俎坂へ向かって下る九段坂と、その南側に広がる牛ヶ淵を視野に収めている。

2019年10月10日木曜日

東京ステーションギャラリー「岸田劉生展」9


強い光線を浴びる赤茶けた道の割れ目や小石、路傍の雑草までを写実的に描きながら、写実的というより、むしろシュールレアリスムのような感覚を漂わせて、見るものを魅了する。我が国の何気ない風景を、精緻なる筆致で描き尽くそうとする。そこにはアルブレヒト・デューラーの銅版画を継承した跡が見出される。それを直接的に実証することはむずかしいが、デューラー的な視覚だといってもよいであろう。そもそもこれは、ヤン・ファン・エイクが発明したという西欧の油絵なのだ。

ところがここに、葛飾北斎の風景版画「くだんうしがふち」が突如登場するので、驚かれる方も多いだろう。

2019年10月9日水曜日

東京ステーションギャラリー「岸田劉生展」8


この観点から強く興味を引く画家の一人として選ばれたのが岸田劉生である。ここではその代表作「切通しの写生」(東京国立近代美術館蔵)に焦点を絞ってみよう。黒田清輝が主導する白馬会の外光派的スタイルから出発した劉生は、やがて白樺派の影響を受けてフュウザン会を立ち上げたが、間もなく北方ルネッサンス様式の差し響きによって写実に傾き、草土社を結成した。「切通しの写生」は、大正五年(一九一六)、第二回草土社展に出品された作品、劉生の家に近い切り通しを描いて、劉生風景画の象徴的位置を占めることになった。今も小田急線参宮橋駅から西北へ五分ほど歩けば、「切通しの阪」と呼ばれている坂がある。

2019年10月8日火曜日

東京ステーションギャラリー「岸田劉生展」7


今年は明治維新百五十年の記念すべき年、慶応から明治に改元され、一世一元の制が定められてからちょうど一世紀半を閲するわけである。新しく誕生した近代国家日本は、古代以来の中華文明に代わって西欧文明を社会の規範に措定し、西洋国際社会への参加を表明したのだった。つまり我が国の近代化とは、西欧化のことであった。しかし、ものの見方や考え方は一朝一夕に変わるはずがない。当時の知識人はこれを否定的にとらえる傾向が強かったが、むしろ近代日本の素晴らしさは、この点にこそあるように思われる。近代美術のおもしろさも、軌を一にするといって過言ではないであろう。

2019年10月7日月曜日

東京ステーションギャラリー「岸田劉生展」6


去年、東京国立博物館で「朝日新聞創刊140周年・國華創刊130周年記念特別展『名作誕生 つながる日本美術』」が開かれました。ここでも劉生は重要なテーマとして取り上げられましたが、イコノロジー的手法を採るこの特別展では、伝統との関係に焦点が絞られました。

東京ステーションギャラリー展では、劉生の「独創」「孤高」「天才」といった点が強調されていますが、劉生にはその両面があったというのが正解だと思います。そのカタログに寄せた拙稿「継承と創造の日本美術」の一部を引用して配布資料を作りましたので、改めて紹介することにしましょう。

2019年10月6日日曜日

東京ステーションギャラリー「岸田劉生展」5


それまで劉生がモチーフに選んでいた人物も風景も静物も、すべて客観的対象でした。言ってみれば、それは「外なる美」だったのです。しかし麗子は、劉生の分身であり、主観的対象だったのです。愛する妻・蓁の胎内から生まれた「内なる美」だったといってもよいでしょう。

『劉生全集』に目を通すと、劉生が早くから「内なる美」という美的哲学をもっていたことが想像されます。しかし麗子が誕生したとき、それは具体的対象を得て、具体化され始めたのです。

やがて実際に麗子を描くようになると、その美的哲学は少しずつ凝固していき、「麗子五歳之像」が完成したときには、もう絶対疑うことができない哲学的命題へ変ったように思われます。それが2年後、『劉生画集及芸術観』において文字化されることになったのではないでしょうか。これが僕の考える「内なる美」のクロノロジーです。

2019年10月5日土曜日

東京ステーションギャラリー「岸田劉生展」4


麗子は大正3年(1914)、劉生が23歳のとき生まれました。もっとも早い油彩の麗子像は、大正7年、第6回草土社展に出品され、今回も会場を凛々しく飾る「麗子五歳之像」(東京国立近代美術館蔵)です。

それ以前から劉生が麗子を写生し描いていたことは疑いありませんが、麗子の頭上に描かれるアーチ型や、その下に書かれた文字――もう款記と呼びたいよう文字によって、この作品が劉生にとってもきわめて重要な意味を有していたことは、おのずから明らかです。

劉生が「内なる美」という芸術観を発表したのは、2年後の大正9年、自選画集『劉生画集及芸術観』においてでした。その芸術論の部分が、21年後の昭和16年(1941)、河出書房から『美之本體』として出版されたのです。いま僕たちは、昭和60年、東野芳明先生の解説とともに講談社学術文庫の1冊に加えられた『美の本体』でこれに親しんでいるわけですが……。

2019年10月4日金曜日

東京ステーションギャラリー「岸田劉生展」3


 もちろん僕は、すでに紹介したNHK文化センター青山教室で今年開講している「絶対オススメ12選<魅惑の日本美術展>」の第5回にこれを選び、すでにしゃべり終わったところです。さて劉生といえば、何よりも重視した「内なる美」ということになりますが、多くの研究者がこの解釈に四苦八苦していて、定説と呼ぶべきものはないようです。しかし僕は、「人間の美を求めて止まないDNA」といえば分かりやすいと思います。

劉生は初期のころから「内なる美」の存在に気がつき、それこそが美術のもっとも重要なエッセンスであると感じていました。しかしそれが確信に変ったのは、最初の分身である長女・麗子を、モチーフにするようになってからであるというのが私見です。

2019年10月3日木曜日

東京ステーションギャラリー「岸田劉生展」2


そんな劉生の作品や姿勢、活動は、同時代の若い画家の指標ともなり、強い影響を与えました。
ひとつの到達点にきたら画風を変え、また新たな作風へと展開させ続けた岸田劉生。本展では、岸田劉生の絵画の道において、道標となる150点以上の作品を選び、基本的に制作年代順に展示することで、その変転を繰り返した人生の歩みとともに、画家・岸田劉生の芸術を顕彰しようとするものです。没後90年を迎える2019年。特別強力の東京国立近代美術館をはじめ、日本各地から名作が一堂にそろうこの機会をどうぞご堪能ください。

2019年10月2日水曜日

東京ステーションギャラリー「岸田劉生展」1



東京ステーションギャラリー「没後90年記念 岸田劉生展」<1020日まで>

 僕がもっとも愛する洋画家・岸田劉生の素晴らしい特別展です。チラシのリードには、「大正期の絵画展を積極的に開催してきた東京ステーションギャラリーが満を持してお送りする――饒舌館長もよくやるごとく<お贈りする>の変換ミスかな?――日本近代絵画史上欠かせない『天才』『非凡人』画家の大回顧展です」とあります。その紹介文をそっくり引用しておくことにしましょう。

画家・岸田劉生(18911929)は、日本の近代美術の歴史において最も独創的な絵画の道を歩んだ孤高の存在です。明治にはじまるその歴史は、フランスの近代美術の追随であったとされます。しかし、岸田劉生はただひとり、初期から晩年に至るまで、自己の価値判断によって、自己の歩む道を選択し、自己の絵画を展開しました。

2019年10月1日火曜日

追悼エオンちゃん(山本勉さんの愛猫)続5



陸游「贈猫」<『剣南詩稿』巻42

 塩やって代りにネコをもらったよ
 部屋の隅いつものんびり座ってる
 マタタビにしばしば我を忘れてる
 夜になりゃ毛氈独占グーグーグー
 ネズミ穴ねらえば手柄あがるのに……
 お魚のご馳走だけはたらふくと
 ふさわしいステキな名前をつけたのさ
 それからは「小虎」「小虎」と呼んでいる

*「小於菟」の「於菟」は「虎」のことですが、「ウサギよりも劣る」とも読めて愉快です。

中国美術学院「歴史と絵画」11

長い間、黒田は古典主義と印象派を折衷した外光派アカデミズムを我が国へもたらした画家であり、その決定的要因として、ラファエル・コランとの偶然ともいうべき邂逅があげられてきた。これに対して高階秀爾氏は、まったく新しい黒田像を描き出した。黒田の意図した西欧的構想画は、日...