2020年5月31日日曜日

石守謙「物の移動と山水画」(『國華』)7


多くの匠[たくみ]や農民が ともに残留したために
今に至るも日本の 器物工芸みな精巧
唐の時代にゃみつぎもの 持ってしばしばやってきた
地位ある人はほとんどが 詩も文章も巧みなり
徐福が日本へ行ったのは 焚書坑儒の少し前
だから本場にゃない『書経』 百篇そろって遺るはず
こちらじゃ所持さえ厳禁で 伝えることも許されず
ゆえに蝌蚪文字[かともじ]読める人 一人もおらず中国に
孔子が編んだ聖典を 持っているのは異民族
♫海は広いな 大きいな♫ その港にも近づけぬ
それを思うと胸痛み 涙こぼれる ひとりでに
錆びちゃう短刀――そんなもん 比べられるか!! 聖典と

2020年5月30日土曜日

石守謙「物の移動と山水画」(『國華』)6



西のえびすの昆吾国[こんごこく] はるかに遠く行けやせぬ
玉さえ切れるその名刀 見た人はゼロ 噂だけ
ところが最近日本の すごい宝刀現れた
越の商人[あきんど]買ったのは 青海原の東の地
香りよき木でできた鞘[さや] それに鮫皮[さめがわ]貼ってある
黄金[こがね]の真鍮 銀色の 銅の拵[こしら]えみごとなり
大金払った好事家の 大コレクションに加わった
これを差してりゃ凶運も 妖怪さえも逃げていく
人づてに聞くその国は 大きな島にあるそうで
土地は肥沃で 風俗も 純朴無比ということだ
秦の徐福は人たらし 日本へたくさん連れってた
仙薬探して全国を…… やがて子供も老人に……

2020年5月29日金曜日

石守謙「物の移動と山水画」(『國華』)5


僕がもっとも興味深く感じたことの一つは、北宋人が高い水準を保つ日本の工芸品――刀剣や摺扇などに高い関心を向けていたほか、文人ネットワークにおいては、もはや中国で失われた文化の一部が日本に保存されているというイメージを常にもっていたという指摘でした。柳田國男が『蝸牛考』で発表したような文化の特性を、北宋の知識人はすでに感じ取っていたのです。
そうした考えを代表するものとして、石守謙さんは唐宋八大家の一人である欧陽脩の「日本刀歌」を引用しています。この漢詩は2年ほど前、京都国立美術館で開催された特別展「京のかたな 匠のわざと雅のこころ」をアップロードしたとき、僕も紹介したことがありますが、石守謙さんは論旨に必要な1聯を掲げるだけですので、改めてマイ戯訳のバージョンアップ版をエントリーすることにしましょう。



2020年5月28日木曜日

石守謙「物の移動と山水画」(『國華』)4



我々は更に、1617世紀の中国における摺扇画の興隆と発展の後に、それらが発祥の地である日本へと「逆に伝わってゆく」現象を見る。すなわち一つの「相互に作用しあう」関係があるとわかり、東アジア文化イメージの形づくられる過程を理解できる。実に難しいけれども注意して観察するに値する問題であるといえよう。
 このように石守謙さんは、人間の文化を相互影響としてとらえ、つとめて教条主義から距離を置こうとしています。僕もこうありたいと思いながら、実際はなかなかむずかしいことを白状しなければなりません。
続いて石守謙さんは、摺扇が中国で発展する過程において、山水画がもっとも重要な位置を占めていたことを見抜き、実証的考察を進めていきます。是非お読みいただきたいと存じますが、『國華』のオネダンを考えるとそう強くも言えず……()

2020年5月27日水曜日

石守謙「物の移動と山水画」(『國華』)3



摺扇と摺扇画は中国で発明されたのではなく、その東に位置する高麗と日本から1011世紀には既に伝わっていたものである。摺扇の伝来と使用において、中国・日本・朝鮮半島の三つの地域は早くから、一つの互いに繋がりあう全体をなしていた。このことは後世で摺扇が「東アジア」文化の表象となる基礎を育てたといえる。……しかし摺扇の場合はその逆の道筋を行き、中国の立場は受容者にすぎず、日本こそが摺扇の東アジア文化圏における移動の起点となったのである。そして高麗(及び後の朝鮮王朝)は、日本で生まれた摺扇が西に伝わる中継点となり、また彼等自身も摺扇を生産したのちには別の起点の一つとなった。言い換えれば、摺扇の中国での使用と後の摺扇画の流行は、基本的にこうした摺扇が東から西へ伝わった結果なのである。

2020年5月26日火曜日

石守謙「物の移動と山水画」(『國華』)2


 

 
 2015年、石守謙さんは三聯書店から出版された『移動的桃花源 東亜世界中的山水画』に、「桃花源意象的形塑与在東亜的伝佈」という論文を発表されました。すごい論文だということを板倉聖哲さんから聞いた國華編輯委員会は、これを翻訳して登載させていただくことにし、大和文華館の都甲さやかさんにそれをお願いしました。
翻訳が上がってくるとすぐに拝読し、はじめて扇面画の大きな展開を知ることができました。それだけではありません。世界が偏狭な愛国主義へ向おうとする現在、多くの人が読むべき示唆的文化論であると、感を深くいたしました。まず「はじめに」の一部を引用して、論文の概要と石守謙さんの視点を理解することにしましょう。ここでいう「摺扇」とは、折り畳むことができる扇の意味で、日本語でいえば「扇」「扇子」「扇面」のことです。

2020年5月25日月曜日

石守謙「物の移動と山水画」(『國華』)1


石守謙「物の移動と山水画――日本摺扇の西への伝播と扇面山水画の明代中国画における流行――」上下(『國華』14931495号)
 石守謙さんは台湾を代表する芸術史研究者です。台湾大学芸術史研究所所長、故宮博物院院長をつとめられ、現在は中央研究院歴史言語研究所で研究にいそしんでいらっしゃいます。僕はその研究から多くを学ばせていただいてきました。僕だけではありません。日本を含めて東アジアの美術を研究していれば、石守謙さんのお名前を知らない人はいないでしょう。
学んだだけではなく、長い間親しくさせてもらってきました。台湾を訪れたとき、何度か台北世界貿易センタービル最上階のレストランで、最高の中華料理をご馳走になりました。そこで僕は、石守謙さんが東京文化財研究所の国際シンポジウムに参加されたとき、感謝を込めて鶯谷のおいしいラーメンをご馳走したのでした() 僕たちは親しみを込めて、「せきしゅけん」ではなく「いしもりけん」とお読みすることもあります。
   本来なら「石守謙先生」とお呼びすべきところですが、お元気な方は「さん」、鬼籍に入られた方のみ「先生」とするという「饒舌館長」のルールに従うことをお許しください。

2020年5月24日日曜日

シャンフルーリ『猫』10



僕は「表現すべき情緒は今日の情緒であり、また明日の情緒ならなおさらよい」という、名著『古代芸術と祭式』を著わした英国のギリシア学者ジェーン・ハリソンの言葉を思い出して、深く心を動かされました。
もちろん加藤さんの文化や歴史に対する眼差しも同じであるにちがいなく、だからこそ、フランスにおける浮世絵受容が異国趣味の流行によるだけではないと書かれているのでしょう。
かつてジャポニスムとは、異国趣味にすぎないといった趣旨のエッセー「ジャポニスムの起因と原動力」(『秘蔵日本美術大観』3)を書いたことがある僕は、これを機にもう一度よく考えてみようと思ったことでした。もっとも後期高齢者になると、悲しいかな、自分の考えを素直に見直し反省するということが、きわめて困難になってきているのですが……() 

2020年5月23日土曜日

シャンフルーリ『猫』9



加藤さんも指摘するように、シャンフルーリはすでに出版されていた日本旅行記や日本美術紹介などをもとに浮世絵を論じているのであって、一次資料として目新しい報告は載っていません。しかし『諷刺画秘宝館』は、近代の芸術は何のために、どのように人間を描くべきかという問いに答えようとして書かれた浮世絵論なのです。
浮世絵の中にこのような人間に対する真摯な眼差しがあることを、シャンフルーリは明らかにし、加藤さんはそれを指摘してくれたのです。日本人として、こんなうれしいことはありません。
加藤さんは「過去の秘密を探るのに、わたしは現代の眼鏡を通して古代を見るのだ」というシャンフルーリの言葉を引用しています。これこそ浮世絵の人間に対する真摯な眼差しを、シャンフルーリが発見できた理由でしょう。

2020年5月22日金曜日

シャンフルーリ『猫』8



さらに加藤さんは、最近『太田記念美術館紀要 浮世絵研究』第10号に、「十九世紀フランスにおける諷刺画としての浮世絵――シャンフルーリ『諷刺画秘宝館』を読み解く」という、とても興味深い論本を発表されました。

シャンフルーリ『猫』の翻訳が、このような論文へと発展したことを、心からお喜び申し上げたいと存じます。ゴンクールの『歌麿』(1891)や『北斎』(1896)よりも早い、おそらく西洋で最初の浮世絵批評であるシャンフルーリ晩年の著作『諷刺画秘宝館』(1888)をもとに、当時の文学者による浮世絵観を読み解き、異国趣味の流行だけではない浮世絵受容の厚みを明らかにしようとした刺激的論文です!!

2020年5月21日木曜日

シャンフルーリ『猫』7




 「女がネコに似ているのではない。ネコが女に似ているのだ」という名言?を思い出しますが、「補遺」には「日本の画家、北斎」という1章があります。北斎と『北斎漫画』に対する熱烈なオマージュが捧げられ、それから採ったという猫の絵が掲げられています。

もっとも、これはシャンフルーリの勘違いで、「この猫の絵は『浮世画譜』にあるもので、正しくは歌川広重の作。『北斎漫画』と混同している」という加藤さんの注記が加えられています。しかしそのことを取り立てて非難するのはナンセンスであって、シャンフルーリは北斎や広重、国芳を含めて、日本の浮世絵師たちが描き出したネコの素晴らしさに驚いているのです。

2020年5月20日水曜日

シャンフルーリ『猫』6



こうした類稀な能力を日本人は最も高度に有している。彼らは空想的な典雅で女性の姿を包み込む。数多くの徒心が作品に散りばめられている。とりわけ猫を気に掛け一挙手一投足を窺い、画家(ゴットフリート)ミントよりもなお繊細に描くのだ。(略)

猫は諺と同じく諷刺画においても大きな役割を果たしている。しかしその場合、猫は異形のものとして登場し、版画家が猫の姿を丹念に描くことはなかった。

そうした不毛な一本槍の例外として、奇妙で面白い日本の作品ふたつを載せておく。

猫の頭が猫の集まりで描かれ、両目は鈴になっているという絵が、今なお不思議な思いつきをする日本人独特の創作である〔歌川芳藤『五拾三次之内猫之怪』〕。

ふたつ目の絵は、鮮やかで素朴な日本の色彩を見るに、化粧している女性が、彼女に執心している男に見咎められていると思しき場面であるのが分かるだろう〔歌川国芳『流行猫の戯 おしゆん伝兵衛 身の臭婬色時』〕。

2020年5月19日火曜日

シャンフルーリ『猫』5



その第16章は「猫の画家たち」となっていて、ここに浮世絵が登場するからです。しかも第16章はきわめて重要な章で、浮世絵の本質を端的に指摘しているからです。これまたその一部を引用しておきましょう。

エジプト人に続いて、日本人を挙げねばならない。近年ヨーロッパにもたらされた画集が示すとおり、日本人は女性や幻想を描く画家であり、とりわけ猫を描いている。

猫の優美さに心奪われる芸術家は、女性の優美さにも同じく心奪われるもので、放埓奇矯を好むことが猫や女性の理解につながるというのは注目すべきことである。しかし、それらを性格づけている機微を書こうとしたら、どれほどのしなやかさを筆先に込めねばならだいだろう。女性、気侭、猫! この鼎立を束ねる不思議な結びつきを、どうやったら明確に辿れるだろう?(略)


2020年5月18日月曜日

シャンフルーリ『猫』4


 

  シャンフルーリの『猫 第5版』から、「訳者あとがき」の一部を紹介してきました。もちろんこの本を取り上げたのは、饒舌館長がまたネコ好き館長でもあるからです。訳者の加藤一輝さんは太田記念美術館からこの研究に関して、2017年に研究助成を受けているのですが、ずっとその審査員をさせてもらっているので、太田記念美術館のこともちょっとソンタクしたかな( ´艸`)

シャンフルーリの『猫』はネコ本の名著だと思いますが、なぜすぐれた浮世絵コレクションで有名な太田記念美術館が助成する浮世絵研究に選ばれたのか、ネコならぬ、キツネにつままれたような感じを受ける方もいらっしゃるでしょう。もちろんちゃんとした理由があります。

2020年5月17日日曜日

シャンフルーリ『猫』3



ボードレールと同い年の友人で、文壇仲間でもあり個人的にも親しくしていました。写実主義の小説家で、詩人でもあったボードレールとは全く作風が違いますが、しかしふたりは仲がよく、この『猫』にも、よく一緒に散歩に出かけたというようなことが書かれています。

シャンフルーリの伝記によれば出会ったのは1844年、ふたりが23歳のときで、当初からシャンフルーリはボードレールを尊敬していたことが窺えます。……ボードレールとシャンフルーリは、伝統的には美しいとされていなかったもの、奇妙なものや卑俗なものの中に描くべき美を見出した、美の概念を拡張したという点では共通しています。


2020年5月16日土曜日

シャンフルーリ『猫』2



中表紙に掲げたのは書店に掲示する広告用ポスターで、中央にマネの「猫の逢引」を載せ、ドラクロアやマネや北斎などの挿絵入りで値段は5フラン、と書かれています。版を重ねるごとに加筆訂正され、最終的に第5版まで出たので、それを底本としました。

この本に限らずシャンフルーリは版を重ねるとき大幅に加筆訂正する傾向があるようです。初版には「歴史、風俗、観察、逸話」という副題がありましたが、第5版ではなくなっています。

シャンフルーリは邦訳が一冊もないので日本での知名度は著しく低いでしょうが、本名をジュール・フランソワ・フェリックス・ハッソン(原文ではこれもフランス語で書いてありますが……)といい、シャンフルーリは筆名です(こうした姓も名もない一語の筆名としては、ほかスタンダールなど)。

2020年5月15日金曜日

シャンフルーリ『猫』1


シャンフルーリ(加藤一輝・近藤梓訳)『猫 第5版』(㈱栄光 2016

 シャンフルーリ? ご存じない方が大半でしょう。かくいう僕も、この本によってはじめて知りました。というわけで、僕が紹介するわけにはいきません。「訳者あとがき」から出だしの25行ほどを、そのまま掲げることにしましょう。

この本はChampfleury(1821-1889),Les chats,……1870の全訳です。(……のところにはフランス語が入っていますが、よく分かりませんし、アクサンの出し方を僕は知らないのでカットします( ´艸`))フランス革命以降の政治的混乱と社会の激動を背景にフランス文学が大きく花開いた19世紀において、古今東西の猫の文化史と、当時の愛猫家フランス文学者たちの逸話を丁寧に記した本で、1869年の初版が出ると忽ちベストセラーとなり、気をよくした出版社によってオリジナルの銅版画を多く加えられた豪華本も制作されました。

2020年5月14日木曜日

醍醐書房『視覚の現場』5



先日頂戴した第2号は、「関西の日本画」という特集号にもなっていて、充実した内容に感を深くします。「僕の一点」は、清荒神清澄寺鉄斎美術館の柏木知子さんが寄稿した「香椿の木――鉄斎旧宅を想う」ですね。鉄斎が終の棲家とした住まいは、いまも京都市上京区室町通一条下ル薬屋町に残っています。京都美術工芸大学につとめていたとき、一度お邪魔しようと思いつつ、そのままになってしまいました。

その庭には、鉄斎が愛して止まなかった大椿[チャンチン]の木が植えられているそうです。鉄斎美術館所蔵の「荘子八千椿図」には大椿の林が描かれていますが、鉄斎が慈しんだこの庭を仙境に見立てた作品ではないかと、柏木さんは推定しています。木村蒹葭堂も田能村竹田も似た試みを行なっていますから、それにちがいありません。

ちょうどいま僕は、美術雑誌『聚美』のために、「富岡鉄斎――老荘思想と道教」の「続」を書いていたところだったので、とくに興味深く拝読したのでした。もっとも、この鉄斎論も妄想と暴走かな( ´艸`) 

2020年5月13日水曜日

テレサ・テン4



ところが4年ほど経って、テレビで歌謡番組を見ていると、テレサ・テンなる歌手が「空港」というとてもいい曲を熱唱しているじゃ~ありませんか。「テレサ・テン? どっかで見たような歌手だなぁ――な~んだ、あの鄧麗君じゃないか!!」 

その後テレサは旅券法違反のため国外退去処分に処せられましたが、1984年「つぐない」を引っさげて戻ってきました。二度目のデビューを果たすとともに、ヒットを連発、日本を含めたアジア最大の人気歌手になりましたが、1995年タイのチェンマイで42年の短い一生を終えたのでした。

19895月、テレサが香港で民主化支援コンサートへ自主的に参加したことは、翌月、北京日本学研究センターから帰国して初めて知ったのですが、そのときの驚きを忘れることができません。そんなことを思い出しながら、大好きな「つぐない」をチープなヤマハ・フォークギターでつぶやくように歌って、改めて冥福を祈ったことでした。もっとも、さすが三木たかしの作曲ーー僕には押さえられないむずかしいコードが出てくるので、そこは適当にごまかしなから……( ´艸`)


2020年5月12日火曜日

テレサ・テン3



ある晩みんなで飲んでいると、中国語の歌が流れてきました。これはいいシンガーだ、すごい女性歌手だと思い、店の人に歌手の名を訊くと、「鄧麗君」と紙に書いてくれました。翌日だったか、翌々日だったか、ミュージックショップに行って、この歌手のレコードが欲しいというと、この最新LPがオススメですよと1枚選んでくれました。

いまダンボール箱から、その「玉女巨星鄧麗君之歌第十六集 恋愛的路多麼甜」を引っ張り出してきて、ジャケットをながめているところですが……。

彼女は1953年の生まれですから、当時まだ17歳です。それにもかかわらず16枚目のアルバムというのですから、すでに台湾ではトップスターになっていたわけです。しかし僕はまったく知りませんでした。帰国してから、何十度パイオニアのプレーヤーにかけ、山水のアンプで増幅し、トリオのヘッドフォンで聴いたことでしょうか。

2020年5月11日月曜日

テレサ・テン2



僕は東海大学の講師になったばかり、しかも専門は中国絵画じゃ~ありませんでしたが、どうしても参加したかった――というより、ともかくも一度海外に出てみたかったのです。台湾大学芸術研究所と故宮博物院で研修していた海老根聰郎さんに頼んで、招待状をせしめると同僚の彫刻家・小畠廣さんと一緒に羽田空港から飛び立ちました。

その時の750ページを越える分厚い報告書を書架から引っ張り出してきて、いまこの「饒舌館長」を書いているところです。1週間にわたるきわめて充実したシンポジウムで、日本からは鈴木敬先生と戸田禎佑さんが発表を行ないました。若き日の僕にとって、美術史的収穫が大きかったことは言うまでもありませんが、より一層深く想い出に残っているのは、このテレサ・テンなんです!!

2020年5月10日日曜日

テレサ・テン1



BS-TBS「テレサ・テン 名曲熱唱! 没後25年目の真実」(5月8日)

 没後25周年の特番です。没後20周年の特番も京都・園部の宿舎で見て、秋田県立近代美術館HPの「おしゃべり名誉館長」にアップしましたが、あれからもう5年経ってしまったんですね。亡くなってからはすでに4半世紀です。今回のキャッチコピーは「波瀾の生涯と、ヒット曲を秘蔵映像と共に!」――それを2時間、ある時はちょっと涙とともに見ながら、あの歌声を聴いていました。僕にとっても、絶対忘れられない歌手です。

はじめて僕が海外旅行に出たのは、ちょうど半世紀前の1970年のことでした。その6月、台北・故宮博物院で中国絵画に関する大国際シンポジウム「中国古画討論会」が開かれたからです。蒋介石総統が列席し、シンポジウム名誉総裁のマダム宋美麗が開会の挨拶を行なうという、中華民国挙げての国家行事でした。

2020年5月9日土曜日

醍醐書房『視覚の現場』4



ここにはすでに説かれるキリスト教的価値観とともに、儒教的価値観が存在しました。またヌードという伝統を持たない我が国では、それが春画と結び付けられやすかったのです。さらに「裸体婦人像」がリアリズム絵画であり、それが広く一般に公開され、しかも凝視を強いる芸術であったことが問題にされたのです。ご興味のある方は、『須田記念 視覚の現場』第1号をどうぞ……。

しかしこれらは表層的要因というべきものであって、もっと根本的問題が横たわっていたようにも思いますが、これはまだよく煮詰まっていないので、書く勇気はありませんでした。


2020年5月8日金曜日

醍醐書房『視覚の現場』3



僕がディレクターをつとめている静嘉堂文庫美術館には、かの腰巻事件でよく知られる黒田清輝の「裸体婦人像」があります。1900年、パリ万博のために渡欧した黒田は、そこで「裸体婦人像」を制作し、帰国後の翌1901年、第6回白馬会展にこれを出品したのです。

明治維新に続いて近代国家を建設しようとした日本は、ご存知のように中国文明に別れを告げ、西欧文明をモデルとして採用しました。西欧文明の基本には人体があり、したがって西欧美術の根本にはヌードがありました。

それにも関わらず、どうして黒田の「裸体婦人像」や、それに先立つ「朝妝」が猥褻だということになったのでしょうか。ずっと考えてきた問題であり、また私見もあったので、原田さんに甘えて文字にしてみたのです。

2020年5月7日木曜日

醍醐書房『視覚の現場』2



いま美術雑誌を出版することには、ものすごい苦労がともないます。個人で醍醐書房を立ち上げ、企画出版を継続していらっしゃる原田さんに、どのようなオマージュを捧げたらよいのでしょうか。尊敬の念とともに、心から感謝の辞を贈りたいと思います。

『須田記念 視覚の現場』は、去年「祝賀復刊記念号」に続いて、第1号が刊行されました。求められるままに僕は、「ヌードと春画」というエッセーを寄せました。

ちょうど同じころ、中国美術学院で開かれる国際シンポジウム「歴史と絵画」に招待されたので、かつて横浜美術館で特別展「ヌード」を見たときの感慨を取り入れながら、「黒田清輝の写実と天真」というペーパーを用意していたからです。というよりも、どのようなテーマでも、自由に書いてもらって結構だという原田さんのお言葉に甘えたのです。

2020年5月6日水曜日

端午の節句2



それでは『漢詩歳時記』から、中唐の詩人・殷尭藩の「端午の日」を、またまた僕の戯訳で紹介することにしましょう。殷尭藩?――たしかに有名詩人とはいえませんが、この七言律詩は、後期高齢者になった僕の心に深く染み入るものがあります。

 若い時にはお節句に 華やぐ気分もわいたけど
 歳とりゃ深い感慨が 生ずることを誰が知る
 ヨモギの人形 門口に 飾る習慣 無視しつつ
 菖蒲酒[しょうぶざけ]飲み世の平和 語り合いたいじっくりと
 左右の鬢[びん]は真っ白に なって日ごとに目立ちだし
 錦のようなザクロだけ 年々眼にも鮮やかに……
 千年からみりゃ人生は 賢者も愚者も一瞬で
 ほとんどの人忘れられ 名を残すのはわずかだけ

2020年5月5日火曜日

端午の節句1





 今日は端午の節句です。『國華』に寄稿する行路の画家・蕪村私論――お馴染みの妄想暴走論も一応脱稿したので、一日のんびりと、渡部英喜さんの『漢詩歳時記』<新潮選書>から第2部「夏」の十数首に戯訳をつけて遊ぶことにしました。

この日の一杯はもちろん菖蒲酒[しょうぶざけ]、夕方風呂に入れる菖蒲をちょっとくすねて「百年の孤独」に浸し、昼酒に我を忘れましょう。先日の朝日新聞によると、このところのコロナ巣籠りで家飲みが増え、健康問題が心配されるなんて書いてありましたが、菖蒲酒は古来邪気を祓うとされてきた養命酒みたいなもんです。まったく心配には及びません() 

しかし、本来は酒なんか飲んでいないで、我が国の将来を案じつつ、この日汨羅に身を投げた憂国の詩人・屈原に、思いを馳せなければいけないのかもしれませんが……。


 

2020年5月4日月曜日

読売新聞特集記事「修復の技 慈しみの心」




 読売新聞社はいま「日本美を守り伝える 紡ぐプロジェクト」を展開しています。その趣旨をよく理解してもらうため、53日朝刊に「修復の技 慈しみの心」という特集が組まれました。求められるままに僕は、我が静嘉堂文庫美術館が所蔵する大名物である「付藻茄子」<つくもなす>という茶入と、国宝の俵屋宗達筆「関屋澪標図屏風」について、修復という観点から紹介する一文を草して寄稿しました。

日本美術品は優しくか弱いのです。それは日本画と油絵を比べてみるとよく分かります。したがって、つねに修復を繰返していないと、すぐに傷んでしまいます。しかし不思議なことに、修復によって新しい美が生まれ、歴史的な物語が付加され、また未知の発見がもたらされ、その作品の美的価値が高まることがあるのです。

ところで静嘉堂文庫美術館は、丸の内に建つ重要文化財建築「明治生命館」へ、2022年移転する計画を立てていますが、これも積極的修復と呼ぶべきプロジェクトなのです。近い将来「付藻茄子」も皆さんに鑑賞していただく機会を必ず用意いたします。乞うご期待!!

2020年5月3日日曜日

醍醐書房『視覚の現場』1



醍醐書房『須田記念 視覚の現場』第2

 原田平作さんの醍醐書房から出ている『美術フォーラム21』に、お世話になっていない美術史研究者は少ないと思います。かつて僕も特別編集員に加えてもらったことがありますし、「江戸の美学」という拙文を寄稿したこともあります。原田さんが編集する『民族芸術』に、これまた拙文を載せてもらったこともあります。

その原田さんが、『美術フォーラム21』に続いて、言葉足らずでもいいから、もっと言いたいことを簡単に書くことができる雑誌として、10年ほど前、『視覚の現場・四季の綻び』をお出しになりました。これは10号で中〆となったのですが、去年『須田記念 視覚の現場』として復刊されることになりました。僕も大好きな須田国太郎画伯のご子息である、須田寛さんの高配と援助によるところだそうです。須田寛さんといえば、一昨年「饒舌館長」へ優先席問題に対する私見( ´艸`)をアップしたとき、シルバーシートの発案者としてお名前を挙げたことを思い出します。そのときは須田画伯の御子息とは存じ上げませんでしたが……。


2020年5月2日土曜日

シルバー川柳6


 
    ⑦年上が タイプだけれど もういない

やっぱり僕は年下がいいなぁ() でもちょっとセクシーで、哀愁をたたえるシルバー川柳として、ピカイチの一句ですね。

 ⑧立ち上がり 用事忘れて また座る

僕は「立ち上がり 目的忘れ また座る」と覚えていましたが、耳で聞いたとき「用事」の方が分かりやすくっていいかな?  類句に「立ちあがり 用を忘れて 立ちつくし」があります。

 ⑨女子会と 言って出かける デイケアー

同じく女子会を詠んだ句に、「女子会と 聞いて出かけりゃ 60代」というのがありますが、これはちょっとセクハラ的かな?

⑩できました 老人会の 青年部

秋田県立近代美術館のディレクターをやっていたとき、秋田で聞いたのは、「定年で 秋田に帰れば 青年部」という名吟でしたが……。

2020年5月1日金曜日

シルバー川柳5


 
⑤マイナンバー ナンマイダーと 聞き違え

マイナンバー・カードがあまり普及しないのはこのせいかな? かくいう僕も、マイナーバー通知カードのままで、プラスチックのカードは作っていません。3無主義――クルマとスマホと愛人は持たない!という3無主義にマイナンバー・カードを加えて、4無主義にするかな()

 ⑥景色より トイレが気になる 観光地

これは僕もしょっちゅう口演で使う名吟です。トイレといえば、「この俺に あったかいのは 便座だけ」という名句もあります。彬子女王ご臨席の琳派400年記念祭の国際シンポジウムでこれを口走り、顰蹙をかったのも、懐かしい思い出です()

ブータン博士花見会4

  とくによく知られているのは「太白」里帰りの物語です。日本では絶滅していた幻のサクラ「太白」の穂木 ほぎ ――接木するための小枝を、イングラムは失敗を何度も重ねながら、ついにわが国へ送り届けてくれたのです。 しかし戦後、ふたたび「染井吉野植栽バブル」が起こりました。全国の自...