2020年7月31日金曜日

山本勉さんの愛猫・ルリちゃんへ8



蕪村の「夕皃の花噛む猫や余所ごゝろ」から思い出されるネコ俳句として、酒井抱一(屠龍)の「から猫や蝶噛む時の獅子奮迅」があげられます。いかにも江戸座俳諧風の、くっきりとした情景を詠んだ抱一に比べて、郷愁の詩人・蕪村のネコは、『源氏物語』につながるような浪漫性にあふれています。僕がいう「微光感覚」とどこかで通じているような気もするのですが……。
夕顔を詠んだ蕪村の句としては、「夕顔や早く蚊帳つる京の家」が佳句としてよく知られていますが、ネコ好き館長としては、ダンゼン「夕皃の花噛む猫や余所ごゝろ」の方ですね()

2020年7月30日木曜日

山本勉さんの愛猫・ルリちゃんへ7



尾形先生がおっしゃるように、猫は夕顔の花をじゃれるともなく噛んでいるのですが、ここにはマタタビの花が意識されているように思われてなりません。夕顔もマタタビの花も白い花で、ともに夏の季語ですから、呼応しやすいともいえましょう。マタタビは秋の季語ですが、マタタビの花は夏の季語だそうです。
マタタビの花なら猫も狂ったように噛むところですが、同じ白い花といっても夕顔ですから、じゃれるともなく噛んでいるようだ――と詠んだのではないでしょうか? それを「余所ごころ」といったのではないでしょうか?
ヤジ「ネコが狂っちゃうのはマタタビの実の方で、花じゃ~ないだろ!!

2020年7月29日水曜日

山本勉さんの愛猫・ルリちゃんへ6


蕪村の俳句といえば、何はともあれ尾形仂先生編集の『蕪村全集』です。その巻1<発句>№570がこの句で、次のように解釈されています。
夕闇の中ですっかりサカリの落ちた猫が、白く浮かぶ夕顔の花を、じゃれるともなく噛んでいる。夕闇の中に咲く夕顔の妖しい美しさと魔性の猫とのよそよそしい組み合わせが、かえって妖艶の度を深めている一幅の画面。
 先生は夕顔の花と猫の組み合わせがよそよそしい――つまり、しっくり合っていないのが返って趣き深いと解釈されているようです。さすが蕪村研究に一生を捧げた尾形先生のすぐれた読みだと感を深くしますが、単純に「余所ごころ」を猫の気持ち、蕪村が見立てた猫の行動のさまと考えることも許されてよいでしょう。

2020年7月28日火曜日

山本勉さんの愛猫・ルリちゃんへ5



僕も大好きな蕪村の一句「夕皃[ゆうがお]の花噛む猫や余所[よそ]ごゝろ」を引いたあと、森本さんは「もしかすると、猫は老子のいちばん賢い弟子かも知れない。私にはそんな気がした」と結んでいます。
山本さんの愛するルリちゃんも、その相貌からみて、老子のいちばん賢い弟子であることは絶対まちがいないと思います。無心なる弟子というより、思索する弟子のように感じられますが……。
ところで、森本さんが引用する蕪村の「夕皃の花噛む猫や余所ごゝろ」は、どういった句意なのでしょうか? 問題は「余所ごころ」で、これを『広辞苑』に求めると、「よそよそしい心」とありますが、チョットよそよそしい説明ですね()

2020年7月27日月曜日

山本勉さんの愛猫・ルリちゃんへ4



2002428日『日本経済新聞』の「文化」欄で、正しくは「老子と猫」でしたが……。『國華』編輯委員の僕が購読しているのは、いうまでもなくパトロンというかスポンサーというか、ともかくも『朝日新聞』で、『日経』はとっていません。スクラップブックに貼ってあったのはそのコピーでしたから、どこかで『日経』を読んでこれは!!と思い、わざわざ複写したものらしい――まったく思い出せないのですが……。
森本さんは、その前年6月、老子の生地とされる中国・河南省の鹿邑[ろくゆう]という町を訪ね、そこで求めた木彫りの老子像から話を始めます。そして、お孫さんが拾ってきたという「伊織」という雄猫へと筆を進め、老子像の横で泰然としている伊織は、老子の説く無為・無心そのものだと感心するのです。
*山本さんがアップした猫ちぐらから覗くルリちゃんは、じつにいいアングルだったので、そのまま使わせてもらってきました。ところがこれをFBへ投稿すると、不思議なことにルリちゃんの耳だけになっちゃうんです。仕方がないので、トリミングさせてもらうことにしました。今度は哲学者・ルリちゃんの美貌が、FBでもちゃんと写るはずです。

2020年7月26日日曜日

山本勉さんの愛猫・ルリちゃんへ3


 
 猫ちぐらから顔をのぞかせるルリちゃんは、沈思黙考、じっと何かを考えている風情です。もちろんコロナ禍や来年のオリンピック・パラリンピック、あるいは日本の膨大な借金といった俗世の問題なんかじゃ~ありません。
ネコとしてこれまでの生き方は正しかったのか? これからの人生――いや、猫生をいかに生くべきか? 猫生における究極の目的は何か? といった倫理的かつ哲学的問題を反芻しているんです。ルリちゃんを見れば見るほど、真摯なる哲学者の相貌をしています。
フェイスブックでこの写真を見た瞬間、かつて読んだ森本哲郎の「猫と老子」というエッセーが脳裏に浮かびました。ネコ好き館長――そのころは館長じゃ~ありませんでしたが――その心に深く染み入るようなエッセーでした。確かスクラップブックに貼っておいたはずだと思って探したら、やはり出てきました。

2020年7月25日土曜日

山本勉さんの愛猫・ルリちゃんへ2


ところが先日、ついにこの「追悼 エオンちゃん」⑤が「松浦武四郎展」①を追い抜き、総アクセス数のトップに立ったのです。トップといっても、中村剛士さんの「青い日記帳」には及ぶべくもないのですが……() それはともかく、今村与志雄さんの名著『猫談義』から、明・陳悰の『天啓宮詞』に載る愉快な七言詩をマイ戯訳にて、いま山本さんの愛情を一身に受けているルリちゃんに捧げたいと思います。
  塵一つなき緋毛氈 日永[ひなが]一日その上に……
  丫頭[あとう]というネコ日々日ごと かしづいている皇帝に
  そのご馳走のおこぼれを いただくことに慣れていて
  普通のネコならラリッちゃう マタタビさえもスルーする

2020年7月24日金曜日

山本勉さんの愛猫・ルリちゃんへ1


 畏友・山本勉さんが愛してやまなかったエオンちゃんが天に召されたとき、それまでマイブログに書いてきたネコ詩の戯訳などをまとめ、「追悼 エオンちゃん(山本勉さんの愛猫)」①~⑧と題して「饒舌館長」にアップさせていただいたことがありました。
日本仏教彫刻のすぐれた研究者である山本さんの人柄ゆえか、はたまたエオンちゃんの可愛さゆえか、すごい数のページビューとなりました。エオンちゃんに感謝しつつ、続編も書かせてもらいました。
とくに初編⑤――文人画家・祇園南海の愛猫を悼む詩の戯訳はアクセス数が多かったのですが、それでも静嘉堂文庫美術館で開いた「松浦武四郎展」の紹介①には及びませんでした。


2020年7月23日木曜日

三菱一号館美術館「画家が見たこども展」6



ボナールは生きる喜びを謳った画家として有名ですが、この屏風では、乳母の周りで輪回し遊びをしている子供たちをとおして、その喜びが謳われているように感じられます。キャプションによると、ナビ派は「日本かぶれのナビ」と揶揄されたそうですが、その代表こそボナールでした。日本かぶれといえば、私たちが気恥ずかしくなるような日本礼讃の手紙を書き残したゴッホが思い出されます。
いいかね、彼らみずからが花のように、自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、真の宗教とも言えるものではないだろうか。日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。われわれは因習的な世界で教育を受け仕事をしているけれども、もっと自然に帰らなければいけないのだ。(岩波文庫『ゴッホの手紙』)
しかしボナールも、負けず劣らずであったのでしょう。この屏風の子供たちも、浮世絵のなかの子供たちと、同じ時空のなかで遊んでいます――なんて言ったら、またまた河野節だと笑われちゃうかな()   

2020年7月22日水曜日

静嘉堂「美の競演」4



 いま静嘉堂文庫美術館で開催中の「美の競演 静嘉堂の名宝」<922日まで>についてはすでに紹介させてもらいましたが、十全なるコロナ対策をとったこともあり、予想を超えてたくさんの方々に、安心して楽しんでいただいています。饒舌館長としてこんなうれしいことはありませんが、加えてグッド・ニュースを2つお伝えしたいと存じます。
畏友・佐藤康宏さんはフェイスブック・フレンドでもあるんですが、先日、この「美の競演」展をアップし、とてもおもしろく刺激的な展覧会ですよと推薦してくれたのです。佐藤さんはカラクチをもって知られる美術史家、そのお墨付きを得たのですから、饒舌館長としてもいよいよ自信をもってオススメすることができるというものです。
もう一人は、これまた畏友の山下裕二さんです。昨日21日の「朝日新聞」夕刊に、「美の道標 謎の水墨画家と強烈な出会い」という一文を寄稿して写真を掲げ、「ここに掲載する「四季山水図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵)は、サンフランシスコ(アジア美術館)の作品よりさらに洗練度がました、最高のクオリティーを示す作品だと思う」と、きわめて高い評価を与えてくれたのです。そのうち、皆さんにもぜひ見ていただくことにしましょう。
お二人とも真摯にして誠実、先輩だからといって饒舌館長のことをソンタクするような研究者じゃ~ありません() 佐藤さん、山下さん、ありがとう!!!

2020年7月21日火曜日

三菱一号館美術館「画家が見たこども展」5



この「画家が見たこども展」に登場するゴッホや、ボナールに代表されるナビ派の画家たちは、みな浮世絵から強い影響を受けていました。彼らが子供というモチーフを愛したこと自体、浮世絵の影響であったといってもよいのではないでしょうか。少なくとも、まったく無関係なはずはありません。
「僕の一点」は、ボナールの「乳母たちの散歩 辻馬車の列」(ボナール美術館蔵)ですね。リトグラフによる1897年制作の4曲1隻屏風ですが、この画面形式自体、日本の影響――つまり「ジャポニスム」(日本主義)でしょう。
ご存知のように、19世紀後半以降、ヨーロッパでは日本美術に対する愛好が燎原の火のごとく広がりました。厳密にいえば、これは「ジャポネズリー」(日本趣味)というべきかもしれませんが、現在では広くジャポニスムと呼ばれているようです。

2020年7月20日月曜日

三菱一号館美術館「画家が見たこども展」4



かつて「饒舌館長」にアップロードした<奈良国立博物館「快慶 日本人を魅了した仏のかたち」><小澤優子文化交流サロン>もお読みいただければ幸甚に存じます。そこにも書きましたが、子供は純粋無垢にして何か超越した存在であるという思想が、古くから我が国にあったように思われてなりません。山上憶良以来の子供聖性観とでも名づけたいような観念です。幕末明治期、外国人を驚かせた「子供の天国」の根底にも、この子供聖性観があったというのが私見です。
「子供の天国」をもっとも生き生きと表現してくれたのは、やはり浮世絵師たちでした。いま僕は、江戸子ども文化研究会編『浮世絵のなかの子どもたち』(くもん出版 1993年)を見ながら、この「饒舌館長」を書いています。静かにページを繰っていると、懐かしく、うらやましく、そしてチョット誇らしい気持ちになってきます。

2020年7月19日日曜日

三菱一号館美術館「画家が見たこども展」3



 これをアメリカと比較し、文化人類学的に考察したのはルース・ベネディクトで、著書『菊と刀』のなかで、次のように述べています。

日本の生活曲線は、アメリカの生活曲線のちょうど逆になっている。それは大きな底の浅いU字型曲線であって、赤ん坊と老人とに最大の自由と我儘とが許されている。幼児期を過ぎるとともに徐々に拘束が増してゆき、……六十歳を過ぎると、人は幼児とほとんど同じように、恥や外聞に煩わされないようになる。アメリカではわれわれはこの曲線を、あべこべにしている。幼児には厳しいしつけが加えられるが、……いよいよ自活するに足る仕事を得、世帯をもって、立派に自力で生活を営む年ごろに達すると、ほとんど全く他人の掣肘を受けないようになる。……年をとってもうろくしたり、元気が衰えたり、他人の厄介者になったりするとともに、再び拘束が姿を現わし始める。

2020年7月18日土曜日

三菱一号館美術館「画家が見たこども展」2



渡辺京二さんの名著『逝きし世の面影』が伝えるとおりですが、そこでも挙げられているエドワード・モースの『日本その日その日』から、一節を引用しておきましょう。
いろいろな事柄の中で外国人の筆者達が一人残らず一致することがある。それは日本が子供達の天国だということである。この国の子供達は親切に取扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少なく、気持ちのよい経験の、より多くの変化を持っている。赤ん坊時代にはしょっ中、お母さんなり他の人なりの背に乗っている。刑罰もなく、咎めることもなく、叱られることもなく、五月蝿く愚図愚図いわれることもない。日本の子供が受ける恩恵と特典から考えると、彼等は如何にも甘やかされて増長してしまいそうであるが、而も世界中で両親を敬愛し老年者を尊敬すること日本の子供に如くものはない。

2020年7月17日金曜日

三菱一号館美術館「画家が見たこども展」1



三菱一号館美術館「画家が見たこども展 ゴッホ・ボナール・ヴュィヤール・ドニ・ヴァロットン」<922日まで>
 南仏のル・カネに、ピエール・ボナールの作品を集めたボナール美術館があるそうです。「あるそうです」というのは、まだ行ったことがないからです。ボナールはここル・カネで、戦後間もなくの1947年、79歳で亡くなりました。
このボナール美術館と三菱一号館美術館が協力して、「画家が見たこども展」を企画し、準備を進めてきました。コロナ禍のため、オープンのあと中断しましたが、922日まで延長開催されることになりました。絶対オススメの展覧会ですよ!!
日本では子供がとても大切にされ自由です。いや、そうであったというべきでしょうか? 幕末明治のころ、我が国へやってきた外国人は、ひとしなみに「子供の天国」「子供の楽園」だといって驚き、そしてたたえています。


2020年7月16日木曜日

国立新美術館「古典×現代」2



この8つの組み合わせとは次のとおりです。
仙厓×菅木志雄  花鳥画×川内倫子
円空×棚田康司  刀剣×鴻池朋子 
仏像×田根剛   北斎×しりあがり寿 
乾山×皆川明   蕭白×横尾忠則
かつて『國華』創刊120周年を記念して開いた特別展「対決 巨匠たちの日本美術」は、古典美術どうしの対決でしたが、今度は古典美術と現代アートの対決といった趣です。絶対オススメの展覧会ですよ!! 僕が編輯委員をやっている『國華』が主催者に入っているからといって、ヨイショしているわけじゃ~ありませんよ() 

2020年7月15日水曜日

国立新美術館「古典×現代」1



国立新美術館「古典×現代2020 時空を超える日本のアート」<824日まで>
 すでにアップした国立新美術館の「古典×現代2020」はコロナ禍のため延期されていましたが、会期を変更して先月24日から始まりました。改めて立派なカタログから「ごあいさつ」の一部を引用しておきましょう。
国際的な注目が東京に集まる2020(令和2)年に、古い時代の美術と現代の美術の対比を通して、日本美術の豊かな土壌を探り、その魅力を新しい視点から発信する展覧会を開催します。展覧会は江戸時代以前の絵画や仏像、陶器や刀剣の名品を、現代を生きる8人の作家の作品と組み合わせ、一組ずつ8つの展示室で紹介します。……今日の優れた表現と、今なお私たちを惹きつけてやまないいにしえの名品の比較を通じて、新たな魅力を発見する機会になれば幸いです。


2020年7月14日火曜日

七夕8



おもしろい1首といえば、なんと言っても江戸川柳の「秋がわきまず七夕にかわきそめ」でしょう。浜田義一郎編『江戸川柳辞典』には、「秋がわき=かわきは咽喉のかわきのみならず食欲を覚えること。秋になって食欲が増進する。転じてここでは色欲について言う。……人間界でもようやく秋がわきの季節に入って、天上界に負けじと愛のかたらいに励むことだろうと、星を引き合いに出したのがおかしい」とあります(!?) 
とんだ横道にそれてしまいましたが、おそらく「妻迎舟」のような言葉など漢語にはないのでしょう。
中西さんと渡部さんにはじめて教えられましたが、日中で牽牛(彦星)と織女(織姫)の求愛行動が逆転してしまっているのです。実におもしろいじゃ~ありませんか!! おそらくここには、早く父系社会に入った中国と、遅くまで母系社会の伝統を保ち続けていた日本の違いが反映しているんだと思います。けっして異性に対する積極性が、日中で異なっているというわけじゃ~ないと思いますよ() 


2020年7月13日月曜日

七夕7



また巻10「秋の雑歌」の「七夕」には、じつに98首が収められていますが、『人麿歌集』から採られた第1首「天の川水底さへに照らす舟泊[]てし舟人妹に見えきや」をはじめ、織姫の方から会いに行ったと解釈できそうな歌は一首もないのです。
だからこそ、先に山上憶良の一首を引いたように、「妻迎舟[つまむかえぶね]]という歌言葉が生まれたのでしょう。佐佐木幸綱監修『和歌・短歌歳時記』には、「妻迎舟 陰暦七月七日の七夕の夜、天帝に許された年に一度の逢瀬のため、彦星が乗って織姫を迎えにいくため漕ぎ出す舟のこと」と説明されています。
そして5首ほどが選ばれています。藤原実定の「彦星の妻迎へ舟心せよ八十瀬の波は越ゑむせぶなり」のように、彦星から「余計なお世話だ!!」と言われそうな、おもしろい1首もあります。

2020年7月12日日曜日

七夕6



一方、わが国では――少なくとも『万葉集』の時代には、彦星が織姫に会いに行くものと相場が決まっていたようです。『万葉集』の歌でよく知られるのは、巻8に載る「山上臣憶良の七夕の歌十二首」でしょう。その浪漫性あふれる第1首は……
 天の川相向き立ちてわが恋ひし君来ますなり紐[ひも]解き設[]けな
中西さんは、「天の川に向かいて立ち、恋しく思っていたあなたがいらっしゃるようだ。紐を解いて待とう」と現代語訳をつけていますが、もちろんこれは織姫の立場から詠まれていますよね。このほかにも、「牽牛[ひこぼし]の嬬[つま]迎へ船漕ぎ出[]らし天の川原に霧の立てるは」をはじめ、彦星の方が出掛けることを示す歌がいくつか見出されます。

2020年7月11日土曜日

七夕5




織女牽牛の二星が一年に一度び天の川を渡って会合するということは古く『淮南子』や『荊楚歳時記』にも見えている。即ち織女は天帝の子で、年々機杼の業にいそしんでいたのを、父帝その独居を憫み河西の牽牛に嫁せしめた処、其の後織女は機織ることを怠ったので、天帝大いに怒り一年に一度天河を渡って相逢うを許し其の時雨降って渡れぬ時は烏鵲河を鎮めて橋をなし、織女はこれを渡って逢瀬を楽しんだというのである。
ここでも織女が河を渡って逢いに行くことになっています。もっとも、羅信耀(藤井省三ほか訳)の『北京風俗大全』(平凡社)によると、牽牛の方が会いに行くことになっていますが、これはずっと時代が下った中華民国時代の話で、そのころはそういう異説も生まれていたのでしょう。

2020年7月10日金曜日

七夕4



渡部さんは、「中西進氏は『万葉集』の七夕の歌は妻訪い婚の風習の反映で、天の川を渡るのは牽牛であるとしています。中国では織女が天の川を渡りますから、逆になっています」と書いています。これはおもしろい……と思ってチョット調べたところ、さすが、中西さんや渡部さんです!! おっしゃるとおりであることが判ってじつに愉快でした。まず中国ですが、『諸橋大漢和辞典』で「織女」を引くと、「俗説に、七月七日の夜、天河を渡って牽牛星と交会するという」とありますから、確かに天の河を渡って会いに行くのは織女の方です。また金井紫雲の『東洋画題綜覧』に「七夕」を求めると、つぎのような説明がありました。

2020年7月9日木曜日

七夕3



三国時代の魏の曹否・曹植[そうち]の詩には牽牛・織女が「古詩十九首」と同じように、はるか離れて相見ることができない情人として詠じられていることから考えますと、牽牛・織女の伝説の成立は後漢末でしょう。それを陰暦77日としたのは傅玄[ふげん]の「擬天問」によるのです。また、鵲[かささぎ]が天の川に橋を架けるという七夕伝説は周処の『風土記』によるものです。
牽牛・織女の両星を人格化し、年一度の会合の伝説を詩にしたのはこの「古詩十九首」が最も古く、六朝時代に至って、ますます広く流伝しました。わが国にも古くから伝えられ『万葉集』にも多く詠じられています。そればかりか、平安時代の初めには、すでに朝廷の行事として定着していたようです。

2020年7月8日水曜日

七夕2


 

 大空の遥か遠くに彦星が…… 輝く織姫 銀河の岸辺
  しなやかにまた嫋やかに手と指で リズムをつけて機[はた]の杼[]運ぶ
  綾模様つね片思いゆえ乱れ 雨のごとくに流れる涙
  天の川清らかに澄み浅い上 けっこう二人は近くいるのに……
  滔々と流れる川に隔てられ 見つめ合うだけ話もできず

牽牛・織女という名は古くは『詩経』(小雅大東篇)に見えます。しかし『詩経』ではまだ恋物語が成立していません。『淮南子』には「真人が織女を妻とする」とあり、後漢の王逸の楚辞九思章句に「織女と合婚す」とあります。<ちなみに、僕のワープロで「ごうこん」を変換したところ、「合コン」しか出てきませんでした(!?)

2020年7月7日火曜日

七夕1


 

 今日は七夕、誰でも織姫・彦星の伝説を思い出すロマンチックな夜を迎えます。静嘉堂文庫美術館の通用門を出て急な坂道を下りていくと、岡本公園民家園があります。先月からその門前に大きな七夕飾りがしつらえられました。風にそよぐ竹と短冊をながめていると、コロナ禍だろうとパンデミックだろうと、ちゃんと季節は巡っているんだとホッとします。
毎度おなじみ渡部英喜さんの『漢詩歳時記』から、七夕のロマンスをたたえた「古詩十九首 其の十」を和歌調戯訳で紹介しましょう。この古詩は、前漢の枚乗[ばいじょう]という詩人の作品とも、作者不詳ともいわれているそうです。渡部さんの解説はちょっと専門的ですが、とても興味深いので、戯訳に続けてそのまま引用しておきましょう。

2020年7月6日月曜日

出光佐千子氏インタビュー3



すでにお知らせしたように、2022年秋、静嘉堂文庫美術館は丸の内の明治生命館へギャラリーを移すことになっています。出光美術館とはご近所さんになるわけです。その発表に先立って、常務の安藤さんと一緒に僕は、出光美術館にご挨拶にうかがいました。
あらあら説明が終わると、出光昭介理事長は、「それはおめでとうございます。ぜひ丸の内の美術館同士でコラボ展をやりましょう。両方の美術館を巡ると、一つのテーマが完結するような企画など、いろいろ考えられますね」とおっしゃる。僭越ながら、さすが出光理事長だと、私立美術館新参者の僕は深く感じ入ったのでした。
このインタビューのほか、本会報には、「望郷の深江芦舟『草花図屏風』――國華清話会第27回特別鑑賞会講演から」と「『國華』の図版に心血を注いだ日本画家――栃木県立美術館<菊川京三の仕事――『國華』に綴られた日本美術史>展講演会から」という2本の講演録が載っています。恥ずかしながら、二つとも僕の講演――いや、口演なんです。つまりこの『國華清話会会報』35号は、饒舌館長特集号だといってもいいのかな?()

2020年7月5日日曜日

出光佐千子氏インタビュー2


とくに僕にとって、プライス・コレクションを飾る円山応挙筆「懸崖飛泉図屏風」を、はじめて『國華』に紹介したことは忘れることができない思い出です。この傑作が出光美術館に収まることになったわけですから、こんなうれしいことはありません。
出光コレクションの基礎を創った出光佐三店主は、素人が余技で描いたようなおっとりとした絵を好まれ、応挙のような技巧のすぐったものには、あまり関心を向けなかったそうです。事実、出光佐三コレクションに応挙作品は1点もないとのことです。
ところがこのたび、伊藤若冲の傑作ほか、応挙やその弟子たちの作品、そして江戸琳派の系統を補う優品が加わることになったわけです。出光さんは「出光美術館のコレクションですっぽり抜け落ちていた部分が補われて、厚みが増すことになりました。うれしい限りです」とおっしゃっていますが、まさにその通りだと思います。

2020年7月4日土曜日

出光佐千子氏インタビュー1


伝統をしなやかに受け継いで――出光美術館館長・出光佐千子氏インタビュー――(『國華清話会会報』35号)
 前回に続いて、もう一人の女性館長を紹介しましょう。去年春、出光美術館の館長に就任した出光佐千子さんです。以前アップしたことがある『國華清話会会報』の最新号に、インタビュー記事が載っています。インタビューアーは? 恥ずかしながら饒舌館長です。
出光さんはずっと出光美術館学芸員と青山学院大学文学部准教授という二つの仕事をされてきましたが、突然ご尊父から館長職を振られて、最初はまたいつもの冗談だろうと思ったそうです。お話は池大雅に関する博士論文から始まって、このたび出光美術館に入ることになったエツコ&ジョー・プライス・コレクションへと移っていきました。出光さんも僕も、プライスご夫妻には大変お世話になってきました。

2020年7月3日金曜日

美術館の未来を担う女性たち9



その後の報道によると、結局企画のウェブサイトからは写真がすべて消え、「本ページは公開を終了しました。次回以降の連載については、さまざまなご意見、ご指摘を重く受け止めて、改めて検討していきます」というコメントが掲載されているそうです。
読売新聞と美連協は、「刀剣女子」や「歴史女子(歴女)」や「鉄道女子(鉄子)」から連想し、軽いノリでネーミングを考えたにちがいありません。しかし時代はものすごいスピードで変化していることを、改めて思い知らされました。
ちょうどこの「美術館の未来を担う女性たち」を「饒舌館長」にアップロードしているところだったので、3人の女性館長はこの企画と炎上をどのように感じていらっしゃるか、お聞きしてみたいなぁとも思いました。
このように変化している時代にあって、女性美術史研究者が嫌う「閨秀画家」という言葉はけっして使うまい、必ず「女性画家」と言うようにしようと心に誓ったことでした。これから「閨秀画家」は絶対許されなくなることでしょう。いや、これまでも許されていなかったのかな()

2020年7月2日木曜日

美術館の未来を担う女性たち8



ところがネット上では、「若い女性を<無知>の象徴として扱っている」「女の子を鑑賞するオジサンの目線でしかない」「美術と美術館を冒涜するものだ」「美術館をダシにつかったタレント・プロモーションじゃ~ないのか」といった批判が上がり炎上したようです。
ネットには、『美術館の不都合な真実』<新潮新書>を著わした古賀太さんの批評がアップされていて、さすがたくさんの美術展をコーディネートした古賀さんはいいことを言うなぁと感じ入りました。「美術館女子」からは読売の必死さが伝わってくるとしても、コロナ禍を機にソーシャルディスタンスを取りながら、以前よりも落ち着いて名画や名作を見ることができるという、観る側にとってよい面も生まれてくるというのです。
もっとも僕には、「饒舌館長」のページビューを飛躍的に増やすような刺激的感想もとくに思い浮かびませんでした。

2020年7月1日水曜日

美術館の未来を担う女性たち7



僕はこの鼎談を読んでみずからを顧み、忸怩たるものを感じるとともに、穴があったら入りたいような気持になり、ちょっと落ち込まないではいませんでした。彼女たちにはしっかりとした哲学が存在し、高い理想があり、みずからを律する倫理がそなわっていたからです。しかし今夜、一杯飲めば落ち込みなんかすぐ治っちゃうことでしょう。
ヤジ「だから男のオマエじゃ~駄目なんだ!!
女性美術館館長といえば、先日、読売新聞と美術館連絡協議会――通称「美連協」のコラボレーション企画「美術館女子」が読売新聞オンラインで配信されると、ソク炎上したようですね。
AKB48チーム8の人気タレント小栗有以さんが、東京都現代美術館を訪れた様子を写真中心に紹介し、「若い女性は『インスタ映え』に夢中」といった文章が添えてあったそうです。

コロナ禍によって大きな被害を受けた美術館業界を、ふたたび活性化しようとするプロジェクトなのかなと思いましたが、僕が興味を掻き立てられた最大の理由は、以前AKBのディレクターをやっていたからです。AKB? 秋田県立近代美術館ですよ()


ブータン博士花見会4

  とくによく知られているのは「太白」里帰りの物語です。日本では絶滅していた幻のサクラ「太白」の穂木 ほぎ ――接木するための小枝を、イングラムは失敗を何度も重ねながら、ついにわが国へ送り届けてくれたのです。 しかし戦後、ふたたび「染井吉野植栽バブル」が起こりました。全国の自...