2019年12月31日火曜日

栃木県立美術館「菊川京三の仕事」6




ご存知のとおり、ライオンは反響効果がきわめてよく設計されていて、人の話など聞こえないことが少なくない。とくに菊川さんの話し声は、凛とした響きに満ちていたが、ご老人のゆえか小声に近い。僕らは耳をそばだてるようにして、菊川さんの話を聞いたものだった。

忘れられないのは、戦前のライオンの話だった。 そのころの女給さんは着物を着ていたので、襟元にチップの五十銭硬貨を入れてあげると、急にサービスがよくなったという。菊川さんが手を伸ばして、かわいい女給さんの襟元にチップを入れる姿を想像すると、何となくおかしかった。今でもライオンの前を通るたびに、菊川さんのことを懐かしく思い出す。

2019年12月30日月曜日

栃木県立美術館「菊川京三の仕事」5



 僕が『國華清話会会報』18号(2011)に寄稿した「『國華』を支えた絵師・菊川京三」も、ちょっと一部をアップさせてもらうことにしましょう。

菊川さんは歌川派系の美人画家、池田輝方の弟子であったが、奥様は同じ系統を引く川瀬巴水に就いて学んだ女性とのことであった。三時になると、その奥様がお茶とお菓子を運んできてくれた。 琴瑟相和すとはこのような夫婦のことだ――まだ結婚していなかった僕も、ただちに確信することができた。お茶を飲みながら、時々大真面目で話す菊川さんの冗談がとてもおもしろかった。

十二月に入ると、菊川さんは日を選んで、徳永君と僕を銀座のライオンに連れて行ってくれた。それは実に楽しい忘年会だった。僕らは遠慮なくご馳走になった。國華の帰り、徳永君とはよく千歳烏山駅前で飲んだが、一番の馴染みはスタンド飲み屋だった。

百円を入れると、コップに酒が注がれる機械が数台並んでいるのだが、二級酒は一杯になり、一級酒だと半分くらいにしかならないというチープな飲み屋である。肴は同じく機械で買う乾き物だった。それに比べるのも失礼な話だが、ライオンの忘年会は豪華この上ないものだった。

2019年12月29日日曜日

栃木県立美術館「菊川京三の仕事」4



 國華の図版は、木版とコロタイプ版で、戦前は半裁の大きさの機械もありました。木版は、純木版とコロタイプ応用の二種あり、戦前は五、六十度摺りのものを使いましたが、戦後は二、三十度摺りしか出来なくなりました。村山(旬吾)氏は、青写真に墨で手を入れ、アンモニアで青を抜き、版下を作ることを考案しました。私は、薬品が手に入らなくなったので、原版へ直接赤インキで濃淡の調子をとり、版下を作ることにしました。

 東大寺の僧形八幡像や、仁清の壺と帆懸舟、厳島神社の安徳天皇の檜扇、蘆雪の蓬莱山図、清国から秀吉宛の国書の巻物など、模写が完成した時はほんとに嬉しく、仕事のやり甲斐を感じました。


2019年12月28日土曜日

栃木県立美術館「菊川京三の仕事」3


職人は、彫刻師は酒呑は居ないのに摺師は皆大酒呑で、十五日晦日の支払いに困り、着物まで取られて、裸で社に来た男も居りました。社では、ある期間職人の退職金として、毎月五円ずつ郵便貯金をしてやっていました。私は入りたてからすぐ模写をやらされましたが、初めは古びが出ずに苦労しました。ずっと社に住んでいたので、模写と版下を頼まれて殆どやりました。

 模写はずいぶん諸方へ出張してやりましたが、広島と厳島へ二週間の予定で出張したのに、二ヶ月以上かかったことがありました。先方が、今日も駄目明日も駄目で、なかなか仕事にかからせてくれず、社へ電報すると瀧先生は出来るまでやれというので、結局それだけかかってしまったのです。しかし苦労して出来上がった時は、凡てを忘れて嬉しかったことでした。見張の人をうまく追っ払って、ガラスを外して模写したこともあります。ガラス越しでは全然駄目です。

2019年12月27日金曜日

栃木県立美術館「菊川京三の仕事」2



そこで、またまた「菊川京三先生と美術誌『國華』の木版画――饒舌館長口演す」という七五調タイトルのもとに、ベストテンを選んで、菊川さんのお仕事がいかにすぐれ、またいかに意義深いものであったかを口演したという次第です。もっとも、ほとんど菊川さんにまつわる想い出話といった感じになってしまいましたが……。

配布資料は、菊川さんが遺した文章や、僕が『國華清話会会報』や岡崎市美術博物館特別展「桃源万歳! 東アジア理想郷の系譜」のカタログに書いたエッセーを抜粋して作りました。ここでは菊川さんの「國華社での五十余年」(『國華』1000号 1977年)を一部ですが紹介したいと思います。

2019年12月26日木曜日

栃木県立美術館「菊川京三の仕事」1


栃木県立美術館「菊川京三の仕事――『國華』に綴られた日本美術史」+「菊川京三先生と美術誌『國華』の木版画――饒舌館長口演す」(1221日)

 明治30年(1897)東京に生まれた菊川京三さんは、歌川国芳の系統を引く美人画家・池田輝方に就いて絵を学び始めました。大正10年(1921)縁あって美術誌『國華』に入社、以来半世紀以上にわたり木版複製図版の制作を担当され、昭和60年(1985)米寿の年に逝去されました。

昭和44年、僕は『國華』の編集を手伝うことになりましたが、東京国立文化財研究所につとめるまでの2年間、菊川さんからは多くのことを学び、また大変親切にしていただきました。忘れることができない恩人であり、人生の達人です。

菊川さんが遺した『國華』複製図版など、お仕事の大半は栃木県立美術館に寄贈されましたので、それをもとにこのたび特別展が開かれ、ありがたいことに僕にも講演の依頼が届けられました。

2019年12月25日水曜日

追悼・梅本到さん6



この1年ほど、入退院を繰り返しながらも絵筆を離さず、病室を絵手紙で飾り、お医者さんや看護婦さんと明るく楽しく過ごしていることなどを知らせてくださいましたね。しかし悲しくも、「昨夜も今度はペン画にしようと力んで描き始めたのですよねぇ。よし!やるぞ」と、力強くメッセージが結ばれる919日の絵ッセー「船止めの具」が最後になってしまいました。

梅本さん、長い間本当にありがとうございました!! 貴兄のおかげで秋田や園部のさみしい一夜が楽しくなりました。「今日はどんな絵だろう?」――毎朝メールを開くのが待ち遠しくなりました。「絵ッセー」のように「饒舌館長」を日々発信するエネルギーが湧き起ってきました。

梅本さん、ありがとうございました。安らかにお眠りください。     合掌

2019年12月24日火曜日

追悼・梅本到さん5



さらに京都美術工芸大学へとらばーゆした時には、我が無聊をなぐさめるべく、今度は遠路はるばる園部まで!です。このときも「宮津取材の途中ですから……」とおっしゃっていましたが、マンションの部屋で遅くまで飲みかつしゃべったあと、無理やり引き止めるようにして泊ってもらったこともありましたね。

静嘉堂文庫美術館にもお一人で、あるいは奥様と一緒にお訪ねくださいました。この静嘉堂でも、小林忠さんが館長をつとめていた千葉市美術館でも、我がおしゃべり口演を聴いていただきました。

また『國華清話会会報』25号には、「『絵ッセー』毎朝届けて九年」と題して2ページにわたる絵ッセーを寄稿してもらいました。今は亡き天羽直之さんと飲みながら貴兄のことを話すと、「それはおもしろい! すぐお願いしましょう」と、天羽さんがソク電話したのでした。

何もかにもすべて昨日のことのように思い出されます。

2019年12月23日月曜日

追悼・梅本到さん4


「継続は力なり」という言葉がありますが、それを地で行くのが貴兄でした。いま僕はブログ「饒舌館長」を毎日発信していますが、これは貴兄を見習ってのことにほかなりません。

やがて僕はふるさと秋田の県立近代美術館を手伝うことになり、ホームページにブログ風の「おしゃべり館長」を立ち上げました。貴兄は丹念に読んで感想を寄せるとともに、「絵ッセー」でも喧伝してくださいました。それだけじゃ~ありません。わざわざ秋田まで美術館を訪ねてきてくれたのです。僕が恐縮すると、「五能線取材のついでですから……」――その心遣いにいたく心を打たれました。

2019年12月22日日曜日

追悼・梅本到さん3


はじめは趣味でしたが、もうそのころはプロの絵手紙作家とお呼びすべく、やがて『小さな風景を描く 楽しい絵はがき作りのすすめ』を出版し、その後奥様の明子さんと一緒に『夫婦で楽しむ小さな旅のスケッチ』をお出しになりました。

その後は年賀状の交換だけでしたが、あるとき貴兄が広く配信している「絵ッセー」の仲間に加えてもらいました。すると毎朝6時前後に、メールで新作絵葉書と、簡単なエッセーが届けられるのです。取材旅行などの期間を除いて、毎日毎日ですよ!! 僕は驚くとともに、そのエネルギーと持続力に脱帽せずにはいられませんでした。いや、貴兄は夜の明けるまえに起きて、思い出を絵葉書にすることが、楽しくって仕方なかったにちがいありません。

2019年12月21日土曜日

追悼・梅本到さん2


脇にノートの芳名録が置いてあったので、住所氏名を書いておいたところ、すぐに自作絵葉書のお返事をいただきました。またしばらくすると、本郷本局でも個展を開く旨の案内をいただいたので、もちろんすぐ拝見にうかがいました。その時はじめてお会いしたように思いますが、あるいは貴兄の方から我が研究室をお訪ねくださったような気もします。

貴兄は協和発酵につとめておいででした。小さいころから絵が大好きでしたが、あるとき絵手紙に興味をもつようになり、以後もっぱらそれを楽しみにしているとのことでした。サラリーマンとしての転勤や出張が、とても描くのに役立っているともおっしゃっていましたね。

2019年12月20日金曜日

追悼・梅本到さん1



 畏友・梅本到さんが今月4日に、80歳でお亡くなりになりました。以下はいまも天国で絵筆をふるっているに違いない梅本さんにお届けする追悼の手紙です。

冠省 昭和60年、東大につとめるようになってからしばらく経ったころ、何かの用で中央郵便局に行くと、ギャラリーコーナーで貴兄の個展が開かれていました。作品はすべて絵手紙で、誰でも真似したくなるような親しみやすい画風と、それをしっかりと支える的確な画技に心惹かれました。

もっぱらモノクロ版画で年賀状を作っていた僕にとって、その素晴らしい色感もすごく魅力的に感じられました。

貴兄は絵手紙といわず、確か絵葉書と呼んでいましたが……。

2019年12月19日木曜日

三菱一号館美術館「印象派からその先へ」5



その名は小林さんーープロ野球の選手だったけれども、その後シェフになって世界を旅しているという話でした。僕は藤島桓夫[ふじしまたけお]が歌った名曲「月の法善寺横町」の♪包丁一本さらしに巻いて 旅に出るのも板場の修行……♪という一節を思い出しながら、このギリシア料理が繊細で美味しかったのは、シェフが日本人だったからなんだと腑に落ちたことでした。といっても、それは単に日本人の口に合ったからじゃ~なく、本当に美味しかったんです!!

いまも小林さんは世界のどこかで、シェフとして美味しい料理を作っていることでしょう。あるいはもう、日本に帰ってきていらっしゃるかもしれませんが……。ピサロの「ロンドンのキューガーデン 大温室前の散歩道」は、キューガーデンだけじゃ~なく、その帰りに寄ったギリシア料理店・アクロポリスや小林シェフのことまで、髣髴とさせてくれたのです。

ヤジ「オマエのブログは、美術で始まっても、必ず最後に食い物か酒の話になるなぁ!!」 



2019年12月18日水曜日

三菱一号館美術館「印象派からその先へ」4



途中のアクトン・タウン駅で降り、最後のディナーをここで取ろうということになりましたが、寂しい駅で、美味しそうなレストランが見つかりません。ようやく見つけたのは、アクロポリスというギリシア料理店でした。日本で何回かギリシア料理を試みたものの、あまり美味しいと感じたことはなかったのですが、もうほかに選択の余地はありませんでした。

しかしこれが大当たりだったのです。みんな繊細でとても美味しかったのですが、とくにラムのスブラギとムサカは絶品でした。世の中にはこんな美味しいギリシア料理もあるんだと、感嘆せずにはいられませんでした。サーブしてくれたのは、キプロス出身のイケメンボーイでしたが、これが饒舌館長顔負けのおしゃべりさんで、ここのシェフは日本人だと教えてくれ、厨房からわざわざ連れてきてくれたのです。

2019年12月17日火曜日

三菱一号館美術館「印象派からその先へ」3



2003年、僕はサバティカルイヤーを得て、3ヶ月ほどニコル・ルマニエール・クーリッジさんが所長をつとめるセンズベリー日本芸術研究所のゲストルームに、家族でご厄介になりました。

いよいよ帰国する前日の朝、バスでノリッジからヒースローへ出て、午後2時過ぎ、アイヴィス・ホテルにチェック・インしました。まだたっぷり時間があるので、最後にもう一度キューガーデンを楽しむことにしました。パーム・ハウスからパゴダ、マリアンヌ・ノース・ギャラリーと回り、さてキューガーデンから地下鉄でヒースローに戻ろうとすると、事故があったらしく大混乱に巻き込まれてしまいました。

2019年12月16日月曜日

三菱一号館美術館「印象派からその先へ」2



「僕の一点」はオーギュスト・ルノワールの「森の散歩道」、またのタイトルを「ル・クール夫人とその子供たち」という作品です。キャプションに1870年作とありましたから、ルノワールは弱冠29歳、我が国立西洋美術館所蔵の傑作「アルジェリア風のパリの女たち」よりさらにさかのぼる、ごく初期の作品です。

まだ印象派風の筆蝕分割も見られず、一見ルノワールの作品とは分かりませんが、モスグリーンの画面に得もいえぬ微かな光が感じられて、すごくいいんです!! 何よりも小さなタブローなので、我が家の玄関にも飾れそうなのが、すごくいいんです!!(笑)

さらに、思い出につながる「僕の一点」をあげさせてもらえれば、カミーユ・ピサロの「ロンドンのキューガーデン 大温室前の散歩道」(1892年)ですね。


2019年12月15日日曜日

三菱一号館美術館「印象派からその先へ」1



三菱一号館美術館「印象派からその先へ――世界に誇る吉野石膏コレクション展」<2020120日まで>
印象派からモダン・アートに至る西欧絵画の優品ばかりを集めたのが、国内屈指とたたえられる吉野石膏コレクションです。吉野鉱山の石膏事業で大きな成功をおさめた須藤家が、社内の創造的環境づくりを目的に、日本近代絵画とフランス近代絵画からなるこのコレクションを作り上げたのです。30年ほど前、故郷への文化的貢献を果すため、山形美術館に寄贈寄託することを決断されたそうです。
十数年前、『國華』に谷文晁に関する拙論を寄稿するため、寛政文晁の優品「山水図」を調査させてもらいに、山形美術館にお邪魔したことがあります。その時うわさには聞いていたこの吉野石膏コレクションをはじめて拝見して、一人ひとりの画家の最高傑作ともいうべき作品が抜かりなく選ばれていることに、一体どうやって集めたんだろうと驚かずにはいられませんでした。

2019年12月14日土曜日

中国美術学院「歴史と絵画」15



というわけで、中国の焼き芋はみんな白いのかと思っていたところ、玉皇山荘レストランのは、日本と同じく黄色く、しかもホクホク系でした。中国でも、ホクホク系の方が好まれるようになってきたのかもしれません。そういえば、日本でも最近は「アンノウイモ」など、ネチョネチョ系に人気があるようですから、国民の味覚なんて簡単に変わるものなのでしょう。

その日もフォーラムは続いていましたが、これもサボって、西湖の周りを散歩しながら、陸さんが予約してくれた空港へのタクシーが来るまで、しみじみと旅情に浸りました。3回目の今回は26年ぶりの西湖でしたが、4回目がまた26年後だとすると、間違いなく「あぁ今回が人生最後の西湖だ」と思われ、美しく広がる西湖と遠くにかかる蘇堤・白堤を、眼底に焼きつけたのでした(笑)

2019年12月13日金曜日

中国美術学院「歴史と絵画」14



何しろ23日の旅行ですから、あっという間に最終日を迎えました。昨夜あんなに「天の藍」をやったのに、体調はすこぶる良好、目覚めるとすぐレストランへと向いました。どれもみな美味しかったのですが、ホテルのレストランでは珍しい焼き芋が、30年前の中国を思い出させてくれました。

すでにアップしたように、そのとき僕は北京日本学研究センターの講師として滞在していたのですが、旅行に出かけたとき、よく屋台で焼き芋を買って食べたからです。「烤白薯」といい、安くて美味しかったからです。どんなに美味しそうでも、屋台のナマモノは避けるようにしていましたが、焼き芋なら絶対安全です。

石焼き芋もありましたが、壷焼き芋の方が多く、「一つおくれ」というと、必ず売り子が両手で押しつぶすようにして、中身が柔らかくよく焼けていることを証明してくれるんです。我が国ではホクホクしているのが美味しい焼き芋ですが、中国ではネチョネチョしている方が好まれるんだなと分かりました。しかも芋の身が黄色ではなく白いんです。

2019年12月12日木曜日

中国美術学院「歴史と絵画」13



改めて指摘するまでもないが、文人画において最も重要なのは、適意であり、写意である。天真道場においては、その名の通り「天真」が中核に存在したのであり、それは文人画の精神ときわめて近似していた。「天真」は天真道場の絵画理念であるとともに、黒田の絵画理念でもあったことは言をまたない。黒田の東洋的写実主義や日本的洋画が誕生した基底は、この「天真」に求められなければならない。

 第二条は、現在の言葉でいえば石膏デッサンや人体デッサンにあたるのだが、これに限定するというのは、我が国洋画教育において革命的なことであった。これこそ写実主義者としての黒田、リアリストとしての黒田を明らかに示している。黒田芸術の根本には写実があったのである。

その意味では、ルネッサンス以来の遠近法と陰影法を基礎とする西欧的リアリズムの画家であったことになるが、重要なのは、それも第一条の「天真」に従属すべきものだったことである。

2019年12月11日水曜日

中国美術学院「歴史と絵画」12


1884年から1893年まで10年間、フランスに留学していた黒田はアメリカを経由して帰国、翌1894年、盟友・久米桂一郎と力を合せて画塾・天真道場を開設した。その天真道場の規定は、次のような二条をもって始まる。

  一、当道場に於て絵画を学ぶものは天真を主とす可き事

  一、稽古は塑像臨写活人臨写に限る事

 これまで第二条ばかりが注目されてきたが、まず考察すべきは、当然第一条でなければならない。

天真とは何か。試みに諸橋轍次の『大漢和辞典』を引いてみると、天から与えられた純粋の性、人の本性とあり、杜甫が李白に寄せた詩が引かれ、よく知られる「天真爛漫」という熟語もあげられている。これこそが天真道場の根本精神だったのだが、東洋の文人画ときわめて近い精神が感じられる。

2019年12月10日火曜日

中国美術学院「歴史と絵画」11



長い間、黒田は古典主義と印象派を折衷した外光派アカデミズムを我が国へもたらした画家であり、その決定的要因として、ラファエル・コランとの偶然ともいうべき邂逅があげられてきた。これに対して高階秀爾氏は、まったく新しい黒田像を描き出した。黒田の意図した西欧的構想画は、日本の精神的風土ゆえ、ついに根づかなかったというのである。

 それを認めた上でなお、私は黒田の折衷的な外光派アカデミズムやスケッチ画を積極的に評価したい誘惑に駆られる。それこそ東洋的写実主義であり、日本的洋画だと考えるからである。

2019年12月9日月曜日

中国美術学院「歴史と絵画」10



僕が発表した「黒田清輝の写実と天真」の要旨をアップしておくことにしましょう。フォーラム終了後、プロシーディングが出版されることになっているので、そのための完全原稿も用意して行きましたが、以下はそのレジメです。

これを陸さんが中国語に翻訳して発表してくれたのですが、すでに書いたように、すばらしい翻訳によって、僕の言いたかったことは完全に伝わったようでした。しかも僕が日本語で読むことはやらなかったので、時間の節約にもなりました。

黒田清輝という洋画家は如何なる画家であったのか。彼の美的本質はどこに存在するのか。私の結論を先に述べることが許されるならば、黒田が創り出したのは、日本的洋画であり、東洋的写実主義であり、日本的遠近法であり、東洋的明暗法であった。

2019年12月8日日曜日

五島美術館「美意識のトランジション」4



前者は「華南三彩」と呼ばれ、華南の沿岸部――福建省や広東省で焼成された緑釉磁器、後者は銅緑釉の織部釉を施した織部焼です。カタログ解説によると、後者は前者の蓮池水禽文を模倣した作品だそうですが、緑釉と銅緑釉の間にも何か関係がありそうです。

しかし、その印象はずいぶんと違っています。ここでその違いがどうして生まれたかを考えてみました。唐突ながら、前者に合う料理を考えてみれば、八宝菜か東坡肉、馴染みのあるところではニラレバということになるでしょう。しかし後者にふさわしいのは、京野菜の白和えか小鯛の笹漬け、あるいはほうれん草や小松菜のおひたしです。

つまり、華南三彩と織部の違いがうまれた理由は、両国民が食べる料理の違いによるのだということになります。

ヤジ「またまた美術の話が食い物にいっちゃったみたいだな!!」 


2019年12月7日土曜日

五島美術館「美意識のトランジション」3


たとえば第一部「書跡のトランジション――紙絹をとりまく理想と相克」を見てみましょう。同じ文字なのに、日中でずいぶん違っています。平仮名と漢字の印象が異なるのは当然ですが、詩歌や文章の書き方、あるいは構成の仕方がひどく違っています。
しかし同じ東アジアに生まれ育ちながら、それはなぜなのか、どうしてなのか、何か理由があるのかを僕なりに考えながら見ていきました。それはもう借り物じゃ~ない、僕だけの美術史が誕生したことを意味します――なんていうとカッコいいのですが、日中におけるトランジションの理由をそれぞれ考えるのはむずかしかったので、安易な日中比較という方法に逃げただけの話です。
このような観点からおもしろかった「僕の一点」は、明時代の「三彩蓮池水禽文皿」と、桃山時代の「総織部蓮池鷺文輪花皿」ですね。比較なので「僕の二点」になってしまいますが、ともに愛知県陶磁美術館が所蔵する17世紀の焼き物です。

 
 

2019年12月6日金曜日

五島美術館「美意識のトランジション」2


 
確かにそのとおりです。16世紀から17世紀にかけて、日本を含む東アジアはトランジションの時代でした。いや、地球全体がトランジションの時代だったといってもよいでしょう。6章に分けられた90点ほどの作品を一つ一つ眺めていけば、おのずと腑に落ちるところです。饒舌館長的にいえば、古典主義的な美意識から、バロック的な美意識に大きく転換しようとするトランジションの時代でした。

しかし展覧会というものは、企画者の意図なんか無視して、自分勝手に楽しむことも許してくれる自由なる空間です。本特別展のリーダーである砂澤祐子さんをはじめ、学芸員の方々には申し訳なきことながら、今回僕が勝手に試みたのは、日中の美意識を比べながら見るという、比較美術史的楽しみ方です。五島美術館さん、どうぞお許しください‼

2019年12月5日木曜日

五島美術館「美意識のトランジション」1



五島美術館「美術意識のトランジション 16世紀から17世紀にかけての東アジアの書画工芸」<128日まで>

 きわめて意欲的な特別展です!! 脳みそを活性化してくれる展覧会です!! 世界が自国ファーストに陥っているいま、絶対見なければならないアートショーです!! その趣旨については、充実したカタログの「ご挨拶」をそのまま引用しておきましょう。

織豊時代を経て徳川時代による支配体制が徐々に確立する頃、中国では明時代の終焉を迎え、清朝の興隆とともに東アジア世界に新たな枠組みを生み出しました。西欧にはじまる大航海時代の波は、揺れ動く東アジアの交易圏に旧体制からの転換をせまります。盛んな交易と移り行く社会構造を背景に、爛熟する造形と新鮮な美意識が交錯する16世紀から17世紀は、文化的に見ても過渡的な時代ということができるでしょう。五島美術館では、約400年前まさに渦中にあった東アジアの「トランジション(過渡期)」に焦点をあて、伝来する絵画・書・工芸・典籍の名品から、16から17世紀の美意識の諸相を再考察する展覧会を開催します。


2019年12月4日水曜日

中国美術学院「歴史と絵画」9



暮れなずむ象山の景色をもう少しゆっくり堪能したい気分でしたが、またみんなで会食の予定になっていました。陸さんと急いで戻れば、この日は是非やりたかったパイカルが供されました。前の日はワインだけだったものですから……。しかも中国十大銘酒の一つ蘇州「洋河大曲」の最高ブランド「天之藍」です!! 

ラベルを見ると52度と書いてあるじゃ~ありませんか。もちろん我が家では、40度の「百年の孤独」でも水割りですが、中国では恥ずかしくて、水で割ることなんかできません。もっとも以前と比べると、パイカルグラスがずいぶん小さくなっています。文明が発達すると、人間は酒に弱くなるという持論がまたまた実証されたのです(笑)

バカの一つ覚えで――いや、天皇・年号を加えて三つ覚えくらいかもしれませんが――中国十大銘酒の暗唱を披露すれば受けないはずはなく、日・中・仏・伊・露の国際友好飲み会は、果てることなく続いたのでした(笑)

2019年12月3日火曜日

中国美術学院「歴史と絵画」8



午後はフォーラムをサボって、美術学院の象山キャンパスにある民芸美術館を陸さんに案内してもらいました。その建築が隈研吾作品であることを聞いていたので、どうしても見たかったのです。それはちょっと小高い丘の上にあって、ガラス壁の外を鋼鉄のワイヤで保護するとともに、そこに黒い丸瓦を一定間隔で吊り下げるように構成した、とても個性的な美術館建築でした。

丘の下に古い門がありましたが、そこに使われている瓦と美しく呼応するとともに、地面に敷き詰められた黒煉瓦ともよくマッチしているように感じられました。

民芸美術館といっても、僕たちが柳宗悦の名とともに思い出すような民芸ではなく、現代工芸作家の作品を陳列する現代工芸美術館といった趣でした。

2019年12月2日月曜日

中国美術学院「歴史と絵画」7



僕の「黒田清輝における写実と天真」は、その日午前中の「歴史的現場と芸術的現場」というセッションの最後でした。これまで黒田はラファエル・コランから学んだ外光的アカデミズムを日本に持ち帰ったという通説と、コランから学んだのはしっかりとした思想と骨格をもつ構想画で、これを移植しようとしたが日本の精神的風土に阻まれたのだという高階秀爾説がありました。

これに対し僕は、黒田がフランスから帰国後、久米桂一郎とともに開いた画塾「天真道場」の「天真」にこそ、彼の絵画的理想は披瀝されているのだという持論を発表したのです。これまた妄想と暴走かな(笑)

東京藝術大学に留学中の陸陽さんが要旨を中国語で読み上げ、そのあと僕がスライドを写しながらコメントを加え、それを陸さんが中国語に翻訳するというやり方で進めましたが、僕の日本語発表を省いたのは大正解だったと思います。

何しろ許された発表時間が、20分ととても短かったのです。とくに饒舌館長にとっては……(笑)

2019年12月1日日曜日

新潟県漢詩連盟ご一行様来館



 ちょっとエントリーが遅くなってしまいましたが、さる11月7日、静嘉堂文庫美術館「入門 墨の美」展を、新潟県漢詩連盟の方々が遠路はるばる観光バスで見にいらしてくださいました。こんなうれしいことはありません。すでにアップしたように、新潟は諸橋轍次先生のふるさとです。来館の皆さんが諸橋轍次博士記念館のため協力を惜しまないことに、心からの感謝を捧げたいと存じます。

浦木学芸員担当の展示を堪能の上お帰りくださいましたが、間もなく、会長の目耕斎佐藤海山さんから、墨痕淋漓たる丁重なお手紙をいただきました。畏れ多くも「河野元昭館長斧正」と款された七言絶句「三訪静嘉堂」とともに……。門を入って静嘉堂に至る坂道が髣髴としてきます。僕の戯訳とともに紹介させていただきましょう。

三徑未紅周鬱蒼  まだ紅葉[もみじ]せず静かなる 小道の周りは鬱蒼と……
豁然出現静嘉堂  パッと開けて突然に 出現したる静嘉堂
宛如金磬踏砂利  砂利踏み行けば「打石」[うちいし]とう 楽器の音によく似たり
一鳥飛翔庫上望  文庫の上を悠々と 飛び去る鳥を眺めてた  

静嘉堂文庫美術館WSと徳川景山の詩2

暮れなずむころ帰宅すれば、猫のひたいほどの庭の白梅が、いまを盛りと咲き誇り、馥郁とした香りを放っています。僕の前に住んでいた西尾さんが植え遺していってくれた銘木です。さっそくダイニングルームからガラス越しに眺めながら、銘酒「百年の孤独」を一杯やれば、あぁ至福のひと時!とはこの...