2021年5月31日月曜日

ミネアポリス美術館副館長マシュー・ウェルチさん1

先日、サントリー美術館で開催中の特別展「ミネアポリス美術館 日本絵画の名品」を紹介いたしましたが、いまミネアポリス美術館の副館長をつとめているのはマシュー・ウェルチさんです。かつて大変お世話になったことがある日本美術研究者にして友人です。

はじめてマシューさんに会ったのは1983年晩秋のアメリカ――ニューオーリンズ美術館で、カート・ギターさんの日本絵画コレクション展「ミリアッド・オブ・オータム・リーブス」が開催されたときでした。「錦秋万葉展」とでも訳せばいいかな?

 それに合わせて日本絵画国際シンポジウムが企画されましたが、そのコーディネーターはカンサス・ローレンスにあるカンサス大学の美術史学教授スティーブ・アディスさんでした。 

2021年5月30日日曜日

辻惟雄『日本美術の歴史』と沢村忠13

 

東大停年の年と、古稀を迎えた年に、辻さんをお神輿にし、二十人ほどで中国に出かけた。江南と敦煌・龍門を訪ねたのだが、辻さんのよき選択のお陰で、みんな研究上の大きな示唆を得るとともに、とても楽しい旅行となった。辻さんは日本美術史家だが、中国美術に対する関心も大変強い。行く先々でそれに深く感じ入った。

その根底には広く美術、いや文化、もっと言えば人間に対する強烈な好奇心があるのだろう。辻さんの重要な仕事のもう一つに、<あそび>と<かざり>と<アニミズム>をキーワードにした日本美術特質論がある。すぐれた好奇心がなければ、このような発想が生まれるはずはない。傘寿を迎えた辻さんが、MIHO MUSEUM館長として素晴らしい展覧会を連発しているのも、この好奇心ゆえにちがいない。

2021年5月29日土曜日

辻惟雄『日本美術の歴史』と沢村忠12

 


チョット前に自分が仲人をした教え子に、「もうそろそろ君も身をかためた方がいいよ」と言う。横須賀線にコートを忘れたというので、一緒に東京駅の遺失物係に行ったら、向こうから辻さんに挨拶をしたことがあった。辻ディジーズは感染力が結構強く、このごろ僕もよく感染する。もっとも感染ではなく、年のせいかもしれないのだが……。

辻ディジーズ物語はほとんど無数にある。辻さんが東京大学を停年になったとき、弟子が集まって献呈論文集『日本美術史の水脈』を編集した。その付録に、国内編と海外編に分けて「辻ディジーズ物語」を載せようという案も出たが、そっちの方が分厚くなりそうなので取り止めになった。

2021年5月28日金曜日

辻惟雄『日本美術の歴史』と沢村忠11

 

辻惟雄さん――東京文化財研究所に在籍するあこがれの研究者だった。昭和四三年、辻さんは『美術手帖』に「奇想の系譜――江戸のアヴァンギャルドたち」を連載し始めた。岩佐又兵衛に始まる江戸時代表現主義者の評伝と作品紹介が、きわめて刺激的だった。僕は美術史の大学院に入ったものの、これを一生の仕事にするかどうかも決まらず、まだふらふらしていたが、この学術的エッセーが迷いを断ち切ってくれた。

辻さんは日常の細かいことに一切拘泥しない。実に大らかである。大らかすぎて、忘れ物や勘違いはしょっちゅうだから、これを称して「辻ディジーズ」という。地下鉄の券売機で買ったばかりの切符が、改札口のところに来るともうなくなっている。

2021年5月27日木曜日

辻惟雄『日本美術の歴史』と沢村忠10


 この間、小川敦生さんの著書『美術の経済』を紹介しましたが、10年ほど前、日本経済新聞の美術記者であった小川さんから、「交遊抄」というコラムに誰かを取りあげて書いてほしい、字数は500字くらいでというオファーをもらったことがあります。

 そこでさっそく辻惟雄さんにご登場いただくことにして、書き出したら約束の字数を大幅に越えてしまいました。なかなかうまく圧縮できないので、それをそのまま小川さんに渡して、適当につまんで使ってくださいとお願いしました。小川さんがみごとにまとめ「辻ディジーズ」と題した記事は、2011108日の日本経済新聞に載りましたが、ここではモトゲンの方を紹介することにしましょう。 

2021年5月26日水曜日

辻惟雄『日本美術の歴史』と沢村忠9

 

いま私は『20世紀年表』(毎日新聞社)を引っ張り出し、昭和43年のページを開いて写真を眺めている。もちろん圧倒的に多いのは<政治的>イメージの方だが、それらに混じって、ピンキーとキラーズ、寺山修司、沢村忠、高倉健と藤純子、コント55号、永井豪『ハレンチ学園』、つげ義春『ねじ式』、橋本治「とめてくれるなおっかさん……」などの写真が目に入る。

それらは単に懐かしいだけではない。振り返ってみると、因習の破壊であり、新しい文化の誕生だったことが再確認される。『奇想の系譜』は、このような日本社会における大きな変化の潮流に棹差すようにして生まれ出たのだった。いや『奇想の系譜』は、その大きな変化を生み出すのに与って力あった、すぐれた知的結晶の一つだったという方が正しいであろう。

 ヤジ「なんだ、気をもたせておいて、たったそれだけのことか!!

いや、決してそれだけのことじゃ~ありません。沢村忠さんもプロレス中心のショー的格闘技に、革命を起こしたリヴォリューショナリー・アスリートだったと思います。いずれにせよ、評伝「奇想の系譜」が書かれたのは昭和43年、今年は昭和96年ですから、もう半世紀以上が経っているんです(⁉)

2021年5月25日火曜日

辻惟雄『日本美術の歴史』と沢村忠8

 


辻惟雄さんが評伝「奇想の系譜――江戸のアヴァンギャルド」を『美術手帖』に連載したのは昭和43年(1968)、選ばれたのは岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、歌川国芳の5人でした。その2年後もう一人長沢芦雪が加えられ、蕭白描く奇妙な寄り目の墨龍が表紙を飾る『奇想の系譜』(美術出版社)が出版されたのでした。

僕はこの本がいかに革命的であったかを述べたあと、しかしそれは当時の日本社会の反映でもあったことを指摘し、つぎの文章を締めくくりにしたのです。


2021年5月24日月曜日

辻惟雄『日本美術の歴史』と沢村忠7

こういう場合、監修者というのは独断と偏見で、自分が書きたい章をまず決めてしまうことが許されています(!?) それまで辻惟雄さんが創出した「奇想の画家」については、あまり概説をやったことがなかったので、ぜひ書きたいと思い、みんなと相談することもなく最初に僕が取っちゃったんです。

 しかし奇想派の概説については、簡にして要を得た名論卓説がたくさん発表されていました。それを繰り返してもおもしろくないので、辻惟雄さんの『奇想の系譜』に的をしぼることにしたのです。 

2021年5月23日日曜日

辻惟雄『日本美術の歴史』と沢村忠6

というわけで、『朝日新聞』で沢村忠さんの死亡記事に触れたとき、あの雄姿がよみがえるとともに、深く哀悼の意を捧げずにはいられませんでした。合掌

 ヤジ「そんなことはどうでもいいから、なぜ辻さんの名著と沢村忠なんだ?」

2007年、平凡社から、『別冊 太陽』<日本のこころ>150号特別記念号として『江戸絵画入門 驚くべき奇才たちの時代』という1冊を出したいので、監修をやってほしいというオファーがかかりました。

 もちろん喜んでお引き受けし、流派ジャンル別に構成することとし、6人の専門家に分担執筆をお願いしました。



 

2021年5月22日土曜日

辻惟雄『日本美術の歴史』と沢村忠5

沢村忠さんは昭和40年代、大ブームとなったキックボクシングのチャンピオンであり、スーパースターであり、国民の熱い視線を一身に集めたアスリートでした。ネットで調べると、1973年ーーつまり昭和48年、沢村さんは「日本プロスポーツ大賞」を受賞しています。しかしこの年は、のちに国民栄誉賞を受賞する王貞治さんが三冠王に輝いているんですよ!! それを抑えての受賞ですから、沢村さんの人気がいかに高かったが分かります。

もちろん僕も、毎週のようにテレビで見て興奮し、応援していました。昭和20年代から30年代にかけて沸き起こった力道山ブームほどではなかったかもしれませんが、ものすごいブームであったことは疑いありません。

しかも僕が所帯をもったあと、女房の兄と沢村さんが青山小学校で同級であり、本名が白羽秀樹というキックボクサーらしくない名前であることを知ったとき、なぜか親しみの情がいや増すのを感じないではいませんでした。


2021年5月21日金曜日

辻惟雄『日本美術の歴史』と沢村忠4

 

そのマッキイロに合わせた補訂版の腰巻には、「縄文からマンガ・アニメまで第一人者による書下ろし通史 最新研究動向をふまえて記述をアップデート、収録作品もさらに充実。オールカラー。」とあります。語句の終りは「、」や「。」じゃ~なく、「!」や「!!」や「!!!」の方がよかったと思いますが()、改めて皆さんにおススメするゆえんですね。

しかしこの「饒舌館長」のタイトルに、沢村忠さんが登場することを見て、「なんだこりゃ?」と思った方も少なくないでしょう。もちろんワケがあります。さる326日、沢村忠さんが亡くなりました。僕と同じ1943年生まれ、享年78、ちょっとショックでした。沢村忠といっても、いまの若い方は知らないでしょう。知っているとすれば、漫画やアニメの「キックの鬼」の方かもしれません。

2021年5月20日木曜日

辻惟雄『日本美術の歴史』と沢村忠3

さらに中国語版も刊行されたとのことです。中国では、日本美術を中国美術の一地方様式くらいに思っている人が少なくないように思います。しかし、決してそうではありません。そうではないないどころか、中国美術の影響を受けつつも、それとは異なる美的特質があることを、本書が広く認識させてくれたにちがいありません。

現在、日中関係はきわめてむずかしい段階に差し掛かっているように思いますが、本書の中国版が、これまで以上に重要な文化大使としての役割を果たしてくれるよう、心から祈って止みません。

 阿修羅像と岡本太郎の「痛ましき腕」と横尾忠則の「お堀」を大きくアレンジした横尾忠則さんの表紙も衝撃的でした。その表紙の背景は、いかにも横尾さんらしいマッキイロなのです。 

2021年5月19日水曜日

辻惟雄『日本美術の歴史』と沢村忠2

 

『日本美術の歴史』は空前にして絶後なる日本美術史本として、出版と同時に話題を集め人気となりました。お堅い本が多い東京大学出版会にあっては、ベストセラーになったのではないでしょうか。あの『奇想の系譜』を著わした辻惟雄さんの、<奇想>ではない本というもの理由の一つでしょう。

もちろん僕もすぐ拝読しましたが、「さすが辻さんはすごいなぁ、これは誰にも書けないなぁ、もちろん俺には書こうと思っても書けないなぁ」というのが、率直な読後感でした。

だからこそ、本書の翻訳版が間もなく出ることになったのでしょう。あとがきの「補訂版の刊行に際して」によると、「饒舌館長」にも登場してもらっているニコル・ルマニエルさんの熱意により、2018年、東京大学出版会から英語版が出版され、翌年、コロンビア大学出版部よりペーパーバックの普及版が実現したそうです。

2021年5月18日火曜日

辻惟雄『日本美術の歴史』と沢村忠1

辻惟雄『日本美術の歴史』<補訂版>(東京大学出版会2021)と『奇想の系譜』(美術出版社1970)と沢村忠

 辻惟雄さんが16年前に出版して洛陽の紙価を高めた『日本美術の歴史』の補訂版を送ってくださいました。「かざり」「あそび」「アニミズム」という辻イーセティックスによって書き下ろされた本書は、通史でありながら個性的であり、個性的でありながら通史としてとてもよくまとまっています。

 しかも、教科書としても使える1冊をという、東京大学出版会の要請にしっかり応えています。もっとも、僕が尚美学園大学で教えていたころ、教科書に指定したのは、同じ辻さんが監修した『カラー版 日本美術史』(美術出版社)の方でした。なぜかって? 『カラー版』の方が安かったからですよ(⁉)


2021年5月17日月曜日

東京藝大美術館「渡辺省亭」展8

 


「僕の一点」は、もちろん静嘉堂文庫美術館が誇る渡辺省亭原画・濤川惣助作「七宝四季花卉図花瓶」ですね。カタログ解説に「省亭の原画を無線七宝の技術で華麗に再現した濤川惣助による七宝制作の花瓶のなかでも、ほかに類例を見ない豪華な一品」とあるとおりです!!

2018年、明治維新150年を記念して、静嘉堂文庫美術館では「明治からの贈り物」展を開催しました。もちろんこの花瓶も出陳したのですが、皆さんからも「いいね!」をたくさん頂戴しました。上の写真は、そのとき中村剛士さんがブログ「青い日記帳」にアップしたものです。その企画展を思い出しながら、東京藝術大学美術館のギャラリーで、燦然たる光輝を放つ我が名品に、改めて見ほれたことでした。

ところで、「次はこれだ! 知られざる日本美術の名匠」というのが、本渡辺省亭展のキャッチコピーです。すでにアップしたことがあるように、伊藤若冲のあとは長沢芦雪だという説と、鈴木其一だと見立てがあって、二人で跡目争いをやっていましたが、今回あらたに渡辺省亭が加わることになったわけです。これから若冲の後釜をねらって、熾烈な三つ巴合戦が繰り広げられることでしょう()

2021年5月16日日曜日

東京藝大美術館「渡辺省亭」展7

 

この全生庵幽霊画コレクションのなかに、渡辺省亭の「幽女図」があるんです。モウモウと煙をあげる火鉢の傍らで、一人の女性が顔を片袖で覆いながら、泣き崩れているところを描いています。

多くの幽霊画が、恐ろしい顔や気持ちの悪い表情を描いて、見る人の恐怖心を掻き立てようとしているのに対し、省亭の「幽女図」は妖艶にして清々しいのです。幽霊が清々しいなんてチョット変ですが、うそじゃ~ありません。あるいは煙から浮かび上がった女性のようにも見えますから、ここにも反魂香のイメージを読み取るべきなのでしょうか。いずれにせよ、近代幽霊画のベストワンだと思います。

僕が東京藝術大学大学美術館をお訪ねしたとき、「幽女図」は出ていませんでした。ほかにどんな作品がでるんだろうと出品リストを眺めたら、後期に出陳されることがわかって、あの全生庵円朝旧蔵幽霊画展と、うまかった谷中のお蕎麦屋さんを思い出したのです()

2021年5月15日土曜日

東京藝大美術館「渡辺省亭」展6


それだけじゃ~ありません。あるとき妖怪学の権威・小松和彦さんから、編集中の『怪異の民俗学6 幽霊』(河出書房新社)に、僕の拙文を再録させてほしいという依頼がきました。これまた喜んでOKし、先の山下裕二さんが指摘した応挙筆「反魂香図」の件を、「後記」として加筆することにしました。

 出来上がって送られてきた460ページもある本を見ると、巻末に中本剛二さんによる「収録論文改題」がついていて、僕の拙文が柳田國男や池田弥三郎、鶴見俊輔の論文といっしょに取り上げられているじゃ~ありませんか。恐れ多いやら恥ずかしいやら――しかしやっぱりうれしかったかな() 

2021年5月14日金曜日

東京藝大美術館「渡辺省亭」展5

 

応挙にこのような「反魂香図」があれば、応挙の幽霊図に反魂香のイメージが付きまとっていることは当然で、僕がくどくどと証明する必要などまったくなかったのです。「しまった!!」と思いましたが、むしろ山下さんが応挙の「反魂香図」を指摘してくれたお陰で、推論の正当性が実証されたのだ!!と居直ることにしました。

 ヤジ「この間から居直ってばかりじゃないか!!

僕の拙文はともかく、辻惟雄さんをはじめ、錚々たる執筆陣の文章を編集して、ぺりかん社から豪華図録『全生庵蔵・三遊亭円朝コレクション 幽霊名画集』が出版されたのは、19957月のことでした。妖怪ブームも与って力あったのか、本書は好評裡に迎えられ、間もなく普及版が出版されるとともに、現在では「ちくま学芸文庫」にも収められて、広く読まれています。執筆者の一人として、じつにうれしいことです。

2021年5月13日木曜日

東京藝大美術館「渡辺省亭」展4

 

この拙論の主旨は、応挙の美しい幽霊には、たけば死者の姿を煙の中に現すというお香として知られる「反魂香」のイメージ、つまりそのもとになった漢の武帝の寵愛を一身に集めた李夫人のイメージが内包されているというものでした。久渡寺の「反魂香之図」というタイトルをもとに、いろいろな資料を使って証明し、我ながらよくできた一文だと悦に入っていました。

ところがその後、山下裕二さんが『別冊太陽』98<幽霊画の正体>に「応挙の幽霊から――幽霊イメージの誕生と流布」を寄稿し、恩賜京都博物館編『応挙名画譜』に、李夫人を描いた応挙の「反魂香図」が載っているということを指摘したのでした。応挙研究の基本図書ともいうべきこの画集は、もちろん僕も持っていたのですが、そのときは開きもせず、完全に失念していたのです。

2021年5月12日水曜日

東京藝大美術館「渡辺省亭」展3

 

それまでぜひ拝見したものだと思いつつ、実見の機会はなかなか得られませんでした。それというのも、これは秘仏のような作品で、毎年旧暦の518日に1時間だけ公開されることになっていたからです。いつも時間の調整がつかず、ついに見ないままにきてしまっていました。これを見ずして、応挙の幽霊なんて書けるわけがありません。

しかしオファーがかかったあと、弘前大学の須藤弘敏さんが、青森県の文化財調査の一環として、これを調査するという情報がもたらされました。僕は無理を言って調査の一行に加えてもらい、ただこの一点を見るために、羽田から弘前へ向かったのでした。

予想に違わず、久渡寺の応挙筆「反魂香之図」は大変興味深い作品でした。実際にこれを詳しく調査できたおかげで、僕は「応挙の幽霊――円山四条派を含めて」という一文をまとめることができたのです。

2021年5月11日火曜日

東京藝大美術館「渡辺省亭」展2


その幽霊画を1冊の本にまとめて出版しようというのですから、こんな心躍るプロジェクトはほかにないでしょう。辻さんに是非やらせてくださいと、こちらからお願いしたことは言うまでもありません。

僕がその展示を見に行ったもっとも大きな目的は、研究対象の一人であり、尊敬して止まない画家・円山応挙の「幽霊図」が、必ず出るからでした。そのことを辻さんにしゃべったことがあったかどうか、記憶が定かではないのですが、応挙の幽霊図について書いてほしいというのが、辻さんからの依頼でした。しかし応挙の幽霊図についてまとめるとなると、弘前市の久渡寺が所蔵する、有名な応挙の優品「反魂香之図」を見ないわけにはいきません。

 

2021年5月10日月曜日

東京藝大美術館「渡辺省亭」展1

東京藝術大学大学美術館「欧米を魅了した花鳥画 渡辺省亭」<523日まで>

 渡辺省亭――僕にとっては「幽霊画家」です(!?) いま東京藝術大学大学美術館で開催されている渡辺省亭展のサブタイトルは「欧米を魅了した花鳥画」ですが、僕にとって省亭といえば幽霊画なんです!! というのは、1994年のはじめ、辻惟雄さんから谷中・全生庵で所蔵している幽霊画の図録を作るから、チョット手伝って欲しいというオファーがかかりました。

 1900811日に没した三遊亭円朝の忌日に合わせて、菩提寺である谷中・全生庵では、円朝忌の法要と円朝祭りが行なわれます。そのとき、円朝が蒐集して全生庵に寄贈したという幽霊画の展覧会が行なわれるのです。かつて東京国立文化財研究所につとめていた僕は、円朝忌になると、谷中のお蕎麦屋さんで昼飯を取りがてら、毎年のようにそれを見に行きました。 

2021年5月9日日曜日

虎吉社長その後

 


 先日、ノラネコ虎吉社長が5ヶ月ぶりに姿を現したので、驚くやら、ケナゲに生きていたのかと安心するやら、家族で大騒ぎなったことはアップしたとおりです。ところが、虎吉が雄姿を見せたのは2日間だけ、そのあとまたプッツリと音信不通になってしまいました。5ヶ月前に比べると、肉付きも豊かになり、毛並みも色艶がよくなるとともに、顔つきもノーブルになっていたので、よっぽどいいパトロンを見つけたにちがいないと思われました。

そこで中国・南宋の貧乏ネコ詩人・陸游の「粉鼻」という、調子のいいネコを揶揄した七言詩を紹介したというわけです。虎吉も「懐かしくなって、2日間ここのメシを食いに来たけど、やっぱり向こうの方がワンランク上で旨いや」と思って、もう来なくなったんでしょう。

「虎吉、けっして恨みなんかしないから、どうぞそちらで幸せにお暮らしください❣❣❣」

 そのとき虎吉の写真をアップしたら、FBフレンドの矢野尾さんが絵にして送ってくれました。すごく感じがよく出ているので、いまはどこかで安穏に暮らしている虎吉を思いやりながら、紹介させてもらうことにしましょう。

2021年5月8日土曜日

端午の節句2021 4

 

   中唐・殷尭藩「端午の日」

 若い時にはお節句で 華やぐ気分になったけど

 歳とりゃ深い感慨が 生ずることを誰が知る

 ヨモギの人形 門口に 飾る習慣 無視しつつ

 菖蒲酒[しょうぶざけ]飲み世の平和 語り合いたいじっくりと

 左右の鬢[びん]は白くなり 日ごと日ごとに目立ちだす

 錦手[にしきで]みたいなザクロだけ 毎年おなじに実るけど……

 千年からみりゃ人生は 賢者も愚者も一瞬で

 人はほとんど忘れられ 名を残すのはわずかだけ

2021年5月7日金曜日

端午の節句2021 3

 


もちろん中国では、端午にヨモギ酒を飲んで不老長寿を祈念したのでしょうが、僕はコロナに罹らないようにするため、作って飲むことにしたというわけです。これまで端午の節句には、毎年菖蒲酒ばかりでしたので、ヨモギ酒は初体験でしたが、来年はチャンとしたヨモギ酒を作ってみたいと思います。

ところで端午の節句といえば、それを詠んだすばらしい漢詩――殷尭藩の「端午の日」が思い出されます。殷尭藩はマイナーな中唐の詩人で、愛用する『中国学芸大事典』にも出てきませんが、この七言絶句は僕のような後期高齢者にとって、とくに感慨深いものがあります。

この詩では、ヨモギ酒ならぬ、ヨモギ人形が季語の一つになっています。漢詩に季語なんてないと思いますが() 去年もエントリーしたはずですが、ちょっとバージョンアップした戯訳で……。

2021年5月6日木曜日

端午の節句2021 2

昨日生まれてはじめてヨモギ酒をやりました。近くに住むメリーウィドーを呼んで、家族でカッパ寿司パーティをやった夕方に……。

 ヤジ「人を呼んでおいて、カッパ寿司なんかでやるな!!

菖蒲酒と同じように、焼酎にヨモギの葉を浮かべて飲んでみたのですが、どうということはありませんでした。それもそのはず、ネットで「ヨモギ酒の作り方」を検索すると、干したヨモギかヨモギ茶を焼酎に1ヶ月ほど漬け込まなくてはダメなんです!!

 ついでにレディーメイドのヨモギ酒もあるんじゃないかなと思って検索したら、やはりありました‼ 「蓬」というブランドで、ヨモギ草を漬け込んだリキュールとして出ていました。ともかくもネットというのは、便利この上ない怪物ですね!! 

2021年5月5日水曜日

端午の節句2021 1

 

 今日は55日――端午の節句です。このゴールデンウィークは、コロナのお陰で()静嘉堂文庫美術館も閉館になっていて、出勤の要もありません。その静嘉堂文庫の初代文庫長は重野成斎、名は安繹[やすつぐ]という歴史家にして漢学者です。以前から仰ぎ見ていましたが、このところとみに尊敬の念が増してきて、ゴールデンウィーク中は一杯やりながら、もっぱら成斎の著述や関連資料を読んで過ごしました。

端午の節句を迎えた今日は、かつて中国でこの日に飲んだという艾酒[がいしゅ]――ヨモギ酒を試みようと思っています。昨日散歩がてら摘んできたヨモギも冷蔵庫でスタンバイしています。市役所裏の公衆トイレの横に生えていたんです() 

植木久行さんの『唐詩歳時記』には、『金門歳節記』という書物に、「洛陽では『端午、朮羹[じゅっこう]・艾酒を作る』とあるので、艾草[よもぎ]の酒もあったらしい」と書かれています。

2021年5月4日火曜日

サントリー美術館「ミネアポリス美術館 日本絵画の名品」5

言うまでもなく、そのあたりのご馳走はアメリカンビーフのぶ厚いステーキと、カリフォルニア・ワインですが、痛風病み上がりの身としては控えざるをえません。みんな美味しそうに食べ、ガンガンやっているのに、僕一人だけが、パンとサラダとミネラル・ウォーターだったんです()

さて、最終日の前日、カート・ギターさん驕りのディナーからホテルに戻ると、小林忠兄から、明日シンポジウムの最後に、コメントをやってくれというメッセージが入っていました。話が違うじゃないか、急に言われたって無理ですよなんていうのは、日本美術史プロとしての沽券に関わります。

それから午前までかかって、Classism in Japanese Art of Early Edo Period なる英作文を試み、これにアドリブを加えて翌日しゃべったのでした。文字通りのドロナワでしたが、ともかくも準備できたのは、痛風のおかげで一滴も飲んでいなかったからでした(!?)

 

2021年5月3日月曜日

サントリー美術館「ミネアポリス美術館 日本絵画の名品」4

シンポジウム終了後、近くのハンフォードにあるクラーク日本美術研究センターで、コレクションを調査する時間が用意されており、もちろんこの「阿国歌舞伎図屏風」もそのなかにあって、とても興味を掻き立てられました。その日のことをサントリー美術館の会場で思い出したのです。

もっとも、この国際シンポジウムは別の意味でも忘れることができません。というのは、この直前、愛媛大学で開かれた美術史学会全国大会で、伊予の銘酒「梅錦」をしこたまやったのが悪かったらしく、現地で痛風の発作を起こし、まだ完治していなかったからです。生まれて初めての発作でした。

診てもらっていた東京女子医大・膠原病リウマチ痛風センター教授の山中寿さんから、再発作が起こりそうになったときの特効薬・コルヒチンをもらって、恐る恐る参加したシンポジウムだったからです。

 

2021年5月2日日曜日

サントリー美術館「ミネアポリス美術館 日本絵画の名品」3


 又兵衛工房や寛永時代の熱気やエネルギーはすでに沈静化して、引用によるソフィストケーションの効果に僕たちの関心が向く点からみると、制作年代は寛文年間から元禄時代に近いころでしょうか。

 先にあげたエリザベス&ウィラード・クラーク・コレクションの逸品だったこの「阿国歌舞伎図屏風」を、サントリー美術館で眺めていたら、19996月、カリフォルニア・ヴァイサリアのラディッソン・ホテルで開かれた「クラーク日本美術国際シンポジウム」がおのずと思い出されました。

クラーク夫妻が、親しかった小林忠さんにコーディネーションを依頼して、この国際シンポジウムを企画し、僕まで招待してくれたのです。しかも発表する必要はなく、ただ参加してくれればいいという、アシアゴ付きのじつに美味しい話でした(!?)

2021年5月1日土曜日

サントリー美術館「ミネアポリス美術館 日本絵画の名品」2

 


「僕の一点」は61隻の「阿国歌舞伎図屏風」ですね。中心をなす阿国歌舞伎の舞台が、左半分に大きくとらえられています。お馴染みの男装した阿国が、茶屋のおかかに戯れかかる「茶や遊び」のシーンです。

カタログ解説を担当した池田芙美さんは、舞台背後の囃子方女性たちの姿が、「歌舞伎図巻」(徳川美術館蔵)や「遊女歌舞伎図」(出光美術館蔵)のそれらと酷似しており、先行する初期歌舞伎図から図様摂取を行なっていることを指摘しています。

また、遊女に抱きつく男や、誘惑しようとする男たちとそれに応える女たち、桜の木の下で踊り狂う人々など、舟木本「洛中洛外図屏風」(東京国立博物館蔵)や個人所蔵の「花見遊楽図屏風」が、イメージ・ソースとして使われていること、つまり岩佐又兵衛工房の粉本を利用することができた絵師の彩管になる可能性を提示しています。すべて肯綮にあたる指摘だといわねばなりません。

ブータン博士花見会4

  とくによく知られているのは「太白」里帰りの物語です。日本では絶滅していた幻のサクラ「太白」の穂木 ほぎ ――接木するための小枝を、イングラムは失敗を何度も重ねながら、ついにわが国へ送り届けてくれたのです。 しかし戦後、ふたたび「染井吉野植栽バブル」が起こりました。全国の自...