2018年1月31日水曜日

静嘉堂文庫美術館「歌川国貞展」10


また、美人そのものを描くのではなく、鏡に映った美人の姿を描くという、国貞の「今風化粧鏡」のマニエラは、初代豊国が大変強い影響を受けた喜多川歌麿に求められます。歌麿の「姿見七人化粧」がそれです。国貞はこの歌麿画を見て、「今風化粧鏡」のヒントを得たにちがいありません。

このほかにも、国貞は歌麿からとても大きなインスピレーションを与えられています。たとえば、「江戸自慢 五百羅漢施餓鬼」に見られる、蚊帳を通して人間をみるという手法は、早くから歌麿が愛用するところでした。初代豊国を中心として、たくさんのマニエラが国貞の前には用意されていたのです。そのようなマニエラを使いながら、独自の浮世絵世界を創り出した国貞は、傑出したマニエリスムの画家でした。

しかし実は、国貞だけでなく、19世紀に活躍するすぐれた浮世絵師は、ひとしなみにマニエリストだったのです。そのようなマニエリスムは、葛飾北斎にも、歌川広重にも看取されます。しかし新しい風景版画よりも、長い伝統を誇る美人画や役者絵の方に、より一層顕著にうかがわれるのは、不思議でも何でもありません。しかし、こんな国貞マニエリスム論を臆面もなくやっていると、どこからかお叱りの声が飛んできそうな気がします。

「お前は何でもかんでも、日本の19世紀美術はマニエリスムだと繰り返し吠えているが、それこそマンネリズムだ!!


2018年1月30日火曜日

静嘉堂文庫美術館「歌川国貞展」9


屏風の陰にいる客と艶やかな夢を見た遊女は、緋鹿の子の長襦袢を羽織って立ち上がり、行灯の灯心をかきたてています。行灯の上部から漏れる光は、遊女の顔を浮き上がらせながら、放射状に広がっていきます。それが巧みな雑巾ぼかしによって、表現されていますが、このマニエラは、初代豊国の「風流七小町略姿絵」シリーズの「かよひこまち」に求められます。

二人の美人が棒の先につるした提灯をもって夜道を歩くシーンで、その提灯から漏れる光が、国貞の「行灯」と同じように、雑巾ぼかしで表現されているからです。明らかに国貞は、この初代豊国の作品をマニエラとして使っているんです。

もちろん、国貞がより一層エロティックな雰囲気を強め、遊女の饐えたような体臭まで漂わせて、独自の世界を創り出していることは、いうまでもありません。しかし、初代豊国の「かよひこまち」がマニエラとなっていることは、否定できないことのように思われます。あるいは、これと異なるマニエラがあった可能性も残りますが、マニエラが存在したという事実を否定することはむずかしいでしょう。


2018年1月29日月曜日

静嘉堂文庫美術館「歌川国貞展」8


もちろん、このような西洋美術史の様式を用いて、それとの共通性を求めようとするときは、多くの陥穽が待ち構えています。西洋の概念を、安易に東洋に当てはめるべきではないという警告も発せられています。そもそも、そんな実証には何の意味のないという醒めた意見もあります。

しかし、物事の類縁性を探すことは、区別や分類とともに精神的快楽であり、人間が大昔からやってきたことなのです。そして表面的な、あるいは現象的な相似性の背後に、影響関係や共通原理が見出されるとすれば、そこには重大な意味が存在することになります。実を言うと、ヨーロッパにおけるマニエリスム論の展開は、このような類縁性発見の旅だったように思われるのです。

国貞にとって最良のマニエラは師であった初代豊国でした。すべてのマニエラは、初代豊国が用意してくれていたのです。ところで、国貞最高の美人画として人口に膾炙するのは、「星の霜当世風俗」シリーズの「行灯」です。


2018年1月28日日曜日

静嘉堂文庫美術館「歌川国貞展」7


これは美術史学者による様式的解釈ですが、グスタフ・ルネ・ホッケは著書『迷宮としての世界 マニエリスム美術』(岩波文庫 2011年)において、人間が広く有する非合理なものに対する意識下の誘惑を重視しています。これらを知るとき、歌川国貞の芸術がマニエリスム的な性格を秘めていることに、改めて驚くのは私一人ではないでしょう。

国貞芸術がきわめて個性的であることは否定できません。しかし個性的だけなら、国貞をマニエリスムと呼ぶことはできません。

先の若桑みどり先生が、著書『マニエリスム芸術論』(ちくま学芸文庫 1994年)のなかで、「既成の『カノン』を下じきにしていない芸術、自然発生的にひとつの個性から流れ出した芸術は、決してこれをマニエリスムとは呼ばない」と指摘しているように……。いずれにせよ、僕は国貞のすべてを個性と直結させる個性偏重史観から少し距離をおきたいのです。

2018年1月27日土曜日

静嘉堂文庫美術館「歌川国貞展」6


手法や様式、あるいは作風を意味するイタリア語「マニエラ」に由来します。20世紀はじめまでは、古典主義芸術の形式的模倣と否定的に見なされることが多かったのです。しかし第一次世界大戦のころから、盛期ルネッサンス様式からは独立した別種の新様式として、積極的に評価されるようになったそうです。

もともとの語源は同じですが、ある手法や形式をそのまま繰り返して用い、型にしばられて創造性を失うことを指す英語のマンネリズムと間違わないでほしいと思います。

 アーノルド・ハウザー著『マニエリスム』(岩崎美術社 1968年)に付された若桑みどり先生のマニエリスム研究史によれば、マニエリスムに関しては百家争鳴、その解釈や見方もじつにたくさんあるようです。

しかし僕がもっとも共感を覚えるのは、ヴァルター・フリートレンダーの説です。その著書『マニエリスムの成立と展開』(岩崎美術社 1973年)によれば、あまりにも完璧な古典主義様式に対するアンチテーゼとして、おもにイタリアで風靡した反古典主義的様式ということになるでしょう。

2018年1月26日金曜日

静嘉堂文庫美術館「歌川国貞展」5

 20日(土)夕方からは、ブロガー内覧会を企画しました。ゲストは太田記念浮世絵美術館の日野原健司さん、司会役は「青い日記帳」でお馴染みのカリスマブロガー・中村剛士さんです。中村さんは数日まえ左肩を脱臼したとのことで、白い包帯と固定バンドも痛々しく、しかし饒舌館長の頼みは断れませんよと言いたげな感じで駆けつけてくれました。

もちろん成沢さんも加わって、1時間ほどのトークショーが始まりました。参加してくれたブロガーは55名もの方々でしたが、今やすべて「饒舌館長」のライバルです(!?)

国貞は幕末マニエリスムを代表する浮世絵師である――これが私見です。マニエリスムとは、1520年ころからほぼ一世紀のあいだ、ヨーロッパで流行した芸術様式です。盛期ルネッサンスで完成の域に達した古典主義芸術を継承しつつ、それとは異なる新しい表現を志向したのです。おもに絵画において顕著でしたが、建築や彫刻においても垣間見ることができます。

2018年1月25日木曜日

静嘉堂文庫美術館「歌川国貞展」4


現在では、豊重を二代とし、国貞は三代豊国としています。これから、元治元年(1886)79歳で没するまでが、三代豊国時代となります。つまり、デビュー時代2年、五渡亭時代時代20年、偽紫時代15年、三代豊国時代20年となります。これを覚えておけば、国貞のクロノロジーはとても理解しやすくなるでしょう。

19日(金)夕方からプレス内覧会を開きました。34名もの方々にご参加いただき、大きな手ごたえを感じながら、担当学芸員・成沢麻子さんのギャラリー・トークを一緒に聴きました。

20日(土)は午前中、せたがや3館めぐるーぷの出発式に出席いたしました。五島美術館、世田谷美術館、わが静嘉堂文庫美術館の3館を巡る新ルートを、今日から東急バスが走ることになったのです。申し訳なきことながら、有料なのですが、3館が開館している土曜・休日に走りますので、ぜひご利用いただきたく存じます。

出発式で挨拶を求められた僕は、この「めぐるーぷ」には、「めぐる」と「ぐるーぷ」と「るーぷ」という3つの関連語が入っている――とても素晴らしい名称であり、これだけでも新ルートの成功は間違いなしであると述べて、祝辞としました。平賀源内が回すと蚊が取れる機械につけたという「マースト・カートル」より、ぐっといい名称だといって笑いを取ろうとしたのですが、皆さんまったく笑ってくれませんでした(笑)

2018年1月24日水曜日

静嘉堂文庫美術館「歌川国貞展」3


 国貞が初代豊国に入門したのは156歳のころ、その双葉より芳しい才能は師の特に注目するところでした。国貞のデビューは22歳のとき、これから約2年間がデビュー期です。24歳のとき、大田南畝から五渡亭という号をもらいました。自分で付けたともいわれますが……。いずれにせよ、父の角田肖兵衛が、本所五ツ目の渡し場の株をもっていたからです。26歳の時という説もありますが、これから約20年間が五渡亭時代です。

44歳のとき、柳亭種彦作の合作『偽紫田舎源氏』の挿絵を担当して、その画風が一世を風靡することになります。これから約15年間が偽紫時代です。号は国貞を使い続けていましたが、特に偽紫時代と呼びたいと思います。

59歳のとき、二代豊国を襲名しました。実際は、初代豊国の女婿であった豊重が二代をついていたのですが、国貞は俺こそ本当の二代豊国だと名乗り出て、同門の浮世絵師たちにも認めさせてしまいました。そこで「歌川と疑わしくも名乗り出で 二世豊国ニセの豊国」という狂歌がはやったそうです。

2018年1月23日火曜日

静嘉堂文庫美術館「歌川国貞展」2


講演と見学を終えたあと、土屋さんはかのすし屋通りの一軒に誘ってくれました。雪は霏々として降り、腰まで積もっています。そのなかをタクシーで訪ねたおすし屋さん――名前は忘れてしまいましたが、その味を忘れることはありません。

宴果てて、レトロ感覚にあふれるホテル・ヴィブラント・オタルに戻るとき、タクシーの窓から見えた、これまたレトロ感覚にあふれた銭湯にどうしても入りたくなり、さらに激しく降る雪のなか、ホテルのタオルをもって出かけました。もっとも強く印象に残る銭湯の一つです。土屋さんに訊くと、小樽には今も銭湯がたくさん残っており、その数年まえには、特別展「小樽の銭湯」を開いたそうです。

前置きが長くなってしまいましたが、国貞は初代歌川豊国の門人にして、師匠ゆずりの役者似顔絵や美人画を得意としました。幕末期最高の人気を集めた浮世絵師で、ものすごい多作家でした。吉田暎二氏は、『浮世絵事典』のなかで、次のように述べています。

国貞は初代豊国の門下中での偉才であり、精力家であり、79年の一生の間、その仕事の分量からいえば、おそらく浮世絵画家中での、製作数の最高記録の保持者であろうと思われる。その健筆は一枚絵および数枚続錦絵から、数多い合巻物、秘画、秘戯絵本の数々を描き出している。のちに三世豊国となってからの仕事をも集めれば、おそらく万をもって数えてもあやまりないと思われる。

 

2018年1月22日月曜日

静嘉堂文庫美術館「歌川国貞展」1


静嘉堂文庫美術館「歌川国貞展 錦絵に見る江戸の粋な仲間たち」<325日まで>(120日)

 いよいよ今日から企画展の「歌川国貞展」です。僕にとって国貞つまり三代豊国といえば、まず思い出されるのは、小樽のすし屋通りです(!?) というのは、ちょうど10年前、小樽市総合博物館で、「誠忠義士伝――三代豊国の世界」という特別展が開催されました。

赤穂義士物といえば、何といっても歌川国芳ですが、国貞にも「誠忠義士伝」という54枚の揃い物があります。小樽市総合博物館で所蔵する完全揃いのすべてが公開されるという、少なくとも北海道では新聞にも取り上げられた話題の特別展でした。

在ニュージーランド日本美術調査以来、親しくさせてもらってきた土屋周三館長から講演の依頼を受けた僕は、「浮世絵の美――三代豊国と後期浮世絵」と題して、私見を披露することにしました。

それはともかく、僕は「誠忠義士伝」の昨日摺ったような鮮やかな色彩、超絶技巧ともいうべき彫摺の冴え、シリーズとしての張り詰めたような統一感にすっかり魅了されてしまいました。それまでにも、三代豊国の作品は何度か見ていたわけですが、こんな大シリーズをまとめて見たのは初めてでした。僭越ながら、三代豊国を見直したのです。

2018年1月21日日曜日

千利休と茶の湯6



これを認めた上でなお、我が国の茶の湯に、滅びてしまった中国の古い喫茶文化が大切に守り伝えられていることは、何と興味深いことであろうか。茶を粉末にした抹茶は唐代に起こり、宋代に盛んになった。宋の時代、大きく分けて茶には片茶と散茶があったという。

片茶とは固形茶であり、散茶には葉茶と抹茶が含まれるが、散茶、とくに抹茶が愛好されるようになり、これが宋代の茶を特徴づけることになる。ところが明代に入ると、太祖洪武帝の命を機に、茶葉を煎じて飲む煎茶が流行し、抹茶はほとんど命脈を絶たれてしまう。

一方、我が国では唐宋の茶ともいうべき抹茶が絶えることなく支持されてきた。煎茶は江戸時代に文人の間で流行を見たが、それでも抹茶を用いる茶の湯は広く愛され、現代に至るまで日本文化の一翼を担ってきた。

2018年1月20日土曜日

千利休と茶の湯5


このような書院会所の茶に革命的改変をもたらしたのが、一休宗純に参禅した村田珠光であった。内省的心情や閑寂を最も重視する茶の湯は、余りにも有名な『心の文』に見る「和漢の界を紛らかす」という思想に具体化されている。これを道具に限れば、完璧なる唐物に対し、不完全な和物、つまり人間的な和物を尊重することになる。茶禅一味の思想が内実化されたと言ってもよいであろう。

茶の湯は珠光の弟子たちや、孫弟子ともいうべき武野紹鴎、さらに京都、堺、奈良の茶人たちによって磨きをかけられ、遂に紹鴎の弟子千利休が侘茶を完成することになる。この簡素静寂の境地に最高の美を見出そうとする侘茶は、利休が行き着いた二畳の茶室妙喜庵待庵に視覚化されている。これこそ日本の茶の湯であると誇ってよいであろう。

源泉は中国にあるわけだが、ほとんど我が国独自の文化に変容していると言っても過言ではない。弥生時代以来、我々は中国文化を受け入れ、それを我が国の自然と精神風土の中で日本化をはかり、オリジンとは異なる文化を創り出してきたのだが、茶の湯も例外ではありえない。

2018年1月19日金曜日

千利休と茶の湯4


初め抹茶は薬用とされたようだが、そのもとになった中国では、早く禅宗と結びついていたために、我が国でも禅宗寺院における茶礼として発展することになった。茶禅一味という思想がその基底を支えていた。

ところが、鎌倉末期から南北朝時代に入ると、抹茶は禅林を飛び出す。幕府を中心とする政治権力との結びつきを強めて書院会所の茶となり、これが室町時代へと受け継がれる。中国から輸入された美的道具類――唐物を賞玩する唐物趣味のうちに抹茶も組み込まれたのだが、唐物を所有するのは権力者であった。唐物が権力を担保した。ここに茶の湯は政治的かつ経済的効用を強めることになった。

もっとも、この時代を代表する足利義満が、太政大臣にして征夷大将軍という名実伴う権力者であるとともに、天山道有と号する禅僧であった事実に象徴されるごとく、宮廷と幕府と禅林は結びついていたという方が正しいかもしれない。

2018年1月18日木曜日

千利休と茶の湯3


ツバキ科の常緑低木である茶の木は、中国南部の四川、貴州、雲南など、霧の多い地域の原産である。その地方では紀元前後すでに飲茶の習慣が生まれており、これが茶道の原点であるとされるが、強い反対論があるのはおもしろい。やがて唐の時代を迎えると、喫茶の風習は大いに流行し、都の長安では喫茶店が賑わいを見せ、寺院では座禅を眠気から守るために茶を飲むことが行なわれるようになったという。

そのような喫茶流行の中から、陸羽の『茶経』が誕生したのである。この風習は遣唐使によって我が国にもたらされ、奈良・平安時代を通して宮廷貴紳の間に少しずつ広まっていった。

しかしこれが特に盛んになったのは、鎌倉時代に入ってからであって、その功績は栄西に帰せられる。栄西は中国から茶種か茶苗を持ち帰ったといわれるが、その前に最澄が携えてきたようであるから、むしろ栄西は抹茶法を伝えた恩人として記憶されるべきであろう。それ以前は茶葉を団子状に固めた団茶などが中心であったから、栄西による抹茶の請来が、我が国茶の湯文化を生み、発展させたと言っても過言ではないだろう。

2018年1月17日水曜日

千利休と茶の湯2


 茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序のローマン主義を諄々と教えるものである――と岡倉天心は喝破した。一九〇六年(明治三九年)、英文で『茶の本』を著わした天心は、その本質を「不完全なもの」を崇拝することに見出し、人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てだと規定した。

侘び茶の大成者千利休がまとめたと伝えられる利休百則にある「茶の湯とはただ湯をわかし茶をたてて呑むばかりなり」という一条が茶道の根本であったとしても、天心はそこに哲学的あるいは近代的解釈を施して、欧米の知識人に茶道を理解せしめようと試みたのである。

いや、茶道を通して東洋を理解せしめようとしたと言った方が正しいであろう。近代的西欧思想の洗礼を受け、その信者として育ってきた我々も、天心を通して茶道を理解することになる。

2018年1月16日火曜日

千利休と茶の湯1

 昨秋出版された『國華』1463号は、「千利休と茶の湯」という特集号でした。この分野の研究をリードする熊倉功夫さんに編集をお願いした結果、素晴らしい内容の特集号に仕上がりました。改めて一読をお勧めしたいと思います。
 編集担当となった僕は、「特集にあたって」という巻頭言を書かなければならないハメになったので、グッドチャンスだと思い、茶の湯私感を披露することにしました。小林主幹からは、「アンタのはいつも長すぎるよ」と言われているのですが、つねに内容の紹介というより、私見の紹介ということになっちゃうので、どうしても長くなっちゃうんです(!?) お許しくださいませ。
 裏表2ページを使いましたが、それでもちょっと欲求不満で、厚かましくもさらにちょっと加筆したものをこの「饒舌館長」に紹介させていただきたく、よろしくお願い申し上げます(笑) 特集号の詳しい内容は、[国華]で検索するとHPが出てきますので、そちらでチェックしてくださいね。

2018年1月15日月曜日

前方後円墳15


仙厓にも神道を重視する思想がありましたから、東嶺の神儒仏合一とは、思想的にも結びつくことになります。さらに、神道への傾倒は、仙厓の師祖、つまり先生の先生にあたる古月禅材にまでさかのぼるそうです。

 もし前方後円墳と仙厓の「○△□」を結びつけるとすると、上記の解釈のうち、もっともふさわしいのは、いうまでもなく①ですね。我が国へ仏教が伝来した時期を考えると、②以下の解釈は前方後円墳と関係づけることがむずかしくなります。

先の『前方後円墳』によると、前方後円墳は、○と□ではなく、○と△と□を組み合わせたものであるという考え方の方が、実情に合致しているようです。これにしたがえば、前方後円墳も宇宙の根源的形態としての最も単純な三つの図形を基本としていると、ごくごくシンプルに考えることもできそうです。

 それはともかく、泉さんによれば、上記のごとく「○△□」の解釈に呻吟すること自体、すでに仙厓がこの図に仕掛けた「罠」にはまっていることになるのです(!?)


2018年1月14日日曜日

前方後円墳14


先に仙厓の「○△□」を挙げましたが、これについてもちょっとおしゃべりすることにしたいと思います。これは出光美術館がたくさん所蔵する仙厓義梵の作品のなかでも、一番よく知られた傑作でしょう。しかしこれが何を象徴しているかについては、さまざまな意見があります。畏友・泉武夫さんは、学研版『日本美術全集』23<江戸の宗教美術>にこれを登載し、すでに唱えられている4つの説を紹介しています。

①宇宙の根源的形態としての最も単純な三つの図形。②地水火風空識の六代思想を、地()、水()、火()のみで象徴したもの。③天台、真言、禅の三宗をあらわしたもの。④儒仏道の三教一致を示したもの。

これらに加えて泉さんは、神儒仏合一をあらわしたものではないかと考えています。三島の龍沢寺には、白隠の高弟である東嶺の筆になる「神儒仏三法合図」があって、△が○に、□が○に包摂されるような曼荼羅風図形が見出されるからです。


2018年1月13日土曜日

前方後円墳13


つまり、もの・人・情報のネットワークというシステムをたゆみなく再生産していくために、列島の首長層は3世紀中ごろに大和地域の首長層を中核として、政治的に結びつきました。しかし確実に訪れる首長の死が、そのようなつながりを瓦解させないために創出された観念装置が、前方後円墳であったと広瀬さんは結論付けています。

先に卑弥呼を挙げましたが、推古天皇に匹敵する女帝は中国歴史上存在しませんでした。100年ほどあと、唐に則天武后が現れましたが、比較してみるとおもしろいでしょう。推古天皇がすぐれた天皇であったことは疑いありませんが、則天武后だって善政を行なっているんです。しかし、その後における両者の評価は天と地ほどに異なり、則天武后は悪女の代表みたいになってしまっています。

ここに僕は、中国と日本におけるジェンダー・ギャップの違いを感じざるをえません。誤解を恐れずにいえば、中国は男性中心の社会であり、日本は女性中心の社会、少なくともそれがジェンダーとして、遅くまで残っていた社会でした。則天武后は男性中心の社会によって、評価を下され、おとしめられ続けてきたのです。

もし前方後円墳に関する私見が認められるとすれば、そこには女性中心の日本文化、僕がいうところの手弱女ぶりの日本文化が、早くも顔をのぞかせていることになるのですが(!?)

2018年1月12日金曜日

前方後円墳12


年が明けて新春の3日、僕はしばらくぶりで軽登山靴を履き、これまたしばらくぶりで近くにある長柄・桜山古墳群を訪ねてみました。古墳前期――4世紀の後半に東国で造営されたものとしては、数少ない外部表飾をそなえた畿内様式の前方後円墳で、1号墳、2号墳の2基も残っているんです。壷形埴輪が発掘されているので、保渡田八幡塚古墳とおなじように、外部表飾をもっていたことが明らかです。2号墳の方からは葺石も発掘されたそうです。

住んでいる近くにこのような古代遺跡があることをちょっと誇らしく感じながら、2号墳を背に、冬空にそびえる霊峰富士を仰いだことでした。ここから富士山が美しく望まれるということも、前方後円墳を造った人たちを鼓舞したことでしょう。この長柄・桜山古墳群のことは、広瀬和雄『前方後円墳の世界』(岩波新書)にも、詳しく紹介されています。

一定の領域をもって軍事と外交、イデオロギー的共通性をそなえ、大和政権が運営した首長層の利益共同体が前方後円墳であるという主張に立って著わされた本書は、大変すぐれた解釈の一つでしょう。

2018年1月11日木曜日

前方後円墳11


このような日本人のフレクシビリティーを考えれば、同じ墳墓である方墳と円墳を一つにくっつけちゃうことなど、大してむずかしいことではなかったにちがいありません。少し意地の悪い言い方をすれば、日本人のいい加減さということになりますが、「いい加減は好い加減」なんです!! 

そして重要なことは、単にくっつけただけじゃなく、そこに新しい表現、少し大げさな言葉を使えば、新しい文化が誕生しているということなのです。前方後円墳こそ、その嚆矢をなすものだと言いたいのです(!?)

このような合体ベクトルを形態論的にみれば、仙厓の「○△□」を基底で支えていた思想と結びつけたい誘惑に駆られます。あるいは、古代中国の「河図洛書」も無関係ではないかもしれません。しかしこうなると、もう誇大妄想、我田引水、牽強付会の類かもしれませんが、考古学の醍醐味はここにこそ存在するように思います。

 

2018年1月10日水曜日

前方後円墳10



また、内裏清涼殿の東側弘庇[ひろびさし]の北側突き当たりに立てられた「荒海障子」[あらうみのしょうじ]もよく似ています。障子といっても、今の襖のことですが……。表側には中国の『山海経』に基づいて、手長・足長という怪人あるいは仙人がいる荒海の図が、裏側には宇治川に網代を仕掛けて魚を捕る図が描かれていました。いずれも墨絵だったそうです。

さらに、内裏清涼殿の弘庇に置かれた「昆明池障子」[こんめいちのしょうじ]もまったく同じです。この衝立障子の表側には、漢の武帝が水戦訓練のため長安城の西に掘らせた昆明池の図が、裏側には、嵯峨野における鷹狩りの図が描かれていました。いずれも彩色画だったそうです。この二つの障屏画は、日本絵画史的にみれば、唐絵とやまと絵の結合ということになります。

すべて平安時代の話ですが、相違よりも相似を重視してくっつけちゃうという点で、前方後円墳とよく呼応しています。現代わたしたちが普通に用いている漢字仮名交じり文も、漢字と仮名を結び合わせ、一つにして書いちゃうという表現形式です。漢字が男文字、仮名が女文字と呼ばれていた事実は、前方後円墳における方墳と円墳の結合を考えるときにも、なんと興味深いことでしょうか。

2018年1月9日火曜日

前方後円墳9


もう一つ、重要なポイントがあります。先に挙げた曹操とその皇后の場合のように、曹操の円墳と皇后の方墳は離れ離れに造られていました。しかし日本では、それをくっつけて前方後円墳という一つの墳墓にしちゃったという点です。実はこれについても、すでに考えついた研究者がたくさんいました。

先に紹介した藤田友治編『前方後円墳』では、円墳・三角墳結合説として、NG・マンローと松本清張、円墳・方墳結合説として、ウィリアム・ゴーランドと梅原末治を挙げています。しかし、なぜ結合されたかについいては、あまり考えられていないようです。僕は次のように推考します。

本来は異なっているけれども、共通する性格を有するものや、共通する性格をもつけれども本来は異なっているものを、一つにくっつけて新しいものを生み出すことを、日本人は古い時代から行なってきました。たとえば、平安時代には漢詩と和歌を一緒に並べて『和漢朗詠集』を編み出しました。

 

2018年1月8日月曜日

前方後円墳8


もちろんこれには、強い反論が予想されます。一番強烈なのは、天圜地方祭祀説を精緻に論証した重松明久氏や西嶋定生氏の説でしょう。それらによると、円丘で天を祭り、皇帝を配祀、方丘で地を祭り、夫人を配祀したのです。たとえば魏の明帝のとき、天を祭る円丘に武高帝(曹操)を配祀し、地を祭る方丘に武宣皇后(曹操夫人)を配祀したそうです。

もちろん両者は離れており、くっついてはいませんでした。古代中国王朝の権威を象徴する祭祀の場所として、宗廟、社稷、圜丘、方丘がありましたが、大和政権にはそれらがなく、前方後円墳だけだったことが論拠の一つに挙げられています。

私見とまったく反対で、天・円・男、地・方・女となっています。なぜ日本ではそれが逆になったのか、実証することはできません。何しろ、あっちには文献資料があり、こっちは思いつきにすぎません。ただし、中国に天圜地方と男女を組み合わせる思想があったとすれば、それが日本にもたらされたとき、わが国の精神風土のなかで逆転することは、充分に考えられるんじゃないでしょうか。

たとえば、中国では忠より孝が尊重されたのに対し、我が国では逆転したと考えられています。孝・忠という観念は中国で生み出されたとしても、日本の精神風土のなかで、その軽重が逆転したのではないでしょうか。

2018年1月7日日曜日

前方後円墳7



それではなぜ日本で、アニミズムやシャーマニズムが遅くまで残ったのかという質問に対しては、日本の自然や風土や四季のしからしむるところであったといか言いようがないでしょう。

いずれにせよ、それを実証する首長こそ、かの卑弥呼にほかならないのです。弥生時代後期というか、古墳時代初期というか、239年の段階で、魏の国に、もちろん呉の国にも、蜀の国にも卑弥呼のような女王はいなかったでしょう。『魏志倭人伝』があれほど詳しく卑弥呼のことを記録しているのは、女王であったことが大きな理由であったにちがいありません。

前方後円墳時代にも、まだまだ古い風習や観念、言ってみればアニミスティックな女主男従の観念が残っていたのだと思います。実際は倭の五王に象徴されるように、男性が支配する社会になっていたのですが、日本ではアニミズムやシャーマニズムがまだまだ強く生き残っていたのです。

それが天圜地方と融合してハイブリッド化したとき、天を女性として後円に、地を男性として前方に視覚化され、世界や宇宙の表象となったのです。天・円・女、地・方・男――これが僕の考えです。

2018年1月6日土曜日

前方後円墳6


東アジアにおいて男主女従思想――ありていに言えば男尊女卑思想を最初に生み出し、孔子周辺で理論化された中国でも、殷周の前、あるいはさらに河姆渡文化や仰韶文化、馬家窯文化の前には、女性の方が高い価値を、つまり高い地位を保っていたにちがいありません。「河姆渡」のなかに、「女」も「母」も入っているのは象徴的です。

そもそも、漢字に女偏があって、男偏がないという事実にそれが反映しています。女性こそが天であり、男性は地にすぎなかったといってもよいでしょう。

その後中国で新しく興った男尊女卑思想は、もちろん日本にも影響を与えました。日本にも、旧石器から新石器時代へという社会変化があったからです。しかし男尊女卑思想の浸透は、ずっと緩慢なものでした。なぜそうだったかは分かりませんが、わが国にはかなり遅くまでアニミズムやシャーマニズムが残っていました。いや、それが現代にまでDNAとして受け継がれていることについては、すでに文化人類学者が明らかにしてくれています。

かつて僕も、日中の山水画を比較するなかで、それを指摘したことがあります。その拙論は、来年出るであろう『文人画 往還する美』に収めようと思っているのですが……。

2018年1月5日金曜日

前方後円墳5


先に指摘したような形態感覚だけでなく、そこには日本のジェンダー・ギャップ――社会的性差があったからです。当時における東アジアのなかでは遅れた性差観念、現代からみるとむしろ進んだ性差観念がわが国に残存していたからです。

どんな民族でも、どんな地域でも、どんな社会でも、はじめは女性の方が優位に立っていました。子孫を胎内から生み出すことができるのは女性だけです。平均寿命が25歳程度の原始社会を考えれば、その意義は現代と比較にならないくらい大きなものがありました。その無から有を創りだすという不可思議は、食糧の乏しい原始社会にあって、豊饒や多産のイメージと結合していたことも明らかです。当然、女性の方が尊重され、あるいは畏怖され、社会的優位を保持していました。

しかしその後、旧石器時代から新石器時代に入り、やがて採集狩猟経済から農耕経済の時代に進むと、体力にすぐれる男性の方が優位に立つという逆転が起りました。それを決定的にしたのは、部族内の闘争や部族間の戦争だったでしょう。それは経済力や武力の問題を超えて、男主女従という思想を生み出すことになります。


2018年1月4日木曜日

前方後円墳4


その起源意義論は5つに分類されていますが、そのうちの「機能論」に「天円地方祭祀(郊壇)」としてまとめられています。1970年に発表された山尾幸久説に始まり、名古屋大学時代同僚であった加地伸行さんの説を含めて4説がピックアップされています。しかしそのなかに、私見とまったく同じものは見当たりません。

結論を先にいえば、前方後円墳は天圜地方思想の影響を受けて、後円を天、前方を地とする観念のもとに造られたのです。もちろんこれはすでに主張されているところですが、前方は男性を、後円は女性を表象しているとするのが僕の考えです。それは筋骨隆々として角ばった男性と、ふっくらとして円やかな女性の形態と結びついていますし、陰陽思想とまったく無関係でもないでしょう。

じつはこのような陰陽説も古くからあったらしく、もっとも有名なのは、松本清張の陰陽冲和説だそうですが、清張は前方を女性、後円を男性と見なしているようです。僕は逆だと思います。

2018年1月3日水曜日

前方後円墳3


その基本にあるのは、中国の「天圜地方」思想です。天の形は円く、地の形は方形、つまり四角であるという考えです。『諸橋大漢和辞典』を引いてみると、『呂氏春秋』が引かれ、「天道は圜、地道は方、聖王これを法とす……」とありますから、中国における古く重要な思想であることが分かります。僕は『諸橋大漢和辞典』によって「天圜地方」と書くことにしていますが、「円」と「圜」は同音同義ですから、「天円地方」でもまったく構いません。

前方後円墳はこの天圜地方思想と密接な関係に結ばれているというのが僕の意見です。形式は日本独自ですが、そのコンセプトは中国思想を抜きに考えられません。もちろん、僕が最初に思いついたアイディアというわけではなく、すでに複数の研究者が指摘しています。

前方後円墳に関する書物や論文は、汗牛充棟の感がありますが、その起源について、これまでどんな見解が発表されているかを知るには、藤田友治編『前方後円墳 その起源を解明する』<シリーズ古代史の探求3>(ミネルヴァ書房 2000年)がもっとも便利です。

2018年1月2日火曜日

前方後円墳2


そんなことを考えながら、師走の暮れなずむ空を中田さんと二人でながめていました。そこに階段があるので下っていくと、展示場になっていて、出土した舟形石棺が、それまでのちょっと感傷的な気分を吹き飛ばしてくれました。かつてそこには、人間の遺体が確かに安置されていたという事実に向き合わされたからでした。その人間は絶大な権力を誇った首長であったはずなのに、「兵どもも夢のあと」といった感慨がまったく起らなかったのは、ちょっと不思議な感じがしました。

前方後円墳――それは日本独特の墳墓形式です。中国にも、朝鮮半島にもないそうです。朝鮮の新羅に双円墳はあるそうですが……。あの中国や朝鮮から圧倒的影響を受けたはずの先史日本において、なぜそれらにはない墳墓形式が誕生したのでしょうか。その理由は分からないまでも、ここには日本文化を解く鍵の一つがあるんじゃないかぁと思ってきました。今回、保渡田八幡塚古墳を実際に体験したのを機に、独断と偏見による私見をアップしておくことにしたというわけです。

2018年1月1日月曜日

前方後円墳1


一般的に前方後円墳というと、鬱蒼と樹木に覆われた、大阪の大山(仁徳陵)古墳のような天皇陵を思い浮かべますが、もともとはこの保渡田八幡塚古墳のように、石で覆われた人工の土木建造物だったのです。

もちろん、復元整備された前方後円墳は八幡塚古墳だけでなく、そのほかにも少なからず、その写真も容易に見ることができます。しかし、実際に復元整備された八幡塚古墳を見ると、写真からは感じることができなかった心騒ぎが湧き起ってきます。

中田さんに導かれて、僕は前方墳から後円墳へと上って行きました。そのてっ辺に立つと、心騒ぎは感動へと高まります。榛名山や妙義山に囲まれたこの平野で、1500年も前、人間が生活していたんです。食糧を生産してそれを明日のエネルギーとし、みんなで祭りを行ない、若い男と女は恋を語らっていたんです。彼らの血を直接引いた遠い子孫が、21世紀の日本にたくさんいることは疑いありません。あるいは僕も、その一人かもしれないんです。

岩波ホール「山の郵便配達」2

  名古屋大学につとめていたころ、名古屋シネマテークで勅使河原宏の「アントニオ・ガウディ」がかかり、見に行こうと思っているうちに終っちゃったことがありました。そのころ映画への関心が薄れ、チョット忙しかったこともあるのかな?  そんな思い出はともかく、名古屋シネマテークが閉館に...