2022年4月30日土曜日

下川裕治『「おくのほそ道」をたどる旅』10

 

「作家になれば、出版社はここまでやってくれるのか……」

と常念岳を眺めながら呟いたものだった。

 それから五十年……。(略)活字離れは決定的で、出版不況の冷たい風が吹き抜けるなか、出版社には、編集者を旅に同行させる余裕はなくなっていた。それどころか、旅の経費も出ないことが多くなってしまった。旅行作家といわれるようにはなったが、自分で資料を集め、ネットの記事の執筆などで旅の経費を捻出しなくてはならなくなっている。

   この種の話になるとつい愚痴っぽくなってしまう。

これまたペーソスを含んだユーモアがすごくいい!! 含羞を帯びた諧謔がすごくいい!! そして実際にお会いしてみると、ちょっとシャイな感じがすごくいい!!

2022年4月29日金曜日

下川裕治『「おくのほそ道」をたどる旅』9

 

 一昨年でしたか、五木寛之さんのベストセラー『大河の一滴』(幻冬舎)を「饒舌館長」にアップしたことがあります。下川さんも高校時代、五木寛之をよく読んだそうですが、この話も下川流ユーモアがオトガイを解いてくれます。

そのなかに『にっぽん漂流記』(文藝春秋)という本がある。編集部のMさんやY青年が登場する。たまたま立石寺を訪ねている。曾良日記の引用もある。立石寺に向かう前、編集部のMさんがコピーしたのだろう。曾良のような存在なのだ。その旅では天童温泉に泊まり、四人の芸者を呼んでいる。その費用はすべて出版社もちなのだ。信州の松本で高校に通っていた僕は、

2022年4月28日木曜日

下川裕治『「おくのほそ道」をたどる旅』8

 

じつは僕もシャーペン派でした。過去形になっているのは、1989年、パソコン――NEC98に転向しちゃったからです。その前はシャーペン派でした――といっても、持っていたのはセーラーの回転式0.9ミリただ1本だけでした。長さ、重さ、太さ、重心、すべてが僕の手にピッタリでした。これで卒論を書いた記憶がありますから、20年以上愛用していたことになります。

チョットくたびれてきたので、主流になっていたノック式を1本買ったことがありましたが、浮気はするもんじゃないと思い知らされました。原稿はパソコンになりましたが、それ以外では今もこのシャーペンを愛用しています。

ねずみ色のボディには、SAILORとJISの文字が刻されています。磨り減っていて、もうほとんど読めませんが……。

2022年4月27日水曜日

下川裕治『「おくのほそ道」をたどる旅』7


そして驚いたのは、下川さんがシャープペンシルを使う手書き派だという事実でした。200字詰めでしょうか、400字詰めでしょうか、下川さんはシャーペンで一字一字原稿用紙を埋めているんです。

斎藤緑雨は「筆は一本、箸は二本、衆寡敵せずと知るべし」といったそうですが、下川さんは衆寡敵しちゃっています。緑雨先生をして顔色なからしめるものがあります。ちなみに、僕は上記の形で覚えていましたが、ネットで調べると「筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せず」というのが正しいようです――でも僕の方がリズミカルでいいかな( ´艸`)

 いまの人気作家はほとんどがパソコンでしょうから、これなら「箸は二本、指は十本」で、衆寡敵するところになりますが……。そういえば、下川さんの人差し指はチョット曲がっているようにも見えました。左手だったような気がしますが、下川さんはギッチョなのかな?  

2022年4月26日火曜日

下川裕治『「おくのほそ道」をたどる旅』6

 

ところがここにきて、市のホームページへのアクセスが急増しているという。理由は「鬼滅の刃」だった。主人公は竃門炭治郎かまどたんじろうで、竃の字が使われていたからだ。しかし「鬼滅の刃」ファンのどのくらいの人が、手書きの原稿を書くだろうか。書いてみたいという思いはわからないではないが、仕事として竃を書いている人もここにいることを少しは気遣ってほしい。

ちょっとペーソスを含んだユーモアがすごくいい!! ショージ君だったらもっとオーバーに笑わせるところかも知れませんが、この含羞を帯びた諧謔がすごくいい!! 

2022年4月25日月曜日

下川裕治『「おくのほそ道」をたどる旅』5

 

 


 これをヒントに独断と偏見を「饒舌館長」にアップしようとも思いましたが、「おくのほそ道」ですから先を急ぐことにしましょう( ´艸`) この本の下川旅行本たるゆえんは、余談のユーモアにありますね。例えば、塩釜駅から鹽竃神社へ歩いて向かうところです。

 パソコンで原稿を書く人は、ネットの表記からコピーペーストすればいいが、困ったことに僕は手書き派だ。原稿用紙にシャープペンで書いた文字で埋めていく。神社の鹽竃となると天を仰ぎたくなってしまう。細かいところまで正確に書こうとすると、倍ほどの大きさが必要になる。誰にいったらいいのかわからないが、できれば漢字は塩釜に統一してほしい。塩竃市民も実際は塩釜と書いているという。そういうことではまずいと塩竃市のホームページでは、竃の正しい書き方を伝えているというが。

2022年4月24日日曜日

下川裕治『「おくのほそ道」をたどる旅』4

 

  「おくのほそ道」を読み進めていくと、ふと思うことがある。芭蕉はそれほど旅が好きではなかったのではないか……と。

  当時の湯本。芭蕉はそこに泊まっているのだが、「おくのほそ道」では、温泉に触れていない。「おくのほそ道」という本は本当に俳句ひと筋。温泉や料理といったいま風の旅の楽しみはほとんど登場しない。ストイックな内容なのだ。芭蕉も湯に浸かっているはずなのだが……。

  (金沢で)弟子に囲まれて目の輝きを変える芭蕉に比べ、曾良は精彩を欠いていく。曾良の病は腹痛といわれているが、そんな無気力感が遠因になっていた気がする。……曾良というひとりの男がいとおしく思えてくる。

2022年4月23日土曜日

下川裕治『「おくのほそ道」をたどる旅』3

 

しかし拝読すると、やはり下川さんじゃ~なければ書けない、下川ファンにはたまらない旅行記になっています。つぎのような表紙見返しを読めば、もうそれだけでワクワクしてきます。

世界を旅する著者が1日に1時間歩くことを目標に、路線バスを乗り継いで、「おくのほそ道」をたどる旅に出た。……時代や文化・社会も大きく変わったなかで、はたして、何を感じ、何を思うのか――。新たな出会いや発見を求め、いざ出発!

 僕は久しぶりに小学館版『日本古典文学全集』の「松尾芭蕉集」を本棚から引っ張り出してきて、脇に置きながら下川本「おくのほそ道」を読んでいきました。深く心を動かされた下川さんらしい読みを、そのままに引用すれば……。

2022年4月22日金曜日

下川裕治『「おくのほそ道」をたどる旅』2

 

やがて場所を移せばヌーベルキジーヌシノワの会食、美味しい紹興酒も供されて、大いに盛り上がったことは言うまでもありません。

遠藤さんや丸山さんと旧知の間柄である小林忠さんは、急用のため欠席、その分も僕が飲むこととは相成りました() 遠藤さん、ご馳走様でした!! 下川さんの話は、『12万円で世界を歩く』の裏話を含めて、はじめて聞くことばかりでした。

宴のはじめに下川さんから贈られたのが、最新刊の『「おくのほそ道」をたどる旅』です。何といっても世界を旅する下川さんですから、国内の旅、しかも「おくのほそ道」をたどる旅というのがチョット意外でした。

2022年4月21日木曜日

下川裕治『「おくのほそ道」をたどる旅』1

 

下川裕治『「おくのほそ道」をたどる旅 路線バスと徒歩で行く1612キロ』<平凡社新書999>(2022年)

 遠藤湖舟写真展2022「風姿、戯れ、写ろひて」の会場へ行くと、下川裕治さんがソファーに腰掛けていらっしゃいました。お会いするのは初めてですが、すぐに分かりました。先日アップした『週刊朝日』創刊100周年記念号のエッセーに、近影が添えられていたからです。

35年ほど前に出版された名著『12万円で世界を歩く』についてはこの間アップしました。そこに写っているお顔とは、チョット違っているようにも見えましたが、当たり前田のクラッカーかな()

前に静嘉堂文庫美術館でお会いしたことがある報知新聞社会長の丸山伸一さんも、すでに到着されていました。丸山さんも松本深志高卒で、みんな古くからのお仲間だそうです。挨拶が済んだあと、遠藤さんのギャラリー・トークをそろって拝聴しました。

2022年4月20日水曜日

山種美術館「上村松園・松篁」5


私の制作うち「母性」を扱ったものがかなりあるが、どれもこれも、母への追から描た ものばかりである母が亡くなってからは、私は部に母の写真をかかげているが、私も息子の松篁も、旅行にゆくとき、帰って来ときには、必ずその写真下へ行って挨拶をすることにしている

「お母さん行って参ります」 「お母さん帰って参りました 

文展に出品する絵でも、その他の出品画でも必ず家を運び出す前には、母の写真の

前に置くのである

「お母さん。こんどはこんな絵が出来ました。――どうでしょうか」 ――とず母にみせてから、外へ出すのである。 私は一生、私の絵を母にみて頂きたいと思っている。 

2022年4月19日火曜日

山種美術館「上村松園・松篁」4

 


そのサンクチュアリのなかにおける創造には、国家を挙げての戦争といえども、チョッカイを出すことができなかったのだと思います。すでにお母さんは亡くなっていましたが、その聖域は松園の心のなかで守られていました。松園といえども、戦争のことが気がかりではあったと思いますが、それが聖域へ入り込んでくることは許さなかったのです。

だからこそ、松園にとって母は絶対的存在でした。もちろんそれは母への愛情や感謝に発したものでしたが、それに止まらなかったように感じられてなりません。『青眉抄』のかで、松園は次のように語っているのです。


2022年4月18日月曜日

山種美術館「上村松園・松篁」3

 

「牡丹雪」の翌年出版された自伝ともいうべき『青眉抄』において、松園は次のように語っているからです。

母と私の二人きりの生活になると、母はなお一そうの働きぶりをみせて、

 「お前は家のことをせいでもよい。一生懸命に絵をかきなされや」

 言ってくれ、私が懸命になって絵をかいているのをみて、心ひそかにたのしんられたである。私は母のおかげで、生の苦労を感じずに絵を生命と杖とて、それと闘えたのであった。私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである。 それで私は母のそばにさえおれば、ほかに何が無くとも幸福であった旅行も出来な泊まりがけの行など母を残してとても出来なかったのである

2022年4月17日日曜日

山種美術館「上村松園・松篁」2

 

それは松園にとって、絵画が神聖にして犯すべからざる芸術だったからだと思います。絶対に侵されてはならない、聖域だったといってもよいでしょう。もっともこれは、真にすぐれた画家にとって、当たり前のことだったかもしれません。

しかし松園の場合、このサンクチュアリ形成にあたって、お母さんの仲さんの役割がとても大きかったように思います。これが美人画という画題選択とも関係しているのではないでしょうか。たいていオトコが起こす戦争画を描かなかった理由かもしれません。

松園のお母さんは、わが子の美人画を誰よりも高く評価し――というよりも、ほとんど絶対的な芸術として世俗から守っていたからです。お母さんにそのような芸術至上主義的認識があったかどうか分かりませんが、松園に対する揺るぎなき信頼があったことは疑いありません。

2022年4月16日土曜日

山種美術館「上村松園・松篁」1

 

山種美術館「上村松園・松篁 美人画と花鳥画の世界」<417日まで>

 上村松園から選ぶ「僕の一点」は、山種美術館が所蔵する「牡丹雪」ですね。昭和19年の作品です。

素晴らしい松園の評伝を書いた馬場京子さんは、この作品について、「永遠に降り続くような大粒の雪、昭和十九年という、戦争最中の暗い世相が、重苦しい牡丹雪と重なって映るのは、みる者の勝手な当て推量なのであろうか」と述べています。

魅力的な読みですが、逆に戦争最中の暗い世相とまったく隔絶した、あまりにも艶やかな絵画世界が、チョット不思議な感じもします。どうしてこんなことが起こったのでしょうか。どうして松園は、それを可能にしたのでしょうか。

佐藤康宏『若冲の世紀』9

 

 ゆえに貴兄よ!! 俺のため 一肌脱いで欲しいんだ

 二日酔いをば口実に 断るなんて――それはナシ!!

 我がほら穴に壷ひとつ 銘酒が眠っていますから

 これでやってよ迎え酒 自在の筆もよみがえらん

 思い通りに豪邸を 構えることができたなら

 大海原を壁いっぱい 墨痕淋漓と描いてくれ!!

 寝そべって見る楽しみは 宗炳そうへいひとりのものじゃない

 山と流れの山水画――誰が言ったか無声の詩

 みんな知ってる蕭白が 天下無敵の絵師なりと

 天子のひざ元 京都では すでに画名も独壇場

  

2022年4月15日金曜日

佐藤康宏『若冲の世紀』8

 かつて桓伊かんいが椅子に掛け 笛吹くシーンを描いたが

 その笛の音に誘われて ヒラヒラと散る梅の花

 頭巾ずらしてその調べ じっと聴き入る王子猷おうしゆう

 かの戴安道たいあんどうを訪ねしは 人品 高きこの人だ

 漁師と木こりが仕事する 風景の絵も描いたが

 幽玄 瀟洒な趣が 俗世をはるかに超越す

 鮮魚を鱠なますにする子ども 振るう包丁キラキラと……

 老いた木こりが斧を研ぐ 砥石の肌はツヤツヤと……

 はじめて知った 筆先が 自然の妙を奪うこと

 はじめて知った 絵のなかに 霊なる神気 宿ること

 

2022年4月14日木曜日

佐藤康宏『若冲の世紀』7

 

気違い蕭白 描かれた 仙人みたいだそっくりだ

 身なり構わず盃さかずきを 掲げて青空にらんでる

 世間の絵師は雇われた 奴隷のようなものだけど

 蕭白 王の前だって 緊張なんかするもんか

 意欲 高まり胸中の 濃墨 淡墨ぶちまけりゃ

 雲煙 棚引く赤壁や 洞庭湖まで出現す

 立派な仏閣 高殿に 風流 愛でて遊ぶ客

 明月昇り波間には 魚 釣る舟 浮かんでる

 鑑賞者らの卑俗なる 心を清くしてくれる

 自分が川辺や湖に 遊ぶ気分になってくる

2022年4月13日水曜日

佐藤康宏『若冲の世紀』6

実は、辻惟雄さんが立ち上げた科学研究費プロジェクト「江戸時代絵画における中国影響の研究」に加えてもらい、東北地方を調査して回ったとき、秋田市に住む個人のお宅で、僕もこの蕭白画を拝見していたんです。しかし、蕭白でなくても描けそうな破墨山水図だったので、忘れるともなく忘れちゃった作品でした。

佐藤さんが賛者同定を行ない、『藤酊斎先生詩集』から「蕭白道人に画を請いて贈る」を見つけてくれなかったら、1772年という制作年の判明する一蕭白画として終っていたことでしょう。

 この間、NHK文化センターの青山アカデミー講座で曽我蕭白を取り上げたとき、佐藤さんの功績を紹介するとともに、この七言古詩のマイ戯訳を載せた配布資料を作りました。もちろん『若冲の世紀』を「饒舌館長おススメ本」として紹介させてもらいました。コロナのため受講生も少なく、宣伝効果はあまりなかったと思いますが() 最後に、そのマイ戯訳をアップさせてもらうことにしましょう。 

2022年4月12日火曜日

佐藤康宏『若冲の世紀』5

 

これに対し、佐藤さんの『若冲・蕭白』は、とくにその「蕭白新論」はきわめて上質な学術論文に仕上げられていたんです。

新鮮な佐藤蕭白像を生み出す上で、もっとも効果を発揮したのは、きわめて重要な漢詩の発見でした。京都で活躍した儒学者、藤原光興こと松波酊斎の遺稿集『藤酊斎先生詩集』に収められる七言古詩「蕭白道人に画を請いて贈る」が、それにほかなりません。

珍しくも着賛のある蕭白画として「峨眉山月図」がすでに知られていましたが、その賛者は判っていませんでした。佐藤さんはその賛者が松波酊斎であることを突き止め、遺稿集からこのオマージュ詩を見つけ出してきたんです。

2022年4月11日月曜日

佐藤康宏『若冲の世紀』4

 

そのような読者のためには、チャンと「はじめに」が用意されていて、各章の内容とポイントがすぐ分かるようになっています。おもしろそうだと思った章から、拾い読みすることをおススメしましょう。なにしろ793ページもあるんですから!! 

「僕の一点」は第14章「蕭白新論」ですね。もちろん、なかに僕の拙論が引用されているからじゃ~ありませんよ() これも大幅に増補改定が加えられ、バージョンアップがはかられていますが、40年前、小学館版『名宝日本の美術』旧シリーズの『若冲・蕭白』で、これを読んだときの驚きは忘れられません。僕も『応挙・大雅』を担当しましたが、コチトラはあくまでジェネラルブックとして書いたんですから……。

2022年4月10日日曜日

遠藤湖舟「風姿、戯れ、写ろひて」2

 

今回の「僕の一点」は、ポスターにもなっている「雪煙富士」ですね。ドローンでも飛ばしたのかなと思いましたが、そうじゃないそうです。富士山のごく一部を切り取って、霊峰の全体がイメージされるところがすごくいい! モノクロームのコントラストとグラデーションがすごくいい!! 具象と抽象のあわいに在る湖舟ワールドがすごくいい!!!

先日アップしたように、名著『12万円で世界を歩く』の著者である下川裕治さんと遠藤さんは、松本深志高校の同期生で、ずっと親しく交流してきました。というわけで、今回は憧れの下川さんを紹介してくださることになったので、静嘉堂文庫美術館の仕事が終ったあと、ワクワクしながら玉川高島屋アートサロンへと向かったのでした。

2022年4月9日土曜日

遠藤湖舟「風姿、戯れ、写ろひて」1

  

遠藤湖舟写真展2022「風姿、戯れ、写ろひて」<412日まで>(玉川高島屋本館5階 アートサロン)

 遠藤湖舟さんの2022年写真展が玉川高島屋本館5階・アートサロンで開催されています。すでにアップしたことがあるように、遠藤さんは早稲田大学理工学部を出た異色の写真家です。

インスタレーションにも創造の場を広げていますから、コンテンポラリーアーティストとお呼びする方がふさわしいかも知れませんが、饒舌館長にとっては、やはりフォトグラファーですね。

最初に拝見して「僕の一点」に選んだ写真作品「朝陽」の印象が、いまも鮮やかに残っているからです。この作品はロサンジェルス・カウンティ美術館に収蔵されているそうですが、それだから選んだわけじゃ~ありません。選んだあとでそのことを知り、アメリカ人の審美眼もなかなか高いじゃないかと思ったものでした――僕と同じように( ´艸`)

 

2022年4月8日金曜日

佐藤康宏『若冲の世紀』3

 

 若い江戸絵画研究者には、まず本書の通読をおススメしましょう。卒論のテーマに悩んでいる学部生を含めて……。ヒントの玉手箱ともいうべき本ですよ!! 

佐藤さんも「十八世紀の日本絵画史の主要な動向を把握しようというゴールに向かって、いくらかはボールを動かしたつもりでいる。後進の研究者がパスを受けてくれれば幸いである」と書いています。熱狂的阪神ファンの佐藤さんも、ついにサッカーへ転向しちゃったのかな() 

しかし佐藤さんは、「学術書らしく威儀を正してはいるが、専門家にしか関係のない問題ばかりを論じたつもりはない。美術史や江戸中期の文化に興味を持つ読者に広く読んでいただければありがたい」とも述べています。

2022年4月7日木曜日

佐藤康宏『若冲の世紀』2

 

 改めて佐藤さんの研究者魂に脱帽する次第です。書いたら書きっぱなし、出したら出しっぱなし、読んだら読みっぱなしの饒舌館長は、穴があったら入りたいといった気持ちになります。心底忸怩たるものがあります。

そもそも、吉澤忠先生の名言「人の論文なんか読んでいたら、自分の論文は書けませんよ」を口実にして、ほとんど人の論文を読まない饒舌館長にとっては……() 

間もなく『國華』に載る拙論「蕪村唐寅試論」も、佐藤さんから重要な既発表論文を教えてもらったお陰で、グッとバージョンアップすることができたんです。佐藤さん、ありがとう!! 

2022年4月6日水曜日

佐藤康宏『若冲の世紀』1

 

佐藤康宏『若冲の世紀 十八世紀日本絵画史研究』(東京大学出版会 2022年)

 畏友・佐藤康宏さんが、40年間に及ぶ江戸時代絵画研究を1冊の大著に集大成されました。しかし、誰かさんの『琳派 響きあう美』のように、これまで書いたものをただ集めただけのコレクション本じゃ~ありませんよ。「饒舌館長おススメ本」にぜひアップしたいと思うゆえんです。佐藤さんは「あとがき」に次のごとく書いています。

全十八章は、いずれも初出の原稿を改訂増補し、現時点での定本というべきものに改めている。いまから見れば生硬と思える二十代の叙述を残す一方、最近の考えを加えもした。成稿の時期の異なる複数の文章をひとつにまとめ、新たに加筆することもした。初出の時点以後に発表された関連する研究は註に加え、ときには本文中でも取り上げたが、遺漏は少なくなかろう。

2022年4月5日火曜日

月岡芳年「大日本名将鑑」15

少なくとも歴史画に限って言えば、日本人の判官贔屓とも関係しているのではないでしょうか。判官贔屓も輪廻や諦観と無関係ではないでしょう。

僕は最高の日本的歴史画こそ横山大観の「屈原」だと思っています。言うまでもなく、そこに描かれた屈原はかの歴史的な屈原じゃなく、みずから創立した東京美術学校を、石もて追われる天心その人でした。

表面的テーマは歴史画ですが、西欧的歴史画ではありませんでした。追放される天心――それは高貴な歴史的事柄でもなく、英雄的行為でもなく、宗教的テーマでもありませんでした。山口昌男にしたがえば「敗者」を描いているのです。

 愛国者を育てるべき歴史画を主張した天心を描いて、国民を鼓舞するどころの話ではなくなっちゃっています。これは判官贔屓の歴史画であり、象徴主義的歴史画であり、きわめて日本的な歴史画でした。 

2022年4月4日月曜日

月岡芳年「大日本名将鑑」14

 

西欧のリアリズムや自然主義が、真の意味で発達しなかったのとよく似ています。日本絵画におけるもっともすぐれた歴史画は富士であり、さくらであり、旭日だったのではないでしょうか。つまりきわめて象徴主義的であり、これは日本絵画、日本美術、日本文化のもっとも美しい特徴なのです。

なぜそうなったのでしょうか? 最大の理由は仏教的輪廻思想や諦観だというのが独断と偏見です。天心も江戸時代の封建統治や島国根性とともに、「仏教三界の流転を説きて仮影幻象の内に住したる如き」ものが、歴史画を発達せしめなかったと述べて、批判しています。

2022年4月3日日曜日

月岡芳年「大日本名将鑑」13

 

チョット意地の悪い見方をすれば、歴史画の必要性というと聞こえはよいのですが、つまり西欧を理想として、追いつき追い越せという焦燥であったということになります。

しかし実際は、上流階級や開明的知識人も、一般庶民と同じで、江戸のDNAを濃厚に宿していたのでした。だからこそ夏目漱石は、「新しい(西洋の)波が寄せる度に自分がその中で食客いそうろうをして気兼ねをしているような気持になる」といったのでしょう。

ひるがえって考えてみると、そもそも近代日本には歴史画など存在しなかったと言った方が正しいように思います。もちろん西欧的歴史画という意味ですが、日本にはニコラ・プーサンも、ジャック・ルイ・ダヴィッドも、アントワーヌ=ジャン・グロも生まれませんでした。

2022年4月2日土曜日

月岡芳年「大日本名将鑑」12

 


一方、上流階級や開明的知識人たちの一部は、近代国家には正しい歴史画、つまり西欧的歴史画が必須であると考えていた節があります。しかしそれは、頭でっかちの理論、実態を伴わない理想であって、そんな歴史画はなかなか普及しませんでした。

明治22年(1889)岡倉天心は、今や世界最古の美術雑誌となった『國華』を創刊しました。天心は「それ、美術は国の精華なり」に始まる、四六駢儷体の堂々たる創刊の辞を寄せています。

それを読んでみると、日本美術においてもっとも発達が遅れているのは歴史画であるけれども、これは近代国家にとって絶対必要なものであることを力説しています。深読みをすれば、未発達であることに対する苛立ちさえうかがえます。

2022年4月1日金曜日

月岡芳年「大日本名将鑑」11

 


しかしこれは教科書的回答であって、チョット皮相的だと思います。少なくとも一般庶民は、近代国家意識などをもって歴史画を見たのではなく、自分たちのヒーロー・ヒロインのように見ていたのではないでしょうか。

やはりここでも思い出されるのは、明治10年爆発的流行をみた西南戦争錦絵でしょう。それは歴史画でありながら、現地取材が行われたものじゃ~なく、実態は完全な浮世絵でした。

それはともかく、ちょうど浮世絵の美人や役者や相撲取りを見るのと同じように、歴史画をみる視覚です。それは浮世絵を見るときの伝統的視覚であり、さらに言えば江戸時代250年のあいだに培われた伝統的視覚でした。1868年に近代国家に生まれ変わったとしても、一朝一夕に改まるはずはありません。

ブータン博士花見会4

  とくによく知られているのは「太白」里帰りの物語です。日本では絶滅していた幻のサクラ「太白」の穂木 ほぎ ――接木するための小枝を、イングラムは失敗を何度も重ねながら、ついにわが国へ送り届けてくれたのです。 しかし戦後、ふたたび「染井吉野植栽バブル」が起こりました。全国の自...