2025年7月11日金曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」11

もっとも明治40年(1907)第1回文展には応募していますから、このころまでは会場芸術への色気というか、意欲もあったのでしょう。しかし突きつけられた「落選」という結果が、英朋に引導を渡すことになったにちがいありません。このようなサッパリとした江戸っ子気質も、「最後の浮世絵師」と呼ばれるにふさわしいように思います。

あるいは7人の子宝に恵まれた英朋にとって、口絵や挿絵は生活のためであったかもしれません。しかし、家族を養うために絵筆を揮いながら口絵芸術の極致を目指す――これも偉大な創造です。

 これはこれで素晴らしい生き方だったと思います。たしかに文展や帝展や院展の作家のごとく、一般的な意味での栄誉、少し意地の悪い言い方をすれば世俗的栄誉は得られなかったかもしれませんが、熱烈な英朋ファンに囲まれていたのです。 

2025年7月10日木曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」10

英朋の才能を燃え立たせたのは、泉鏡花の華麗な文筆が創り出した幻想的世界だったでしょう。また落款の「芳桐印」に象徴されるように、歌川派の系譜に連なる絵師としての自負と矜持もあったでしょう。さらに僕は、ラファエル前派を先導したジョン・エヴァレット・ミレイの傑作「オフェリア」(1852年)を、英朋が写真や図版を通して知っていた可能性も考えてみたいのです。

しかし清方が「鳥合会の後公開の会への出品がない」と書いているように、英朋は口絵や挿絵の小さいけれど濃密な絵画空間にみずからの創造世界を限定して、近代が生み出した人工的装置である展覧会への出品にはきわめて冷淡でした。川端龍子の言葉を借りれば、「会場芸術」を嫌ったのです。


2025年7月9日水曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」9

 

 美樹を救った色の白い勇侠な奴がだれか、ここでは分からないのですが、170ページもあとになって、水泳が得意で「河童」と呼ばれている垂井という学校の教員であることが判るのです。今度は静かな夜の船上、「六尺の褌雪の如く、白身鶴に似たる一漢子」である垂井が、「え、えゝ、竜巻の時は扶たすけられた、飛んでもねえ、何、お前様まえさん、夫人おくさま。……」と美樹に語りかけているからです。

英朋が口絵に描いたのは正にこのドラマチックなシーン、英朋が『続風流線』を全部読んだとは思われず、おそらく鏡花から指定されたのでしょう。それに応えて英朋は何度も下絵を描きなおし、作者の期待を超えたであろうロマンティシズムに満ちた口絵を創り出したのです。鏡花の文にある「乳房のあたり」も、英朋は抜かりなく取り入れて描いているようです。

2025年7月8日火曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」8

 「姉(実際は叔母ですが、竪川昇は年が近いので姉と呼んでいます)の運命、死ではない。裾が浪間に流れながら、乳房のあたり浮いて出た。浮き上がったばかりか、其のどしゃ降りの雨に打たれても、沈みはせんで、手足の動くも見えんぢゃが、凡そ水練の達者が行っても、それだけには行くまいと思ふほど、墨のやうな湖の上へ、姉の姿唯一ッ。衣服の色も美しく、楽に、ゆらゆらと岸へ着いた。……」

 「屈強な野郎の腕よ。するとな、仰向あおむけになった姉の姿が、くるりと俯向うつむけ。帯も髪も、ずるずると下がったが、こりゃ宙に抱かれて居たんで。むッくりと水から出た、素裸すっぱだかの半身を、蘆の中に顕あらわいたは、助けに行った船頭ではない、色の白い勇侠いさみな奴だ。……」

 

2025年7月7日月曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」7

 

 「僕の一点」は、泉鏡花の小説『続風流線』(1905年)の口絵ですね。27.8×22.1センチという小さな画面の口絵が発するエナジー、ムーブマン、エロティシズム――みんな片仮名になっちゃいましたが、英朋の才能に舌を捲かない人はいないでしょう。しかも「蚊帳の前の幽霊」よりもさらに若く、25歳の作品なんです。

舞台は石川県にあるという芙蓉潟――そこを竜巻が襲い、極悪非道なる慈善家・巨山おおやま五太夫の妻である美樹の乗った船が、水柱に雲をまぜた浪に捲かれて転覆し、みな真っ暗な湖に投げ出されたシーンです。それは竪川昇という憲兵少尉によって語られていますが、彼は1町も離れた別の船に乗っていたというのですから、想像をまじえた伝聞なのでしょう。

2025年7月6日日曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」6

 


鰭崎英朋 は明治後期から昭和にかけて活躍した絵師です。浮世絵師・月岡芳年の門人である右田年英に入門し、明治35(1902)から文芸雑誌や小説の単行本の口絵の制作に取り組み始めました。明治末から大正にかけて文学界を彩った英明の妖艶な美人画は、広く大衆の心をつかんで大いに話題となります。

英朋が手掛けた口絵や挿絵は、歴史の終わりを迎えようとする浮世絵版画 (木版画) と、徐々に技術が進歩していく石版画やオフセット印刷によって制作されています。英朋は浮世絵と石版画という、二つの異なる大衆向けメディアに専心した稀有な絵師であり、浮世絵版画の終焉を看取ったという意味で、真の 「最後の浮世絵師」 と言えるでしょう。

本展覧会は、英明が手掛けた木版画や石版画、オフセット印刷による口絵や挿絵、さらには肉筆画や下絵を含めた187点の作品を紹介いたします。 出版メディアが移り変わる時代の狭間に漂う、英明の妖艶な美人画をお楽しみください。

2025年7月5日土曜日

太田記念美術館「鰭崎英朋」5

のちに辻惟雄さん監修のもと、ぺりかん社から『幽霊名画集 全生庵蔵・三遊亭円朝コレクション』が出版された際、この「蚊帳の前の幽霊」が収録されたことは言うまでもありません。解説を担当した安村敏信さんは、「真夏にたち現われた雪女のような幻想を抱かせる」とたたえています。僕も辻さんから求められるまま、「応挙の幽霊――円山四条派を含めて」という拙文を寄せたのですが、あれからもう30年が経ったとは(!?)

 例のごとくコチトラの思い出ばかり書いちゃいましたが、鰭崎英朋とはどんな画家だったのでしょうか? 詳しくは日野原健司さんのカタログ巻頭論文「鰭崎英朋の画業――『最後の浮世絵師』として」をお読みいただくとして、ここでは巻頭の「ごあいさつ」により、英朋のあらましを知っていただくことにしましょう。  

太田記念美術館「鰭崎英朋」11

もっとも明治 40 年( 1907 )第 1 回文展には応募していますから、このころまでは会場芸術への色気というか、意欲もあったのでしょう。しかし突きつけられた「落選」という結果が、英朋に引導を渡すことになったにちがいありません。このようなサッパリとした江戸っ子気質も、「最後の浮...