2019年3月23日土曜日

國華特輯号「屏風絵新考」8


以下解説に移って、畑靖紀はこれまで図版等で紹介されることのなかった、いわゆる周文系山水図屏風を取り上げ、モチーフの特徴ある描写から、これを周文に学んだと伝えられる鑑貞の作品とする。その有機的な山水構成から、鑑貞が大画面構成力にすぐれ、障壁画をもこなすことができる、職業的能力を有する画家であったと推定している。

山本英男氏は、京都国立美術館で開催する特別展「海北友松」を準備するなかで見出した「海北友松筆檜図屏風」を改めて取り上げ、金碧画でありながらもその得意な金地構成や筆法は水墨画と密接に関係していること、現存する金碧画中もっとも早い制作時期の作であることを明らかにした。

岡田秀之氏は伊藤若冲生誕三百年を祝うがごとく再出現した「花鳥図押絵貼屏風」をテーマに、これとほぼ同時期の初期作と推定される押絵貼屏風五点と描かれたモチーフを比較し、リストにまとめてその特徴を抽出している。そこには「動植綵絵」と同じく、対象を執拗なまでに観察する若冲の姿勢が看取されるという。

2019年3月22日金曜日

國華特輯号「屏風絵新考」7


第一論文は畑靖紀氏の「狩野内膳の南蛮屏風――旧川西家本の再出現をうけて――」である。南蛮屏風の多くが筆者を特定できないなか、豊臣家に仕えた狩野内膳の落款を有する作品が五点知られている。そのうち、長らく行方不明であった旧川西家本が八十年ぶりに出現したのを機に、内膳筆南蛮屏風を総合的に考察した論考である。特に当該屏風については、制作に内膳本人のすぐれた関与を認め、慶長年間後半の制作時期を推定して結論としている。

第二論文は、久野華歩氏の「静岡市新収蔵本『東海道図屏風』をめぐって」である。東海道図屏風は現在十五点ほどが知られているが、久野氏は当該屏風の景観年代を分析して十七世紀半ばから後半、制作時期もその後半として、諸本のなかでも早い時期を推定している。併せて、絵地図や版本、洛中洛外図屏風をもとに東海道図屏風が成立した可能性を指摘して、これまでの通説に見直しを迫っている。

2019年3月21日木曜日

國華特輯号「屏風絵新考」6


伝狩野光信筆「肥前名護屋城図屏風」、俵屋宗達筆「雲龍図屏風」、能阿弥筆「水墨花鳥図屏風」などの屏風絵特輯号も、学界に寄与するところ少なくなかった。また、昭和六十四年(一九八九)春、『國華』創刊百周年を記念し、東京国立博物館で開催した「室町時代の屏風絵」は、水墨画中心であった室町絵画の見方を百八十度転換させる画期的特別展であった。

このような伝統はその後も受け継がれてきたが、ここにまた充実せる内容の屏風絵特輯号を加えることになった。題して「屏風絵新考」という。近年再び世にあらわれて話題を集め、あるいはいまだよく考究されていない屏風五点について、論文および解説を寄稿してもらい、その美的特質をより一層深く掘り下げようと企図した特輯号である。

2019年3月20日水曜日

國華特輯号「屏風絵新考」5


またジェームズ・ホイッスラーは「紫と金の協奏曲№2」に、アルフレッド・ステヴァンスは「別れの手紙」に、欠くべからざるモチーフとして、日本の屏風を登場させたのだった。それだけではない。ピエール・ボナールは、「兎のいる風景」という油彩画の屏風を創り出してしまった。三曲一双という我が国ではあり得ない形式なのが愉快だが、これらは屏風が日本美術独自の画面形式として認識された事実を物語っている。

我が『國華』も、創刊翌年の明治二十三年(一八九〇)、第六号に周文筆「瀟湘八景八景図屏風」と啓書記筆「竹林七賢図屏風」(共に松平茂昭侯爵蔵)をコロタイプで紹介して以来、数多くの出来映えすぐれる屏風を『國華』アーカイブに加えてきた。

2019年3月19日火曜日

國華特輯号「屏風絵新考」4


安土桃山時代、我が国へやってきたイエズス会宣教師は、屏風を「ビオンボ」と呼んでオマージュを捧げたが、それは今もポルトガル語やスペイン語のなかに生きている。

ガスパル・ビレラが故国のパードレたちに宛てた手紙は、京都・本圀寺で見た四季花鳥図屏風に強い興味を示しつつ、その詳細を伝えている。あるいは、ルイス・フロイスの『日欧文化比較』にも、「われわれの部屋は綴織の壁布[タベサリア]、ゴドメシス、フランドルの布で飾られる。日本のは鍍金または黒い墨で画かれた紙の屏風beobusでかざられる」という、とても印象深い比較がある。

それから三百年ほど経って、ヨーロッパにジャポニスムの嵐が巻き起こったとき、エドゥアール・マネは「エミール・ゾラの肖像」に日本の屏風を重要なモチーフとして描きこんだのだった。

2019年3月18日月曜日

國華特輯号「屏風絵新考」3


 この屏風がいかなるものであったかも不明だが、私たちは正倉院に伝えられる「鳥毛立女図屏風」や「唐詩屏風」によって、少しく想像することができよう。


それらは独立する六面のパネルを、接扇とよばれる一種の紐で結び合わせたものであった。やがて二面を一単位とする縁取りとなり、さらに六面一括の縁取りとなって、真なる意味での大画面が成立する。それを推進したのは、紙による蝶番[ちょうつがい]の発明で、十四世紀、我が南北朝時代のことであった。以上は主に、武田恒夫氏の大著『近世初期障屏画の研究』(吉川弘文館)が教えてくれるところである。


この大画面確立以降における屏風絵の飛躍的展開については、改めて述べるまでもないが、それが日本近世絵画を――あるいは日本絵画を特徴づける画面形式であったことに、異国の人々が注意をむけた事実は、大変興味深く感じられるのである。

2019年3月17日日曜日

國華特輯号「屏風絵新考」2


しかし、後漢から三国時代の画像石には、鍵型や人物を取り囲むように立てられる障屏具があらわれる。これこそ屏風のプロトタイプだといってよいであろう。その後、中原の地で屏風という形式が確立したことは、唐時代の長安、いまの西安に遺る韋家墓の「樹下美人図壁画」からある程度想像できるが、その実態となると、これまた闇に包まれている。

いずれにせよ、中国で誕生した屏風が、朝鮮を通して我が国へもたらされたのは、白鳳時代のことであった。『日本書紀』天武天皇の朱鳥元年(六八六)四月十九日の記事は、よく知られるところである。その日、新羅の奉る調が筑紫から貢上されたのだが、これとは別に智祥・健勲らが献上した金・銀・霞錦[かすみにしき]・綾羅[あやうすはた]・金の器・鞍の皮・絹布・薬物など六十余種のうちに、屏風が見出されるのである。

國華特輯号「屏風絵新考」8

以下解説に移って、畑靖紀はこれまで図版等で紹介されることのなかった、いわゆる周文系山水図屏風を取り上げ、モチーフの特徴ある描写から、これを周文に学んだと伝えられる鑑貞の作品とする。その有機的な山水構成から、鑑貞が大画面構成力にすぐれ、障壁画をもこなすことができる、職業的能力を...