2018年2月22日木曜日

横浜美術館「石内都展」と山口百恵2


坂道も、草原も、ドブ板横丁も、米軍に入りこまれたことによって仕方なく変らざるを得なかったあの街の、独特の雰囲気が、その写真の中では、陰となって表わされていた。哀しかった。恐怖さえ抱いた。
同じ街が見る側の意識ひとつでこんなにも違う。私の知っている横須賀は、これほどまでにすさまじくはなかった。
今にも血を吐き出しそうな写真にむかって私は呟いた。
この街のこんな表情を知らずに育ってこられたことに、わずかな安心感を抱いていた。

 何という写真集なんだ。僕の山口百恵をこんなにも哀しませるなんて。血を吐きそうになる恐怖のどん底に陥れるなんて。たとえこれを書いたのが残間里江子だとしても……。言うまでもなく僕は、『絶唱、横須賀ストーリー』を見てみたいとも、その写真家の名前を聞きたいとも、それが男なのか女なのかを知りたいとも思いませんでした。

2018年2月21日水曜日

横浜美術館「石内都展」と山口百恵1


横浜美術館「石内都 肌理と写真」<34日まで>と山口百恵

 横浜美術館協力会の講演会で、「饒舌館長『琳派絵と近代日本画』口演す」と題して90分しゃべりました。「饒舌館長琳派絵と 近代日本画口演す」と七五調にしたところがミソです(!?) 

そのあと、はじめて石内都の世界を堪能しました。昭和54年(1979)石内都が発表した、ほとんどデビュー写真集といってもよい『絶唱、横須賀ストーリー』の名前だけは、記憶の底に沈殿していました。いくら憧れても憧れ足りない山口百恵が書いた、あまりに早すぎる自叙伝『蒼い時』に登場するからです。山口百恵はその「序章・横須賀」に、つぎのように描写しています。

ある日、私のもとに、手紙を添えて一冊の写真集が届けられた。
『絶唱、横須賀ストーリー』と題されたその写真は、全て、私の知らない表情をした横須賀だった。
あの街に、これほどのあざとさが潜んでいたのだろうか。これほどの哀れさが匂っていたのだろうか。
恐ろしいまでの暗さ、私があの街で光だと思っていたものまでが、全て反転してしまっていた。

2018年2月20日火曜日

鎌近「堀文子展」8


カタログのために、僕も「描かれた秋田」という拙文を書きました。秋田の画家は、ひとしなみに「望郷の念」を創作エネルギーの源泉にしていたという趣旨に沿って、柴田安子も眺めてみたのですが、恥ずかしながら、ちょっとこれも紹介しておくことにしましょう。

わたしは柴田安子について何も知らない。この特別展「描かれた秋田」が、その遺作に接する最初の機会になるのだが、昭和11年に発表されたほとんどデビュー作に近い作品のタイトルが「めらはど」であった点は、きわめて強い興味を掻き立てる。言うまでもなく、北東北の方言で娘たちの意味である。もちろんこのとき、安子はすでに東京にあって松岡映丘に就き、川端龍子の青龍社に出品したりしていたという。やがて安子は、造形的問題に果敢に挑戦するようになったようだが、その後に発表し、豊四郎が深く打たれたという山上の沼を主題とした作品などは、望郷の念に寄り添うような画趣を示すものだったのではないだろうか。

 この特別展「描かれた秋田」は、サンザンな興行成績に終わりましたが、あとで秋田のポン友から言われちゃったことでした。

「秋田で<秋田>と銘打ったら、人は絶対に来ない!!」  


2018年2月19日月曜日

鎌近「堀文子展」7


 このカタログには、企画キューレーター・山本丈志さんが、素晴らしいオマージュ「五月の空と柴田安子」を寄稿しています。それによると、「柴田安子はその明確な理由を示さないまま自ら自作を焼き、その画業を知る術を後世に残さなかった」のです。死に臨んで、みずからの作品をすべて火の神・祝融に捧げたというのです。

事実、秋田県立近代美術館に所蔵されるスケッチを除けば、先の「堀文子略年譜」にも出てくる「めらはど」が、ほとんど唯一の作品だといってよいでしょう。現在、個人コレクションに収まるただこの一作によって、柴田安子は永遠の画家になったのです。

じっとながめていると目頭が熱くなるのは、安子の夭折を知っているからではありません。もちろん、あまりにも美しい安子のモノクロ・プロフィールが、網膜に焼き付いているからでもありません。それをまったくは否定できないとしても、作品によって揺さぶられる心が、目頭を熱くさせるのです。
柴田安子がもう少し生きてくれたら、必ずや「安子×文子展」が実現したことでしょう。それを見てみたかった!!

2018年2月18日日曜日

鎌近「堀文子展」6


柴田安子 1907年(明治40)―1947年(昭和22

東京都に生まれたと推定される。父は秋田県大仙市の素封家最上広胖。幼名義枝。1919年義枝を安子に改名。1925年麹町千代田高等女学校卒業。在学中、日本画家松岡映丘の画塾に通う。1930年映丘を顧問とする子木社が創立され、同人となる。

1931年東洋史学者柴田宣勝と結婚。1935年第7回青龍社展に「牧帰」を初出品初入選。1936年第4回の春の青龍社展に「めらはど」他を出品し、日本画家福田豊四郎に注目される。豊四郎らの新日本画研究会に参加。

1938年新美術人協会の結成に参加。1939年夫宣勝の朝鮮半島滞留にともない、安子も一時朝鮮に行く。1940年堀文子との交流が始まる。第3回新美術人協会展で「灑衣」[さいい]が研究会員賞を受賞。

1943年朝鮮慶州・楽浪などで写生。決戦美術展に「木材供出」を出品、朝日新聞社賞を受賞。1945年山梨県に疎開。終戦後、帰京。1947年逝去。遺骨は郷里角間川の最上家菩提寺浄蓮寺に埋葬される。

2018年2月17日土曜日

鎌近「堀文子展」5


 堀さんにこんな強い感銘を与えた柴田安子であっても、ほとんどの方がご存じないことでしょう。柴田安子――それは秋田が生んだもっとも魅力的な閨秀画家です。もちろん僕も、心から愛して止まぬところです。

2007年夏から秋にかけて、秋田県立近代美術館では特別展「描かれた秋田 ふるさとは我が胸にあり――福田豊四郎『我がうた』より」が開催されました。ちょうど秋田で国体が開催されたこともあり、秋田のすばらしい絵画を――版画や写真も含めて、改めて振り返ってもらおうと企画したのです。

まず秋田出身のアーティスト10人を選びました。福田豊四郎、紺野五郎、千葉禎佑、櫻庭藤二郎、横山津恵、渡部栄子、佐々木良三、勝平得之、堀川達三郎、そして柴田安子です。これを2部に分けて代表作を展示しました。秋田でしかできない展覧会です。

さて、柴田安子とはどんな画家だったのでしょうか? そのときのカタログから、経歴の部分をそのまま紹介することにしましょう。

 

2018年2月16日金曜日

鎌近「堀文子展」4


 カタログに付された「堀文子 略年譜」をみると、柴田安子の名前が、少なからず眼に入ります。悲しいことに、堀さんの若いころだけですが……。

1936(昭和11)年 18
4月、女子美術専門学校(現・女子美術大学)師範科日本画部に入学。春の青龍社展で最上(柴田)安子《めらはど》《女仲士》に、10月の再興院展で小倉遊亀《浴女》に感銘を受ける。

1939(昭和14)年 21
6月、第2回新美術人協会展に《原始祭》を出品、初入選。柴田安子《叢林》に感銘を受ける。

1940(昭和15)年 22
2月、11歳年上の柴田安子を訪ねる。同年、長野・大門峠の安子の山荘で過ごすなど親交を結ぶ。

1945(昭和20)年 27
春、山梨に疎開した柴田安子の世田谷の留守宅に移居する。

1946(昭和21)年 28
4月、内田巌、本郷新らが結成した日本美術会に福田豊四郎、柴田安子らとともに参加。
7月、柴田安子没。外交官・箕輪三郎と結婚。

横浜美術館「石内都展」と山口百恵2

坂道も、草原も、ドブ板横丁も、米軍に入りこまれたことによって仕方なく変らざるを得なかったあの街の、独特の雰囲気が、その写真の中では、陰となって表わされていた。哀しかった。恐怖さえ抱いた。 同じ街が見る側の意識ひとつでこんなにも違う。私の知っている横須賀は、これほどまで...