2025年11月9日日曜日

三井記念美術館「円山応挙」3


  そんな応挙の画風は瞬く間に京都画壇を席巻し、当代随一の人気画家となりました。そして、多の弟子たちが応挙を慕い、巨匠として円山四条派を形成することとなりました。 

豪商三井家が応挙の有力な支援者であったことから、当館には良質な応挙作品が複数収蔵されています。このうち本展のために、国宝「雪松図屏風」を筆頭とする優品を選び展示いたします。さらに各所に所蔵される重要な作品を加え、応挙が創り上げた革新的な絵画世界をお楽しみいただきます。 とくに今回は、香川・金刀比羅宮様のご厚意により、北三井家五代・三井高清が資金援助をした、重要文化財の表書院障壁画のうち二十面の展示も実現いたしました。 

2025年11月8日土曜日

三井記念美術館「円山応挙」2


  本年、二〇二五年十月八日に、三井記念美術館は開館二十周年を迎えます。二〇〇五年の開館以来、大きなテーマを深く掘り下げた特別展と、所蔵品を多角的な視点で構成した企画展を一〇〇回ほど開催して参りました。(略) 

本展覧会の主役である円山応挙(一七三三一七九五)は、従来より江戸時代を代表する画家として、確固たる地位を占めて高く評価されてきました。ところが近年、伊藤若冲をはじめとする「奇想 の画家」たちの評価が高まるにつれて、いくぶんその注目度が低くなっていることは否めません。 

しかし、応挙こそが十八世紀京都画壇の革新者でした。 写生に基づく応挙の絵は、当時の鑑賞者にとって、それまで見たこともないヴァーチャル・リアリティーのように眼前に迫ってきたのです。応挙の絵は、二十一世紀の私たちから見れば、「ふつうの絵」のように見えるかもしれません。しかしながら十八世紀の人たちにとっては、それまで見たこともない「視覚を再現してくれる絵」として受けとめられたのです。 

2025年11月7日金曜日

三井記念美術館「円山応挙」1



三井記念美術館「円山応挙 革新者から巨匠へ」<11月24日まで>

 

 円山応挙――本展副題通りの「革新者」にして「巨匠」、饒舌館長がもっとも尊敬する江戸時代画家の一人です。何しろ饒舌館長の卒論は「円山応挙試論」だったですから(!?) その応挙に焦点を合わせた大展覧会が三井記念美術館で開催中です。ゲストキューレーターは御存知!!山下裕二さんです。 

 山下さんはカタログに「いまこそ、応挙の真価を問うために」という巻頭論文を寄稿していますが、このタイトルに本展覧会の趣旨が端的に表現されています。この観点から山下さんがキューレーションを行なった特別展なです。僕は「山下応挙展」というネーミングを捧げつつ、先月NHK青山文化講座「魅惑の日本美術展」で紹介したところです。山下さんの巻頭論文は皆さんでお読みいただくことにして、ここでは館長の清水真澄さんが寄せた「ごあいさつ」をアップすることにしましょう。  

2025年11月6日木曜日

國華清話会2025年秋季特別鑑賞会6


  チョッと脱線してしまいましたが、そのベルツ・コレクションのなかに雪庵の「松雲仙境図」という力作があり、強く印象に残っていたことも由一における雪庵の重要性に気づかせてくれた理由でした。その後、雪庵の作品に逢着する機会がなかったこともあって、平林寺にこんな雪庵の優作が収蔵されていることを知驚いたというわけなです 

驚いただけではありません。僕は「雪庵のもとで中国画の合理的視覚に触れたことが、洋画へ進むための基盤を用意したのだ」という進化論的推測「狩野派と明清画風」章の最後に書いておいたですやはりそれが間違っていなかったことを、この牧谿に倣った雪庵の「寒山拾得図」が証明してくれたので 

もっとも拙論執筆当時は、もっぱら「北派」を念頭に置いていたわけですから、「中国画」に禅宗絵画の牧谿まで含めてしまうと、またまた我田引水、拡大解釈になってしまうかな´艸`) 

2025年11月5日水曜日

國華清話会2025年秋季特別鑑賞会5


 それ以前に、リンデン美術館所蔵アーウィン・フォン・ベルツ博士日本絵画コレクションを、ハイデルベルク大学において調査する機会がありましたそのときの大事件(!?)については、かつてアップしたことがあるように思いますが……。 

帰国1週間前の木曜日になりましたが、調査すべき作品はまだ山のように残っています。仕方がないので、助手のアンジェラを先に帰し、夜の9時近くまで一人で続けていました。さて僕もホテルに戻ろうと思って裏口のところへ行きましたが、つねに内側からは出られるものと思っていたその扉鎖錠されていて押せども引けども開かないです。職員はみんな帰宅していて、もう誰もいません。つまり閉じ込められちゃったんです‼ 

当然お腹が空いてきたので、表口のところで夕涼みをしていたトルコ人家族に、鉄格子越しにお金を渡しマックを買ってきてもらい、食べ終わると先の『日本画家辞典』を枕にして一夜を明かしです。翌朝アンジェラがやってきたので顛末を話すと、「それはラッキーだった」と笑うじゃありませんか。「もし今日の金曜だったら、3泊しなければいけなかったところよ」 

2025年11月4日火曜日

國華清話会2025年秋季特別鑑賞会4

 

 

 沢田章『日本画家辞典』によると、吉澤雪庵は父を鎮之進といい、江戸の人、文政2年(1819)3月28日に生まれ、明治22年(1889)に71歳で没しました。画法を遠坂文雍に学び、よく山水花鳥を描いたとあります。ちなみに明治22年は、『國華』が創刊された年です!!  

文雍は谷文晁の弟子ですから、雪庵も文晁系の画家ということになります。高橋由一の『履歴』によると、雪庵も文晁と同じく田安徳川家に仕えていたようです。いずれにせよマイナーな画家ですが、僕にとっては忘れることのできない大切な画家です。 

というのは、先の高橋由一が若いころ雪庵に師事していたからです。由一について一編の拙論を書き、辻惟雄編『幕末明治の絵画』(ぺりかん社)に載せてもらったとき、由一の雪庵師事には重要な意味があったことに気がついたです。当時、雪庵は「北派」に分類されていましたが、由一は全盛を誇っていた南画ではなく、あえて「北派」を選択したことに興味を覚えたのです。 

2025年11月3日月曜日

國華清話会2025年秋季特別鑑賞会3

 

 「僕の一点」は吉澤雪庵の「寒山拾得図」ですね。大きな絹本の掛幅です。右側の拾得は岩を硯にして墨を摺り、左側の寒山は筆を右手に持って岸壁に文字を書こうとしています。拾得の後には、チョット羅漢のように見える豊干禅師が座って寒山の方を見ています。これを見てすぐ思い出すのは、上に掲げた牧谿の「寒山拾得図」です。その図様から見て、雪庵が牧谿の「寒山拾得図」をもとにしたことは明らかです。 

もちろん雪庵は背景などをかなり変えていますが、牧谿の作品なくしてこれを描くことは不可能です。しかしこんなことをルル述べるよりも、画面左下にある「丙寅桂秋既望 法宋人牧渓筆 雪庵文行」という落款がそれを教えてくれています文行は雪庵の名、丙寅は慶応2年(1866)に当たります。落款の左脇に大きな「聴雨軒」白文方印と、「晴雨閑房」朱文方印が捺されています。雪庵のとても優れた大作です。雪庵の傑作とたたえるも不可ないでしょう。 


 

三井記念美術館「円山応挙」3

   そんな応挙の画風は瞬く間に京都画壇を席巻し、当代随一の人気画家となりました。そして、多 く の弟子たちが応挙を慕い、巨匠として円山四条派を形成することとなりました。   豪商三井家が応挙の有力な支援者であったことから、当館には良質な応挙作品が複数収蔵されています。このうち本...