2018年1月19日金曜日

千利休と茶の湯4


初め抹茶は薬用とされたようだが、そのもとになった中国では、早く禅宗と結びついていたために、我が国でも禅宗寺院における茶礼として発展することになった。茶禅一味という思想がその基底を支えていた。

ところが、鎌倉末期から南北朝時代に入ると、抹茶は禅林を飛び出す。幕府を中心とする政治権力との結びつきを強めて書院会所の茶となり、これが室町時代へと受け継がれる。中国から輸入された美的道具類――唐物を賞玩する唐物趣味のうちに抹茶も組み込まれたのだが、唐物を所有するのは権力者であった。唐物が権力を担保した。ここに茶の湯は政治的かつ経済的効用を強めることになった。

もっとも、この時代を代表する足利義満が、太政大臣にして征夷大将軍という名実伴う権力者であるとともに、天山道有と号する禅僧であった事実に象徴されるごとく、宮廷と幕府と禅林は結びついていたという方が正しいかもしれない。

2018年1月18日木曜日

千利休と茶の湯3


ツバキ科の常緑低木である茶の木は、中国南部の四川、貴州、雲南など、霧の多い地域の原産である。その地方では紀元前後すでに飲茶の習慣が生まれており、これが茶道の原点であるとされるが、強い反対論があるのはおもしろい。やがて唐の時代を迎えると、喫茶の風習は大いに流行し、都の長安では喫茶店が賑わいを見せ、寺院では座禅を眠気から守るために茶を飲むことが行なわれるようになったという。

そのような喫茶流行の中から、陸羽の『茶経』が誕生したのである。この風習は遣唐使によって我が国にもたらされ、奈良・平安時代を通して宮廷貴紳の間に少しずつ広まっていった。

しかしこれが特に盛んになったのは、鎌倉時代に入ってからであって、その功績は栄西に帰せられる。栄西は中国から茶種か茶苗を持ち帰ったといわれるが、その前に最澄が携えてきたようであるから、むしろ栄西は抹茶法を伝えた恩人として記憶されるべきであろう。それ以前は茶葉を団子状に固めた団茶などが中心であったから、栄西による抹茶の請来が、我が国茶の湯文化を生み、発展させたと言っても過言ではないだろう。

2018年1月17日水曜日

千利休と茶の湯2


 茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序のローマン主義を諄々と教えるものである――と岡倉天心は喝破した。一九〇六年(明治三九年)、英文で『茶の本』を著わした天心は、その本質を「不完全なもの」を崇拝することに見出し、人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てだと規定した。

侘び茶の大成者千利休がまとめたと伝えられる利休百則にある「茶の湯とはただ湯をわかし茶をたてて呑むばかりなり」という一条が茶道の根本であったとしても、天心はそこに哲学的あるいは近代的解釈を施して、欧米の知識人に茶道を理解せしめようと試みたのである。

いや、茶道を通して東洋を理解せしめようとしたと言った方が正しいであろう。近代的西欧思想の洗礼を受け、その信者として育ってきた我々も、天心を通して茶道を理解することになる。

2018年1月16日火曜日

千利休と茶の湯1

 昨秋出版された『國華』1463号は、「千利休と茶の湯」という特集号でした。この分野の研究をリードする熊倉功夫さんに編集をお願いした結果、素晴らしい内容の特集号に仕上がりました。改めて一読をお勧めしたいと思います。
 編集担当となった僕は、「特集にあたって」という巻頭言を書かなければならないハメになったので、グッドチャンスだと思い、茶の湯私感を披露することにしました。小林主幹からは、「アンタのはいつも長すぎるよ」と言われているのですが、つねに内容の紹介というより、私見の紹介ということになっちゃうので、どうしても長くなっちゃうんです(!?) お許しくださいませ。
 裏表2ページを使いましたが、それでもちょっと欲求不満で、厚かましくもさらにちょっと加筆したものをこの「饒舌館長」に紹介させていただきたく、よろしくお願い申し上げます(笑) 特集号の詳しい内容は、[国華]で検索するとHPが出てきますので、そちらでチェックしてくださいね。

2018年1月15日月曜日

前方後円墳15


仙厓にも神道を重視する思想がありましたから、東嶺の神儒仏合一とは、思想的にも結びつくことになります。さらに、神道への傾倒は、仙厓の師祖、つまり先生の先生にあたる古月禅材にまでさかのぼるそうです。

 もし前方後円墳と仙厓の「○△□」を結びつけるとすると、上記の解釈のうち、もっともふさわしいのは、いうまでもなく①ですね。我が国へ仏教が伝来した時期を考えると、②以下の解釈は前方後円墳と関係づけることがむずかしくなります。

先の『前方後円墳の謎』によると、前方後円墳は、○と□ではなく、○と△と□を組み合わせたものであるという考え方の方が、実情に合致しているようです。これにしたがえば、前方後円墳も宇宙の根源的形態としての最も単純な三つの図形を基本としていると、ごくごくシンプルに考えることもできそうです。

 それはともかく、泉さんによれば、上記のごとく「○△□」の解釈に呻吟すること自体、すでに仙厓がこの図に仕掛けた「罠」にはまっていることになるのです(!?)


2018年1月14日日曜日

前方後円墳14


先に仙厓の「○△□」を挙げましたが、これについてもちょっとおしゃべりすることにしたいと思います。これは出光美術館がたくさん所蔵する仙厓義梵の作品のなかでも、一番よく知られた傑作でしょう。しかしこれが何を象徴しているかについては、さまざまな意見があります。畏友・泉武夫さんは、学研版『日本美術全集』23<江戸の宗教美術>にこれを登載し、すでに唱えられている4つの説を紹介しています。

①宇宙の根源的形態としての最も単純な三つの図形。②地水火風空識の六代思想を、地()、水()、火()のみで象徴したもの。③天台、真言、禅の三宗をあらわしたもの。④儒仏道の三教一致を示したもの。

これらに加えて泉さんは、神儒仏合一をあらわしたものではないかと考えています。三島の龍沢寺には、白隠の高弟である東嶺の筆になる「神儒仏三法合図」があって、△が○に、□が○に包摂されるような曼荼羅風図形が見出されるからです。


2018年1月13日土曜日

前方後円墳13


つまり、もの・人・情報のネットワークというシステムをたゆみなく再生産していくために、列島の首長層は3世紀中ごろに大和地域の首長層を中核として、政治的に結びつきました。しかし確実に訪れる首長の死が、そのようなつながりを瓦解させないために創出された観念装置が、前方後円墳であったと広瀬さんは結論付けています。

先に卑弥呼を挙げましたが、推古天皇に匹敵する女帝は中国歴史上存在しませんでした。100年ほどあと、唐に則天武后が現れましたが、比較してみるとおもしろいでしょう。推古天皇がすぐれた天皇であったことは疑いありませんが、則天武后だって善政を行なっているんです。しかし、その後における両者の評価は天と地ほどに異なり、則天武后は悪女の代表みたいになってしまっています。

ここに僕は、中国と日本におけるジェンダー・ギャップの違いを感じざるをえません。誤解を恐れずにいえば、中国は男性中心の社会であり、日本は女性中心の社会、少なくともそれがジェンダーとして、遅くまで残っていた社会でした。則天武后は男性中心の社会によって、評価を下され、おとしめられ続けてきたのです。

もし前方後円墳に関する私見が認められるとすれば、そこには女性中心の日本文化、僕がいうところの手弱女ぶりの日本文化が、早くも顔をのぞかせていることになるのですが(!?)

千利休と茶の湯4

初め抹茶は薬用とされたようだが、そのもとになった中国では、早く禅宗と結びついていたために、我が国でも禅宗寺院における茶礼として発展することになった。茶禅一味という思想がその基底を支えていた。 ところが、鎌倉末期から南北朝時代に入ると、抹茶は禅林を飛び出す。幕府を...