2023年2月28日火曜日

『美術商・林忠正の軌跡』12

 「第Ⅱ部 林忠正を読み直す」は高頭麻子さんが執筆しています。その「第1章 明治日本の美術政策と林忠正の活動」は「16祭りの後――美術館構想も潰え」で閉じられています。林忠正という抜きんでたコスモポリタンの最後を、高頭さんはつぎのように書き出しています。

こうして、林はパリ万博には全力を尽くし、その結果も大成功と満足したと思われるが、祭りの後に残ったのは、弟の死、ジャポニスムの終焉と親しい友人達の死、パリの店存続の見込みの消滅、多くの負債、自分の日本・東洋美術コレクションの期待はずれの散逸、そして恐らくボロボロの健康状態であった。先に見た帰国後のインタビューで、林は、日本美術が売れなくなったので、1900年万博を機に店仕舞いを考えていたのに万博事務官長になって予定が狂ったと言っている。

 

2023年2月27日月曜日

『美術商・林忠正の軌跡』11

 

ここでベルツ先生に異を唱えるようで申し訳ないのですが、その美しい果実を毎日食べていると、やがて味覚自体も変化するのではないでしょうか。いくら日本・日本と声高に叫び、日本精神を堅持せよと主張している国粋主義者でも、毎日洋式に腰掛けていれば、やがて思想も欧米化するというのが持論なんです() 

10年ほどまえ「週刊 世界と日本」という週刊紙に、この持論を発表したことがあるんです。「和式トイレは日本文化の誇り」というタイトルがつけられちゃっていましたが、僕の趣旨はむしろ洋式によって思想も欧米化するという点にあったのです。

一応「機能的には洋式に軍配だが……」という副題は加えられていましたが、形式が内容や思想を規定することは、しばしば見られることではないでしょうか。いや、型の文化といわれることもある日本文化こそ、その典型かもしれません。


2023年2月26日日曜日

『美術商・林忠正の軌跡』10

 

 しかしこの問題は、チョット違った観点から考えることもできると思います。例えば、相異なる教理などを折衷し、調和させる「習合」という視点です。神仏習合のような……。あるいは和魂洋才や近代化といった視点もアリでしょう。

日本人は基本的に楽観主義的で、それが日本美術を大きく規定していると、尊敬する源豊宗先生は指摘しています。また日本人がフレクシビリティに富むことはもはや常識に属しますが、このような国民性から考察することも不可能ではないでしょう。近代以前における日本文化の骨格をなしたといっても過言ではない、中国文化の摂取学習と比較すれば、なおさらにおもしろいのではないでしょうか。

2023年2月25日土曜日

『美術商・林忠正の軌跡』9

 

福沢諭吉が『文明論之概略』のなかで次のように述べたのは、客観的にそれを指摘したものだったと思います。いかにも啓蒙家らしく、直接的批判を避けていますが……。かつて「高橋由一 江戸絵画史の視点から」(辻惟雄編『幕末・明治の画家たち』)という拙文を書いたとき、僕はこの指摘をもって〆としたのでした。 

試みに見よ、方今我が国の洋学者流、其の前半は悉皆みな漢書生ならざるはなし。悉皆神仏者ならざるはなし。封建の士族に非ざれば封建の民なり。恰あたかも一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し。

ヤジ「オマエの文章は、たいてい誰かの言葉や資料を引いてオチにしているが、自身の結論というものはないのか!!


2023年2月24日金曜日

『美術商・林忠正の軌跡』8

 もちろんこの問題は、当時の我が国知識人もチャンと気がついていました。夏目漱石は「現代日本の開化」(岩波文庫『漱石文明論集』)という文章のなかで、次のように述べています。

日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流で、その波を渡る日本人は西洋人ではないのだから、新しい波が寄せる度に自分がその中で食客いそうろうをして気がねをしているような気持になる。新しい波はとにかく、今しがた漸ようやくの思いで脱却した旧い波の特質やら本質やらも弁わきまえるひまのないうちに、もう棄てなければならなくなってしまった。……我々のやっている事は内発的でない、外発的である。これを一言にしていえば、現代日本の開化は皮相、上滑りの開化である。

 

2023年2月23日木曜日

『美術商・林忠正の軌跡』7

諸君! 諸君もまたここ30年の間にこの(西欧的)精神の所有者を多数、その仲間に持たれたのであります。西洋各国は諸君に教師を送ったのでありますが、これらの教師は熱心にこの精神を日本に植えつけ、これを日本国民自身のものたらしめようとしたのであります。しかし、かれらの使命はしばしば誤解されました。もともとかれらは科学の樹を育てる人たるべきであり、またそうなろうと思っていたのに、かれらは科学の果実を切り売りする人として取り扱われたのでした。かれらは種をまき、その種から日本で科学の樹がひとりでに生えて大きくなれるようにしようとしたのであって、その樹たるや、正しく育てられた場合、絶えず新しい、しかもますます美しい実を結ぶものであるにもかかわらず、日本では今の科学の「成果」のみをかれらから受け取ろうとしたのであります。この最新の成果をかれらから引き継ぐだけで満足し、この成果をもたらした精神を学ぼうとはしないのです。

 

2023年2月22日水曜日

『美術商・林忠正の軌跡』6

ハイデルベルク大学のローター・レダローゼ先生に頼まれ、1982年から3年間にわたり、夏休みを利用してこれを調査する機会に恵まれました。このときの愉快なエピソードは、かつて「饒舌館長」にアップしたことがあるように思いますが、調査の準備のため『ベルツの日記』を読んでみたのです。

それは当時の日本を知るためのきわめて重要な資料だと思いましたが、とくに興味を引いたのは、明治34年(19011122日、在留25周年を記念する祝典でベルツが行なった演説でした。このようなお目出度い席にはふさわしくないけれども……と断った上で、ベルツはつぎのように述べたのです。

 

2023年2月21日火曜日

『美術商・林忠正の軌跡』5

 

 これを読んで、饒舌館長は『ベルツの日記』(岩波文庫)の一節を思い出しました。黒田清輝に対する木々さんの指摘と、有無通じるところがあるように感じられたからです。

アーウィン・フォン・ベルツはドイツの医師ですが、いわゆるお雇い外人として日本に招かれ、明治9年(1876)はじめて日本の地を踏みました。そして日本人に最新の西欧近代医学を伝え教え、やがて日本近代医学の父とたたえられるようになった我々の大恩人です。

帰国するときに持ち帰った日本美術ベルツ・コレクションがシュツットガルトのリンデン美術館に所蔵されています。絵画だけで2700点ほど、これに工芸作品が加わります。


2023年2月20日月曜日

『美術商・林忠正の軌跡』4

華族という身分をもち、美術学校の教授、美術関係者として重きをなしていく黒田清輝は、この風土に掉さして、日本の洋画の指導者として君臨することになる。黒田は地位や身分を利用して、改革のある部分を成就させたかに見える。だが彼は「古い芸術」と闘った、印象派の精神も行動も理解してはいなかった。日本の近代絵画の祖、日本の印象派と言われる黒田は、ただ明るい色彩を齎しただけだったのではないだろうか。

 

2023年2月19日日曜日

『美術商・林忠正の軌跡』3

 

僕は編著者がとくに強調したかったという傍線部分を拾い読みするのではなく、興味をもったトピックを選んで読むことにしました。まず木々康子さんが執筆した「第Ⅰ部 史資料を通してみる林忠正の生涯」の「第4章 友人たち」から、「黒田清輝」を読んでみました。

黒田の遺言に基づき、遺産の一部で設立された美術研究所(東京国立文化財研究所)の元職員であり、黒田に関するエッセーを書いたり口頭発表をやったり、拙文をブログにアップしたことがある饒舌館長としては当然のことでしょう。木々さんは次のように述べています。



2023年2月18日土曜日

『美術商・林忠正の軌跡』2

こういったクレームが出ることを編著者も予想したらしく、「まえがき」を読むと「こんな分厚い本を精読する暇はない、という読者も多いと思われるので、特に強調したい部分には傍線を引いた」と断り書きがあります。

ページを繰ると、確かに所どころ傍線が引いてあって、編著者の思いやりに涙することになりますが、これを古本として売る場合、安くなってしまうんじゃ~ないでしょうか。アマゾンで古本を買う場合、「線引きあり」というのは必ず安くなっていますから()

以前、あるはずの岡本太郎『日本の伝統』が見つからないので、「線引きあり」というのを1円で買ったら、ほとんど全部に傍線が引いてありました。それなら重要じゃないところに線を引いた方が早いじゃないか!!

 

2023年2月17日金曜日

『美術商・林忠正の軌跡』1

 

木々康子・高頭麻子編著『美術商・林忠正の軌跡 18531906 19世紀パリと明治日本とに引き裂かれて』(藤原書店 2022年)

 コシマキには「未公刊書簡と史資料で辿るジャポニスム発信の先駆者の生涯 19世紀末の約30年間をパリに生き、日本美術の橋渡しに貢献した美術商・林忠正。仏語未公刊書簡の訳、および林家所蔵資料を駆使して、林忠正の生涯、そして同時代の日仏美術交流に新しい光を当てる」とあります。

コシマキに嘘偽りはなく、新しい光を当ててくださったのは感謝感激雨霰なのですが、何と713ページもあるんです。付録の部分を除いても600ページ――とても精読、いや通読なんかできるものじゃ~ありません。

2023年2月16日木曜日

東京美術俱楽部「富士山 芸術の源泉」口演12

 


これは畠堀さんが東海道線の黄瀬川鉄橋から見た風景と、ピッタリ合致しているそうです。つまり小田野直武の写生地点は黄瀬川跳ね橋の下流で、これに浮島沼辺りから見た愛鷹山の南西斜面図と、はるか西から見た富士山を合成したものだというのが、畠堀さんの結論なのです。となると、手柄岡持が見た小田野直武の富士山図と、秋田県立近代美術館所蔵本が同一の作品である可能性は、きわめて高いということになります。畠堀さん ありがとう!!!!!

跳ね橋というと、僕たちはまずヴァン・ゴッホを思い出しますが、直武の「富嶽図」も猿猴庵の挿絵もまったく違っています。両者の写真を虫眼鏡で見ても、饒舌館長にはよく理解できないのですが、どんな構造になっていたのでしょうか?


2023年2月15日水曜日

東京美術俱楽部「富士山 芸術の源泉」口演11

 

 この「饒舌館長」を読んでくださった畠堀さんから、小田野直武の「富嶽図」について早速メールを頂戴しました。この「富嶽図」とほぼ同じアングルの挿絵が、『東街便覧図略』巻5(名古屋市博物館資料叢書3<猿猴庵の本> 同博物館発行 2016年)に載っているとのこと、画像まで添付して送ってくださったんです。確かに同じアングルで、富士山と橋の位置関係もバッチリです。

しかも同書が引用する『東海道綱目分間之図』には、「きせ川のはねはし」の項に高力猿猴庵自身の詳しい説明が加えられています。少し分かりやすい表記に改めれば、「且つ此の辺りよりは富士の東面を見るなり。黄瀬川橋の上よりは此の山の洞真正面に見えたり」とあり、宝永第一火口が正面に見えると書かれているそうです。


 

2023年2月14日火曜日

東京美術俱楽部「富士山 芸術の源泉」口演10

 

答はズバリ、黄瀬川から見た富士で間違いないというものでした。これによって、絶対とはいえないかもしれませんが、岡持が見た直武の富士山図と秋田県立近代美術館本が同一の作品である可能性はグッと高まったのです。

畠掘さんのほかにも、いまだ疫病おさまらぬなか、たくさんの知人友人の方々が聴きに来てくださいました。皆さんありがとう!! なかにはジャスト3時に、饒舌館長の口演だけを聴きに来てくれた方もいらっしゃいました。お陰で空席もほとんどなくなったような気がしましたが、「人間はものを見たいように見る」というヤツかな()


2023年2月13日月曜日

東京美術俱楽部「富士山 芸術の源泉」口演9

 


もう一つは、これまた饒舌館長ベスト10に選んだ小田野直武の「富嶽図」(秋田県立近代美術館蔵)についてです。この富士山は黄瀬川きせがわからみた景だということになっています。手柄岡持てがらのおかもちが『寛政6年京都へ御使に登りし日記』に、黄瀬川から見た富士山を直武が洋風に描いて見せてくれたといった趣旨のことを書き残しているからです。狂歌師として有名な岡持は、もともと秋田藩江戸留守居役で、本名は平沢常富といいました。

しかし岡持が見たという直武の富士山図と、いま秋田県立近代美術館コレクションとなっている「富嶽図」が同じものかどうか、確証はありません。そこで畠掘さんに、秋田県立近代美術館本が黄瀬川から見た富士といえるかどうか、質問してみたんです。

2023年2月12日日曜日

東京美術俱楽部「富士山 芸術の源泉」口演8

終ったあと、親しくお話しする機会があり、二つの点について畠掘さんの意見をうかがってみました。一つは今回マイベスト10の一つにも選んだ与謝蕪村筆「富嶽列松図」についてです。かつて僕は、前景の列松について三保の松原だと勝手に思い込んでいました。

しかしその後、静岡県富士山世界遺産センターで展示を拝見していたところ、これは三保の松原ではなく、千本松原とみた方がいいのではないかと思いついたんです。その後この推定を拙文「蕪村横物三部作試論」(『國華』1503号)にも書いてしまいました。この点を畠掘さんに確認すると、確かにその通りだというお答え――僕は「ヤッター」という気分になりました。

 

2023年2月11日土曜日

東京美術俱楽部「富士山 芸術の源泉」口演7

今日の研究的収穫はじつに大きいものがありました!! 畠堀操八さんが聞きに来てくださったからです。畠堀さんは富士の村山古道を復元して、現代によみがえらせた富士山のオーソリティです。3年ほど前、畠堀さんの人間的魅力と汗の結晶ともいうべき著書『富士山・村山古道を歩く<新版>』を、「饒舌館長ブログ」で紹介いたしました。もう一度アクセスしていただければ、うれしく存じます。

 畠堀さんはいま「近現代富士山データベース」の構築に、全力で打ち込んでいます。「体力と脳味噌のどちらが先に尽きるか」と冗談を飛ばしながら……。このオーソリティが、一番前の席で饒舌館長の口演を聞いてくださったんです。感激しないはずはありません。 

2023年2月10日金曜日

東京美術俱楽部「富士山 芸術の源泉」口演6


はじめに松島さんから饒舌館長の紹介がありましたので、予定の50分でピタッと終了――やんやの喝采のうちに幕を閉じたのでした。あまりにうまくいったので、もうこれからはこのスライドショー方式でやろうと心に決め、そのあと松島さんの解説を聞きながら、別室の企画展を拝見しました。大いにしゃべり、勉強もしたせいでしょうか、帰宅してやった長崎佐世保・潜龍酒造の濁り酒「白星」が五臓六腑に染み渡ったことでした!! 

現在一般的なこういう濁り酒が、先日アップした吉原宿の名物である山川白酒と同種の酒なのか、あるいは別物なのか、ご存知の方がいらっしゃったら是非お教えくださいませ!! 

 

2023年2月9日木曜日

東京美術俱楽部「富士山 芸術の源泉」口演5

 「江戸絵画史の富士山図 饒舌館長ベスト10」となれば、当然ながら谷文晁が登場することになります。そこで今回は静岡県富士山世界遺産センターが所蔵し、展示もされている「富士山図」を選びました。出来映えがすぐれていることはもちろん、享和元年(1801)の年記があり、文晁のお父さんである漢詩人・谷麓谷のすばらしい七言絶句賛が加えられているからです。主催者に対するソンタクも若干あったかな() 麓谷賛の戯訳は配布資料に載せましたが、改めて紹介することにしましょう。

  一夜天功聞古今  神の一夜の創造は 世に知れわたる昔から

  名山高矣太湖深  そびえる富士と 麓なる 大きく深き湖よ!!

  今図岳様臨澄水  今 山容を描かんと 墨 山頂の水で磨りゃ

  定是游山共慰心  登山の思い出よみがえり きっと心も和なごむだろう


 

2023年2月8日水曜日

東京美術俱楽部「富士山 芸術の源泉」口演4

 

しかし今回はPPTのファンクションですから、饒舌館長にソンタクするはずもありません。話の途中であろうと何であろうと、3分経てば次のスライドにいっちゃうんです。もっとも生身のコチトラは3分でピタッと終るはずもなく、どうしても話は次のスライドまで食い込んでしまいます。

すると松島さんが、親切にも手動で前のスライドに戻すので、「絶対に戻さないでください!!」とお願いして、あとは1スライド3分でしゃべりにしゃべりまくりました。途中で持参のミネラルウォータで喉をうるおし、「これはただの水じゃ~ありませんよ。<いいちこ>の水割りです。いや、今日は<黒霧島>だったかな?」というお馴染みのジョークで笑いを取りつつ……。

2023年2月7日火曜日

東京美術俱楽部「富士山 芸術の源泉」口演3

 

しかしこれだと饒舌館長の場合、はじめの方でしゃべりすぎ、あとの方は駆け足になっちゃうんです。いや、ひどいときは途中で打ち切りということになります。

去年は「静嘉堂@丸の内 饒舌館長ベストテン」みたいな口演をずい分やりましたが、最初に出てくる国宝「倭漢朗詠抄 太田切」を延々としゃべるために、最後は尻切れトンボという仕儀に相成ります。いくら注意していても根が饒舌館長ですから、そうなっちゃうんです。

仕方がないので、この間やった口演では、司会者にスライドは3分で必ず次に進んでくださいとお願いしました。しかし司会者としては、やはりしゃべっている饒舌館長にソンタクせざるを得ないらしいんです()

2023年2月6日月曜日

東京美術俱楽部「芸術の源泉 富士山」口演2

 

与えられた時間は50分――これでベスト10ですから、饒舌館長にとってはきわめて厳しい!! しかも狩野博幸さんの名言「予定の講演時間は絶対に延長してはならない」という命題が加わるわけですから、これはもう「如何ともし難い」というヤツです。

仕方がないので松島さんにお願いし、1スライド3分、15スライドで45分というスライドショーに設定してもらいました。昭和45年(1970)最初の講演をやって以来、はじめてのチャレンジです。それにしたがって闇雲にしゃべることにしました。

もちろんこれまでは、スライドを映しながらしゃべり、しゃべり終わると次のスライドに進むという普通のやり方でした。

2023年2月5日日曜日

東京美術俱楽部「富士山 芸術の源泉」口演1

 

すでにアップしたところですが、 静岡県富士山世界遺産センター主催・世界遺産富士山登録10周年記念特別企画展「富士山 芸術の源泉」が東京美術倶楽部で開催されています。これにちなんで今日24日(土)午後1時から講演会が開かれました。饒舌館長は3時から「江戸絵画史の富士山図 饒舌館長ベスト10」と題して講演、いや、口演をやって先ほど帰宅したところです。

静岡県立美術館の浦澤倫太郎さん、静岡県富士山世界遺産センターの松島仁さんに続いて、いよいよ真打登場です() 

2023年2月4日土曜日

太田記念美術館「広重おじさん図譜」2

チラシには「あなたの<推しおじ>は誰?」とあります。「饒舌館長の<推しおじ>」は江崎屋版「東海道五十三次之内」――俗称「行書東海道」の「吉原」に登場する、店先の床几に腰掛けたおじさんですね。どうしてかって? うまそうに飲んでいるのが白酒だからですよ() 

その横には「名物 山川白酒」という大きな看板が出ています。山川白酒とはつまり白酒のことです。山から流れる急流が泡だって白酒のように白く見えるところから、白酒を「山川白酒」とか「山川酒」と呼んでたたえたそうです。

ネットで検索すると加藤百一さんの「江戸府内名酒考覚書 江戸の白酒」という論文がヒットしました。それによると、富士山南麓にある東海道五十三次の宿場・吉原は(山川)白酒で有名で、「白酒のうまみは富士の腰にあり」という川柳が紹介されていました。


2023年2月3日金曜日

太田記念美術館「広重おじさん図譜」1


 太田記念美術館「広重おじさん図譜」<326日まで>

 チラシに曰く「風景画の名作を数多く描いた絵師、歌川広重。広重の絵をよく見ると、なんとも味わい深い人物たちがたびたび登場することに気づきます。本展は彼らのことを親しみと愛着をこめて、あえて<おじさん>と呼び、その魅力を眺めてみようという企画です。無垢な笑顔のおじさん、仕事をがんばるおじさん、グルメを楽しむおじさん、ピンチであわてるおじさんなど、広重の描くおじさんたちは見れば見るほど個性豊かで、愛嬌に満ちた存在であることがわかります。」

 昨日アップした渡辺京二先生の『逝きし世の面影』が教えてくれる「ある一つの文明」を、このおじさんたちもよく体現していることに感を深くしながら会場をめぐりました。

2023年2月2日木曜日

追悼 渡辺京二先生

 去年の12月25日、尊敬して止まない渡辺京二先生が92歳でお亡くなりになりました。心よりご逝去を悼み、ご冥福をお祈り申し上げたいと存じます。5年ほど前、先生の代表的著作である『逝きし世の面影』へのオマージュを「饒舌館長」にアップしたことがあります。それを「おまとめ版」にして再録し、追悼の辞に代えさせていただきましょう。すでに読んだ方はスルーしてくださいませ。

渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー 2005年)

先に渡辺京二さんの『逝きし世の面影』から「ネコ」の箇所を引きましたが、この名著を改めて紹介したいと思います。1930年生まれの日本近代史家・渡辺京二さんが、近代以降の日本が失ってしまったもの――つまり幕末明治までは確かに存在していた我が国の美しさや素晴らしさを掘り起こし、その意味と背景を虚心坦懐に、一切の先入観なく考察した大著です。

その際、渡辺さんがとった方法は、近代に入って我が国へやってきた異邦人による膨大な著作を渉猟し、それを素直に読み込むことでした。このような方法論の根底について、渡辺さんは次のように述べています。

滅んだ古い日本文明の在りし日の姿を偲ぶには、私たちは異邦人の証言に頼らねばならない。なぜなら、私たちの祖先があまりにも当然のこととして記述しなかったこと、いや記述以前に自覚すらしなかった自国の文明の特質が、文化人類学の定石通り、異邦人によって記録されているからである。文化人類学はある文化に特有なコードは、その文化に属する人間によっては意識されにくく、従って記録されにくいことを教えている。この場合、文化とは私のいう文明とほとんど同義である。幕末から明治初期に来日した欧米人は、当時の日本の文明が彼ら自身のそれとあまりにも異質なものであったために、おどろきの眼をもってその特質を記述せずにはおれなかった。しかも、これまた文化人類学の定石通り、彼らは異文化の発見を通じて、自分たちの属する西洋文明の特異性を自覚し、そのコードを相対化し反省することさえあった。もちろん彼らの自文化に対する自負は、いわゆる西欧中心主義なる用語が示すように強烈であった。その意味では、ごく少数の例外を除いて、彼らのうちで、日本文明に対する西洋文明の優越を心から信じないものはなかった。だが、それゆえにこそ、そういう強固な優越感と先入観にもかかわらず、彼らが当時の日本文明に讃嘆の言葉を惜しまず、進んで西欧文明の反省にまで及んだことに、われわれは強い感銘を受けずにはおれない。

 それでは、渡辺さんがこれを著わした意図をどこのあたりに求めればよいのでしょうか。これについても、渡辺さんみずから語るところです。

私の意図するのは古きよき日本の愛惜でもなければ、それへの追慕でもない。私の意図はただ、ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。外国人のあるいは感激や錯覚で歪んでいるかもしれぬ記録を通じてこそ、古い日本の文明の奇妙な特性がいきいきと浮かんで来るのだと私はいいたい。そしてさらに、われわれの近代の意味は、そのような文明の実態とその解体の実相をつかむことなしには、けっして解き明かせないだろうといいたい。

 だからこそ、渡辺さんは異邦人が見出した幕末明治日本の欠点や唾棄すべき点にも、ちゃんと目配りを施しています。驚くべきことに、日本人の心の温かさや慎み深さをたたえる「親和と礼節」の章が、渡辺さんの言葉を借りれば、「ダークサイド」から書き起こされているのです。

以前、日本へのオマージュばかりを集めた本を読んだとき、そんなはずはないだろう、きっと来てみて日本が嫌いになったヨーロッパ人や、悪口をいったアメリカ人もいたにちがいないと思ったものでしたが、渡辺さんはそれも抜かりなく指摘しているんです。

渡辺さんのしなやかな感覚と深い教養に裏打ちされたバランス感覚に、ただただ頭が下がるばかりです。しかも渡辺さんは、アフターフォローを加え、あるいは彼らの批判や嫌悪に因ってきたる理由があったことを解き明かして、僕たちを救ってくれます。

 例えば、書記官として英国大使館に赴任したミットフォードは、父宛の手紙に、「私はどうしても日本人が好きになれません。中国人のほうがつき合うにはずっと気持ちのいい国民です」とか、江戸は風景の美しい街だけれども、壮麗な建造物は全然見当たらず、街並みじたい、家畜小屋が何列も並んでいるようなものだとか、はじめは悪態をついています。

しかし、ミットフォードは間もなく江戸に魅力を感じ、日本人に好感をもつようになりました。晩年に書かれた『回想録』は、バラ色の日本追想で彩られているそうです。

あるいは、乞食の有無という問題も、欧米人の興味を掻きたてたそうです。日本に乞食はいないという言説が流布していたからです。そんなことがあるはずもなく、当時の日本に乞食がいたことは事実です。しかし、例えばかのケンペルがいう「乞食」とは、今日的な意味での乞食ではなく、正しくいえば遊行する人々であって、お伊勢詣や巡礼、比丘尼、山伏、旅芸人が含まれていると、渡辺さんは見抜いてしまうのです。

いずれにせよ、徳川期の乞食は、欧米人観察者が故国で知っていた工業化社会における乞食とは、異なる社会的文化的文脈に属していたと、渡辺さんは考えています。これだけでもホッとした気持ちになりますが、渡辺さんは次のような疑問に対する回答として、日本人の親和と礼節という話を始めるのです。

欧米人観察者が日本の古き文明に無批判でなかったこと、それどころかしばしば嫌悪と反発を感じさせさえしたことは、以上のような事例を一瞥しても明らかである。しかしその批判者が同時に熱烈な讃美者でありえたのはどういう理由によるのだろうか。日本のさまざまなダークサイドを知悉しながらも、彼らは眼前の文明のかたちに奇妙に心魅かれ続けたのである。彼らが書いていることを読むと、「この楽園には蛇がいないのではない」と承知したうえで、なおかつ日本を「妖精の国」[エルフ・ランド]などと形容したくなる気持が手にとるように了解されてくる。

 先にミッドフォードを引きましたが、欧米人の日中比較も興味深いところです。もちろん渡辺さんがスルーすることなどありません。特に、日本人の清潔さを強調するとき、欧米人観察者の念頭には、もう一つ中国という対照がありました。中国に比べれば、日本は天国だという感想を述べている欧米人は、カッテンディーケをはじめ、多くて挙げきれないほどだそうです。

しかしここでも、渡辺さんは「自分のちっぽけな『愛国心』を満足させたいわけではない」と、沈着冷静そのものです。それどころか、ペリー艦隊に随行したウィリアムズのような中国びいきの欧米人をちゃんと登場させます。それにもかかわらず、欧米人に対する中国民衆の敵対的反応があった事実も明らかにするのですが、それは欧米人自身の侵入が招いた結果であって、その因果関係をまったく顧慮しないボーヴォワルをちょっとたしなめています。

そして最後に、中国南部海岸のひどい気候条件や、あまりに異質な中国の風土を――つまり人間の性質や観念ではなく、自然条件を挙げています。渡辺さんて何とすごい人間なんだろうと、さらに感銘を深くします。

 このような渡辺さんの意図にもかかわらず、この文庫本で600ページに近い大著を通読したとき、僕は思わずにいられませんでした。やはり日本は素晴らしい国なんだ。江戸時代こそ理想的な時代だったんだ。僕は100年遅く生まれちゃったんだと……。明らかに渡辺さんの意図に反する読後感であることは百も承知ですが、こういった気持ちをぬぐうことはできませんでした。

そんなことを思いながら、「平凡社ライブラリー版あとがき」へと読み進めば、さらにはっきりと渡辺さんは語っているのです。

私はたしかに、古き日本が夢のように美しい国だという外国人の言説を紹介した。そして、それが今はやりのオリエンタリズム云々といった杜撰な意匠によって、闇雲に否認さるべきではないということも説いた。だがその際の私の関心は自分の「祖国」を誇ることにはなかった。私は現代を相対化するためのひとつの参照枠を提出したかったので、古き日本とはその参照枠のひとつにすぎなかった。

 これを読むとき、さらに心は深く動かされます。平川祐弘さんの「解説――共感は理解の最良の方法である」によると、渡辺さんは「九州に住む在野の思想史家」で、「学問世界の本道を進んだ人ではない」そうですが、今の言葉でいえば、インディペンデント・スカラーと呼ぶべき、偉大な思想家だと思います。むしろ学問世界の本道を自認しているような東京や、京都からも距離を置くインディペンデント・スカラーゆえに、このような独創的視点と思想が生まれたのでしょう。

かつて僕は、「ジャポニスムの起因と原動力」というエッセーを書いたことがあります。それは小林忠さんが監修した『秘蔵日本美術大観』の第3巻<大英博物館Ⅲ>(講談社 1993年)のためでした。

僕が言いたかったのは、ジャポニスムの原点には異国趣味があったと思われるけれども、それは決して単なるエキゾティズムなどと軽視されるべきものじゃないということでした。その時はまだこの名著を読んでいませんでしたが、僭越ながら、何となく通い合う視点でもあるように感じられたのでした。

 本書は「ある文明の幻影」から、「心の垣根」までの14章に分かれています。シルベスター・モースをはじめ、多くの異邦人を感動させた日本の美術・工芸に関する記述は、第5章「雑多と充溢」にまとめられています。しかし、第1章に出るエドウィン・アーノルドの演説に関するエピソードほど、おもしろいものはありません。アーノルドも日本の「美術」を褒めたたえたのですが、それに対して当時の日本人がいかに反応したか、その一節を引用しておくことにしましょう。

彼(チェンバレン)はその好例として、英国の詩人エドウィン・アーノルドが1889(明治22)年に来日したとき、歓迎晩餐会で行ったスピーチが、日本の主要新聞の論説でこっぴどく叩かれた話を紹介している。アーノルドは日本を「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ」と賞讃し、「その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙虚ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」と述べたのだが、翌朝の各紙の論説は、アーノルドが産業、政治、軍備における日本の進歩にいささかも触れず、もっぱら美術、風景、人びとのやさしさと礼儀などを賞めあげたのは、日本に対する一種の軽視であり侮蔑であると憤激したのである。

 最後に、ほとんどすべての欧米人が日本人最大の悪徳としてあげる飲酒についても、酒好き饒舌館長の僕は触れずにおれません。さすがの渡辺さんもこれにはお手上げらしく、弁護や考察はあきらめ、モースのユーモアに満ちた言葉を引いてお酒を、いや、お茶を濁しているのが愉快です。

 日本人は酒に酔うと、アングロサクソンやアイルランド人、ことに後者が一般的に喧嘩をしたくなるのと違って、歌いたくなるらしい。 

2023年2月1日水曜日

東京美術倶楽部「富士山 芸術の源泉」

 

 改めてお知らせいたします。ブッチャケいえば客引き行為かな() 

静岡県富士山世界遺産センター主催・世界遺産富士山登録10周年記念特別企画展「富士山 芸術の源泉」が東京美術倶楽部で開催されます。これにちなんで24日(土)午後1時から講演会が開かれ、饒舌館長は3時から「江戸絵画史の富士山図 饒舌館長ベスト10」と題して講演、いや、口演をやることになっています。

東京美術倶楽部といっても、業界以外の方には馴染み薄かもしれません。株式会社ですが、明治40年以来の伝統を誇る美術の殿堂であり、立派な東美ミュージアムをそなえています。地下鉄都営三田線・御成門駅からすぐです。まだ席に余裕がありますので、ふるってお申込みください!! もちろん無料です。講演は3つ、全部聞きたい方は1時においでください。口演だけを聞きたい饒舌館長ファンの方は3時に……()

渡辺浩『日本思想史と現在』7

しかし渡辺浩さんは、先行研究が指摘した二つの点について、高橋博巳さんの見解が示されていないことが、やや残念だとしています。その先行研究というのは、大森映子さんの『お家相続 大名家の苦闘』(角川選書)と島尾新さんの『水墨画入門』(岩波新書)です。 僕も読んだ『お家相続 大名家の苦闘...