2020年1月31日金曜日

アーティゾン美術館「見えてくる光景」11

 
 ここで誰しも抱く疑問は、食料の確保に多くの時間を用意しなければならなかった縄文時代、いかなる目的のために、このような配石 遺構や環状列石が作られたかということであろう。この時代は意外に食料が豊かで、人口も少なく、採集狩猟にそれほどの時間は取られなかったと考える研究者もいるが、たとえ この仮定に立ったとしても、明確な目的がなければ、このような構造物を造るはずがない。 『展示図録』によれば、大きく分けて三つの 目的や機能が考えられているようである。
第一は、人を埋葬するための墓である。環状列石を形づくる配石 (組石)は、大小さまざまな石を1mから2m程度の径や辺のある形に配列したものである。この発掘を主導した斎藤忠氏も、配石の下にある穴を土壙墓とし、配石はその標識的なものとみなしている(『原色日本 の美術』1<原始美術>)

2020年1月30日木曜日

アーティゾン美術館「見えてくる光景」10


野中堂環状列石の規模は径42m、万座環状列石は径48m、合計の90mが両列石間の距離という規則性があります。 環状列石を形づくる配石(組石)遺構は、内帯および外帯に一様に分布しているわけではなく、内帯が6群に、外帯は12または13群に群集しています。また、内帯内径の倍が内帯外径、内帯外径の3倍が外帯外径という整数倍の関係にあります。

二つの環状列石を形づくっている石の総数は、5000個から6000個に及ぶという。そのほとんどが石英閃緑羽岩で、遺跡から47kmも離れた安久谷川から運ばれたらしい。平均30kg、もっとも重いものだと200kg に及ぶ。『展示図録』は、これらが一年中随時運ばれたものではなく、橇が使える積雪期に運ばれた可能性を指摘しているが、いずれにせよ想像を絶するような労苦である。これまた想像を絶するような固い団結力が縄文人にあったとしても、 重労働であることには変わりない。

2020年1月29日水曜日

アーティゾン美術館「見えてくる光景」9


大湯環状列石は花輪から大湯へ向かう県道の 東西両側に広がっている。東側が野中堂配石遺構群、西側が万座配石遺構群であり、それぞれの中心に環状列石がある。考古学でいうクロムレックである。数列の立石からなるアリニュマンもあったにちがいないと思われたが、確認はできなかった。環状列石の構造と規模は重要な点であるから、大湯ストーンサークル館の『展示図録』から、そのまま引用しておこう。以下、基本的事実はほとんどこの『展示図録』によっている。

野中堂環状列石と万座環状列石は、ほぼ同一の構造で、いずれも12m規模の配石(組石)遺構100基以上が二重の環状に配置され、さらに内、外帯間の特殊な位置に「日時計状組石」1基がつくられています。また、万座環状列石の北、南、南南東には出入口があり、野中堂環状列石でも南、北北西方向の出入口が確認されています。

2020年1月28日火曜日

アーティゾン美術館「見えてくる光景」8


そこでは鹿角市教育委員会の大湯ストーンサ ークル館班長、藤井安正氏のお陰で、ゆっくりとすべてを観覧することができた。またたくさんのことを教えていただくことができた。 このようなわが国縄文遺跡を代表する大湯環状列石について、秋田の方々にはもっとよく知っていただきたいと思う。もっと誇りにしてもらいたいと思う。これなくして縄文時代の精神風土を理解することは不可能なのだ。その社会構造を推測することもできないのだ。

この遺跡が耕地整備中に発見されたのは、昭和6(1931) のことであるという。昭和26年には国の史跡、昭和31年には国の特別史跡に指定された。その後さらに発掘調査や整備事業が続けられ、平成14(2002)には体験学習施設、 大湯ストーンサークル館が開館し、多くの利用者を集めている。

2020年1月27日月曜日

アーティゾン美術館「見えてくる光景」7


大湯ストーンサークルにも深く心を動かされた僕は、そのあとすぐ美術館の紀要である『秋田美術』に、臆面もなく「秋田の美術によせて 原始美術」と題するエッセーを3回にもわたり書いてしまったんです。「臆面もなく」といいながら何ですが、その一部を臆面もなく紹介させていただくことにしましょう。

秋田にはすぐれた縄文時代の遺跡として、大湯の環状列石(ストーンサークル)がある。 私は一度是非見てみたいものだと思いながら、なかなかその機会に恵まれなかった。しかし去年の秋、ついに長年の夢がかなうことになった。鹿角市花輪の市民センターで、わが近代美術館の移動展を開くことになったからである。花輪からはそれほど遠くない。私は無理を言って時間を作ってもらい、開会式が済んでから案内してもらうことにした。

2020年1月26日日曜日

アーティゾン美術館「見えてくる光景」6


普通には許されない列石の中まで入れてもらい、国士舘大学の山本さんによる解説を聞きながら、僕は4000年前の巨石の肌を撫でていました。ドゥエイン・ロバーツさんという方も英語で説明してくれましたが、こちらの方はよく分かりませんでした(笑)ともかくも日本でいえば特別拝観で、その時の旅日記を引っ張り出してきてみると、「感動す!!」などと書いてあります。

というわけで、翌2004年の年賀状はストーンヘンジをモチーフにして作りましたが、このたびムアのリトグラフを見ると、やはりムアにはとても敵わないと思い知らされました(笑)その後、秋田県立近代美術館につとめた僕が、どうしても大湯ストーンサークルを実際に見てみたいと思ったのは、この時のストーンヘンジ体験があったからにほかなりません。

2020年1月25日土曜日

アーティゾン美術館「見えてくる光景」5



僕がストーンヘンジを見て、「すごいなぁ!!」と感じ入ったのは、2003612日のことでした。すでにアップしたことがあるように、この年初夏から夏にかけ、サバティカルイヤーを利用して、英国・ノリッジにあるセインズベリー日本芸術研究所で3ヶ月間を家族と過しました。お許しいただいた当時の所長さん、ニコル・ルマニエル・クーリッジさんには改めてお礼申し上げたいと思います。

ちょうどその時、イギリスとアイルランドを巡る国際縄文学会のツアーが企画されていたので、それに参加させてもらうことにしました。その前日は1768年創建というウィルトシャーのザ・キャッスル・ホテルに泊り、この日は5:30起床、用意されたバスにみんなで乗り込むと、ストーンヘンジへと向かいました。

2020年1月24日金曜日

アーティゾン美術館「見えてくる光景」4


綺羅星のごとく傑作が並び、名画が覇を競い合うようなアーティゾン・コレクションのなかでは、きわめて地味な作品ですが、すごくいい!! ムアといえば、何といってもパリにあるユネスコ本部の「横たわる人体」ですが、それと呼応するようなたくましい生命力を感じさせてくれます。

石に生命力を感じるなんて変じゃないかといわれるかもしれませんが、かつてストーンヘンジを実際に見て感じ取った、雄々しいエネルギーが的確に造形化されているんです。

現代彫刻の古典とも称されるムアの彫刻作品には、「大地から立ち上がるような生命力に満ちたイメージ」などというオマージュが捧げられますが、ストーンヘンジは文字通り大地から立ち上がっているじゃ~ありませんか!! それは石という無機物に、永遠の生命を見出してきた東洋の感覚とも共鳴しています。

2020年1月23日木曜日

アーティゾン美術館「見えてくる光景」3



もっとも、これにガーデンを加えて5つのGということもあるのですが、これはあれば望ましいといった副次的条件であって、都心のど真ん中にあるアーティゾン美術館にガーデンを求めることは所詮無理というものでしょう。

そもそもアーティゾン美術館の場合、基本的な4つは完全にして無欠といって不可なく、ガーデンの欠を補って余りあるものがあります。僕は公益財団法人・石橋財団の新美術館にかける意気込みを肌に感じながら、「コレクションの現在地」を心ゆくまで堪能したのでした。

「僕の一点」は、ヘンリー・ムアのリトグラフ作品「連作ストーンヘンジ」から選ばれた「バランスのとれたまぐさ石」と「光の裂け目」ですね。1973年の制作です。

2020年1月22日水曜日

アーティゾン美術館「見えてくる光景」2




新しい美術館のコンセプトは「創造の体感」。古美術、印象派、日本近代美術、20世紀美術、そして現代美術まで視野を広げます。アーティゾン美術館は、23階建て高層ビル「ミュージアムタワー京橋」の低層階に位置し、展示室は46階の3フロア、面積にして旧ブリヂストン美術館の約2倍に拡張され、最新の証明や空調設備を伴ない、美術の多彩な楽しみを提供していきます。



 美術館には4つのGが必要だというのが持論です。1に優秀なGAKUGEI-IN、2にGALLERY――鑑賞しやすい空間+すぐれた作品+いい照明、3にGOODS――そこでしか求めることができない魅力的なミューゼアムグッズ、4にGOURMET――美味しいレストランか洒落たカフェです。アーティゾン美術館には、この4つが完璧にそろっています。

2020年1月21日火曜日

アーティゾン美術館「見えてくる光景」1



アーティゾン美術館開館記念展「見えてくる光景 コレクションの現在地」<331日まで>(117日)

 1952年以来、日本のアートシーンにエネルギーを注ぎ込み続けてきたブリヂストン美術館は、5年ほど前から休館していましたが、このたびアーティゾン美術館という館名のもと、新しいスタートを切ることになりました。今日はその特別内覧会、静嘉堂文庫から同僚3人とともに、お祝いに駆けつけました。館長さんをはじめ、関係する皆さま方に、心からの祝辞をお贈りしたいと存じます。

「アーティゾン」の正式英語表記は「ARTIZON」――これは「ART」(アート)と「HORIZON」(地平)を組み合わせることにより、時代を切り拓くアートの地平を多くの方に感じ取っていただきたいという願いを込めた造語だそうです。チラシ――というにはあまりにも洒落たチラシの一節を、そのまま紹介しておきましょう。

2020年1月20日月曜日

丸山俊明『京のまちなみ史』3


町並みを把握するためには、洛中洛外図のように町全体を鳥瞰的に眺めるのが一番ですが、この本自体が鳥瞰的な構成と論述になっている点に、感を深くしました。

丸山さんは2編をさらに、「ヤマト王権の宮」「大和朝廷の京」「みだれたつ陪都」「平安京という都城」「平安京から京都へ」「秀吉の京都改造」「徳川政権の建築規制」「徳川政権の京都改造」「町人がまもるまちなみ」「近現代の京都」という10章の構成にし、各章をまた10節に分けて、100話読み切りに仕立てています。

いかにも几帳面な丸山さんらしいのですが、興味のある節から勝手に読もうとする読者にも便利でしょう。便利といえば、ちゃんと索引が用意されている点も挙げておきたいと思います。僕もこのごろとくに興味のあるゲニウス・ロキと関係のありそうな節から読み始めたというわけです。

ゲニウス・ロキという言葉は、鈴木博之先生の著書で知ったのですが、日本語でいえば「地霊」とか「土地の守護神」といった意味だそうです。すごく語感がいいし、ちょっと洒落た感じもするのでちょくちょく使いますが、ブッチャケていえば「風水」ですね( ´艸`)

2020年1月19日日曜日

丸山俊明『京のまちなみ史』2


江戸に富士塚があり、江戸を描く浮世絵に富士山が登場すること自体、やはり見える場所が限定されていて、貴重だったのではないかと、丸山さんは考えるのです。確かに駿河町の通りからはきれいに眺められたけれども、江戸城の富士櫓は三階櫓だったとも教えてもらいました。

言われてみれば、そのとおりでしょう。今度、写山楼谷文晁について書くときは、「現在に比べれば比較的容易に富士山を見ることができたかもしれないが……」という風に書き換えることにしたいと思います。丸山さん、ありがとう!!

一昨年、丸山さんは『京のまちなみ史 平安京への道 京都のあゆみ』という本を著され、僕にも送ってくださいました。「平安京への道」と「京都のあゆみ」の2編に分け、邪馬台国から現代の京都まで、京大和の都市計画の歴史――丸山さんの言葉によれば「まちなみ史」を、とても分かりやすく教えてくれる本です。

2020年1月18日土曜日

丸山俊明『京のまちなみ史』1



丸山俊明『京[みやこ]のまちなみ史 平安京への道 京都のあゆみ』昭和堂 2018

 丸山俊明さんは京都美術工芸大学で一緒に働いた朋友です。学生を指導して完成させた古建築の縮尺復元模型は、じつにすばらしいものでした。その後、丸山さんはびわこ学院大学短期大学部に移り、僕は静嘉堂文庫美術館へとらばーゆしましたが、いつのころかフェイスブック・フレンドとなりました。また今では、マイブログ「饒舌館長」の熱心な読者になってくれています。

先日、僕は静岡県立富士山世界遺産センター特別展「谷文晁☓富士山」のことをアップし、そのカタログに寄稿した「富士絵師文晁」の一節を引用しました。江戸時代にはどこからでも簡単に富士山が見えたにちがいないと思い込んでいた僕は、よく調べもせずにそう書いたのですが、丸山さんからフェイスブックでコメントが寄せられました。


2020年1月17日金曜日

江戸東京博物館「大浮世絵展」5


 しかしそれは、国芳の武者絵に限らない。美人画もまったく同様だ。このジャンルにおけるマニエラは喜多川歌麿だった。とくに二枚続きの「台所四美人」が、重要なイメージソースとなっていることが、井上和雄・鈴木重三両氏によって指摘されている。

 たとえば国芳の大首絵シリーズ「山海愛度図会」の「けむったい・丹波赤かゐる」もその一つだが、国芳の想像力によって何とマニエリスム化されていることだろうか。これを写実化とか庶民化などと見てはならない。私見によれば、歌麿の「婦人相学十岱躰」や「歌撰恋之部」もマニエラになったふしが強いが、国芳は勝手に振り返るポーズに変えて、マニエリスム化してしまう。

2020年1月16日木曜日

江戸東京博物館「大浮世絵展」4




歌麿の遊女絵がすばらしいことは改めていうまでもありませんが、ヌカミソくさい女房たちをかくのごとく艶やかに描き出した、歌麿という浮世絵師をどのように褒めたたえたらよいのでしょうか。

「僕の一点」に選んだ理由はもう一つあります。10年ほど前、畏友・稲垣進一さんから声がかかり、「没後150年記念 破天荒の浮世絵師 歌川国芳」展の企画委員に加えてもらいました。するとそのカタログにも、エッセー「国芳――幕末マニエリスムの画家――」を寄稿することになったのです。

これまた独断と偏見になったことはいうまでもありませんが、この歌麿の傑作と国芳作品との密接な関係から、国芳のマニエリスム的特質を明らかにしてみようとしたんです。その一節をそのまま引用することをお許しください。

2020年1月15日水曜日

江戸東京博物館「大浮世絵展」3


 
招待状にもあるように、「最も高い人気」「海外の美術館」「楽しんで」がこの特別展のコンセプトです。招待状にある国際浮世絵学会に、ちょっと関係しているから言うわけじゃ~ありませんが、絶対オススメの展覧会ですよ!! 何といっても、NHK文化センター青山教室で開かれている「絶対オススメ12選 魅惑の日本美術展」にも、ちゃんと選ばれているんですから!!

ヤジ「それってやっぱりオマエがやってるカルチャーじゃないか!?

「僕の一点」は、喜多川歌麿の二枚続き「台所(炊事)美人」ですね。歌麿寛政中期の作品で、早くから傑作の誉れ高く、吉田映二先生も「歌麿の生きた描線も溌剌と暢達さを見せて、布置の巧みさとともに配色の調和も巧妙で、まさに傑作といえる」と、賞賛の辞を送っています。

2020年1月14日火曜日

江戸東京博物館「大浮世絵展」2



2020年浮世絵イヤーは、江戸東京博物館の「大浮世絵展」で幕を開けることになりました。もっとも、オープンは去年の1119日だったのですが……。まずは、開会式・内覧会の招待状から、一部を紹介しておきましょう。

2014年に開催した「国際浮世絵学会創立50周年記念 大浮世絵展」では、浮世絵の通史を紹介し、大きな反響を呼びました。ふたたび開催する本展覧会では、浮世絵師の中でも、現在最も人気が高い喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重、歌川国芳の5人に絞り、そのエッセンスというべき作品を集めました。海外のメトロポリタン美術館、ボストン美術館、シカゴ美術館、ミネアポリス美術館、大英博物館、ギメ東洋美術、ベルギー王立美術歴史博物館を中心に、国内からも優品を集め、日本が誇るUKIYO-Eを楽しんでいただけますと幸いです。

2020年1月13日月曜日

江戸東京博物館「大浮世絵展」1


江戸東京博物館「大浮世絵展 歌麿・写楽・北斎・広重・国芳 夢の饗宴」<119日まで>

 『和楽』最新号の広告によると、今年は浮世絵イヤーとすでに決まっているようですね。それだったら、「饒舌館長」にもアップしたことがある「琳派400年記念祭」をパクって、「錦絵250年記念祭」とか何とか銘打って、大々的に仕掛けたらおもしろかったかな!! 

どうして今年が錦絵250年なのかって? 250年前の1770年――我が元号でいえば明和7年に、錦絵の創始者・鈴木春信が46歳で没しているからですよ。そんなのオマエが無理やり見つけてきたんじゃないの?と問われれば、もちろんそのとおりです。「琳派400年記念祭」だって、下田元美さんという天才的プロデューサーが無理やり見つけてきたんですから(!?) だからこそ、『朝日新聞』でちょっとオチョくられちゃったんです(笑)

浮世絵全体からみれば、やはり重要なのは春信より菱川師宣かもしれませんが、師宣が1694年に没したからといって、「浮世絵326年記念祭」じゃ~カッコ悪いじゃないですか(笑)

2020年1月12日日曜日

富士山世界遺産センター「谷文晁×富士山」6



古くから富士山が日本人以外からも賞賛されてきたという歴史、それをもって富士山の国際的価値を確認しようとしてきた、わが国の伝統を読み取りたい誘惑に駆られます。詹仲和の詩賛をともなう雪舟等楊筆「富士三保清見寺図」(永青文庫蔵)の子孫だといってもよいでしょう。

もっとも、松島さんはさらにおもしろい解釈を施していますから、興味のある方はぜひ先のカタログをお求めください‼ 最後に、富士山をたたえて琉球使節が詠まずにはいられなかった素晴らしい七言絶句を、またまた僕の戯訳で紹介することにしましょう。

  人間也有玉芙蓉  蓮花みたいに美しい 山もあるんだ‼ 世の中に
  積雪千秋不改容  積もった雪はそのままで 威容は同じ一年中
  地鎮扶桑称第一  日本一とたたえられ この天地[あめつち]をやすらかに……
  画工難写此山穠  どんな画家でも描けない この山 発するエネルギー

2020年1月11日土曜日

富士山世界遺産センター「谷文晁×富士山」5




あの理想化された富士を描き続けた横山大観が、『大観自伝』のなかで、ずっとあとからできた宝永山なんかは絶対描かないと述べていることが思い出されます。

この富士山図の意義をさらに高めているのは、二つの賛です。左側にあるのは、本居宣長の養子・大平の和歌賛「日本之山跡[やまと]の国のたからとも神ともあふぐやまと不尽[ふじ]の嶺」ですが、より一層興味深いのは、右側にある漢詩の賛です。

その詩の作者は款記により、琉球使節として江戸へやってきた琉球国官吏・鄭章観だと分かるのですが、筆者の署名はありません。しかし印章が2つ捺されていて、その一つから筆者は文晁が仕えた、かの老中・松平定信であることが判明するのです。これを明らかにしたのは、先の松島さんにほかなりません。

2020年1月10日金曜日

富士山世界遺産センター「谷文晁×富士山」4









  このようなエッセーを書かせてもらっただけじゃ~なく、「写山楼谷文晁 山を愛した時代の寵児」と題する口演までやらせていただくことになりました。いつものように、キーワード、マイベストテン、参考資料からなる配布資料を準備して臨みましたが、ジョークに対する打てば響くような反応は、明るく開かれた県民性や、皆さんが身につけているソフィストケートされたセンスを教えてくれたのでした。

「僕の一点」は、もちろん谷文晁の筆になる「富士山図」(静岡県富士山世界遺産センター蔵)です。落款書体から見て、文化年間前半期、いわゆる薄書き時代の優品です。文晁は五つ峰の理想化された富士を描いていますが、雲で宝永山を隠したところにも、理想化への強い意志を読み取ることができます。

2020年1月9日木曜日

富士山世界遺産センター「谷文晁×富士山」3



この「写山楼」には、文晁の野望ともいってよい、とてつもなく大きな希望が込められていたとみるべきである。それは富士山と同じく、日本一の画家になることであった。すぐれた画家になるとともに、社会的にも高く評価されることを意味した。両者は分かちがたく結びついていた。すぐれた作品を描けば、おのずと社会的評価も上がり、社会的評価が高まれば、またみごとな作品ができるといった、楽観的な芸術観だったといってもよいであろう。それだけ画家としての矜持や自負、プライドが高かったのである。

社会的評価への関心が高いことをもって、文晁の世俗的傾向を揶揄する見方もあるが、それが絵画制作へのモチベーションとなるならば、一概に否定することは正しくないであろう。いずれにせよ、純粋な文人画家に比べれば、文晁における社会性志向は高いといえるが、文晁作品の様式が、文人画系の南宗画と専門画家系の北宗画の混淆であったことを考えると、興味尽きないものがある。

2020年1月8日水曜日

富士山世界遺産センター「谷文晁×富士山」2


写山楼から霊峰富士が仰がれたことは、はじめに引用した一節にあるとおりだ。先の挿絵は壁で囲まれた室内をとらえており、富士山は反対側の窓からでも見えたのであろう。それを誇って、文晁は「写山楼」と名づけたのである。日本一高くそびえる富士が、日本文化の中でもひときわ高くそびえる重要なモチーフとして機能し、また日本そのものの象徴となってきたことは、ここに改めて指摘するまでもない。

『万葉集』は山辺赤人の絶唱「田子の浦ゆ打出でて見ればま白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」以来、富士山なくして日本文学も、日本美術も、そして日本文化も存在し得なかった。その富士がみずからのアトリエから見えることを、文晁が喜び、誉れとしないはずはない。しかし、階上の窓から富士山が見える家など、江戸時代であれば、それほど珍しくなかったはずである。

2020年1月7日火曜日

富士山世界遺産センター「谷文晁×富士山」1



静岡県富士山世界遺産センター「谷文晁×富士山――山を愛した時代の寵児」<22日まで>(15日)

 富士宮にある静岡県富士山世界遺産センターについては、去年の5月はじめてお邪魔した時の印象を、「饒舌館長」にアップしたように思います。ここの企画展示室で、特別展「谷文晁×富士山――山を愛した時代の寵児」が開かれています。江戸絵画史において文晁といえば富士、富士といえば文晁と相場が決まっていますが、学芸員の松島仁さんが渾身の力を込めて準備した、饒舌館長オススメの江戸絵画展です!!

 これに合わせて松島さんが編集したカタログは、決して厚くありませんが、内容の濃さたるや、きわめて高いものがあります。僕のエッセー「富士絵師文晁」が、錦上花を添えています――といいたいところですが、錦上枯れ尾花を添えているというべきかな? その一部を紹介させていただくことにしますが、興味を覚えた方は、ぜひカタログをお求めください。これがたったの1000円ですよ!! いま話題の寅さんなら、ここでヤシの売り口上が出てくるところですね( ´艸`)

2020年1月6日月曜日

服部南郭の春の詩6



また南郭が近体詩の平仄を誤るなど詩律を遵守しないことについて、同門の太宰春台から手きびしく批判されたことがある(「『蘐園録稿』の後に書す」、『紫芝園後稿』十。その他)が、この詩の起句・承句も平仄が合っていない。(略)起句では二六(龍と月)が対せず、孤平(江)があり、承句では下三平(金龍流)が認められ、両句は失粘[しってん](龍―揺、畔―湧)となっている。 

私見 頼山陽「詩論絶句」の「両岸の秋風 二州を下る」は、もちろん「夜 墨水を下る」の結句を引用したものですが、山陽の義理の叔父にあたる尾藤二州に、南郭は遠く及ばないとも読めそうです。
それはともかく、詩律に反していたとしても、やはり南郭の漢詩は日本人の心をとらえるところ多く、僕は大好きです。それに、南郭も絶句だ律詩だというから文句をつけられるのであって、平仄を無視した幼体詩だと居直ってしまえばよかったのではないでしょうか( ´艸`)

2020年1月5日日曜日

服部南郭の春の詩5


 

 服部南郭の詩といえば、何といっても七言絶句「夜 墨水を下る」ですが、これについては山本和義さんの解説がおもしろいので、戯訳のあとにそのまま引用しておくことにしましょう。

 金龍山下 隅田川 川面[かわも]に月影浮かんでる
 川面揺れれば月くずれ 流れるさまは金の龍
 清水のごとく空は澄み 小さな舟も流れゆく
 下総・武蔵の国境[くにざかい] 秋風吹くなか下ってく

南郭の詩のうち最もよく知られたものの一つ。『江戸名所図会』七の大川橋(吾妻橋)の挿絵の賛にも用いられている。南郭をあまり高く評価しなかった頼山陽は、「論詩絶句」その九に「口角宮商 音響浮なり、句中の義味未だ深くは求めず、一生解せず 子遷(南郭)の好きを、両岸の秋風 二州を下る」と、この詩の結句を取り入れつつ批判している(『頼山陽詩集』十九)。

2020年1月4日土曜日

服部南郭の春の詩4


 つぎは七言絶句「梅花落 人を送る」です。梅が登場するといっても、「梅花落」ですから、新春じゃ~なく暮春の詩ですが、その哀感胸に迫るものがあります。ちょっと本場の漢詩から影響を受けすぎているような感じもしますが、「梅花落」は漢詩の伝統的スタイルである楽府題の一つですから、仕方ないのかもしれません。これは『南郭先生文集』2編巻5に載っているそうですが、まったく同じ形で家蔵する『南郭詩集』(寛政7年再刻版)の零本にも採られています。

  吹く春風に馬に乗り かなた万里の旅心
  散ってしまった梅の花 いま大江戸を発たんとす
  誰が吹くのか笛の音は 別れのつらさ知るごとく
  旅立つ人へのハナムケに 別離の曲を奏でてる

2020年1月3日金曜日

服部南郭の春の詩3


 

 つぎは七言律詩「人日 草堂の集い」です。人日[じんじつ]とは陰暦正月七日の節句で、五節句の一つ、この日の天候によって「人」の運勢を占ったそうです。日本では、この日に食べる七種粥の風習として伝わっているようですね。

  春おだやかに晴れ渡り 赤羽川の川岸の

  我が草庵も人日の ゆえか陽気に満ちている

  年の初めは春求め 友を誘って遠出する

  しかしこの日は世を避けて 暮らす我が家に集まった

  北帰の雁が遠山に 消えてゆくのを見送って

  深き谷から飛び立った 初音のウグイス楽しんだ

  どぶろく客にすすめれば 一気に開く庭の梅

  貴族の豪邸飾ってる 造花なんかは屁でもない  

2020年1月2日木曜日

服部南郭の春の詩2



高き台[うてな]に登り見る 輝き昇る太陽は

我が日本の真青[まさお]なる 大海原の東から

家々から出る炊煙にゃ 春の気分が満ちており

すべての木々を春の風 やさしく揺らす江戸の町

可愛い小鳥は楽しげに さえずり鳴いているけれど

群れからはぐれ飛ぶ雁は 故郷へ……帰心矢のごとし

もともと春という季節 これほどまでに素晴らしい

白髪をかこつ老人を なぐさめるためなんかじゃない!!

2020年1月1日水曜日

服部南郭の春の詩1




 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

 服部南郭は日本初期文人画家四大家の一人です。元末四大家にならって、僕が勝手にそう呼んでいるに過ぎませんが……。今年は101歳で泉の下にかえったお袋の喪中ですが、「あぁ逝っちゃったんだなぁ」なんて思い返しても始まりません。

お袋に許しを乞うたうえ、お屠蘇と熱燗とワインで令和はじめての新年をことほぎながら、服部南郭の詩を静かに味わい、またまた戯訳をつけて遊ぶことにしました。

書架から引っ張り出してきたのは、『江戸詩人選集』第3巻(岩波書店)の『服部南郭 祇園南海』――南郭については山本和義さんが註と解説を担当しています。まずはお正月にちなんで、五言律詩「早春游望」ですが、その尾聯は、後期高齢者も開き直って年なんか忘れ、思いっきり新春を楽しむべきだ!という気分にしてくれます()

七夕4

渡部さんは、「中西進氏は『万葉集』の七夕の歌は妻訪い婚の風習の反映で、天の川を渡るのは牽牛であるとしています。中国では織女が天の川を渡りますから、逆になっています」と書いています。これはおもしろい……と思ってチョット調べたところ、さすが、中西さんや渡部さんです !! ...