2024年10月31日木曜日

サントリー美術館「英一蝶」18

 

そのような一蝶に対し、日蓮宗の寺院や信者からたくさん仏画の注文が寄せられたことは、改めていうまでもないでしょう。こうして生まれた一蝶仏画の力作として、『國華』1373号に「仏涅槃図」(ボストン美術館蔵)を紹介したことがあります。その概略は「饒舌館長ブログ」にアップしたことがありますので、ご興味のある方はアクセスの上ご笑覧くださいませ。

今回サントリー美術館「没後300年記念 英一蝶 風流才子、浮き世を写す」展のキューレーションを行ない、力こもるカタログを編集したのは、学芸員の池田芙美さんです。学部・大学院時代から英一蝶を研究してきた成果が、一蝶配流前の傑作『雑画帖』(大倉集古館蔵)に描かれる牡丹のような大輪を、東京ミッドタウンで花開かせたのです。これこそ僕のいう「研究展覧会」です。池田さん、おめでとう!! ありがとう!!

2024年10月30日水曜日

サントリー美術館「英一蝶」17

 

そのころ僕は、本阿弥光悦も不受不施派だったのではないかと疑っていたので、とくに関心をもって拝読していました。しかし結局一蝶も光悦もウラが取れなかったので、そのままにしてしまいましたが、少なくとも光悦の場合、いわゆる「内信」であったかどうかはともかく、心情的には不受不施派に共感を覚えていたのではないかという気持ちを捨て切れません。かの光悦村には不受不施派的雰囲気が感じられるからです。

一方一蝶の場合は、原理主義ともいうべき不受不施派が、幇間なんかやるかなぁという疑いがぬぐえませんでした。しかし最近では、畏友・狩野博幸さんが一蝶不受不施派説を主張しているので、改めて考えてみなければならないと思っているところです。いずれにせよ、一蝶が本格的仏画に筆を採った基盤には、強い法華信仰があったように思われます。


2024年10月29日火曜日

サントリー美術館「英一蝶」16

つまり、いま遺る二つの墓はともにもともとのものではありませんが、一蝶が熱心な法華信徒であったことは疑いありません。実は一蝶を幕府に禁圧された日蓮宗不受不施派と見なして、三宅島配流をそれと関連づける見解もあるんです。

 もう35年も前のことですが、永瀬恵子さんという研究者が、いまは廃刊になってしまった美術雑誌『日本美術工芸』に「一蝶拾遺」というとても興味深い連載をされました。結論を一言でいえば、一蝶不受不施派説で、それを実証すべく発表された論文でした。いま僕の手元に残っているのは、その618号だけですが、この号には「一蝶拾遺③ 『乗合船図』と人物モチーフ」が載っています。 

2024年10月28日月曜日

サントリー美術館「英一蝶」15

 

承教寺は正安元年(1299)、一乗院日調によって開かれた日蓮宗の寺院です。現在、承教寺本堂の前には「北窓翁一蝶墳」と正面に彫られた墓石が建っています。背面の銘によれば、もとの墓が安政2(1855)の江戸大地震によって壊れたので、明治6(1873)6世の孫にあたる英一蜻が旧様を模して再建したものだそうです。

 ところが日蓮宗4大本山の一つである大田区池上の本門寺にも、一蝶のお墓があります。正面に一蝶の法号「英受院一蝶日意居士」と没年月日のほか、女性3人の法号と没年月日が彫られています。これは明治45年(1912)市区改正条例のため、承教寺より2代以下の墓をここへ移したとき、英一蜻が新たに造ったもので、その旨が墓石右側面に刻されています。かつて調査した日のことが、懐かしく思い出されるのです。


2024年10月27日日曜日

サントリー美術館「英一蝶」14

その多くは紙本墨画あるいは淡彩の質素なものですが、「虚空蔵菩薩像」(個人蔵)のように絹本濃彩に金泥を加えた本格的な仏画もあります。その興味深い解釈が、カタログ解説に述べられています。この「地蔵菩薩像」のように、一蝶は早くから本格的仏画を描いていたわけですが、三宅島の作画環境が仏画との親和性をさらに高めたように思われます。

 また形而上的問題として、一蝶が熱心な法華信徒だった点を見逃すわけにはいかないでしょう。基本的に狩野派は法華宗(日蓮宗)の信徒でした。狩野安信に就いた多賀朝湖、つまり一蝶ももともと法華宗であつたか、その後信徒となったのでしょう。かくして享保9(1724)正月13日、73歳をもつて一蝶が没したとき葬られたのは、江戸二本榎の承教寺塔頭顕乗院でした。 

2024年10月26日土曜日

サントリー美術館「英一蝶」13

一蝶の「地蔵菩薩像」は仏画にふさわしく、金泥落款が入っています。そのため会場ではよく読めませんでしたが、カタログによると「狩林席下朝湖敬図」だそうです。この「狩林」は「禅林」と同じように「狩野が多く集まった場所」とも、「狩埜」の省略とも考えられますが、いずれにせよこの落款には、一蝶における狩野派としてのプライドが読み取れるように思います。「朝湖」は一蝶がそのころ用いていた号です。

 四捨五入をすれば60年も前()、私は辻惟雄さんと小林忠さんに誘われて、島一蝶を調査する機合に恵まれました。その結果は『國華』920號に報告されている通りで、仏画あるいは民開信仰的な画題がほとんどすべてを占めています。島民から求められるのはこのような絵画であつたにちがいありません。江戸市民向けに「日待図巻」のような風俗画が制作されましたが、三宅島における一蝶は仏絵師であったといってもよいでしょう。 

2024年10月25日金曜日

サントリー美術館「英一蝶」12

もしそうだとすれば、やはりこれは日本文化を考える際のヒントとなりそうです。そこには日本人の子供を純真無垢なるものと見なす観念が大きく働いていた――これが私見です。

幕末明治のころ、わが国へやって来た西欧人がひとしなみに驚いたような、子供を聖なるものとする考え方です。前のブログに、日本における不動信仰流行の基底には、子供聖性観があった可能性を考えてみたいとアップしたことがあります。

地蔵信仰、とくに小僧地蔵の誕生と普遍化にも、同じような背景があるのではないでしょうか。日本における仏教と子供聖性観の強い結びつきは、「坊主」「小僧」という言葉が僧侶を指すと同時に、男の子を指すという事実にも、象徴されているのです(!?)

  

富士山世界遺産センター「日本三霊山の砂防」5

さらに「逢へらくは玉の緒しけや恋ふらくは富士の高嶺に降る雪なすも」というバージョンもあるそうです。つまり「あの子と逢う間の短さは玉の緒ほどにも及ばないのに、別れて恋しいことは、富士の高嶺に降る雪のように絶え間ないよ」となりますが、これじゃ~本展示とまったく関係なき一首になってしま...