2024年9月30日月曜日

東京都美術館「田中一村展」1

東京都美術館「不屈の情熱の軌跡 田中一村展 奄美の光 魂の絵画」<121日まで>

千葉市美術館「特集 田中一村と千葉」<109日~121日>

一村は生前まったく無名の存在でしたが、作品に魅了された人々により没後に顕彰の動きが生まれ、その名が知られるようになった画家です。本展覧会は神童と称された幼年期から終焉の地である奄美大島での最晩年まで、一村の作品をあますところなく紹介するこれまでにない大回顧展です。第1章若き南画家「田中米邨」東京時代、第2章千葉時代「一村」誕生、第3章己の道奄美への3部構成により、一様ではなかった彼の制作の道筋を辿ります。

将来を楽しみにされながらも、世俗的な栄達とは無縁であった人生において、常に全身全霊を傾けて描くことを体現した一村の歩みは、不屈の情熱の軌跡ともいえるものでした。自然を主題とする澄んだ光にみちた絵画はその情熱の結晶であり、静謐な雰囲気の内に、魂の輝きをも宿しているかのようです。

 

2024年9月29日日曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」19

 

もっともヤバイ!!と思ったのは、右隻の浅草寺参道あたりに描かれる三十三間堂の建築年代です。完成したのは寛永20年(1643)、家光の命を受けて4月に射初めの儀式が執り行われたというのです。

となると、この「江戸名所図屏風」が制作されたのは、寛永20年以降ということになります。失われてしまった建築が、ある象徴として記憶や粉本により描かれることは珍しくありませんが、まだ建っていない建物が想像で絵画化されることはありません――当たり前田のクラッカー、今まで延々とアップしてきた私見の運命やいかに!?

翌年は正保元年、もうチャキチャキの江戸時代です。言われてみると、代表的な寛永風俗画から少し距離を置くような感じもします。チョッと反論の余地はなさそうですが、でもヤッパリお話としては三十三間堂よりペリカンの方がおもしろい!!と思ったのでした。旧ブログにアップしたローラ・インガルス・ワイルダーの愉快なお話を心に浮かべながら……。

2024年9月28日土曜日

アート疾走✖本木雅弘 再放送

 

 「アート疾走✖本木雅弘 シン・アートドキュメンタリー  金と黒の本木雅弘」が再放送されるそうです。

 BSプレミアム4K 10月3日(木)午後2:30~3:30 時間がありましたらご高覧のほどを❣❣❣

出光美術館「物、ものを呼ぶ」18

以上が僕の「江戸名所図屏風」試論でした。ところが「物、ものを呼ぶ」展を企画した出光美術館キューレーター・廣海伸彦さんから、黒田日出男さんの『江戸名所図屏風を読む』<角川選書>(KADOKAWA 2014年)という本を先日教えてもらったんです。10年前といえば、まだそんなにボケていなかったはずなのにまったく知りませんでした。やはりボケ始めていたのかな() 

さっそく読んでみると、さすが黒田日出男さんだと感を深くしました。黒田さんは一緒に仕事をしたこともある畏友、いや医学者、いや畏学者です‼ 一番の思い出は、「国宝伝源頼朝像」をテーマにした鹿島美術財団美術講演会ですが、これについては旧ブログにアップしたことがあると思います。

 

2024年9月27日金曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」17

 

福井における又兵衛および又兵衛工房の活躍からみて、寛永6年ごろこのような又兵衛追随者が、江戸で町絵師として生計を立てていた可能性は充分に考えられます。又兵衛派を拡大させて、これを広又兵衛派と呼んでみたいと思います。

ヤジ「おこがましくも、辻プレ又兵衛派の向こうを張ろうとでもいうのか!?

京都や福井から遠く離れた江戸の町絵師となれば、又兵衛や正規又兵衛工房の画家に比べて又兵衛様式から距離をおくことは避けられませんでした。しかし江戸の地理や風俗、起こった事件をよく知っていたことは論をまちません。

そもそもこの屏風の主題や画面の形式が、今や又兵衛その人の作品と認められて国宝にも指定された先の舟木本「洛中洛外図屏風」(東京国立博物館蔵)と共通する事実は、30年も前に指摘されていたことなのです。


2024年9月26日木曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」16

 

これが「江戸名所図屏風」ではなく、「武蔵野図屏風」だったら話は簡単だったでしょう。先行作品や粉本がたくさんあったからです。また「洛中洛外図屏風」なら、又兵衛も二つ返事で引き受けたことでしょう。何しろ舟木本「洛中洛外図屏風」の経験がありましたし、いわゆる第2類型に分類されるような洛中洛外図屏風なら、すでにたくさん描かれていたからです。それを参考にすればよかったのです。

しかし、江戸の時世粧を描く江戸名所図屏風となるとそうはいきません。それ以前の作例がまったくなく、粉本も乏しく、もちろん又兵衛は制作したことなどなかったからです。そのためには福井から江戸までの長い旅路を、踏破しなければならなかったのです。そこで又兵衛は江戸にいる弟子か、又兵衛に私淑したり影響を受けたりしている町絵師を、ピンチヒッターに立てたのではないでしょうか。


2024年9月25日水曜日

出光美術館「物、ものを呼ぶ」15


 

しかも「村松物語絵巻」は、傑作「山中常盤物語絵巻」が出た大正14年の松平子爵家入札目録に一緒に載っているのです。明らかに「村松物語絵巻」も又兵衛工房の作品であり、それによく似る「江戸名所図屏風」も同じく又兵衛工房作と考えてよいことになります。しかしよく比較すると、形態や比例の感覚など異なる点も多く、ただちに又兵衛工房作と断じてしまうこともはばかられるのです。

これから先はあくまで僕の想像ですが、松平家から慶事に際して当代の繁栄振りを伝える「江戸名所図屏風」を依頼された又兵衛は、困惑してしまったのではないでしょうか。いまだ江戸に行ったことがなかったからです。又兵衛が徳川将軍からの招聘を受け、福井から江戸へ上るのは寛永14年、8年もあとのことなのです。

富士山世界遺産センター「日本三霊山の砂防」5

さらに「逢へらくは玉の緒しけや恋ふらくは富士の高嶺に降る雪なすも」というバージョンもあるそうです。つまり「あの子と逢う間の短さは玉の緒ほどにも及ばないのに、別れて恋しいことは、富士の高嶺に降る雪のように絶え間ないよ」となりますが、これじゃ~本展示とまったく関係なき一首になってしま...