もっとも明治40年(1907)第1回文展には応募していますから、このころまでは会場芸術への色気というか、意欲もあったのでしょう。しかし突きつけられた「落選」という結果が、英朋に引導を渡すことになったにちがいありません。このようなサッパリとした江戸っ子気質も、「最後の浮世絵師」と呼ばれるにふさわしいように思います。
あるいは7人の子宝に恵まれた英朋にとって、口絵や挿絵は生活のためであったかもしれません。しかし、家族を養うために絵筆を揮いながら口絵芸術の極致を目指す――これも偉大な創造です。
これはこれで素晴らしい生き方だったと思います。たしかに文展や帝展や院展の作家のごとく、一般的な意味での栄誉、少し意地の悪い言い方をすれば世俗的栄誉は得られなかったかもしれませんが、熱烈な英朋ファンに囲まれていたのです。
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