喜三二は秋田藩江戸邸の平沢家に養子入りをして平沢常富と名乗り、藩の重職をになって留守居役筆頭まで昇進しました。そしてこの間戯作者として勇名をはせました。天明8年新春に出した『文武二道万石通ぶんぶにどうまんごくとおし』は、寛政改革へのウガチが当たって大いに売れました。
実をいえば、恋川春町の『鸚鵡返文武二道』は、『文武二道万石通』の続編みたいなものだったのです。『文武二道万石通』はちょっとしたウガチでしたが、朋誠堂喜三二はこの大当たりによって主家の佐竹家から厳重注意を受けるようになり、すぐにみずから黄表紙の筆を折り、軟派文学から身を引いてしまうのです。
もちろん恋川春町はこの二人の才人を身近に見ていました。とくに喜三二は肝胆相照らす仲でしたから、同じようにすれば何ら問題はなかったはずです。
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