2025年5月31日土曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」11

しかし純真にして自己の信念に誠実であろうとした春町は、真似をしなかったどころか、『鸚鵡返文武二道』を書いてしまったのです。ここで思い出すのは、鳥文斎栄之ですね。栄之は家禄500石の旗本・細田家の長男に生まれ、家督を継ぎました。しかし早く職を辞して寄合となり、やがて致仕して隠居し、浮世絵師として活躍するのです。

つまり栄之は武士という身分を捨てて、好きな浮世絵という軟派芸術の方を選択したのです。このような栄之の素晴らしい生き方については、2年前、千葉市美術館で開催された特別展「鳥文斎栄之 サムライ、浮世絵師になる」をこの「饒舌館長ブログ」アップした際、紹介したように思います。相似た選択をしたもう一人の武士、酒井抱一も思い出されます。

 

2025年5月30日金曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」10

喜三二は秋田藩江戸邸の平沢家に養子入りをして平沢常富と名乗り、藩の重職をになって留守居役筆頭まで昇進しました。そしてこの間戯作者として勇名をはせました。天明8年新春に出した『文武二道万石通ぶんぶにどうまんごくとおし』は、寛政改革へのウガチが当たって大いに売れました。

実をいえば、恋川春町の『鸚鵡返文武二道』は、『文武二道万石通』の続編みたいなものだったのです。『文武二道万石通』はちょっとしたウガチでしたが、朋誠堂喜三二はこの大当たりによって主家の佐竹家から厳重注意を受けるようになり、すぐにみずから黄表紙の筆を折り、軟派文学から身を引いてしまうのです。

もちろん恋川春町はこの二人の才人を身近に見ていました。とくに喜三二は肝胆相照らす仲でしたから、同じようにすれば何ら問題はなかったはずです。


2025年5月29日木曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」9

才に長けた軟派文化の寵児・大田南畝がいち早く寛政改革に寄り添い、みずから転身をはかったことはよく知られるところです。浜田義一郎先生は、著書『大田南畝』<人物叢書>の天明7年の条を、「こうして南畝は文芸活動を停止し、狂歌界と絶縁した。後に再び狂歌を作ったけれども、狂歌界には全く関係しなかった」と〆ています。

早くも天明7年正月には、狂歌会めぐりなどを一切やめているそうです。定信の文武奨励令が出たのはその年の秋だそうですから、さすが南畝のアンテナは性能バツグンだったというべきでしょう。とはいえ重要なのは、南畝が勘定奉行役にまでなる幕臣、つまり武士であったことですが、同じような転身をはかった武士に、朋誠堂喜三二がいました。


 

2025年5月28日水曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」8

 

有名な「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶぶんぶと夜も寝られず」という落書は、もちろん詠み人知らずでしたが、こちらの「落書」序文には「寿亭主人 春町」と作者の名が堂々と刻されているんです。草双紙に一大画期をもたらした黄表紙『金々先生栄花夢』に感じられるロマンチスト恋川春町は、同じノリで『鸚鵡返文武二道』も書いちゃったのでしょうか。そんなことはないはずです。

この段階では、まず武士であった恋川春町に松平定信の厳しい眼が向けられ、吉原生まれの町人・蔦屋重三郎までは及ばなかったのでしょう。しかし2年後には蔦重も身代半減という処罰を受けるのですが、その理由は一般にいわれる山東京伝作洒落本3作だけでなく、『鸚鵡返文武二道』も含まれていたのではないかと疑われるほど、過激な内容だったように思います。


2025年5月27日火曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」7

 さらに宇田敏彦さんの解説は、場面の数々を一つずつ実証しています。僕はこの「ほとんど落書」という見方に惹かれますね。明らかな政治批判ですよ。少なくとも江戸市民はそのように見なしたからこそ、ベストセラーになり、袋入りの上製本まで売り出されたのでしょう。それにしても恋川春町はよくも書いたり、蔦屋重三郎はよくも出したりと思わずにいられません。

とくに春町です。春町は駿河小島おじま藩松平家の家臣・倉橋家に入った養子、つまり武士だったからです。「恋川春町」も藩の上屋敷があった小石川春日町にちなむ戯作名だったんです。町人ならいざしらず、武士がこんなものを書けば、ヤバイと思わなかったのでしょうか。本書には天明8年(1788)刊と推定される31冊袋入り本――もちろん蔦重版もあるそうですから、寛政改革も始まったばかりで、大したことはないだろうと高をくくったのでしょうか。そんなことはあり得ないと思います。

 

2025年5月26日月曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」6

 浜田先生は若干婉曲に表現していらっしゃいますが、小池正胤ほか編『江戸の戯作パロディー絵本3<変革期黄表紙集>』(社会思想社 1982年)の解題では、この揶揄寓意を真正面から肯定しています。

「鸚鵡返」という言葉には、その頃、盛んに書写されて読まれた定信の『鸚鵡言』(天明6年成立)の影が二重写しとなっており、「文武二道」には、定信の改革政治の一大モットーたる文武両道の積極的な奨励策を想起せざるを得ない。これを初めとして、本書中に描かれる場面の数々に、ほとんど落書といってよいほどの、痛烈な時事諷諫ふうかんの刃が仕組まれているのを見てとるのは、きわめて容易である。

 

2025年5月25日日曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」5

 

したがって「こもまた大半紙摺りの袋入にして二三月頃まで市中を売あるきたり」(江戸作者部類)という歓迎を受けたが、その結果、「当時世の風聞に、右の草紙の事に付て白川侯へ召されしに、春町病臥にて辞して参らず、此の年寛政己酉七月七日歿」(同)と記されたような経過をたどったのである。それについてなんらの記録もないが、子孫の倉橋家に現存する文書に、「寛政元酉年四月廿四日長病ニ就キ御役御免願ヒ奉リ候処、願之通リ退役仰付ラレ、同年七月七日病死仕候。都合三拾ヶ年勤役仕候」とある。わずか一万石の最低の親藩、白川侯(定信)からのお召し、年寄本役という藩の要職、主君、これらを思い合わせると、春町が困難な立場に陥ったことはたしかで、世人は自殺かとも噂したという。

2025年5月24日土曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」4

 

たくさん翻刻されていると思いますが、僕が馴染んでいるのは小学館版『日本古典文学全集』、浜田義一郎先生の解説と頭注が理解を助けてくれます。

読んでみるとストーリーはほとんどハチャメチャ、荒唐無稽の極にあるといった感じです。ところが浜田先生によると、ここには政治批判、有り体にいうと寛政の改革批判が感じられるというのです。先生はつぎのように述べています。

菅秀才が松平定信、「九官鳥のことば」が「鸚鵡詞おうむのことば」、大江匡房まさふさが柴野栗山であることは、だれの目にも明らかである。そして武術の行過ぎや凧あげ流行は、武士階級の付和雷同を揶揄しただけかもしれないが、文武奨励令を批判したとみられる危険もあるし、鳳凰がまちがって飛来するくだりは定信の「鸚鵡詞」を揶揄したととれないこともない。

2025年5月23日金曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」3

 

これまた絶対おススメの特別展です。もちろん僕はNHK文化センター青山教室講座「魅惑の日本美術展 最強ベスト6!!」に選び、先日しゃべったところです。「ごあいさつ」にあるように、今年のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」とのコラボ展です。

このような企画を冷ややかにみる専門家もいらっしゃるでしょうが、美術展をコンテンツビジネスととらえている点が新鮮です。展覧会がコンテンツビジネスのおもしろさを教えてくれる点も興味深い‼ だれですか、結局は大河ドラマの宣伝じゃないかなんて言っているのは?

 「僕の一点」は恋川春町作・北尾政美(鍬形蕙斎)画「鸚鵡返文武二道おうむがえしぶんぶのふたみち」ですね。版元はもちろん耕書堂蔦屋重三郎、寛政元年(1789)正月刊行された黄表紙、本展には東京国立博物館所蔵の1本が出陳されています。

魅惑の日本美術展 最強ベスト6だ!!

講師
東京大学名誉教授・出光美術館理事 河野 元昭

カテゴリー

最強ベスト6はこれだ!

日本は美の国です。美術のまほろばです。絵画彫刻工芸のシャングリラです。だからこそ、素晴らしい美術展がたくさん開かれ、老若男女を問わず多くの人々に感動を与えて止むことがないのです。それは文字情報とは異なる真の教養を高め、明日を生きるためのエネルギーを心に注ぎ込んでくれます。美術ブログでお馴染みの「饒舌館長」こと河野元昭先生が選ぶ2025年度日本美術展最強ベスト6だ!で予習をしてから出かければ、もうカタログなんか買う必要はありません(!?)

2025年5月22日木曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」2

 

蔦重はその商才を活かして、コンテンツビジネスを際限なく革新し続けました。その原動力は徹底的なユーザー(消費者)の視点であり、人びとが楽しむもの、面白いものを追い求めたバイタリティーにあるといえるでしょう。 本展では、蔦屋重三郎を主人公とした2025年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)とも連携 し、江戸の街の様相とともに、蔦重の出版活動をさまざまにご覧いただきます。蔦重が江戸時代後期の出版文化の一翼を担っていただけでなく、彼が創出した価値観や芸術性がいかなるものであったかを体感いただければ幸いです。

 昨日と今日2回に分けて掲げたのは、いま東京国立博物館で開かれている特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」のカタログ巻頭に載る「ごあいさつ」です。

2025年5月21日水曜日

東京国立博物館「蔦屋重三郎」1

 

東京国立博物館「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」<615日まで>

江戸時代の傑出した出版人である蔦重こと蔦屋重三郎(175097)は、喜多川歌麿、東洲斎写楽といった現代では世界的芸術家とみなされる浮世絵師を世に出したことで知られています。本展ではその蔦重の活動をつぶさにみつめながら、天明、寛政期(17811801)を中心に江戸の多彩な文化をご覧いただきます。

蔦重は江戸の遊廓や歌舞伎を背景にして、狂歌が隆盛する中、狂歌師や戯作者とも親交を深めるなど、武家や富裕な町人、人気役者、人気戯作者、人気絵師のネットワークを縦横無尽に広げ、さまざまな分野を結びつけた、さがらメディアミックスとでも言うべき手法によって、出版業界にさまざまな新機軸を打ち出します。


2025年5月20日火曜日

高階秀爾先生に感謝を捧げる会9

 

少なくとも僕には、単なる異国趣味もやがて偉大な文学を生む起因と原動力になることを、北原白秋がみずから語っているように思われたのでした。この偉大な文学の水底にも、やはり単なる異国趣味がたゆとうていました。『邪宗門』こそ偉大な異国趣味の詩集であったのですが、大変失礼ながら、そこに西欧文明の本質的理解があるとはどうしても思えませんでした。

それは白秋子供時代の異国趣味とほとんど同じような趣味でした。だからこそ『邪宗門』は素晴らしく、日本人の心を打った、そしていまも打つのではないでしょうか。この点で、白秋における異国趣味も、ジャポニスムにおける異国趣味と軌を一にしているのではないでしょうか。

もしも「ジャポニスムの起因と原動力」の続編を書く機会があったら、必ず『思ひ出』の「わが生ひたち」から引用することでしょう。拙論は多くのジャポニザンに対する感謝の言葉で〆ましたが、さらにこれを加えれば、もうチョッとおもしろくなったかな()


2025年5月19日月曜日

7日間ブックカバーチャレンジ⑦


  女性漫画家第一号ともいうべき上田としこの伝記漫画です。 かつて朝日新聞日曜版で紹介されたことがあり、それ以来そのうち読んでみようと思ってきました。 上田としこファンの村上もとかによる全10巻ーーメルカリでゲット、毎日昼食のあとで1巻ずつ、数日前にフィニッシュしました。これもしばらくぶりにひいた風邪のお陰かな( ´艸`)

高階秀爾先生に感謝を捧げる会8

 

 これこそ単なる異国趣味――外国の風物をあこがれ好む趣向の典型だといってよいでしょう。それはTonka Johnという英語名に象徴されています。しかし『邪宗門』を改めて読み返し、その官能性や象徴性にからめ取られるとき、あるいは浪漫主義の新風を築き、そのあと多くの詩人や歌人に決定的印インスピレーションを与えたという文学史上の意義を知るとき、それは幼き日の異国趣味が白秋にあったからなのだと教えてくれるのでした。

それを納得させてくれる、あまりにも美しい序文「わが生ひたち」でした。この幼き異国趣味なくして、『邪宗門』は存在しなかったのです。天井にいらっしゃる白秋ファンの高階先生も、そうお思いにはなりませんか? 


2025年5月18日日曜日

高階秀爾先生に感謝を捧げる会7

 

私の異国趣味は穉おさない時既にわが手の中に操られた。菱形の西洋凧を飛ばし、朱色の面(朱色人面の凧、Tonka Johnのもってゐたのは直径一間半ほどあった。)を裸の酒屋男七八人に揚げさせ、瀝青チャンを作り、幻灯を映し、さうして和蘭訛の小歌を歌った。

私はまたいろいろの小さなびいどろ罎びんに薄荷や肉桂水を入れて吸って歩いた。また濃い液は白紙に垂らし、柔かに揉んで湿した上その端々を小さく引き裂いては唇にあてた。さうして私の行くところにはたよりない幼児の涙をそそるやうに、強い強い肉桂の香が何時でも付き纏ふて離れなかった。(略)

Tonka Johnの部屋にはまた生まれた以前から旧い油絵の大額が煤すすけきったまま土蔵づくりの鉄格子窓から薄い光線を受けて、柔かにものの吐息のなかに沈黙してゐた、その絵は白いホテルや、瀟洒な外輪船の駛しってゐる異国の港の風景で、赤い断層面のかげをゆく和蘭人に一人が新らしいキヤベツ畑の垣根に腰をかがめて放尿してゐるおっとりとした懐かしい風俗を画いたものであった。私はそのかげで毎夜美しい姉上や肥満ふとった気の軽るい乳母と一緒に眠るのが常であった。


7日間ブックカバーチャレンジ⑥


 

2025年5月17日土曜日

高階秀爾先生に感謝を捧げる会6

といっても、もう一つのすぐれたジャンルである短歌の方は、高野公彦編『現代の短歌』<講談社学術文庫>によって親しむだけですが、こっちの方も白秋はすごい!! それに採られる歌集『桐の花』の「君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ」は、やはり代表歌と呼ばれるにふさわしい!! 詩より短歌の方が好きな饒舌館長は、『邪宗門』よりこっちに惹かれちゃうのですが……。

拙論「ジャポニスムの起因と原動力」を書いたあと、たまたま北原白秋の『邪宗門』に続く第2詩集『思ひ出』(1911年)を読む機会がありました。しかも「新選 名著復刻全集 近代文学館」シリーズの1冊でしたから、初版そのままの形で……。すると白秋は、序文にあたる「わが生ひたち」のなかで、つぎのように述べていることを知ったんです。

文中にあるTonka Johnというのは、白秋がみずからにつけた英語名で、この「わが生ひたち」の署名もTONKA JOHNになっています。

 

7日間ブックカバーチャレンジ⑤

 

 かの小林太市郎先生が、かの「光琳と乾山」で論究された尾形乾山筆「朝妻船自画賛」が半世紀ぶりでしょうか、世に現われて感を深くしたので、この『國華』1553号<逸格逸品特輯号>に紹介させてもらいました。国華定年前に書き溜めてあった解説もこれが最後になりました。『國華』には昭和45年、勝田竹翁筆「唐獅子牡丹図」を紹介して以来、たくさんの解説や拙い論考を寄稿しましたが、これが最後になりそうな予感がします。しかし、頑張ればもう一つくらいは書けるかな( ´艸`)

2025年5月16日金曜日

高階秀爾先生に感謝を捧げる会5

 

2023年、高階秀爾先生は中西進さんが主宰する日本学賞を受賞されました。その受賞記念講演を拝聴した僕は、そのとき先生が手に取りながらお話になった北原白秋『明治大正詩史概観』を読まざるべからずと思い、すぐゲットしたんです。しかもオリジナルの改造文庫版をゲットできたんです。

この件についてはすでにエントリーしたところです。もちろん高階先生は北原白秋が大好きだったからこそ、この『概説』をテーマにされたんだと思いますが、白秋文学を愛おしく思うお気持は話の端々にうかがわれました。僕も白秋ファンです。だからそのデビュー詩集『邪宗門』の文庫本だけは、書架に収まっています。

7日間ブックカバーチャレンジ④

 


2025年5月15日木曜日

7日間ブックカバーチャレンジ③

 


高階秀爾先生に感謝を捧げる会4

その前提として、それまで読んだジャポニスム論を5つのタイプに分けてみたのですが、第4は日本美術の工芸的あるいは生活美術的性格とでも呼ぶべき起因と原動力でした。その代表として高階秀爾先生の論文をあげたのですが、実際はほとんどお一人でこの第4を担っていらっしゃるんです。それはすでに特別展カタログ論文「ジャポニスムの諸問題」で明快に示された結論でした。

この論文は、拙論執筆の少し前に出版された『日本美術を見る眼――東と西の出会い――』(岩波書店 1991年)に再録されて、広く知られ一般に読まれるようになりました。『名画を見る眼』の日本版ともいうべき名著です。

 

2025年5月14日水曜日

7日間ブックカバーチャレンジ②


 

高階秀爾先生に感謝を捧げる会3

 

それらでは、異国趣味が単なるあこがれや、何か程度の低い視覚のように扱われている感じがしました。それと異なる視点から、ジャポニスムを考えようとした論文もいくつかありましたが、それらはあまり研究者の関心を引いていないようでした。

しかしひるがえって考えてみると、中国文化に対する日本の眼差しには、つねに異国趣味が潜んでいたように思われます。僕自身の中国文化嗜好も、異国趣味以外のなにものでもないのです。

ヤジ「オマエの嗜好なんか、だれも聞いちゃ~いない!!!

やがてジャポニスムも結局は、異国趣味だったのではないかという思いが徐々に強くなったので、それをテーマに書いたのが拙論「ジャポニスムの起因と原動力」でした。

2025年5月13日火曜日

高階秀爾先生に感謝を捧げる会2

 

 19世紀後半、ジャポニスムが何故パリであのようにほとんど突然発火し、それが燎原の火のごとく一気に燃え広がったのでしょうか? この興味深い問題に僕の関心を向けてくれたのは、高階秀爾先生が中心となって1988年、国立西洋美術館で開かれた特別展『ジャポニスム展――19世紀西洋美術への日本の影響――』でした。とくに先生の巻頭論文「ジャポニスムの諸問題」が決定的だったといってよいでしょう。

これが契機となって、ちょっとジャポニスムに関する論文を読んでみました。もちろん和文論文だけで、欧文論文はスルーしましたが( ´艸`) そこで気がついたのは、ジャポニスムは単なる異国趣味から、日本美術への本質的理解へ昇華したという発達史論的プロセスが前提となり、これがほぼ定説になっているという事実でした。

7日間ブックカバーチャレンジ①


 

2025年5月12日月曜日

高階秀爾先生に感謝を捧げる会1

 

 510日(土)「高階秀爾先生に感謝を捧げる会」が帝国ホテル東京で開かれました。もちろん僕も出席させていただくことにしていましたが、ひどい風邪をひいてしまい――その風邪をこじらせてしまい、申し訳ないことながら出席することができませんでした。去年「饒舌館長ブログ」に「追悼 高階秀爾先生」を連載いたしましたが、その続編としてこれをアップしお許しを乞いたいと思います。

 先に高階先生の「僕の一点」として『日本近代絵画史論』を選んでオマージュを捧げましたが、拙文「ジャポニスムの起因と原動力」を書いたときも、先生のジャポニスム論から決定的ともいうべき示唆を与えられたのです。なお拙論は、『秘蔵日本美術大観』3<大英博物館Ⅲ>(講談社 1993年)のために、監修者の小林忠さんから求められて寄稿したものでした。 

2025年5月11日日曜日

石川県立美術館「宗雪・相説」9

項羽「垓下の歌」

  山を引き抜く我が力 天下を覆う心意気

  しかし時勢が味方せず 愛馬の騅すいもストライキ

  騅が走ってくれなけりゃ 一体どうすりゃいいのだろう

  虞美人!! 虞美人!! 愛妾を 一体どうすりゃいいのだろう

 虞美人は項羽の「寵姫ちょうき」でしたが、ここでは同じ意味の「愛妾あいしょう」にしてみました。日本人に分かりやすく、僕のワードでもすぐに変換されますし、この方がちょっとセクシーだからです。それはともかく、もともと中国で「姫」は「妾」の意味でしたが、日本へ入ってくると、どうして「お姫さま」になっちゃうのかな?( ´艸`)

 

 

2025年5月10日土曜日

石川県立美術館「宗雪・相説」8

 

僕がこれにこだわるのはもう一つ理由があります。謡曲に「項羽」という五番目物の名曲があるからです。改めていうまでもなく、前田公はみな能狂いの殿様でした。かくして加賀は能謡曲の一大中心地となったのです。

 今回も200人の講堂が満席――乗りにのってしゃべったことでした。一番受けたのは、「『加賀につづく琳派』なんていわないで、『加賀琳派』というべきです!!」というキメツケだったかな() 終わったあと人気の「黒百合」に直行、加賀おでんに銘酒「萬歳楽」を合わせれば、これ以上の至福は人生にありません()

最後に、四面楚歌のなかで項羽が詠んだ「垓下の歌」を、またまたマイ戯訳で紹介しましょう。辞世の詩を戯れに訳すなんて、人倫にもとるかもしれませんが……。

2025年5月9日金曜日

石川県立美術館「宗雪・相説」7

しかしこれをモチーフ的にながめてみましょう。江戸時代、前田公をはじめ加賀の教養ある人士がこの屏風に触れれば、必ず楚の項羽と寵姫ちょうき・虞美人を思い出したのではないでしょうか。

楚漢の争いが熾烈をきわめ、楚の項羽は漢の劉邦に垓下で包囲され、虞美人と別れの宴を開き最後を遂げます。これにちなむ格言「四面楚歌」は人口に膾炙するところです。いつのころか分かりませんが、虞美人があまりに美しかったため、自刎した項羽の後を追ったあと、きれいなヒナゲシに化したという伝説を生みました。

つまり虞美人草とは、アグネス・チャンの名曲でお馴染みのヒナゲシ(!?)を指すようですが、厳密には区別されていなかったでしょう。相説もいろいろな種のケシを、取り混ぜて描いているようです。



 

2025年5月8日木曜日

石川県立美術館「宗雪・相説」6

 

 喜多川相説の「僕の一点」は「芥子図屏風」(個人蔵)ですね。1975年展のとき見て、相説のマイベストワンに決めた小ぶりの金地屏風です。相説が法橋に叙せられて間もなくのころ、教えを受けた宗雪への原点回帰をはかった作品とみなしたらどうでしょうか。宗雪は師宗達の影響もあって、みずからの号にある「雪」のような胡粉を愛して止まなかった画家でした。

この屏風において相説は、胡粉をきわめて効果的使っていますが、それはまるで宗雪「秋草図屏風」(東京国立博物館)へ捧げられたオマージュのようです。また明らかに「宗雪土坡」に対する愛惜の情が感じられるでしょう。事実、嶋崎丞先生は相説が宗達・宗雪の直系であることを世に問うためにも、金地を選んだのであろうとされているのです。

2025年5月7日水曜日

石川県立美術館「宗雪・相説」5


 鶴は両隻合わせて11羽描かれています。普通だったら10羽か12羽にするんじゃないかと思いますが、十一面観音という菩薩様がいらっしゃいます。十一面観音は天神様ととても相性がよいのですが、天神様と前田家の密接な関係は改めていうまでもありません。

となると、11というハンパな数(!?)も、前田家にとっては縁起のよい数であったかもしれません。なお口演では、うろ覚えで『漢書』まで持ち出しましたが、これは勇み足でしたのでデリートをかけさせてもらいましょう。

 利常は芳春院の故事にこと寄せながら、宗雪に献納屏風の制作を命じたにちがいないとずっと思ってきました。ところが今回お邪魔して表装をよく見たのですが、どこにも前田家の家紋である梅鉢がないんです。利常寄進だったらゼッタイあるはずです。いつの時代か表装替えが行なわれたのかな? いや、やはり僕の妄想と暴走だったのかな() 




2025年5月6日火曜日

石川県立美術館「宗雪・相説」4

 「僕の一点」は、何といっても俵屋宗雪筆「群鶴図屏風」(個人蔵)ですね。50年前、はじめて見て驚いた忘れがたき傑作です。この屏風でも特徴的な「宗雪土坡」が構図の基本となっていますが、これはかの宗達筆「蔦の細道図屏風」(相国寺蔵)から摂取したものでしょう。1975年カタログには、「前田利常が明暦3年に建立した梯天満宮かけはしてんまんぐうに、利常自身が寄進したとの伝えがあり、地元金沢に古くから伝世されている」と書いてあります。

そこで前田家と鶴は何か関係があるんじゃないのかと思って調べると、やはりあったんです。加賀藩祖・前田利家の奥方芳春院が、金沢城東の丸郭くるわに白鶴が舞い降りたのを見て、加賀藩イヤサカの瑞祥だとして鶴の丸と名づけたというのです。銘酒「加賀鶴」はこれにちなむのかな()

2025年5月5日月曜日

石川県立美術館「宗雪・相説」3

 

そのころは僕もケッコウ真面目だったらしく、会場での印象を書き込んだり、嶋崎丞先生の名論文「宗雪・相説とその作品について」にアンダーラインを引いたりしているんです()

それから50年、じつに半世紀ぶりの宗雪・相説展ということになります。この間、琳派展は数えきれないほど開かれ、それらに宗雪や相説がオマケみたいに出品されることはありましたが、この二人に焦点をしぼった特別展は絶えてありませんでした。

本展開催のウワサを聞いて、ぜひ拝見しに行こうと思っていたところ、気持ちが天に通じたのか講演の依頼が舞い込みました。 いや、青柳正規さんが旧友を思いやり館長命令を出してくれたのかな() 

2025年5月4日日曜日

石川県立美術館「宗雪・相説」2

 

はじめに掲げたのは、いま石川県立美術館で開かれている特別展「加賀につづいた琳派 宗雪・相説――宗達と光琳のあいだに――」のカタログに載る「ごあいさつ」の一部です。中心となったキューレーターは村上尚子さん――15年ほど前國華清話会で大変お世話になったことも忘れられません。なぜなら当時僕が主幹をやっていたからです()

俵屋宗達は知っていても、俵屋宗雪や喜多川相説は不案内な方が少なくないでしょう。しかし江戸絵画史上、ゼッタイ無視することができない魅力的な画家です。

これまた忘れもしない昭和50年(1975)、同じ石川県立美術館――そのときは石川県美術館でしたが――で特別展「宗雪・相説展――宗達と光琳をつなぐ人々――」が開かれました。もちろん僕も拝見に出かけ、山根有三先生の講演も拝聴しました。そのときのカタログを書庫から引っ張り出してきて、なつかしく眺めながらこのブログを書いているところです。

上の写真はこの特別展の講演にいらした山根有三先生、一緒に参加された高階秀爾先生、それと50年前の饒舌館長ーーそのころは寡黙でしたが( ´艸`)

2025年5月3日土曜日

石川県立美術館「宗雪・相説」1

 

石川県立美術館「加賀につづいた琳派 宗雪・相説――宗達と光琳のあいだに――」<525日まで>

石川県立美術館では、令和7年度春季企画展として「加賀につづいた琳派 宗雪・相説――宗達と光琳のあいだに――」を開催いたします。琳派は、絵画や工芸などの分野にまたがるひとつの流れで、その華やかな装飾性と洗練されたデザインから高い人気を誇り、現代の美術へも影響を与えていることで知られています。

その祖は俵屋宗達ですが、宗達の弟子である俵屋宗雪と、その後を継いだ喜多川相説というふたりの 「そうせつ」が、江戸時代の金沢で活躍したことはあまり知られていません。金沢を中心に「たはらやの草花図」という、屏風全体に草花を散らした作品が伝わり、それらに宗達も使用した「伊年」印が捺されるのはその証といえます。

本展では、宗雪と相説の作品、および「伊年印の草花図」の優品を数多く紹介するとともに、同じく京都 から金沢へ派生した五十嵐蒔絵をあわせた四十点を展示いたします。

2025年5月2日金曜日

根津美術館「国宝・燕子花図と藤花図、夏秋渓流図」4

現在の段階では、光琳派と見なす山根先生の鑑定に従い「伝尾形光琳筆」としておきたいと思います。ただし、18世紀後半まで下げなくてもよいのではないでしょうか。

この屏風が有する江戸琳派史上の意義はさらに高いものがあります。鈴木其一の筆になる「三十六歌仙・檜図屏風」(『國華』1522号)の「檜図」は、この屏風を再構成した作品でした。さらに重要なのは、其一の最大傑作である「夏秋渓流図屏風」(根津美術館蔵)とこの屏風が、檜モチーフという点で共通している点です。この屏風の再出現は、江戸絵画史研究に新しい地平を拓く契機となると思い、去年『國華』1548号に紹介したところです。



 

2025年5月1日木曜日

根津美術館「国宝・燕子花図と藤花図、夏秋渓流図」3


 落款印章はありませんが、酒井抱一が編集した『光琳百図』後編(1826年)に載る作品なのです。もっともこの屏風は、昭和60年(1985)秋、出光美術館で開催された「琳派作品展」に出陳されたことがありました。この展覧会を監修した山根有三先生は、18世紀後半の「光琳派」とされました。確かに光琳の直筆とすることはむずかしいかもしれませんが、出来映えは大変すぐれています。

構図は左右隻の対照がよく考えられ、屏風としての意匠性も明快で、写生的な描写と工芸的な仕上げがみごとに融合しています。だからといって、落款印章のない本屏風を光琳筆と断定することはむずかしそうですが、光琳と密接に関係する作品であることは、抱一の鑑定を待つまでもなく確実でしょう。

 





東京美術『日本視覚文化用語辞典』1

  東京美術『<和英対照>日本視覚文化用語辞典』 以下に掲げるのは、このたび東京美術から出版された『<和英対照>日本視覚文化用語辞典』の序文から引用した一部です。 本辞典の前身である『和英対照 日本美術用語辞典』が、文化交流の新たなステージにおいて国際的に資することを願っ...