才に長けた軟派文化の寵児・大田南畝がいち早く寛政改革に寄り添い、みずから転身をはかったことはよく知られるところです。浜田義一郎先生は、著書『大田南畝』<人物叢書>の天明7年の条を、「こうして南畝は文芸活動を停止し、狂歌界と絶縁した。後に再び狂歌を作ったけれども、狂歌界には全く関係しなかった」と〆ています。
早くも天明7年正月には、狂歌会めぐりなどを一切やめているそうです。定信の文武奨励令が出たのはその年の秋だそうですから、さすが南畝のアンテナは性能バツグンだったというべきでしょう。とはいえ重要なのは、南畝が勘定奉行役にまでなる幕臣、つまり武士であったことですが、同じような転身をはかった武士に、朋誠堂喜三二がいました。
0 件のコメント:
コメントを投稿